デリダ

 『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』(斎藤慶典著、NHK出版刊)を読む。一昨年死去したデリダに向けての対話-語りかけとして密度の高い思考が展開される。 
 「はじめに」のところで著者は現実を「表現」としてとらえる。その「表現」の表現としての思考は、一種の対話であり、対話の相手は思考を顕にするための媒体である。媒体は思考そのものではないが、思考が現れるためには欠かすことができない。この媒体は私の前に突然(不意に)現れる一つの他者であり、記号である。というか現れたときには、すでにそしていつも他者であり記号である。この記号、デリダのいうエクリチュールの根源に私たちは到達することはできない。生まれ現れたときには、すでに差異が刻印されていることが、デリダのいう差延ということなのだろう。現れるという「生」の中にすでに「死」が入り込んでいると、少し気どって表現してみることもできる。
 書かれた記号(痕跡)の中にある他者性は、常に追い出され排除されようとする圧力を受けているということが、デリダのいう「繰り返し」の中にある暴力ということの意味するところなのだろうか。著者は<現象が別様であることの可能性>に私たちが積極的に応じていないのではないかという疑義を提示している。「むしろ、相も変わらずそこに同じものが現象しつづけることの方を好んではいないか」と著者は問う。そしてそう私たちが望むのは、「その方が安心だからであろう」と洞察する。
 不安からの逃れるための同じ運動の繰り返しということで、乳児が自分の指を加えて吸い続けることにより乳房の不在の不安を隠蔽することをここでふと連想した。同じことの繰り返しによる静止状態(死の状態)を欲動することで、私たちは安心感を覚えることとデリダのいう「繰り返し」との関係はどうなのだろう。
 痕跡の中に敢えて反復の不安定さを読みこんでいくことが脱-構築という行為であり、これと反対のベクトルを持つ力を暴力となづけるのなら、この暴力は人間という存在とは切り離せない根源的な力、原暴力といったほうが適当ではないだろうか。この避けがたい力に抗うことがデリダの言う正義であり、脱-構築なのであろう。だから正義に終わりはない。
 私の前に他者が現れた時点で、その他者は否定と抹消の暴力をふるわれており、その他者を「歓待」することが脱-構築の正義とされる。この部分のところの私の理解はまだまだだと思うが、その他者というのは同時に私にも暴力をふるっている存在ではないのか。本書の最後で権利と義務のエコノミーの話がでてくるが脱-構築に基づく権利と義務論というのはどのようなものなのだろう。

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クリプキ

『クリプキ ことばは意味をもてるか』(飯田隆著、NHK出版刊)を読む。クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を取り上げ、ことばの意味について論じてある。
 私たちはそれぞれのことばに決まった意味があると思っている。これこれのことばは、しかじかのことを意味すると私は思っていると同時に相手もそう思っていると信じているし、これまでもそしてこれからもそうであると思っている。つまりある言葉は特定の規則に従って使用されていると思っている。ところがクリプキの議論にしたがうと、いままでの言葉の使い方に矛盾しないようにして、なおかつ別の規則を作り出すことが可能ということになる。
 ここでは「グルー」や「クワス算」といった奇妙な色や計算法が例に取られて前半部分で説明されている。その結果私の心の中をいかに捜してみてもことばの意味という観念をきちんとくくり出すことができないという信じられない結論に至る。
 後半の第3章では、それに対しての解決法が処方される。クリプキが処方するのは「懐疑的方法」という処方箋で、その元祖はヒュームである。ヒュームは因果関係というものをわたしたちの思いなしであるとした(私たちの態度を世界に投影したものであることから「投影主義projectivism」と呼ばれる)。こうして述べられる言明は、世界についての事実ではないから真偽が判定できない。だから正当化条件でもってよしとすべしということになる。
 私個人がある規則を正しいと思っているだけではなく、社会の他の人がその規則を受け容れていることによって、私のその規則は正しくあり、意味をもつことなる。果たしてそれでいいのか?
 この解決法がおかしいのは確かだと著者は述べる。懐疑論は「証拠など必要なく、それゆえ、証拠となりうるものが存在しないところで、証拠を要求する点で誤っている」。しかし「証拠がありえないにもかかわらずもつことのできる知識という観念には、何か謎めいたものがある。こうした印象の存在が示すことは、私たちにはまだ、自身の意図についての知識を、世界と世界についての知識全体のなかに正しく位置づけることができていないということだとう」と著者は述べている。さて、ここからどう出発して知識というものの確実性を保証するのか。本書が終わるところからが実は出発点ということをこの本(の懐疑論)は教えてくれる。そしてそうしたことを教えてくれるから、冒頭の奇妙なことば(「グルー」、「クワス」)を巡る問題は重要なのである。
 「ウィトゲンシュタインは、新しい形の懐疑論を発明したのである。私個人の考えでは、それは、これまでの哲学の歴史のなかでも、もっともラディカルで独創的な懐疑的問題であり、きわめて非凡な精神の持主のみが生み出しえた問題である」というクリプキのウィトゲンシュタイン評は正しい。そしてその鉱脈を掘り当てたのがクリプキだということである。
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ウィトゲンシュタイン

