1.十六世紀文化革命1・2 山本義隆著 みすず書房
2.神は妄想か リチャード・ドーキンス著 早川書房
3.法哲学講義 笹倉秀夫著、東京大学出版会
4.心の起源 D.C.ギアリー著 培風館
5.贖罪 イアン・マキューアン 新潮社
では皆様よいお年をお迎えください、ととりあえずは年末の御挨拶をしておきます。
『心の起源 脳・認知・一般知能の進化』(D.C.ギアリー著、小田亮訳、培風館刊)を読む。ダーウィンの革命的著書『種の起源』に倣いつけられた本書の題名どおり、人間の心がどのように進化してきたのかを論じる著書である。進化学、心理学、霊長類学など参照される学問分野は広大で引用される文献も膨大である。本書で著者が基本的スタンスとしてとっているのは、自然淘汰という「生存競争」は、人間という種においては生存を支えて繁殖を可能にする資源をコントロールすべく他の人間との間でくりひろげられる闘争が重要なものとなっており、これが心・知能の進化を促したというものである。
情報処理機構として進化した心という装置は、限られた資源のコントロールをめぐる他者との競争のための装置である。資源は、物理的なものに限らず、社会的資源も含まれるし、他者の行動を予測してそれをコントロールすることも含まれる。私たちは人間の顔を認知したり、身の回りの物体の挙動についての認識など、いわゆる私たちの生活目線でみた素朴な認識(生活世界の認識)(本書では素朴物理学、素朴生物学、素朴心理学といわれる)は、そうした進化的競争の結果であるというわけである。以前読んだアフォーダンス理論などもそうした意味で私たちの認識には進化的基盤があることを主張しているのと同様である。
他者をコントロールするためには、それを巧妙にシミュレートできればいい。他者を含んだ世界を自己の中でシミュレーションとして立ち上げ、操作してみることが必要である。そしてそれを効率よく行うためには高い流動性知能、大きなワーキングメモリがあればそれだけ有利になる。この情報処理のスペックの高さが知能の一つの指標というわけである。
本書ではもっぱら認知的知能を中心に心を論じているので、道徳的感情の進化的意味について知りたい人にはやや不満が残るだろう。しかしそうした自己理知的メンタルモデルというものが、将来を計画し、社会関係の変化と臨機応変に対応するために発達したとすると、われわれが抱える不安や抑うつという現象はそのネガティブな側面であろうと指摘している。自己の未来像を将来に投影してシミュレートしようという欲望がかなうことは「善」であり、かなわぬことは「悪」となるだろう。精神疾患についてもそうした進化的に眺めると面白いだろう。またそうした点から道徳の自然的基盤を導出することが可能であろう。私たちは他の類人猿と異なりあまりに高度で複雑な演算回路を組み込んでしまったが故に、混乱しやすくなっているのだろう。「本能」が壊れた生物という比喩で語られることがよくあるが、むしろ本能をあまりにもバーチャル化してしまったと言うほうが正確かもしれない。著者も指摘しているように、脳の神経細胞ネットワークの遺伝子発現と神経活動をうまく抑制するシステムがはたらかないと過剰に「はりきる」ことになってしまうのかもしれない。そしてそれが躁病や双極性障害の原因であるのかもしれない。
記述は全体を通して明快であり偏りがない。各章ごとに結論がつけられているので大部な書物ながら読みやすくなっている。用語索引の日本語には英語が付記されているのもいい。今年も残り少なくなったが大きな収穫があった。
『拷問と処刑の西洋史』(浜本隆志著、新潮選書)を読む(以下『拷問』と略)。
話題の中心は、異端審問と魔女裁判である。著者はドイツ文化論が専門でもあることから魔女狩りが最も激しかったドイツでの記述が詳しい。
魔女狩りや異端審問については、以前読んだ『法思想史講義』上巻にもその歴史と考察が一章割かれている(本書と是非あわせて読みたい)。そこでは教皇グレゴリウス9世の行った異端審問が、
(1)一人の異端をなくするためには、1000人の無実の人が犠牲になってもしかたがない、とする。(2)被告人から弁護の機会を奪う。(3)物的証拠は不要で、自白で十分である、とする。ある程度の疑わしさが確認できれば自白をとるため、拷問を使う。(4)一切の審問費用は、財産没収で弁済させる。(5)密告とスパイを活用する。(6)教皇直属の異端審問官を各地に派遣する。かれらは検察官と裁判官を兼ねる(=糾問裁判)、等々
