最後の注文

 『最後の注文』(グレアム・スウィフト著、真野泰訳、新潮社刊)を読む。 自分が死んだら遺灰をマーゲイトの海に撒いてくれという遺言、すなわち最後の注文を残して死んだ肉屋のジャックをめぐるさまざまな出来事が甦る。出発点はロンドン、終着点は約百キロ離れたマーゲイト。レコードの針を静かに盤に置くと追憶の音楽が終わりに向かって奏でられるように、物語は進んでいく。ジャックの骨壷をそこまで持っていくのは、男たち四人-八百屋のレニー、元保険会社社員のレイ、葬儀屋のヴィック、ジャックの義理の息子で中古車ディーラーのヴィンス。四人四様の人生模様が彼らの悔恨を含んだ語りとともに浮かび上がる。  過去の存在となった男をめぐる四人の男の言説というと、新約聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が連想される。しかしこの小説の主題となる男はイエスのよう救世主ではなく平凡な男性である。ここに展開される物語は、四人の男たちがそれぞれの過去を昇華させるための巡礼の旅といえるだろう。 最後の灰を撒く描写は、死というものを取り扱いながらも即物的なところがいい。



わたしはキャップをはずしてポケットのなかにつっ込み、風に背中を向けてつぼを差し出す。そして言う。「じゃ、はじめよう」まるでキャンデーの缶を差し出しているみたいな、配給の品を分けているみたいな感じだ。


きっと最後には、つぼを持ち上げて、ぼんぼんたたかなくちゃならなくなる。コーンフレークスが箱の底に残っているだけだになったとき、やるみたいに。


読了後にもう一度扉の言葉に戻る。



しかし人間は高貴な動物である。灰となって堂々、墓に入って尊大である。   サー・トーマス・ブラウン『壷葬論』(一六五八)


人生の哀しみとほろ苦さと軽さがビールを飲んだ後のように残る。


 


 


 

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素数の音楽

 『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ著、新潮社刊)を読む。 以前読んだ『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービシャー著、日経BP社刊)が理系向けとするならば、こちらは文系向けのリーマン予想(「ゼータ関数の自明でない零点の実数部分はすべて1/2である」)をめぐるドキュメンタリーである。数式がほとんどでてこないので、リーマン予想が逆にイメージしにくくなっているが、この予想を証明しようとする数学者たちのドラマはより密に書き込まれている。 古代ギリシャのピタゴラスは、数が存在の根本要素と考えこの数が奏でる音楽(天球の音楽)を聞き取ろうとした。一見なにも秩序がないかのように振舞う素数の「音楽」をその中に聞き取ろうとする営みは、美しさが求められる数学の世界ならではと思う。 数が実在するのか否か、すなわち人間が存在しなくても数は存在するのかどうか・・・数学者は当然数は実在すると主張する。数が「実在」するってどんなことなんだろう。 結論はだせそうにないが、私が思うに「数が実在する」と直観する脳神経組織は実在するのだろう。「間違いなく実在する」という感覚には、単に知性的な認識だけではなくある感情が伴っている。これが純粋に経験的なものなのかどうかはよく分からないが、たとえば人の顔や声は、単なるものや音とは違い、私たちに「ありありとした」存在感をもたらす。相貌の失認やカプグラ妄想の例をみるとイメージの認識系と情動系の結合がそうした「ありあり」感をもたらしているようだ。私には分からないが、どうも優れた数学者は、数をありありと感じることができるようだ。 この「ありあり」感を伴うかどうかは、事物を愛情の対象とすることができるかどうかの分岐点ではなかろうか。「○○」を愛することができますかという問いの「○○」の中にいろいろな事物を代入してみる。「ピタゴラス」、「母親」、「りんご」、「メチルアルコール」、「世界」、「一般相対性理論」などなど。数学者は、この「○○」に「数」を代入したときに「イエス」と答える人たちなのだろう。

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「作られた」ES細胞

 東京大学の多比良教授、大阪大学の下村教授の研究室での論文捏造事件に続いて、韓国ソウル大学のファン・ウソク(黄禹錫)教授のES細胞事件が(やはりというか)捏造であったことがほぼ確定的となった。最近バイオ分野での捏造事件が相次いでいる。捏造というのは、科学分野に限らず、たとえばドキュメンタリー記事や写真などでもよくあることだけど、基礎科学の分野は大なり小なり国から予算(=税金)をもらっているし、その結果がひいては国民の利益となることを前提としているので、名誉欲により倫理に悖る行為をしたという個人的な背徳行為であることにとどまらず、明らかな詐欺行為である。 こうしたことが起きる背景要因としては、以下のような条件があるだろう。 1.つぎ込んだ予算に見合うだけの成果を常に要求されている 2.狭い人間関係の中で大きな権力関係が働いている研究室 3.生物現象という比較的特殊な事象を対象としており実験系が個別的である 4.コンピュータによる画像操作が格段に精密化してきている 5.国際的に著名な学術誌に掲載されることで名誉と権力を約束される


