『脳は空より広いか』(ジェラルド・M・エーデルマン著、冬樹純子訳、豊嶋良一監修、草思社刊)を読む。
著者は抗体の化学構造に関する研究で1972年ノーベル医学・生理学賞を受賞した学者だが、その後脳科学やロボット工学にまで研究を広げたと巻末の解説にある。その著者が意識についての考え方をやさしく解説したのが本書である。原題の『Wider than th sky』は詩からの引用だという(このエミリ・ディキンスンという詩人については私は浅学で知らない)。ニューロンのシナプスの複雑な連結からなる脳組織は空いや宇宙よりも複雑で広大であるということを表わしている。
利根川進博士も免疫学の研究から脳科学へと研究を広げていったが、免疫系と神経系という情報制御システムは共通したところがある。どちらも長い進化の過程によって現在の姿に至っているわけだが、エーデルマンは、これを「神経ダーウィニズム」または「神経細胞群選択説Theory of Neuronal Group Selection(TNGS)」と名づけている。著者は脳はコンピュータのアナロジーでは理解できないシステムだと主張する。脳は、外界からの情報に少しでもノイズが混ざっていると、それを消去するように処理して出力するようなものではなく、曖昧な情報に対して柔軟に対応しながら適応性のあるパターンをうみだしていくようなものだという。TNGSは、
1.発生選択
2.経験選択
3.再入力
という三つの原理によって動く。外界からの感覚入力に対して適合するニューロン群のシナプス結合が選択的に強められていく。それは常に変化しながら動的な回路をつくり出している。こうした機能クラスターを彼は「ダイナミック・コア」と呼んでいる。この活動によって必然的に生まれるが「意識」だという。因果的な影響力をもつのは、神経細胞の活動であり、意識はそれに生まれる一つの特性であるという。クオリアを含め、そうした意識の特性を体験することが可能となるように進化した生物は、より他の個体と効率よくコミュニケーションできるはずで、そこに意識の存在意義があるというわけである。したがって神経活動はしながら、クオリアも感情もないようなゾンビは論理的に成立しないと主張する。進化という視点を考慮に入れて意識というものを説明していく著者の仮説はたいへん説得的だ。
動的に神経組織をとらえる見方は、多様性、創造性を肯定し、個体の歴史的事象を単純に還元しないという姿勢と相性がいい。
生物の進化という連続的な視点にたつと、言語を使って思考する人間を特権化する必要はないのではないかとも考えられる。確かに最終的には言語に翻訳して理解する必要があるのは確かだが、その基礎には神経細胞の選択的思考過程が働いているに違いない。文学作品を読むときに出会う目の覚めるような表現、思考の末に啓示のように降りてくるある種のひらめきなど、すべて言語で表現されることで理解をしているが、それを生み出した母体は「空より広い」のだ。神経科学領域にとどまらず、より広い分野への思考を刺激する本だと感じた。
草思社が倒産したというニュースには驚いた。本書以外にもいい本を出版していた会社だけに残念なことだ。書店でこの本を見かけたとき、買っておかねばとすぐに手が伸びてしまった。