というかたちで機能したと記述されている。
『拷問』にも書かれていたが、裁判所はまず当人を破門することにより、法の保護外に置いてから世俗権力に手渡し、残酷な刑の執行を執り行わせていた。
古代ゲルマン社会では拷問は存在していなかったそうで、犯罪結果に対する報復が目的の弾劾裁判方式だった。古代ゲルマン法では
犯罪に関しては親族が復讐することができるフェーデ(決闘)と、相手を徹底的に追及してアハト刑(法の保護を奪う平和喪失刑)に処すという二種類があった。
ドイツがキリスト教化されると刑法もローマ法の影響を受け、証拠や被告の自白が重視されるようになり、それに伴い拷問が導入されたという。異端審問から魔女の処刑は、教会が”正当な手続き”で行うアハト刑であったわけだ。拷問による自白は、やはりキリスト教の告解と赦しという思想と根底においてつながっているだろう。
『法思想史講義』では、人が残酷になる場合に二種類あり、第一は相手を人間と見ない場合、第二に人間とみても「自分が高い価値-神・民族・国家・政治原理など-に使える道具であるとして、その価値を擁護するため、その価値の否定者を攻撃する場合があると考察している。
中世の魔女裁判は結局啓蒙主義によって克服されたのだが、これはあくまで魔女の非合理性が認められたためであり、上述の残酷さを理性が克服した故ではないことに注意しておく必要があろう。後の時代にさらに酷い歴史的事件が起こることを私たちは知っているからである。理性は必要があれば私たちの残酷さに免罪符を与えるのである。パスカルの指摘したように「人は、思想・信条に基づいて行為をなすときほど喜び勇んで徹底的に悪を行うことはない」のである。
拷問や処刑など肉体的な残酷さは否が応でも目立つので歴史的事件として取り上げられやすいが、上述の二つの残酷さの原因による精神的拷問なら今でもごく普通にありふれたものであることは、政治や官僚の醜態がよく示してくれている。
『1973年のピンボール』(村上春樹著、講談社文庫)を読む。
『謎とき村上春樹』を読んだときに未読であった村上作品を遅まきながら読んだ。石原先生の謎ときのごとく、この小説は「聞くこと」についての小説である。この小説の冒頭で主人公は「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好き」だと述べているが、実際は本当に聞くことができない、聞くことの不能者である。「もしその年に「他人の話を熱心に聞く世界コンクール」が開かれていたら、僕は文句なしにチャンピオンに選ばれていたことだろう」と「僕」は自負しているのだが、その後に「賞品に台所マッチくらいはもらえたかもしれない」という余りにも不釣合いな軽いものであることから、実際は人の話を真摯に受け止めることができないことが暴露されている。
この小説に唐突に出て来る双子の女性について『謎とき』では「繰り返し」を空間的に表象したものだと解釈されていたが、これは時間的な繰り返しというより同時性の不可識別性の表象だと思う。明らかに左右の耳の隠喩であろう。両耳で聞かれる音を私たちは区別することができないように、この双子を区別することは「僕」にはできないのである。物語の最後に双子から両耳の掃除をしてもらっているときに耳垢が詰まり耳鼻科を受診するエピソードが書かれているが、探していたピンボールと巡りあえて心を通わせることができた(ほんとうに聞くことができた)後に詰まっていた耳垢は除去されることができた。そして双子は「僕」のもとから去っていく。
物語の途中で出て来る配電盤の葬式も聞くことの不能に対する虚しい治療的試みであったといえるだろう。石原先生も指摘しているが、この物語が日曜日に始まり、日曜日に終わるように、この葬式が執り行われるのも日曜日であった。
「僕」はさまざまな人の話を聞くことによりその人たちを癒していたような幻想をいだいていただけで、この話は「僕」が「聴力」を取り戻すまでの治療的神話だといえるだろう。
『謎とき村上春樹』(石原千秋著、光文社新書)を読む。
題名を見て面白そうなので購入を決めた。それは以前『謎とき「罪と罰」』(江川卓著、新潮選書)を読んで面白かった(同じ著者のほかの「謎とき」シリーズも)ことが印象に残っていて、謎ときの対象が「村上春樹」となっているからだった。そして本書を読むと、