 都合のいい結果だけを選択して結果を述べるというのは、おそらくしばしばある行為であろう(統計的手法で嘘をつく初歩である)。生物を対象とする実験は、無生物系よりも誤差が大きくなる傾向があるので、しばしば実験者は、得られたはずれ値に適当な(=都合のいい)解釈をつけて捨ててしまうことがある。あるいはその値をうまく取り込んで有意差をつけたりする。 実験というのは仮説から出発するから当然理論的に予測される結果というものが実験を始める前にあるわけで、実験者はその結果を出すように実験系をお膳立てする(ベーコンはそういう意味で言ったわけではないが、「自然を拷問にかける」)。 こうしたところに結果を要求される外的圧力がかかると捏造が起きるのだろう。科学は一見客観的で平等に見えるけれど、明らかに「いい成果」を出しているラボの発言力が強い。成果も出していないところが、結果について疑義をとなえても、議論はどうしても結果をだしているところが優位にたつ。これは実証主義positivismのある意味弱点となるところで、「結果がこれこのとおり」とポジティブなものを見せつけられると理屈を捏ねても、どうしても分が悪い。生物学はまだまだかなりこうした「物」が強みを発揮する学問だろう。医学や形態学はまさにそうで、「実際治ったもん」とか「ほらここがこうなっているでしょう」と見せられると「百聞は一見にしかず」理論(?)で言い負かされてしまう。 だから査読制度があるのだが、基本的に学者性善説に立っているし、学術誌も他誌より早く優れた研究を載せることにより、自分自身の権威もさらに強めたいというインセンティブが働くので、これも万能ではない。 今回のES細胞は世界中の誰もが期待していた結果、すこし意地悪く言えば抱いていた幻想であり、そこに見事にはまり込んだ事件であったといえよう。

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へんないきもの

またまたへんないきもの』(早川いくを著、寺西晃絵、バジリコ社刊)を読む。前作にもましてへんないきものたちが登場して楽しませてくれる。私たちは小さいころから「いきもの」とはだいたいこういうものであるという概念を教えられつつ、なんとなく「ああ、こういうものがいきものなんだ」と(乏しい経験を自分なりに積んで)理解して生活している。だからいま、地球という閉じた環境システムが未曾有の危機に瀕しており、毎日多数の(この著書によれば20分に1種、1日に150種、1年間に4万種)生物種が絶滅しつつあると聞かされると、たいてい自分の「いきもの」概念に基づいて、アフリカの平原からライオンや象が、中国の深山からジャイアントパンダが、ジャワの森林からオランウータンが今こうしている時にもわれわれ人間の手によって絶滅への谷は追いやられつつあるとあるのだと思い、ドキュメンタリー番組を見ながら動かしている箸を一時止め、動物保護と地球環境保全のことに思いをいたしつつ、自分の消費行動を(コマーシャルが流れているちょっとの間)深く反省したりするのである。 だがしかし、そうした生物は、上に述べたようないきものばかりではないのだ。自分の体液を凍結して冬を越すハイイロアマガエルもいれば、アルゼンチンの草原に棲むヒメアルマジロもいるのだ。そしていきものがほんとうにたいせつな存在ならば、沙漠にいるヒヨケムシも魚を食すアンボイナも海底に蠢くテヅルモヅルも等しくそうなのだ。 生物の多様性の重要性ということをただ観念的にとらえている人にこの本は、私たちが抱いているところのつうじょうの生物概念とじっさいのいきもののギャップをはっきりと教えてくれる。そしてこの新鮮な驚きに続いて、思わず笑みを漏らす人と嫌悪感を抱く人の二種類に分かれるだろう。生物多様性の重要性を等しく理解している人でも、おそらくこの二種類の人々がいるのだ。前者のタイプの人がおそらく理性的に生物多様性と絶滅の問題の本質をとらえることができるであろうことは間違いない。

