浅草十二階

 以前荷風のアメリカ紀行に書いた際に出てきた凌雲閣のことを書いた本、書名もそのもの『浅草十二階』を読んだ。当時十二階という高さが確かに高層建築であったことに間違いはないが、上からの肉眼での眺望を考えた際、適切な「低さ」をもった建築であったことを著者は冒頭で強調している。



 下界の人の有り様が見えるということは、逆に塔の上にいる自分もまた、下界の人々から見えるということでもある。しかも、誰か一人からだけでなく、下界のいたるところからはっきり見えるということである。このことを意識したとたん「下にいるすべての人に見られているような気がする」という感覚が起こる。むろん、数十メートルの高さから相手のまなざしの方向まではっきりそれと知れるわけではない。せいぜい顔が上を向いているかどうかがかろうじて分かる程度だ。しかし、このほどよい曖昧さがかえって「見られている」感覚を助長する。立ち止まってどこか上方を見ている人間と、じつは眼が合っているのではないかという想像が起こる。想像が正しいかどうか確かめたくなり、手を振って合図してみる。 つまり、浅草十二階は単に高かっただけでない。その展望台は、人を見るという感覚、さらには人に見られるという感覚を立ち上げ、見ることと見られることの交換を容易にするのに、実に適切な距離をもたらしていたということになるl。現在の高層建築と比較するなら、それは「適切な低さ」を持っていたと言ってもよい。


 景色や物を眺めるというだけでなく、「見下ろす」という行為を考えた時視線が「見るもの」と「見られるもの」の関係から成り立つものだけにこの指摘は重要だ。前に考えた時には、十二階からの眺望が街中に出現したことに意味があるのだろうと漠然としか考えていなかったが、ある適切な高さ(著者のいう「低さ」)から人を見ることができる視点が出現したことに意味があるのだ。


 そうした意味づけはさておいて、当時錦絵に凌雲閣と一緒に描かれた謎の落下傘男のことや、パノラマという見世物のこと、凌雲閣をたびたび襲った地震のこと(関東大震災だけでなく明治二十四年、二十七年と結構頻繁に襲われているのだ)、十二階からの投身自殺と啄木など興味深いエピソードが満載でいろいろと当時の出来事に思いをはせながら読んでいくと、うまい漬物で食欲がわきごはんが進むように、読書欲がどんどん沸いてくる。

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やわらかく壊れる

 重力という自然の力に対する抵抗の表現方法として何があるか。まず第一は空を飛ぶこと。鳥たちは進化の過程でその巧みな技術を体得した。第二は建物を建てること。地球の表面へ向かって運動する石材を倒れることのないように積み上げる技術は、人間だけが編み出した。しかし前者は何世代にわたって繰り返されようとも変化することはないのに、後者は永続する保証はない。いつかは倒壊する運命にある。 大地が軽く武者震いするとき、堅固な要塞も堅牢たる城砦も敵に対する守りも虚しく容易く廃墟となる。廃墟の姿をイメージする簡単な方法がある。建築前の土地に立ってその視点から眺めることである。『やわらかく、壊れる 都市の滅び方について』(佐々木幹郎著、みすず書房刊)には(だいぶ前のことであるが)こう書かれる。



 東京湾岸の埋め立て地に行くなら、今のうちである。まもなくすると、草ぼうぼうの埋め立て地も、臨海副都心となって高層ビルが建ち並ぶだろう。 そうなっては、遅い。というのは、夕日を眺めるのに、この埋め立て地は格好の場所だからだ。東京の夕日は、ここからだともっとも低く見える。 (中略) わたしはここへ行くたびに思う。この町が完成したあと、何かが起こって滅びることがあったなら、もう一度今あるような風景に戻るのだ、と。つまり、ここで今見ることができるのは、未来の都市の廃墟なのだ。