 『シリーズ哲学のエッセンス ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(入不二基義著、NHK出版刊)を読む。副題にあるように「私」についての思考の限界へと進む小著ながら十分読み応えのある本だ。ウィトゲンシュタインについての著作を読むたびにいつも感じるのだが、この哲学者はどうしてこんな問いを問えたのかと感嘆してしまう。
 「私」を「世界の限界」として消化する第一章に始まり、最終章の「私的言語」についてまで坂道を登っていくような感じを覚える。著者は私的言語という言語ゲームの無根拠性を明らかにしつつ、私的言語というものを示そうとするときに生じてしまうディレンマについて語る。私的言語という言語ゲームの「限界」を巡り「反復され受け渡され続ける」営みにより、われわれは言語の果てへ漸近する。

逸脱的な言語ゲームを別の逸脱へと変容させて、再び私的言語への接近を試みる。外的な表出もないが、「痛み」とさえ規定できない特殊な「感覚」の言語ゲーム(「感覚日記」)を想定する。しかし「感覚日記」はそれに私的言語を読み取ろうとすると、記号「E」は意味を与えられないまま空回りする。他方記号「E」に意味を与えようとすると、われわれの「感覚」の言語ゲームの拡張・変形として理解されてしまい、私的言語には到達できない。

言語という私たちがすでに、常に行っている営みがどうして可能になったのか。このことについてはただ示されることしかできないのだろうか。ある逸脱的な言語ゲームが結果的に私たちの言語へと回収されることになったとしてもそれは無意味なことではない。とにかく新たな言語行為を私たちの言語ゲームへと果てしなく回収していくことは、言語の新しい使用を切り拓くというきわめて驚きに満ちスリリングな営みなのだ。優れた詩人というのはこれをいとも容易くやってのける才能をもつ人のことではないだろうか。

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<メディア>の哲学

 『<メディア>の哲学』(大黒岳彦著、NTT出版刊)を読む。送信者が「情報」を発信し、受信者がそれを受容して解読するという情報伝達の枠組みを捨て、ルーマンの社会システム論に準拠しながらメディアの哲学を構築する力作である。
 第一部では、ルーマン以前のメディア論の重要著作として、マクルーハン、イニス、ハヴロック、オングに始まり、ベンヤミン、キットラー、ドブレ、デリダが取り上げられる。ルーマンの理論についてはよく知らないので、この本で概要をうかがい知りながら読み進めていった。(ので頓珍漢なことを言うかもしれないが)ルーマンの理論は、「機能-構造論」の名のごとく、コミュニケーションが発生してシステムへと生成していく現場を捉えるのに適した概念だと思った。ある固定した制度を分析するよりも、その制度の発生あるいはその制度の分化(というよりは進化といったほうが適切か)の分析により威力を発揮する。これはシステムを観るにあたって、個々の送信者・受信者に目を向けるのではなく、「情報」のやりとりに目を向けることに起因する。
 マスメディア・システムは「情報/非情報」というコードを適応しながら、現実をニュース・ルポルタージュ、広告、エンターテイメントというプログラムとして現象せしめる。プログラムの適用により情報がそのシステムにおける情報となり、そして非情報となる。複眼的な展望を拓く新鮮な観点だと思う。情報の発信が少数の中枢に限定されていた時代とは異なり、多数の、中心も周縁もない点から錯綜するように発信されネットワークが形成されていく現代の情報社会を解析するには、欠かせない「哲学」である(本書はその一般理論の展開を予感させて終わっている)。
 しかしシステムの発生分化ということに力点が置かれているため、たとえば上述のプログラムとしての現出がシステムそれ自体に任されているかのような印象を受ける。情報の発信者の価値が低いというかそういう概念を敢えて無視しているので、著者のいう古い枠組みでいえば、情報の発信者が故意に誤った情報を流す、あるいは情報操作をする場合の責任が、情報の受け手に任されてしまう危険はないのかが気になった。例えば、いいかげんな実験で作られた健康番組で被害が出た場合に、製作者がこれは「エンターテイメント」であると責任を否定した場合や、戦争の現場の情報を操作して「ニュース」として提供した場合などはどうだろうか。この枠組みではそうした「ゆがみ」はシステムの中で淘汰されてしまうものであるかもしれないが、情報倫理という立場からメディアを眺めた場合にこの理論がどう答えていくのかをもう少し議論して欲しいように思った。