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ウォーターランド

『ウォーターランド』(グレアム・スウィフト著、新潮社刊)は不思議な魅力をもった小説だ。舞台はフェンズというイングランド東部の低湿地帯で、主人公(語り手)の生まれた土地である。主人公のトム・クリックは歴史教師であり、妻の犯した罪のために教職を追われようとしている。そこで彼は、正規の歴史の授業を止め、自分の物語を生徒たちに語りだす。それは物語であり、歴史である。



そして、<なぜ>と問わずにいられない、やむにやまれぬ欲求がわれわれにはあるという事実、ならびに何かが違うと意識してはじめて歴史は始まるという命題・・


歴史を作り、語るというきわめて人間的な営為を彼は淡々と語っていく。人は物語るために生きているのか、生きるために物語るのか。そして自分は自分の物語を語るから自分となるのではないか。



子供たちよ。もっぱら<いま、ここ>に生きているのは動物だけである。記憶も歴史も知らぬのは自然だけである。これに対して人間は-ひとつ定義をしてみよう-、物語を語る動物である。人間はどこへいこうとも、その後ろに、乱れた航跡や空っぽの空間をではなく、物語という、航路標識のブイみたいな、自分が通ったことの明瞭な証を残して慰めとしたがるものなのだ。人間は物語を語り続けずにはいられない。物語をでっちあげつづけずにはいられない。物語がある限りは大丈夫なのだ。


 その物語は、ある朝水門で発見された溺死体から始まる。この物語を紡ぎだす緯糸となるのがフェンズという湿地帯であり、川であり、そこに生息するウナギAnguilla anguilla、すなわち物語ることのない自然である(物語の途中で語られるウナギの自然史は、『白鯨』のクジラの自然史を連想させる)。経糸となる時の流れは、九世紀ヴァイキングがこの地に侵入したときから、第二次世界大戦後までに至る。 歴史の授業で教えられる大文字の歴史とは異なる「物語としての歴史」が、舞台の風土と実に見事に融合している佳品である。

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クリスマスが近づいて

 クリスマスが近づいて街は一層の賑わいを見せている。信仰する人もしない人もキリストの生誕を祝うのであるが、古代においては、キリスト教徒は誕生日を祝う習慣はもともとなかったようだ。キリスト教徒のみならず、ユダヤ教徒も誕生日に羽目をはずしたり、大食したりすることは律法で禁じていた。
 オリゲネスの言によると「自分の息子ないし娘の誕生日に喜びの祝宴を催す者はどこにも見当たらない。唯一罪人だけがこのような誕生の機会に喜びの宴を催す」のだそうで、キリスト教社会ではもともと誕生については禁欲的であった。翻って、歴史家ヘロドトスの『歴史』によれば「ペルシャではどの日よりも、自分の誕生日を一番大切にする習慣がある」そうで、オリエントの専制君主の誕生日の祝祭の慣習がギリシャ・ローマ世界に輸入され、次第に誕生祝の習慣が形成されていったようである。西洋から輸入されたクリスマスの祝祭であるが、もとをたどれば生誕の祝祭という習慣は、オリエント由来のものであったらしい。
 信仰の観点から言えば、むしろキリストの復活の方が重要であり、信仰なき人が洗礼により入信して「生まれ変わる」ことが肝要であったのだ。生物の自然の営為によりただ生れ落ちたのであれば、祝うほどのものでもない事であるし、信仰なくただただ無為に生きているのは「死んでいる」のも同然ということだろうか。

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その名にちなんで

 『その名にちなんで』(ジュンパ・ラヒリ著、新潮社刊)を読む。 小学生のころにあだ名をつけられていやな思いをした経験はないだろうか。あだ名は、そのときだけの仮の名前でいったん学校から離れればちゃんとした自分の名前、自分の誇れる名前がある。だからあだ名なんて・・・。しかし自分の実名が気に入らない名前だったら・・・。主人公には親からつけられたゴーゴリという名前がある。ロシア人作家のゴーゴリからつけられた名前。 彼の父アショケは22歳の時列車事故に巻き込まれ、九死に一生を得る。事故に遭ったときに手に握り締めていたゴーゴリ作『外套』のおかげで運よく救助される。それから7年後妻のアシマとの間に男の子が生まれる。名付け親となることを遠くインドの祖母に依頼するが、返事は来ない。そこでとりあえずと命名されたのが「ゴーゴリ」だった。 この本で初めて知ったのだがベンガル式の命名法では、ダグナムという愛称とバロナムという正式名の二つをもてるという。昔の日本の幼名がダグナムに近い感じだ。父のバロナムであるアショケは、「悲しみを乗り越える」という意味、母のバロナムであるアシマは、「果てしない、限りない」という意味である。子のバロナムは祖母の手紙が来てから決めることにして、つけられた名前が「ゴーゴリ」であった。 父はゴーゴリに名前の本当の由来を告げることなく、彼は高校二年生になる。そこでの授業で、作家ゴーゴリの人生が「狂気への下り坂」であり、「心気症で、根っからの偏執症で、欲求不満だったという説もある」とか、「人づきあいも下手」だったことを知る。これでは自分の名前を好きになれという方が無理だろう。彼は改名することになる。 その後彼は何人かの女性と恋愛を重ね、成長していく。父の死を経験し、次第に自分の名前ゴーゴリを受け容れていく。単純化すればこの小説は、一風変わった名前をもつ青年の成長物語だと要約できるのだが、そのモチーフとなる固有名が通奏低音のように響いており、この小説に深みを与えている。