 現在から「完成している」未来を見ることは誰でもできる。しかしさらにいったん完成した未来が「崩壊している」未来を見通すことはほとんど不可能だ。完成へと作業が進みだしたら、もはや人は完成したものしかイメージできないからだ。作業が一歩踏み出される前の状態、零度の状態に未来の崩壊した姿の手がかりが存在しているというのは、恐ろしくも皮肉なことだ。 彼のこのエッセーの中には、関東大震災を境にした詩人西條八十の変化や震災後に上京した中原中也の不思議な詩、震災を逃れて再び東京へと帰ることのなかった谷崎潤一郎のことが書かれている。廃墟となった都市は人の思考を変容させる。この中には登場しないが、永井荷風も「断腸亭日乗」の中で震災についてこう述べている。



つらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。


 防災議論が盛んになっている。最新の耐震技術を駆使することによる地震に負けない都市を目指す(あるいは夢見る)ことも重要だろうが、地震に負けた廃墟を予期しておくこと、直視できるだけの覚悟を養っておくことも必要であろう。

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アメリカ文化の日本経験

 見知らぬ他者と初めて出会う時に、他者に向けるまなざしにはどのような思いが込められるのか。その思い(先入観)と他者と遭遇することによって初めて得られる、先入観と矛盾する経験との間にどのように折り合いをつけるか。その過程で不都合なものは抑圧され、合理化がなされる。『アメリカ文化の日本経験-人種・宗教・文明と形成期米日関係』(ジョセフ・M・ヘニング著、空井護訳、みすず書房刊)には、開国をした日本人が西欧文化を取り入れていく過程でアメリカの眼差しがどのように変わっていったかを記述している。日本を見つめるアメリカの目は一つではない。ダーウィンの進化論の影響を受けて作られたスペンサーの社会進化論を信奉する科学者や技術者の眼差し、キリスト教布教により日本の教化を目指す宣教者の眼差しがあり、それぞれの眼差しが対立しあう。特異な日本文化の中に西欧の近代化に毒されていないよき伝統を認める芸術家の眼差しは、まさしくサイードの指摘するオリエンタリズムの眼差しである。 日本は、西欧列強に肩を並べるべく一刻も早く西欧化した自分の姿を見つめられることを欲望する。 目覚しく成長する日本を目の当たりにして、アメリカは日本人を「アジアで最も黄色人種らしからぬ人々」と位置づける。植民地化された中国人とは異なった優れた東洋人であり、日露戦争に負けたロシア人は、アングロサクソンよりも劣った西欧人、すなわちスラブ人であるという人種的序列の中に収めて「合理化」し、自らを安心させる(=盲目化させる)。このことが述べられている第六章が私にとっては最も印象深かった。二十世紀に見られた「科学」に基づいた人種差別化・序列化の言説は、戦争の世紀に大きな影を落としているからである。本質を明らかにして、分類・序列化する合理的営みが硬直化したときに起こりうる悲劇は、現在でも起こっているからだ。

