烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

モダンのクールダウン

2006-04-15 20:19:59 | 本:社会

 『モダンのクールダウン』(稲葉振一郎著、NTT出版)を読む。
普遍性を前提とする「近代」という時代認識に対置されるポストモダン社会の論考であるが、その中で東浩紀のデリダ論である『存在論的、郵便的』、永井均の『魂に対する態度』が参照されていた。歴史認識についての三種類の方法論(解釈学的、系譜学的、考古学的)を基点に、「歴史」という物語の脱構築をめぐる考察が述べられている。歴史上の実在の人物(ここの議論では西欧世界の歴史を代表する象徴としてキリストがとりあげられている)にある意味づけを行う作業に必然的にまとわりつく「汚染」を警戒する「否定神学」的デリダと、認識論的汚染を免れた存在論敵歴史の実在を積極的に認める永井が対置される。



 イエスという歴史的に実在した個人に、「キリスト教の創始者」という歴史的な意味づけがまとわりつくのは、あくまでも後付であり、われわれはそのような意味づけを剥ぎ取られたイエスその人について考えることができる。しかしながら、われわれがそんな可能性について考えることができるのは、つまりイエスという特定の個人に注目してあれこれと考えることができるのは、まさにそのイエスが「キリスト教の創始者」という意味に汚染されて、われわれの歴史の中に位置付いているからこそである。


 歴史は事後性というかたちでしか認識できないことのアナロジーで連想するのは、物理学でも似たような世界観があるということだ。量子力学的世界観である。古典的物理観は、ヘーゲル的世界観に相当し、ある歴史的事件や人物の存在は、過去の事象の弁証法的発展の結果であるように、単線的な因果論で説明される。量子力学的世界観では、ある事象は観測者が観測という行為を行うことによって初めて確定する。ある電子は確率論的に多くの状態で共存し、観測することでその多数の状態の中から特定の電子の位置が選ばれる(コペンハーゲン解釈)。これは先ほどのキリストの例でいえば、イエスに似た「キリスト教」的生き方をしている人が多数存在しており、歴史上ある特定の人物がイエスとなるという解釈をすることが可能になる。観測された電子によりその周囲に存在していた電子が認識可能となるのと同様に、キリストが存在するようになって初めてキリストに似た人々が認識可能となるのである。イエスがキリストになったことは事後的に結果から振り返れば必然であるが、イエス個人にとっては偶然である。このわれわれにとっての必然性を絶対化することが「否定神学」とされる。
 コペンハーゲン解釈ではある電子の位置を観測した瞬間、特定の状態以外は人為的に捨象されてしまう。さきほどのイエスの例でいえば観測された電子を特権化する否定神学的眼差しである。特定のものを特権化することなく他の状態も引き続き共存すると考える量子力学の多世界解釈のアナロジーで、こうした歴史解釈を変えることができないか。