「謎とき」と言えば、江川卓『謎とき『罪と罰』』(新潮選書、1986.2)だ。その後『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』、『謎とき『白痴』』と続編が書かれたことは、文学愛好者の間ではよく知られている。僕の本にこの名著のタイトルを拝借したのは、小説の読み方に共通するところがあるからだ。
と書かれてあった。著者の江川卓氏へのオマージュでもあったのだが、ここで著者は「方法としての謎とき」を提唱する。小説の一部分のみに拘泥するような謎ときは趣味のようなものであり、一定の個性をもった視点から全体を読み解くことが重要であることを強調している。その視点からの読みはあたかもそれ以外の読みが不可能であるかのような「錯覚」を起こすようなものでなければならないのだ。本書の内容はこの著者の冒頭の宣言を全く裏切っていない。小説の局所解剖学と全体の透視図作成が見事にできあがっている。それだけにこの分析を読んでから、未読の小説にとりかかるというのは大変だ。それ以外の視点に立って読み通す努力を強いられるからである。私の場合既読の『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウェイの森』についてはなるほどと頷いたり、見事な洞察に舌をまいたりしながら楽しめたが、未読の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』については、そういう小説なのだと種明かしをされたような心境になり、これから読むのに虚心坦懐にというわけにはいかずややつらい。しかしミステリーの犯人を明かされたようなものだとはいえない。解釈の方法はまだ他にもいくらでも可能であり、そこが名作の名作たる所以であり、文学の面白さでもあるからだ。
読者は作者のテクストなしには読者になれないが、作者の意図に従属するものでもない。小説世界というものを作者がつくり出したものというより作者の視点から描き出したもの(読者からもそして作者からも独立した虚構世界が実在しているとする)というべきものならば、それは地図を作成するような作業だろう。その地図を見せてもらった読者は自分の座標軸で変換して独自の地図を描くことが許される。趣味ではない文学の研究というものがあるとすれば、虚構世界の地図作成方法ならびに変換方法論という分野があるといえないだろうか。
『神と科学は共存できるか?』(スディーヴン・ジェイ・グールド著、狩野秀之、古谷圭一、新妻昭夫訳、日経BP社刊)を読む。
グールドが師の3年前に上梓した本で、科学と宗教の関係という古くて新しい問題について論じた本である。この主題についてはグールドの仲間であり論敵でもあるドーキンスの『神は妄想である』がすぐ連想されるが、本書はドーキンスのそれが戦闘的なのと対照的に両者の分別ある共存を説いている。グールドはそれを
敬意をもった非干渉-ふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉-という中心原理を、「NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権の原理」という言葉で要約できるはずである
と信じている。宗教が自然科学の分野に余計な干渉をすることは、グールドの母国であるアメリカでは創造主義者という原理主義がはびこっていることからしても大きな問題である。日本では公教育の場でこんな馬鹿げたことが起きていないことはまことに喜ばしい限りだ。しかし同時にグールドは科学が宗教というよりは道徳へ干渉することに対しても批判をする。
NOMAはまた、両刃の剣でもある。科学のマジステリウムの枠内に適切におさまった事実に関する結論の性質に対し、宗教がもはやなにも命じられないのであれば、科学者たちもまた、世界の経験主義的な本質についていかにすぐれた知識を持っていようと、道徳的な真実について、より高次の洞察を主張することはできない。たがいに対するこの情報は、かくも多様な感情が渦巻く世界にとって重要で実際的な帰結をもたらす-すなわち、われわれはこの原理を受けいれやすくなるし、その帰結を楽しみやすくなるだろう。