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規制緩和の功罪

 規制緩和が最近の流れであるという。規制緩和は善であり、規制強化は守旧であり悪という風潮である。さまざまな社会的活動やそれによる成果に一定の規制をかけるということは、平均的な事象からの逸脱を防ぐということである。乱雑な減少に外からある規制をかけると、一般的にはその平均的な事象が増え、平均から大きく逸脱する現象の頻度が少なくなるはずである。今までの規制が「悪」とされるのは、平均から上のレベルへと成長しようとする運動をその規制が抑圧することが目立ってきたからに他ならない。しかし規制は同時に平均よりも下回るような逸脱を支える機能も受け持っている。この「抑圧」と「支持」の二つの規制が両方とも撤廃されるならば、豊かで創造的な成果がもたらされると同時におそらく同じ頻度で、破壊的で困惑させる事件が発生するだろう。規制を撤廃して乱雑さを増やすのだから、当然の結果である。好ましい方向への変化は放っておいても心配はない。敢えて奨励するまでもない。自由放任である。望ましくない方向への逸脱に対しては、それまで規制によって事前に予防されていたが、それがなくなるわけである。したがって発生したときに処罰し公正に対処することになる。事後的補償が中心となる。
 したがって規制緩和を社会的善とするためには、成長に対して抑圧となる規制は撤廃し、頽落に対して支持となる規制は維持または強化することによって方向付けをすることが重要となる。この方向付けこそが将来に対する賭であり、大きな政治的選択である。奨励する必要がなくなることにより軽減される負担と規制緩和によって得られる成果の総和が、規制がなくなることにより節減できる費用と発生する損失の総和を上回る未来を手にすることができなければ、結果として将来は暗澹たるものになるであろう。規制緩和を訴える立場の人は、しばしばそうすれば将来はバラ色と説く。しかし政策という物を売るのであれば、予想される悪についても説明しておく義務があるはずだ。バラ色なる善を偽れば誇大広告、詐欺であり、起こりうる悪を隠していれば説明義務違反である。しかも手にする未来に返品はきかない。
 今、この社会で起こりつつある一連の事件を眺めていると、各規制に対する個別的な考量がなされているかはなはだ疑わしい。この国ではあるお題目が善とされるとすべてそちらに走るという二者択一的な傾向が強いからである。個別的な考量がなされていない規制緩和分野で活動をするということは、期待値も分からずに賭をするということに等しい。盲目的賭けを前にすると、人は損を覚悟で大博打を打つか、ひとまずは変化を嫌い不動の構えを決め込むかいずれか二つを選ぶだろう。目新しい可能性に敢えて賭けるか、今までの方向を堅持するかである。新奇なものはますます流行し、伝統的なものもますます重要視されるに違いない。賭けで莫大な富を得るか赤貧のどん底に落ちるか、敢えて動かないことで富を堅持するかじり貧になるか。貧富の差の二分極化というのはおそらくはその二つの傾向の結果であると思われる。
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マラケシュの贋化石再び

 物語や小説の中に出てくる地名が妙に気になってしまうことがある。登場人物よりも舞台背景の方に気がとられるというのか。例えば、柳田國男が歩いた岩手の遠野であったり、トマス・マンの『魔の山』の舞台のスイスのダヴォスであったり、乱歩が散策した浅草の町であったり、挙げればきりがないのだけれど、昔から本を読んだときに出てくる場所の雰囲気とか地図や周囲の地形がどうなっていたのかと気になる作品がある(逆に場所が全く気にならない作品もある)。グールドの『マラケシュの贋化石』を読んだときにも、この「マラケシュ」という地名がなんとなく気になった。



モロッコに赴いた私は、問題の化石の大半を産しているのは、モロッコを横切るアトラス山脈ではなく、マラケシュの真東に位置する砂漠地帯の岩山であることを知った。モロッコでは、いたるところにあらゆる商い形態の鉱物売りがいる。山岳道路のあらゆる急カーブには一個か二個の化石を売る少年が立っているし、すべての景勝地には急ごしらえの売り台が設置され、都市や街には本格的な鉱物店があるというぐあいなのだ。売られている鉱物の総量は莫大なものになるにちがいないが、その大半は完全なまがい物か、少なくともかなり「底上げ」されたものである。


とグールドは書いている。モロッコの道々に立っている化石を売る少年。急峻な山道とその視線の上に広がる空。雑然とした街中の怪しげな鉱物店。そんなイメージがこのエッセーの主題である化石の成因と生物進化とは別に、私の心の中に浮かんだ。 この「マラケシュ」という音のイメージとまだ訪れたこともないモロッコの風景が印象深かった。そんなとき本屋でエリアス・カネッティが書いた『マラケシュの声』(岩田行一訳、法政大学出版局刊)という本を見つけ、私は名前を見るや思わず内容も確認せずに買ってしまった。 読んでみると彼が1954年春にモロッコを訪れた際の紀行文であった。マラケシュという町は、モロッコ王朝史上最大の栄光に輝くムラビト朝とムワヒド朝の首都であったそうで、古きモロッコのかつての栄光の地であった。そもそも国名のモロッコというのは、マラケシュに由来するそうだ。その中でカネッティは、スーク(市場)を訪れたときの様子をこう書いている。



