坂東眞砂子という小説家の書いた『子猫殺し』というエッセー(8月18日夕刊)が物議を醸しているという報道が日経新聞に報道されていた。題名のとおり彼女が飼っている猫が子供を生むたびに殺しているということを告白したものだ。全文を掲載するのも大変だから、要旨を述べる。
彼女によれば、
1.メス猫の「生」は盛りのついたときにセックスをして子供を生むことが本質的である。
2.避妊手術は人間が自分の都合によってその権利を奪うものだ。
3.避妊手術することも、生まれた猫を殺すことも結果は同じだ。避妊手術をするのは人間が子猫を殺したくないというわがままだ。
4.したがて私は子猫を殺す。
という論の立て方である。
これがずいぶん乱暴な展開であることは、はっきりしている。
1の前提はもちろん彼女の勝手な推測である。確かに生物にとって生殖行為は快をもたらすことにより充実感を与えてくれるだろう。そのことは譲歩して認めるにしても、では人間と同じ「哺乳」動物である猫にとって生まれた子供に乳をやり育てるというのも「生」の充実をもたらす本質的な行為ではないだろうか。野生動物である猫にとって、セックスをして子供を生み育てるというのは、一つの枠組みに入った行為である。人間はそれを避妊術によって切断することで、セックス自体を快楽として味わう術を身につけたのである。その前半のみを「生」の本質だと決めつけ、後半の子供を育てるということを無視していることは、この前提がまったく勝手でいいかげんなものだといえる。
2については確かに猫の権利を奪っているといえるだろう。これが認められるかどうかは、避妊手術ということによってえられる結果をもって判定しなければならない。そこで3が問題になる。
3では、避妊して未然に出産ということが起こらなくするのと、生まれてきた子供を殺すことを比較している。彼女は後者を選択しているが、これは正しい選択であろうか。結果として生まれるはずであった生命は両者の行為によって封じられている。最終的な結果から言えば同じ状態を作り出しているが、後者はその過程で個体となった生命を殺すという明らかに非道なことを経ている。避妊手術が可能生としての生命を殺していると論じることもできようが、それを認めたとしても個体を殺すことと比較した場合、明らかに後者の方が罪深い。しかも殺し方は、崖から放り投げるという残虐な殺し方である。彼女の論じるようにこれが人間の勝手な行為であるとするならば、人間と猫を当然同列に論じる必要が出てくるわけで、それならば人間でも避妊をせずに生まれた赤ちゃんをビルから放り投げて殺しても結果は同じだと開き直れるわけだ。
4.この結論が以上のことからまったく誤ったものであることは明らかだろう。さらに彼女は「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」と書いている。ではなぜ彼女は敢えて猫を飼うのか。これでは子猫を殺すのが彼女の「生」の本質であるがために猫を飼っているといわれてもしかたがないのではないだろうか。
このエッセーのように一見深くものを考えているようで、論理展開が破綻している言説は数多い。テーマがどぎついだけに感情的に非難しそうになる(まあこんなにひどいとそれもそうだろう)が、きちんと論旨のおかしさを指摘することが大切であろうし、新聞の読者がそういう読みかたをするようになれば、自然とおかしなことをいう論者は信用をなくし、そうした文章を載せるメディアは淘汰されていくだろう。
夕刊にこういう記事が掲載されたことで、日経には多くの苦情が寄せられたようであるが、(誤っているにしても)こういう見解を個人が述べ、公開すること自体は問題はないと思う。掲載した上で次にやるべきなのは、これに対する反論をきちんと掲載することで、生命に対する議論を深めることだと思うのである。