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追記

 昨晩は『道徳哲学講義』の記事が中断してしまったので、昨日投稿した記事に追記した。
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道徳哲学講義

 『道徳哲学講義』(T.W.アドルノ、船戸満之訳)を読む。アドルノがフランクフルト大学で「道徳哲学の諸問題」という題で行った講義録から作成したもの。カントの『純粋理性批判』のアンチノミーから話を始める。ここで取り上げられているのは、特に第三アンチノミーで自由と必然をめぐる対立である。カントは理性の世界において現象する世界とは異なる因果性(自由による因果性)を認める。この自由こそが道徳の根拠となる。「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」(『実践理性批判』)というわけだ。他律ではなく自立としての自由こそが道徳の条件である。ここから有名なカントの定言命法が出てくる。現象界と英知界という二つの世界について、



実際にこの二つの領域が互いに相容れないなら、道徳法則が所与であるとされることで人間は、初めから実現できない事柄が事実上課せられていることになるでしょう。そのときこの過剰な要求の中にはある種の非理性が横たわることになるといいたい。


とアドルノは述べる。
 カントの道徳哲学は、法則至上主義だから、この法則に従うかぎりにおいて、尊敬に値する人間とされる。尊敬という感情は、「外的影響を通じて感受された感情ではなく、理性概念を通じて自分で引き起こした感情である」とカントは断言する。自由と合法則性を結ぶ「尊敬」という概念が導入されるが、自分でこう定義しているからこれは自分の主張を補強するために定義を決めたと批判されてもしかたがないような気がするね。
 アドルノは嗅覚鋭くこの自由の抑圧的性格の胡散臭さを嗅ぎ取る。



まず定言命令そのものが必然性の性格をもっており、次にこの定言命令は私に対して戒律の形をとって必然として現れました。そして最後に私がそれに対して払うべき尊敬の形において、私は今一度この可能性を反映すべきであるとされました。この布置の内部で自由に残された唯一の可能性は、実に奇妙なことですが、実際には、私がこの尊敬、この合法則性、この戒律を逃れる可能性だけでしょう。換言すればカント哲学における自由のための空間は、この規定を真剣に受け取るなら、事実上もっぱら否定性に限られます。その場合、私が実際に自由に振舞い、道徳法則がその普遍性そのものにおいて自由の原理と調和するはずという考え方を度外視するときこそ、本来私は自由であるということになります。


 この抑圧的契機の中に「お前はなさねばならない。なぜならこうしなければならないからだ」という超自我の命令のリフレインがこだまする。
 カントの道徳では幸福は度外視される。幸福を念頭においた行動をしてはいけないのであり、ただ法則に従うことだけが許されている。そして法則にしたがって行動できるようになった時に初めて幸福を希望する資格を手にすることをカントは許す。徳と幸福の一致という非常に困難なことを彼は「最高善」として掲げた。ここに至るまで定言命令を繰り返す超自我はわれわれの尻を叩き続けるというわけだ。
 カントにとって誰にでも普遍的に当てはまるということが道徳を論じるにあたって大前提であったことは頷ける。しかしこの定言的命令は、あくまで個人が心の中に星辰のごとく掲げる道徳的規準として、過去の私と現在の私あるいは現在の私と未来の私を比較したときに目指されるべきものではないかと思う。これが個人と個人を比較するように適用されたとき、個人を抑圧する全体主義的傾向を帯びてしまうのではないかと感じた。