店の前を通りすぎる者は、いかなるものによっても、扉によってもガラスによっても、商品から切り離されてはいない。商品のまんなかに坐っている商人はその名を誇示しないし、すでに述べたように、どの商品にも楽々と手が届く。通行人は好きな商品をいつでも手に取ることができる。(中略)自分の商品に囲まれている男は何よりもまずひとつの商品にほかならない。


かれは商品の価値を正確に知っているが、そのために痛痒を感じることは全然ない。かれはその価値を内証にしておくのであり、それが人に気づかれる恐れはないからである。これが商いの仕方に強烈な神秘感を与える。客がどの程度かれの秘密に近づいたか知りうるのはかれだけであり、また価値を守るための間合いが危険にさらされぬよう、どんな突きでもさっと受け流す術に長けている。


・・スークでは、最初に告げられる値段は不可解な謎である。それは誰にも、当の商人にさえわからない。どんな場合にも多くの値段があるからである。それらの値段はいずれも別の状況、別の買い手、一日の別の時間、週の別の曜日にかかわる。一個売りの商品の値段や二個ないし数個まとめて売る商品の値段がある。市内に一日しか滞在しない外人向けの値段や、市内にすでに三週間暮らしている外人向けの値段がある。貧乏人向けの値段や、貧乏人にとってはもちろん最高の値段にほかならぬ金持ち向けの値段がある。この世のさまざまの人間よりももっとさまざまの種類の値段が存在するといいたいくらいである。


こんな場所で売られている化石は、なるほどなんと「神秘的」で、なんと「値段」のつけられないものであろう。カネッティの紀行文を読んでから、「マラケシュの贋化石」の神秘さといかがわしさがさらに一層強く私の脳裏に焼きついた。

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永井と谷崎の眼差し

 洋行した永井荷風が帰国してからどのような影響をあたえたのか? 『荷風のアメリカ』を読んでからそんなことを考えて、先日購入した『谷崎潤一郎とオリエンタリズム』(西原大輔著、中公叢書)を読んでいたら、荷風の『あめりか物語』や『ふらんす物語』に書き込まれたオリエンタリズムの言説が、谷崎文学、特に彼の「支那趣味」に影響を与えていると書かれてあった。サイードのいわゆるオリエンタリズムは西洋が東洋に向ける眼差しの中にあり、日本もその対象に含まれるのであるが、ここでは近代の帝国主義の道を歩んでいた日本の隣国中国に対する言説を「オリエンタリズム」と定義している。帝国主義という社会的歴史的背景が必須条件としてあるのだが、他者へ向ける眼差しの中にある自分には理解できないことに対する憧憬と差別が混淆したものが言説の中に現れたものと解釈できるだろう。

 荷風の『あめりか物語』の中のオリエンタリズム的言説の例として、この著書の中では「酔美人」のところで黒人の女性に対する記述があげられている。「黒人の娘の特徴とも云うべき、でっぷりした肉付の如何にも豊である」ことや「あの目付はどうも我々文明の人間の目付でない。動物の目付だ。馴れた家畜が主人に食物を請求る時の目付である」という新聞記者マンテローの抱いた感想は、西洋人の当時の眼差しをそのまま日本語に移したものであろう。
 このほかにも荷風がエジプトやトルコのことを語る語り方の中にオリエンタリズムの存在を指摘している。荷風は現実の体験としてでなく、文献の上でしか中近東を知らなかったためとも指摘されている。西原はこのまなざしが、当時荷風に心酔していた谷崎に影響を与え、当時「支那」に興味を抱いていた谷崎の中国を見る眼差しもオリエンタリズムに染まったとし両者の関連性を分析している。
 後半は谷崎の二回にわたる中国旅行の後を精緻に追いながら彼のオリエンタリズムを分析する話が続くのだが、荷風の欧米体験に基づいて書かれた小説が谷崎の「支那趣味」の小説に影響を与えていたという解釈には、たいへん興味をかき立てられた。