 この家族の歴史は偶然がつながってできているように思える節も多々ある。予測がつかず、意図したものではなく、一つの偶発事が次の偶発事を生んでいる。そもそもの始まりは父の列車事故だった。しばらくは父を麻痺させた事故が、逆に父を動かす精神力になって、地球の反対側で新しい生活を求めさせた。すると曾祖母の選んだ名前が、カルカッタからケンブリッジに郵送される途中で消えた。だからゴーゴリという名前がついて、長年、彼という人間を決定し、苦しめた。そういう成り行きまかせのいいかげんさを、彼が正そうとしたことになる。だが、まったく違う自分を作り上げ、不似合いな絶縁をしようとしても、それは不可能なことだった。(中略)何はともあれ、そういうことが重なって、ゴーゴリという人間ができあがり、どんな人間かを決められた。予習しておけるようなものではない。あとになって振り返り、一生かかって見つめ直し、何だったかのかわかろうとするしかない。これでよかったのかと思うようなこと、まるで話にならないようなことが、しぶとく生き残って最終結果になってしまう。


 名づける者(親)は、名づけられる者(子)に対して特権的地位にある。名づけられる者は、その名をただ受け容れるしかない。たとえその名にきちんとした由来があるにしても、その名前がほかでもない自分につけられるということには、どうしようもない偶然性が存在する。この根本的偶然性を必然化する過程が、他の誰でもないその「名前」をもっている自分になることではないか。固有名をもつ自分は、固有名をつけられた時(命名された時)に自分になるのではなく、自分自身が生きる過程でもたらした、そして自分ではすべてを知りえない結果(歴史)によって遡及的に自分自身となるのである。

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貴婦人と一角獣

 『貴婦人と一角獣』(トレイシー・シュバリエ著、白水社刊)を読む。


 パリのクリュニュー美術館にある一角獣を連れた貴婦人の連作タピスリーのいわば縁起物語である。ルネサンス初期にフランスやフランドル地方の織物で流行した「千花紋(ミル・フルール)」様式を背景として一角獣と貴婦人を描いた六連作のタピスリーが完成するまでにどのような人間模様がそこに織り込まれているのかが描かれている。六枚のタピスリーのうち5枚については、それぞれ五感の寓意がこめられている。貴婦人の手にする鏡は視覚を、演奏するオルガン(というかその原型のような楽器)は聴覚を、花は嗅覚を、果物は味覚を、そして貴婦人が触れいている一角獣の角は触覚を表現している。この解釈自体は、ケンドリックという英国の美術史家が唱えた解釈なのだが、作者は小説の中にうまく取り入れている。また一角獣自体がvitesse速さを象徴しており、これがタピスリーの発注者であるLe Viste家を暗示するという解釈も物語の冒頭で巧みに取り入れている。六番目は、「私のただひとつの望みに」という主題で、タピスリーに描かれている天幕に刻まれている句に由来している。


 結局人間の五感と欲望という構図になるわけで、それぞれの登場人物の「ただひとつの望み(欲望)」とは何か、そしてそれを駆動しているものはと想像しながら読み進めるのが楽しい。何より一角獣が古代から捕獲することのできないくらい足が速い動物であり、それを追うということは、到達することのできないものを追い求めるということとされているから、「私のただひとつの望み」を追い求めるということを表現するにはうってつけの象徴であろう。