この点がドーキンスと大きく異なる点である。なぜグールドは物分りのよさそうな態度をしつつ科学に対して上品に踏みとどまるよう諭すのであろうか。道徳や宗教心といったこれもきわめて「経験的」なことについて科学がその自然的基盤を明らかにしようとすることは何ら越権的なことだと非難されるようなことではないと思う。グールドはそんなことが進むとまるで私たちの「よき心」が科学に食い尽くされてしまうのではないかと危惧しているような印象をうける。しかしながら科学によりある現象の基盤が解明されることと現象自体がまさにそう経験されることは違うことであろう。両者に超えがたい違いがあるとすればその点だろうが、それはグールドがいうような同一の経験論的土俵に立った棲み分けとはレベルが違うことだと思う(経験から超越した形而上学での議論であれば、宗教はいくらでも羽を広げて羽ばたくことが許されよう)。人間の美的感情の自然的基盤が完全に解明されたとしても私たちは素直に自然の美を愛でるであろう。冷酷な犯罪者が同情という感情を持たない理由の科学的原因が解明されれば、私たちは神に対してその犯罪者を呪わしめるよう祈るのではなく、もっと素直にその犯罪者に同情し、彼に課する量刑をもっと冷静に決めることができるのではないだろうか。そして不合理な感情を慰撫することもできるようになるのではないだろうか。それはそれぞれの人が違う神を違うように崇めるような状態よりは、より冷静に客観的に話し合う土俵を作ってくれると思う。
狂信的な宗教を排除しさえすれば、あるいは盲目的な科学を生み出さずにおきさえすれば、互いに平和に両者が共存できると主張することはたしかに美しいことであるが、宗教は狂信を内包するものであり、科学は盲目的に邁進するものであり、どちらも人間が生み出す行為であると認め、少しでも客観的に討論していける土俵作りに努力していくのが正しい方向だろうと思う。そしてその能力はおそらくは宗教ではなく科学にあるのだと思う。
『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』(入不二基義著、ちくま新書)を読む。
いろいろな意味で面白い本だった。
(1)まず素直に哲学論議として面白い。とりあげられているテーマとして他者の痛みの問題、過去および未来の時間の問題といった興味深いものだし、それについて考察している文章が野矢茂樹、永井均、中島義道、大森荘蔵という錚々たる論者だからだ。入試現代文なしにこれらの論者との哲学的対話としてもじゅうぶん本になるし、読めるものだ。著者も冒頭で触れているが実在論対非実在論という通奏低音が流れており、この問題を意識しながら読むと統一的に理解がしやすい。
(2)入試問題についての議論としても面白い。これまで入試現代文をとりあげ、その問題点を論う本は多く出版されていると思う。曰く問題文のとりあげ方が悪い、出題意図が不明確だ、問題文の著者自身にも解けないような問題だなどなどとして国語教育を撃つといったものだ。これは本書が哲学の「誤読」と題されているから問題の不適切さやその解答例の「誤読」を論じるのは当然である。読者は素直にその問題な部分にふれて入試問題の問題について驚いたり、怒ったり、憂えたりできよう。しかしそれと同時にこうした形式で「哲学」について読むことで、「哲学」がこんなふうに「誤読」されるのだということを知らされたことが新鮮な発見だった。もちろん私自身問題を解いてみて自分の誤読について蒙を啓かれたところもあるが、自分が思っても見なかった「誤読」で問題の解説がされているのを読むと、こういう「理解」もあるのだと驚かされた点も多かった。哲学の議論は先行者の考えを正当に理解した上で反論がなされ発展する場合もあろうが、「誤読」して反論がなされ結果として面白い展開となる場合もあろう。そんな可能性を考えてみる楽しさも味わえた。「誤読」がすべて非難されるべきものでもないのだ。
それにしてもこんな難しい問題を入試の勉強として解いていたのかなあ。これがすらすら解ける高校生とはどんな人なんだろう。
(3)本の作り方として面白い。これは内容とは直接関係ないがこういう変わった切り口で哲学の本というのが作れるのだという発見があった。「哲学入門」の本であるが、当然このような形ではないふつうの入門書は書けるだろうが、本書のような取り上げ方のほうが数段面白くなる。他者の企画でくだけた講義調での入門というものがあるが、あれよりはより自分で深く考えることを促される(これはそれだけ試験勉強という強力な条件付けを私たちが受けてきたという皮肉な結果であるかもしれない)。そしてこれが著者の他著(『時間と絶対と相対と』)への絶妙なイントロであり誘いになっている。事実この本を読んで、私はこの著書を読もうと俄然思ったのだ。企画力の勝利というべきであろう。