 オリエンタリズムからは離れるが、未知なる他者を最初に理解する場合には多くの場合自分の経験と引き合わせて他者をあるパターンに当てはめる。このパターンが稚拙か精巧かは、おそらくその人の体験の豊かさと比例するだろう。しかし実際の体験はごく限られたものだから、その解釈図式はその時代の一般的思考形式が大きく影響する。解釈図式がもっぱらある特定の言説、イデオロギーに依存して無批判に成立するときに「オリエンタリズム」式言説が個人を呪縛するのだろう。他者の中にある「神秘」は、そうした言説に大きく依存している。だからエジプト人の謎は、エジプト人にとっても実は「謎」であり、中国三千年の歴史は中国人にとっても正直なところ「未知」なのである。それらは対象の中にはない。私たちの眼差しの中にある。そして私たちは、その眼差し自体を見つめることは決してできない。

 現在のように猫も杓子も海外旅行に行く時代とは違って、荷風の時代には文学者の海外体験に基づく小説や紀行のもつ意味はかなり大きかったに違いないが、個人の言説というのはこうした眼差しの形成にどのくらい影響があるものなのだろうか。誰もが海外に気軽に赴いて現地の状況を確認でき、数多くの人が自由にメッセージを発することができ誤った記述は容易に訂正されうる現在でも、こうした言説は容易に形成されてしまう。私たちの他者を見る目の中には容易に抜きがたい「とげ」が刺さっているようだ。
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乱歩の眩暈

 昨日浅草の凌雲閣のことを書いたときに、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』を再読した。乱歩の怪奇小説の世界は、ことさら大仰な道具立てを設定していない、どちらかというと倦み疲れた平凡な日常の中に突然ふっと立ち上がる異様な世界である。この『押絵と旅する男』も魚津へ蜃気楼を見に行った「私」が上野行きの汽車の中で「四十歳にも六十歳にも見える」年齢不詳の男と偶然出会うことから始まる。そこで押絵の中で生きている男女を目にする。さらに男から渡された「異様な形のプリズム双眼鏡」で押絵を見ると等身大の「結い錦の色娘と、古風な洋服のしらが男とが、奇妙な生活を営んでいる」。この時「のぞいては悪いものを、私は今、魔法使いにのぞかされているのだ」という気持ちになる。
 この奇談の中で奇妙な男の兄は、浅草の凌雲閣の十二階から押絵の女に恋をして遠眼鏡で日々眺めていたのである。十二階の「高層」の風景を背景にした兄の姿を見ると、「兄のからだが宙に漂うかと見誤るばかり」で、十二階から見える空を背景として下から上がってきた風船屋の赤や青や紫の無数の風船の中に立っている兄の姿という不思議な光景が描かれている。

 高層建築が林立し、十二階という建物が全くありきたりとなってしまった現代からすると実に牧歌的にも思える描写であるが、当時ほとんど平屋か二階建ての木造建築であったことを考えると、都市から突き出た煉瓦造りの十二階の建築はそれだけで十分奇想を掻き立てるものであったのだろう。

 高層から下を見下ろすときの眩暈、遠眼鏡を覗いたときの遠近感を喪失させる違和感、望遠鏡を逆から覗いた時の倒錯感は、誰もが子供の時に感じた原感覚であろう。乱歩の小説にはこうした誰もが心の奥に持っている原体験の奇妙な感覚をうまく小説に生かしている。急速に、しかも決して後戻りすることなく都市化する近代に対する乱歩が感じた眩暈感なのだろう。彼が敢えて古風な押絵の中という世界を選んだのもうなづける。
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十二階の荷風

