環境問題で何を目指すべきなのかということはほんとうに明らかにされているのだろうか。昨日に続いて幸福ということを考えながら環境のことを考えた。
私を含めて多くの人々は、この水と緑が豊かな地球がいつまでも変わらぬ状態であってほしいと願っているに違いない。しかし一人の人間が必然的に老いていき、ある時死を迎えるように、地球という惑星も誕生してから天文学的時間経過で「老い」、そして必然的に天文学的「死」を迎えるに違いない。さまざまな健康法に励み、先進的な予防医学技術をつぎこんでも人の死は避けられないとすれば、同様にいかに環境問題に多額の費用をつぎ込んで地球の劣化をある程度抑制できても、終局的な惑星の死は防ぐことはできぬであろう。環境運動においては、まず地球もいずれはなくなるものという達観をみんなで共有しなければならない。再度人体に譬えるならば、咳をしながらさかんにタバコを吸い続けているのが今の地球である。いま喫煙をやめれば将来の肺病を予防できるか、起こっても軽くてすむだろう。しかしそれでも最後は死ぬのである。医者は患者に喫煙をやめさせようとするが、それは老化や死を免れることができるからではない。環境運動をしても地球は必ず老化する。だから環境運動をしているにもかかわらず、地球の状態が年々悪化していくのは必然である。問題はその悪化速度だろう。だから第一に、環境運動をしながら同時に老化し住みづらくなっていく地球で暮らしていくこと、それを是としなければならないことをまず認識しておく必要がある。そして第二に地球環境の悪化速度を客観的に評価する技術を確立することが、なによりも大切である。シミュレーターの変数の初期値をすこし変えただけで全然結果が異なるようなレベルではお話にならない。これがないと環境運動はただのお題目や自己満足になってしまうだろう。
そこから再び個人としての幸福論にもどると、どんな幸福論を作り上げるにしても個としての人はいずれは死ぬという前提を忘れてはいけない。これを故意に無視した幸福論は口当たりがいいが空疎である。哲学をするということが死ぬことを学ぶことであるのは、幸福を論じるのにそれが必要だからだろう。そして上の議論からすれば、個人の幸福の量を客観的に評価する方法論が必要ということになる。これが欠けた「幸福な」状態は、おそらく酩酊して幸福を感じている状態と大差はなかろう。醒めた目で見つめた幸福がやはり幸福として価値のあるものとして認められることが大切なのだ。