 欲望を駆動させ始める装置として小説に描かれているもので、私が気に入っているのが、小説の冒頭で絵師ニコラ・デジノサンとクロード・ル・ヴィストが出会う場面である。




 娘が笑い声を上げる。「いらっしゃい」と差し招く。今度はおれもテーブルから跳び下りた。娘が部屋から部屋へと駆けめぐるので、早足でないと追いつけない。秘密の風にでも煽られるように、娘のスカートがはためいた。間近に寄ると、ほのかな汗に混じり、甘く芳しい匂いがする。なにか噛んでいるように、口が動いた。 「口になにを入れいているの、別嬪さん」 「歯が痛いのよ」。娘は舌をつきだした。ピンクの舌先に丁子が乗っている。舌を見て固くなった。娘をこましたくなった。


 この中には視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚があり、そして触発される欲望が実に印象的に描かれており、読者を一気に物語りに引きずりこむ力を持っているように思うのだがどうだろう。

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博士の愛した数式

『博士の愛した数式』(小川洋子著、新潮社)を読む。
以前リーマン予想のことを描いた『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービシャー著、日経BP社刊)を読み非常に面白かったので遅まきながら文庫化されたのをきっかけに手にとった。
こういう小説の書き方もあったんだと感心したのが率直な読後感であった。そしてこれまでどうしてこういう小説がなかったんだろうという疑問も湧いた。記憶が80分しか持続しない、それ故断片的な日常で生きている数学者とその世話をする家政婦と彼女の息子の交流が描かれる。「完全数」、「友愛数」などの数学用語が作品の随所に効果的に埋め込まれていて、物語の進行にアクセントを与えている。
 友愛数が端緒となり、数を媒介とした博士と私の関係が展開していくというのが新鮮だ。友愛数というのを博士から教えられて、自分で友愛数を探してみるという「私」の姿は、ちょうど初めて数学の世界の面白さを手探りで探し始めた生徒のようだ。驚きから知を愛することが始まるというソクラテス的展開がそこに描かれている。数の世界に興味ともっていくとともに、それを通じて博士に対する愛情もふくらんでいく様子が、まるで蔓が互いに絡まり合ってらせん状に生長する植物のように描かれている。
 単に人と人との関係だけでなく、永遠に滅びることのない数の世界と限りある生を生きる人間との関係というものも考えさせられその分物語に深みがでているように思う。
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寅次郎、頑張れ!

一週間遅れでBSで放送の『寅次郎、頑張れ!』を観る。
中村雅俊演じる朴訥な九州男児が大竹しのぶ演じる秋田から東京に働きに出てきて食堂に勤める女性に恋するストーリーが描かれている。この映画のシリーズを観ていると、東京でも昔はこんな町並みであったということが背景の風景から知られ驚き、寅さんの旅先の地方の風景がまた一昔前の日本の姿を教えてくれて愕然とする。本作品を観て、また驚いたのは中村雅俊演じる九州男児が大竹しのぶ演じる女性の言葉に失恋したと思い込み、間借りしているとらやの一室でガス自殺に及ぶというプロットであった。「東男に京女」といわれ、とかく九州男児というのは朴訥で不器用で直情径行(それに酒が強い)といったイメージで描かれることが多いのだが、この作品が上映された昭和52年(今からざっと30年前)の青年のメンタリティというのはこれほどまでに繊細で内向的であったのかとしばし感慨に耽ってしまった。相手の女性に対する恋慕の念が通じないと、勢い相手につきまといストーカーまがいの行為に走ったり、あるいはキレて刃傷沙汰に及ぶという事件が新聞の三面記事を賑わしていることに、ある意味慣れきっていた私の脳はこの青年の描写に忘れていた自分の過去を突然思い出させられたような、違和感と郷愁と羞恥の入り混じったなんとも名状しがたい感情を覚えた。
 この青年の自殺未遂行為によってとらやの一部屋が噴き飛ぶのだが、この青年の切羽詰った思いの「爆発」は、今のドラマでは悲しいけど描けない事件だなと思ったのである。そう今この屈折した青年の心理を描写しようとしたらストーカーまがいの行為として描かれてしまうことが確実であろう。そもそも昭和52年には「ストーカー」という言葉さえ存在しなかった。恋心のあまり女性の家に押しかけ、雨が降ろうが風が吹こうが(この表現自体がすでに古色蒼然としているが)ずっと会えるまで待つという行為は、当時なら純情の一表現形態であったはずである。それが今や立派な犯罪行為になるということになんともやりきれない感じを抱くのである。
 張り裂けそうな恋心を伝達するのに、今ではメールやケイタイなどのメディアを介さなければ伝えることができなくなったのだろうか。それは便利でいいことなのであろうか。
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