 末延芳晴の『荷風のアメリカ』(平凡社ライブラリー)を読む。 フランスへの憧憬を抱きながら日本から東へと旅立ち、アメリカを経てフランスに行った「東回り」の近代文学者荷風の体験を、『あめりか物語』、『西遊日誌抄』の記述に基づきつつ再構成していく評論である。 父永井久一郎の意向をいやいやながら受け容れて彼は1903年9月22日日本郵船の信濃丸に乗り、横浜港を後にする。「計らずも此の淋しい海の上の旅人となつた」とぼやく荷風だが、父の取り計らいで、一等船室で旅ができているのだから贅沢なご身分である。何の身分も肩書きもない荷風を末延は「記号的野心から無縁の男」と位置づけている。日本郵船横浜支店長の不肖の息子という自分を彼は太平洋の洋上でどう見つめていたのか。来る日も来る日も水平線が続く海は、決して自分の前途の輝かしい兆しではなかったに違いない。これといった力量もない若者が父親の世話で単身アメリカに自分探しに行く風景は、今でもありそうだ。私には一種の逃避行にも映る。 その彼がシカゴでは、当時最大のデパート、マーシャル・フィールドを訪れ、吹き抜けになったアトリウムの最上階である十二階に昇り、そこから下を眺める。



建物は丁度大きな筒の様に、中央は空洞をなし、最絶頂の硝子天井から進み入る光線は最下層の床の上まで落ちるようなつて居るので、出入の人々が最下層の石畳の上を歩行して居る様をば、何百尺真上から、一目に見下ろす奇観! 男も女も、漸く母指程の大きさも無く、両腕と両足とを動かして、うぢうぢ蠢いて行く様、此様滑稽な玩弄物が又とあらうか! 然し一度、此の小さな意気地なく見える人間が、雲表に高く聳ゆる此高楼大廈を起こし得た事を思ふと、少時前文明を罵つた自分は、忽ち偉大なる人類発達の光栄に得意たらざるを得なくなつた(「市俄古の二日」)


 末延は荷風を「この時、明治末期の日本の近代文学者の中で最も高い都市の建造物の上に立っていた」とし、この下を見下ろすという視点を獲得したことに彼の文学的想像力の一つの源泉を見ている。確かに山の頂や城からの眺めというものはあったかもしれないが、それまで高層建築のなかった日本では都市の中で人の蝟集するところを上から俯瞰するという視点は得ることができなかっただろう。末延は、荷風がロラン・バルトのいう「高さのもたらす幸福感」にひたっていただろうと推察しているが、超越した視点からの眺めは、不安を伴うイリンクス(眩暈)も彼の無意識に植えつけたのではあるまいか。 十二階の「高層建築」は、しかしながら、当時の日本にも存在した。明治二十三年(1890年)に落成した浅草の凌雲閣である。高さ約60メートルで十階までは総レンガ造り、それより上は木造で、十一階、十二階には望遠鏡が据え付けられていた。この建物は江戸川乱歩の『押絵と旅する男』の中にも出てくる。



頂上は八角形の欄干だけで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、にわかにパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低いところにあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいにゴチャゴチャしていて、品川のお台場が、盆石のように見えております。眼まいがしそうなのを我慢して、下をのぞきますと、観音様のお堂だって、ずっと低いところにありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃのようで、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。


 日本の文学にも少なからぬ影響を及ぼしたと思われるこの浅草の十二階からの俯瞰は、明治二十年にイギリスから招聘されたお雇い外国人W.K.バルトンの手によるものである。彼は衛生技師として内務省に招かれたのであるが、東京帝国大学教授も兼任し、衛生工学を教え、首都東京の下水道事業の計画を任されていた。その彼を招聘したのが当時ヨーロッパの上下水道を視察した荷風の父、久一郎だったのである。場所も太平洋を隔てたアメリカであるが息子が十二階の建物に昇って驚嘆していたことを久一郎は知っていただろうか。

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猫町

 軽便鉄道を途中下車して、徒歩でU町へ歩いていった私は、道に迷い山の麓で思いがけなくも美しい町に着く。そこでこの町全体の独特な雰囲気に気がつく。



或る漠然とした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で、忙しく私の心の中を駈け廻った。すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂い、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。建物は不安に歪んで、病気のように痩せ細って来た。所々に塔のような物が見え出して来た。屋根も異様に細長く、瘠せた鶏の脚みたいに、へんに骨ばって畸形に見えた。