『移りゆく教養』(苅部直著、NTT出版刊)を読む。
世間一般の常識によれば、今の大学生は「教養」がないらしい。そしてこれは「今」に始まったことではなく70年代以降そうらしいから、私も「教養」が没落した時代の人間であるようだ。ある数学者はこれからの日本はもう一度その「教養」なるものを復活していくことが必要だと説いていた。ではその失われたり、復活させなければならない「教養」とは一体どんなものなのか。確かに大学には教養部というものがあった(専門課程に入る前の申し訳あるいは前座のようなものとして)。こうした日本の大学の制度の中に組み込まれていた「教養」部というものはどのような系譜をもつものか。本書の前半ではヨーロッパ、特にフランスやドイツ、イギリスの大学教育での「教養」の変遷や「ドイツ的」な教養を受容した日本での「教養」なるものがどのようなものであったかが説明されている。当然それぞれで歴史と風土が異なるので教養の色合いは異なっているのだが、洋の東西を問わず教養というもののなかに世間一般や実学とは距離を置いた人格形成というベクトルと、よりよい社会を作るための市民を育てるための(政治的な色彩を帯びた)ベクトルがせめぎあっていることを教えてくれる。
第四章ではその「政治的教養」、社会である一定の秩序を形成していくために必要とされる「教養」について論じられている。この部分はトーンが変わるが、あとがきによると「地域文化の同時代史研究会」の報告書にかかれた原稿を改稿したものだということだ。前後の論調とは違う具体的な話が挿入されているという感じは否めないが、逆に政治と教養を考える上でたいへん面白く、重要なポイントとなっている。この部分があるのとないのでは本書の印象が全く違ってくる。
第五章ではより現在の教育問題に重心を移し議論がされている。著者の指摘するようにこと教育問題については、外野席の素人の論説があまりにも横行しているような気がする。もっと積極的に教育の専門家は発言すべきだろうし、その場が与えられてしかるべきだろう。日本のマスコミは「教養」というものを表向きは失ったことを嘆きながら、実際はその高踏的なものにルサンチマンがあるのではないだろうか。本書にも書かれてあるが、「居酒屋チェーンの社長や、亡き落語家の妻が、政府の「教育再生会議」の委員に「有識者」として名を連ねているのを見ると、そういう人をさげすむつもりはないが、やはり絶句してしまう」よね。
教養の力というものがあるとすれば、ここで論じられているように自らがいやおうなく置かれている伝統とその権威を客観化し、議論していける種類のものだろうと思う。伝統的な失われた「教養」なるものの復古を叫べばいいというものではないのだ。そこには当然伝統や歴史的背景を異にする人びとへの「物語想像力」(ヌスバウム)が必要となるだろうし、その上でお互いに議論していくためには「政治的」教養が必要となるだろう。本書に引用されているオルテガが語った「教養」の意義は、まさに正論であろう。
生は混沌であり、密林であり、紛糾である。人間はその中で迷う。しかし人間の精神は、この難破、喪失の思いに対抗して、密林の中に「通路」を、「道」を見出そうと努力する。すなわち、宇宙に関する明瞭にして確固たる理念を、事物と世界の本質に関する積極的な確信を見出そうと努力する。その諸理念の総体、ないし体系こそが、言葉の真の意味における教養「文化」(la cultura)である。
教養というのは授受できるようなものではなく、血肉となるかならないかというもの、というのがいいすぎなら振る舞いとして身につくかつかないかというようなものに近いのかもしれない。だから欲しがって求めれば求めるほどそれから遠ざかるようなものなのかもしれない。教養として読んでおくべきといわれるような著作は、それぞれの時代に生きた人びとが遺してくれた生の密林の歩き方だとしたら、それを単に読んだことがあるというだけではなく、今どのように使えるかを知っていること、その使い方を知らない人に教えることができることこそが大切なはずだ。