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乱交の生物学

 『乱交の生物学』(ティム・バークヘッド著、小田亮・松本晶子訳、新思索社刊)を読む。表題にある「乱交」はpromiscuityの訳として採用されている。通常「乱婚」という訳であるが、動物は結婚制度がないので「乱交」としたと訳者あとがきにあった。確かに雄性と雌性のつがい方について数という関係で見れば、一対一、多対一、一対多、多対多の四通りあるから、これらを総括していうなら乱交となろう。でも動物に結婚制度はないのは当然だが、人間でいう乱交もないと思う(生殖としてではなく社会的関係のためにセックスをするのはヒトとボノボくらいだろう)。訳者としても悩んだのではないだろうか。副題が精子競争と性的葛藤の進化史であり、こちらがより正確に本書の内容を表している。

 男性と女性が恋愛してお互いいに仲睦まじく協力しあって子供を作るという「家族観」は、人間社会で理想とされている(ビクトリア朝の頃に淵源するのであろうか)。こういう観点が「常識的な」大人の見方とされているのは、人間社会にとっては好ましいことであろう。しかし生物一般に視点を拡げると事実ではない(端的にいうと嘘、虚構である)。人は、しかしながら自分の見方で他者を見るから、動物も当然一夫一妻であろうとされてきた。この見方(ジェンダー観)の訂正から生殖に関する進化生物学は始まったと言ってよい。
 雄はとにかく自分の遺伝子をなるべく多くの卵子に受精させ、子孫を残すことを優先させる。それだけではなく、投資する資源を最小限にするようにしてという条件がつく。すなわち可能な限り雌の面倒はみることなくということだ。雄の方が研究対象にしやすかったこと(に加えて男性の研究者が多かったこと)から、雄の生殖戦略のほうが早くから明らかにされてきた。広範な種について研究されている鳥類では、(鴛鴦夫婦というような)仲睦まじいつがい関係どころか、雌はしばしばつがい以外の雄と性交していることが明らかにされている。
 雌についても雄の言いなりにはなっていない。卵子という高価な(生物学的に大きな投資が必要なという意味で)、しかも精子と違って数限りある遺伝子格納装置を有意義に使うため、できるだけ優秀な雄を選択するように進化する。雄と雌は互いに戦略の限りを尽くして競争している関係なのだということは、本書の一つの重要なメッセージである。

 本書では、ハエから霊長類に至るまでのさまざまな生殖にまつわる進化戦略を紹介している。精子競争があるのは確かだが、本書で述べられているような卵子による精子選択というのはどのくらい確実なことなのだろうか。このあたりはどのくらいまで研究が進んでいるのか寡聞にして知らない。性交を許すときには外見やディスプレイなどで選択をするというのは分かりやすいが、その雄の精子を卵子が選択するという場合、その形質と個々の精子が示す形質とは必ずしも関連していないだろうから明確に存在するというのはかなり難しいように思われる。
 どのレベルでどれくらいの選択が働いているのか種によってもさまざまであろうが、雌による性選択は雄にとってはかなり強力な淘汰圧になるのは確実だろう。ヒトの社会でも身長が170cm以上の男性としか結婚しないという選択がかかれば、相手の女性の身長が低くとも男性の身長はおそらく世代ごとにみるとかなり早く伸びるだろうな。

 本書では雄の生殖器、すなわちペニスが非常にバラエティに富むことが紹介されている。鳥類は一般にペニスをもっていないことや、ある鳥は偽陰茎を有していることが最初に紹介されたあと、ペニスのデザインには基本形が三種類あることが説明されている。ヒトのような陰茎海綿体タイプはあくまでその一つなのだ。このあたりを読むとなんとなく謙虚になるのが不思議だ。その他ペニスを複数有しているものあるどころか、ヒラムシなどは何十個ももっていること、ナメクジは体長の何倍ものペニスをもっていることが書かれている。これを読むとさらに謙虚になる。とにかくペニスという構造が進化的にみてさまざまにデザインされ、それなりに工夫を凝らして形づくられてきたことは生物学的にみても非常に興味深い。
 それにしてもなぜ雄と雌があるのかというのは、実に不思議なことである。