 次の瞬間町の街路全体に猫が溢れているのを私は見る。猫、猫、猫、猫・・・そして意識がはっきりとしてもう一度見ると猫はどこにもおらず、普通のU町の姿に戻っている。 萩原朔太郎の『猫町』は、見慣れた町の風景がある瞬間一変して見えた異様な体験を綴っている。 異次元の世界が通常の世界と隣り合っており、一瞬裏返ったときに別世界が見える。ちょうどメビウスの環やクラインの壷のように表が裏に、内が外になる。ファンタジーは常に別世界への移行を有している。多くの場合、その移行過程は境界を超えていく旅である。古くは船に乗っての航海であり、最近では宇宙船での飛行であったりする。旅行者はある閉鎖された空間(乗り物)に入り、一定時間の経過の後に別世界へと到達する。この間旅行者の感覚は遮断され、意味空間が変容する。 猫町への朔太郎の旅は、脳の中で起きる。視覚や聴覚、嗅覚などの感覚が変容して時間の密度が急速に高まり、頂点を越えたとき世界が一瞬変わる。脳の中の変化が世界に投影される。内が外になる。上の描写は薬物による幻覚体験の描写に酷似している。確かにこれは一つの旅(trip)に違いない。 異常な体験は夢に違いないと解釈される。しかし夢は脳の中の立派な「現実」ではないのか。脳の中にそのような荒唐無稽な世界が複数存在すること。これは実に驚くべきことだ。

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責任のとりかた

 ある人が行ったことをその人がした「動作」ではなく、その人の「行為」であると認め、その人の「行為」であるがゆえに責任を追及できるのはどうしてか。動作には原因がある。つきつめていけば脳の神経細胞の発火による刺激の伝導により筋肉が収縮してある動作が起こる。自動人形が動くときの説明と同じだから機械論的説明といわれる。 
 彼が彼女の頬を打ったのはなぜか。機械論的に説明しようとすれば、まず大脳皮質運動野の神経細胞の興奮から話が始まり、前腕の筋肉の旋回運動に終わる。しかしこの説明で納得する人はいない。さらに頬を打った責任を問われたときに、一連の刺激伝達は機械的に起きたものだからどうしようもなかったという言い訳で逃れることは認められない。彼のとった行動が行為であるのは、その行動に原因があるからではなく、理由があるからだ。理由は必ずしも行為の前にあるわけではない。しばしば後付けされる。これを正当化という。しかしそれでも行為の理由として立派に成り立つ。でもいくら自分の行為そうやって正当化しようとしてもできるわけではない。理由づけがあまりに不合理だったり、あるいは合理的であっても他の条件とうまく整合しなかったりすれば第三者から却下されてしまうからである。 
 行為の意味づけは、行為が完結したときに完了するわけではない。行為の意味はしばしば行為者自身にも分からないことがある。オイディプスはそうとは知らず自分の父親を殺し、母親と交わった。これはオイディプスの弁明だけでは理由づけができない。だから悲劇が生まれる。ずっと後になってH.アレントは、「行為の意味が行為者に対して開示されることは決してない」と述べた。 
 行為は理由によって時間的に説明されることではなく、理由によって規範とうまく整合性がとれたときに初めて納得される。やむを得なかったというのはしばしば聞かれる理由づけ(言い訳)であるが、このとき機械的原因?結果論の観点からほかにどうしようもなかったことが問題にされているわけではない。他に選択肢があって別の行為を行うことが可能であり、そちらの方が社会の規範と整合性をもっていることをその行為者が認識した上でやむなく選択したのかどうかが問われているのである。責任が問われる場面が次から次へと出来しているが、損失に対して補償をすることや責任者が懲罰を受けることが責任をとることの真の姿ではない。責められる行為に対する理由を明らかにし、その本人がなぜ正当な理由で行為できなかったかを明らかにすることこそがほんとうの責任の取り方だろう。
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