以前荷風のアメリカ紀行に書いた際に出てきた凌雲閣のことを書いた本、書名もそのもの『浅草十二階』を読んだ。当時十二階という高さが確かに高層建築であったことに間違いはないが、上からの肉眼での眺望を考えた際、適切な「低さ」をもった建築であったことを著者は冒頭で強調している。
下界の人の有り様が見えるということは、逆に塔の上にいる自分もまた、下界の人々から見えるということでもある。しかも、誰か一人からだけでなく、下界のいたるところからはっきり見えるということである。このことを意識したとたん「下にいるすべての人に見られているような気がする」という感覚が起こる。むろん、数十メートルの高さから相手のまなざしの方向まではっきりそれと知れるわけではない。せいぜい顔が上を向いているかどうかがかろうじて分かる程度だ。しかし、このほどよい曖昧さがかえって「見られている」感覚を助長する。立ち止まってどこか上方を見ている人間と、じつは眼が合っているのではないかという想像が起こる。想像が正しいかどうか確かめたくなり、手を振って合図してみる。 つまり、浅草十二階は単に高かっただけでない。その展望台は、人を見るという感覚、さらには人に見られるという感覚を立ち上げ、見ることと見られることの交換を容易にするのに、実に適切な距離をもたらしていたということになるl。現在の高層建築と比較するなら、それは「適切な低さ」を持っていたと言ってもよい。
景色や物を眺めるというだけでなく、「見下ろす」という行為を考えた時視線が「見るもの」と「見られるもの」の関係から成り立つものだけにこの指摘は重要だ。前に考えた時には、十二階からの眺望が街中に出現したことに意味があるのだろうと漠然としか考えていなかったが、ある適切な高さ(著者のいう「低さ」)から人を見ることができる視点が出現したことに意味があるのだ。
そうした意味づけはさておいて、当時錦絵に凌雲閣と一緒に描かれた謎の落下傘男のことや、パノラマという見世物のこと、凌雲閣をたびたび襲った地震のこと(関東大震災だけでなく明治二十四年、二十七年と結構頻繁に襲われているのだ)、十二階からの投身自殺と啄木など興味深いエピソードが満載でいろいろと当時の出来事に思いをはせながら読んでいくと、うまい漬物で食欲がわきごはんが進むように、読書欲がどんどん沸いてくる。