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所有と国家のゆくえ

 『所有と国家のゆくえ』(稲葉振一郎・立岩真也、NHKブックス)を読む。所有の問題を巡っての二人の四回にわたる対談を収録したもの。
 市場経済になしにはやっていけないこの社会で発生する不平等をどのように調整するかという問題が議論の大きな焦点となっている。後半はその責任についての議論がなされている。

立岩:・・・そういう人が一人しかいなくたって、その人がこういうシステムのもとではこういう暮らしができるはずなのにそれができないことは不正だっていう言い方は依然として成立しうる。
・・・
稲葉:・・・その人個別の不幸に責任がないとしても、そういう人たちがたくさんいるとしたら、そういう人たちがたくさんいる社会環境を作ったことには責任があるというか、国家はできるだけそういう不幸なひとが少ないようにするし、たまたま自分の責任なしに不幸に落っこっちゃった人たちにできるだけのことをするという責任は、まあ当然帰せられるだろうくらいには言えるだろうと。

個人は生まれつきの資質において異なるし、置かれた状況によってすでに取り返しのつかないようなハンディキャップを負っていることがある。これは必ずしも国家の責任とはいえない部分もある。また個人についても責任があるのかどうかも難しい問題である。

 立岩:・・・結局本人の有責な部分と、そうじゃない部分とを分けて、その結果本人に有責でない部分に関しては社会がっていう話をしていくわけだよね。ぼくはそういう話の組み立て方をしなきゃいけないとは思わない。その理由の一つでもあるんだけれど、それをどうやって仕分けるのと言ったときに何かしらの恣意性が起こらざるをえない。本人の責任なのかそうじゃないのか、こいつは働きたいんだけど働けないのか、働けるのに働いていなのかみたいな。

この議論では責任ということについて様々な意味がこめられているように思う。責任の所在を明らかにしようとする立場は、責任をもっぱら負担の分配と帰属から捉えるもので、責任を引き受けるべきものという考え方に立っている。だから当然その帰属が国家にあるのか個人にあるのか、双方にあるのならどの程度までが個人にあるのかという議論をせざるをえなくなる。
 責任の帰属を敢えて問わないという立場は、責任に答える過程に重心を置いており、応答責任論であるといえる。不幸な他者への配慮があくまで中心であり、救済することが責任を果たすことであるという立場である。
 責任という同じ言葉で議論されているが、このあたりをもう少し明確に切り分けて議論するのが望ましいのではないかと読んでいて感じた。全体の流れからすると、応答責任論が支持されているようだが、他者への配慮は過剰になりすぎると、フーコーが慧眼にも指摘した「生-権力」による支配となる危険もある。結果的に個人を画一化し、規律からの逸脱を厳しく制限することにもなるということは指摘しておいてもいいだろう。配慮に対して十分な理由付けがなされるのかどうかということを批判的に検討する必要があるだろう。

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誘惑される意志

 『誘惑される意志』(ジョージ・エインズリー著、山形浩生訳、NTT出版刊)を読む。著者の肩書きは巻末の紹介によれば、精神科医とあり、臨床医として活動する一方で、この本の主題となっている異時点間交渉問題を研究しているという。前著は『ピコ経済学』でミクロ経済学よりもさらにミクロな神経心理学的主題が扱われていることから「ピコ」経済学であるそうだ。ここでは一応カテゴリーは「経済」に分類することとした。
 本書では価値判断に指数割引ではなく、双曲割引が重要であるというのが一貫した主張で、この原理であらゆる現象を快刀乱麻を断つごとく一刀両断する。双曲割引というのは、現在からみて未来を価値を割り引いて価値判断する際に、双曲線で近似できるとする評価基準である。曲線は指数曲線よりも立ち上がりが急な曲線(より撓っている曲線)であるため、価値がより低くても手近にあると将来手にできる価値よりその時点では高く評価されてしまうという現象が起きてしまう。これは経験的にもよく起こることだ。
 この本を読んで面白かったのは、意志という現象を、この双曲割引による複数の価値評価の闘争と協調の結果であるとしていることだ。こういう観点に立てば、単純な価値評価システムから複雑な意思決定機構へと進化する経路への見通しがすっきりする。昔から「強い意志をもて」とたびたび説教されながら、いまだに強い意志をもてない自分のことを考えると、この考え方はなるほどと腑に落ちるところがある。意志は筋肉のようにやみくもに鍛えて強くなるようなものではないのだ。
 もちろん人間はさまざまな欲求を抱くからその重みづけがすべて同じ双曲線の特性であるとはいえないだろうが、この理論は意志作用がどうして脆いのかをよく説明してくれる。さらにこの本の面白いところは、そうした意志の働きにより、より強いルールが設定されることになり、これがときに「副作用」をもたらすと洞察しているところである。意志による冷徹な合理性の設定により大きな価値を手にするはずだったのが、結果的には満足度が減ってしまうこともあることをさまざまな例を取り上げながら説明している。こうしたことかすると、欲求はすばやく満たされればそれに越したことはないという合理性至上論に対して、欲求を満たすために自らある一定の(至適な)時間をかけて環境に働きかけて果実を享受することの方が結果的に適応度が上がり、長期的には望ましいということも主張可能なわけだ。現代社会は効率化を追及して、待たずに質の高いものを手にすることを可能にしているが、どこか不満足な感じ(手にした物が何かほんとうに自分が望んでいたものではないという違和感)を抱いてしまうのはそのためなのかもしれない。

ある意志をもって目的を達成しようとしているときにどのような(どれくらい強い)原則を適応してそれを阻害するものに対処しているのかを考えてみること。これは他人の行動を分析する場合にも有用だろう。
ある目的の達成を阻害するものがある場合に、実は(意識的、無意識的に)拙速な欲求実現が回避されているのではないかと考えてみること。

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THE 有頂天ホテル

 公開当時見そびれてしまった『THE 有頂天ホテル』をDVDで観る。年の瀬のホテルを舞台にしてさまざまな人物が交錯して悲喜劇が生まれる。若い頃の夢を捨てて現在の仕事に情熱を抱けない副支配人、夢を捨て故郷に帰ろうとするベルボーイ、贈賄で政治生命が危機に瀕している政治家とその秘書、その政治家の前妻だった客室係、娼婦とのスキャンダルの暴露に戦々兢々としながらも授賞式に望む男とその夫婦関係に疲れてきた妻、ホテルに入るたびにつまみ出される娼婦、名声はあるが自身のない演歌歌手、売れない芸能プロダクションの社長とその芸人たち、富豪の父親とその愛人にその仲を清算させようとする息子、型にはまった仕事しかできない筆耕係などなど。
 この喜劇も劇中さまざまなことが起こるのだが、皆それぞれ何かをつかんで結局元の鞘に収まる。そしてそれが楽しく爽やかな印象をもたらす。
 注目すべき登場人物はたくさんいるが、ここではベルボーイ只野憲二(香取慎吾)に注目したい。冒頭歌手の夢を捨てて故郷に帰ろうとするベルボーイが、ギターとともに同僚に捨てるように与えてしまう「幸運の」緑のマスコットが出てくる。それを持ちながら八年歌って幸運は来なかったのだから、受け取る同僚もそれが「幸運の」マスコットなどとは信じない。劇中このマスコットは、いわばどうでもいいものとして登場人物に次から次に手渡されていく。この実体の伴っていない小さな象徴が、最後に悪徳政治家の手から感謝をこめて元のベルボーイに手渡される。やがてバンダナとギターも彼の手に戻ってくる。今までの「歌手を目指していた」彼を支えていた物たちが円環を描いてもとに戻ったとき、彼はそこに自分の運命を読み取るのである。これらの小道具は、彼以外の人にとってはさしたる意味もないものだが、彼にはその意味が十分分かっている。これらのものは結局彼の手に戻るのだから、この劇の初めと終わりを単純に比較してみると、物理的にはまったく等価な状態である。にもかかわらずそこには新たな意味が生まれ、彼は希望を燃やしてもう一度歌手を目指すのである。
 希望は突然やって来て単線的に進む時間に別な輝きを与える。その光はそれを見ようとする人にしか見えない。その輝きの中では時間がその航路を外れるのであるが、私たちはそれを言祝ぐ。先の保証のない新年の到来を祝うように。
 劇の中ではそれぞれが自分の航路からわずかに外れる。結局もとには戻るのだが、その顔は輝いている。笑いと時間、笑いと希望についての楽しい映画だった。
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