脳は空より広いか

 『脳は空より広いか』(ジェラルド・M・エーデルマン著、冬樹純子訳、豊嶋良一監修、草思社刊)を読む。
 著者は抗体の化学構造に関する研究で1972年ノーベル医学・生理学賞を受賞した学者だが、その後脳科学やロボット工学にまで研究を広げたと巻末の解説にある。その著者が意識についての考え方をやさしく解説したのが本書である。原題の『Wider than th sky』は詩からの引用だという(このエミリ・ディキンスンという詩人については私は浅学で知らない)。ニューロンのシナプスの複雑な連結からなる脳組織は空いや宇宙よりも複雑で広大であるということを表わしている。
 利根川進博士も免疫学の研究から脳科学へと研究を広げていったが、免疫系と神経系という情報制御システムは共通したところがある。どちらも長い進化の過程によって現在の姿に至っているわけだが、エーデルマンは、これを「神経ダーウィニズム」または「神経細胞群選択説Theory of Neuronal Group Selection(TNGS)」と名づけている。著者は脳はコンピュータのアナロジーでは理解できないシステムだと主張する。脳は、外界からの情報に少しでもノイズが混ざっていると、それを消去するように処理して出力するようなものではなく、曖昧な情報に対して柔軟に対応しながら適応性のあるパターンをうみだしていくようなものだという。TNGSは、
 1.発生選択
 2.経験選択
 3.再入力
という三つの原理によって動く。外界からの感覚入力に対して適合するニューロン群のシナプス結合が選択的に強められていく。それは常に変化しながら動的な回路をつくり出している。こうした機能クラスターを彼は「ダイナミック・コア」と呼んでいる。この活動によって必然的に生まれるが「意識」だという。因果的な影響力をもつのは、神経細胞の活動であり、意識はそれに生まれる一つの特性であるという。クオリアを含め、そうした意識の特性を体験することが可能となるように進化した生物は、より他の個体と効率よくコミュニケーションできるはずで、そこに意識の存在意義があるというわけである。したがって神経活動はしながら、クオリアも感情もないようなゾンビは論理的に成立しないと主張する。進化という視点を考慮に入れて意識というものを説明していく著者の仮説はたいへん説得的だ。
 動的に神経組織をとらえる見方は、多様性、創造性を肯定し、個体の歴史的事象を単純に還元しないという姿勢と相性がいい。
 生物の進化という連続的な視点にたつと、言語を使って思考する人間を特権化する必要はないのではないかとも考えられる。確かに最終的には言語に翻訳して理解する必要があるのは確かだが、その基礎には神経細胞の選択的思考過程が働いているに違いない。文学作品を読むときに出会う目の覚めるような表現、思考の末に啓示のように降りてくるある種のひらめきなど、すべて言語で表現されることで理解をしているが、それを生み出した母体は「空より広い」のだ。神経科学領域にとどまらず、より広い分野への思考を刺激する本だと感じた。

 草思社が倒産したというニュースには驚いた。本書以外にもいい本を出版していた会社だけに残念なことだ。書店でこの本を見かけたとき、買っておかねばとすぐに手が伸びてしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ミトコンドリアが進化を決めた

 『ミトコンドリアが進化を決めた』(ニック・レーン著、斉藤隆央訳、田中雅嗣解説、みすず書房刊)を読む。
 細胞内小器官であるミトコンドリアの起源を考察し、この共生体が真核細胞ひいてはヒトまでに至る進化の決定的な役割を演じていたことを説く。さらに本書の原題(『Power, Sex, Suicide』)にもあるように、性(なぜ雌雄の別があるのか)と細胞の自殺(アポトーシス)、老化にミトコンドリアがどう関係しているかを披露する。最初から最後まで実にエキサイティングな読み物である。
 ミトコンドリアはもともと独立した生命体だったが、宿主の細胞に侵入し寄生し、やがて共生するようになり、現在の姿に至ったという共生進化はマーギュリスの説以来有名になった。宿主の細胞は貪食により寄生体に食物を供給していたが、やがて寄生体からエネルギーを取り出すようになる。この共生のタイミングは20億年前の全球凍結後の酸素濃度の急上昇の時期であるという。この元の宿主は古細菌(Archaea)とよばれる細菌の中のメタン生成菌だという。嫌気的環境に棲むこの細菌がなぜ酸素に依存しているミトコンドリアと共生するようになったのか。1998年に提唱された水素仮説によると、水素生成が可能なヒドロゲノソームという細胞内小器官がミトコンドリアと共通の祖先をもつという。現段階ではヒドロゲノソームやミトコンドリアの共通祖先は多面的な代謝ができる細菌であり、それがそれぞれの環境に適応していった結果特殊化していったというストーリーが有力だという。
 原核細胞から真核細胞への進化にはミトコンドリアとの共生が必要だったということだが、これが生命進化の過程でおきた適応的な現象なのか、確率は低い偶然の事象だったのかはわからない。一元的に説明するならば前者であろうし、もしそうならもう一度原始の地球と似た環境で生命が発生しても同じような真核細胞が出て来る確率は高い。しかし後者なら現在に至るような生命の進化はかなり稀な事象であり、まして高度な知的生命体が進化するようなことはありえそうになかったことになる。
 続いて生命のもつ基本的性質として著者は核酸や蛋白質よりも化学浸透(chemiosmosis)という膜を隔てて電位差が生じる現象の重要性を強調する。すべての生命はエネルギー生成のためにプロトンを膜を超えて汲みだし、プロトン勾配を作り出すことによりATP生成や運動、熱産生に利用している。この発生装置こそが電子伝達系をもつミトコンドリアの二重膜構造なのだ。エネルギー生成装置を組み込んだおかげで、真核細胞はサイズを飛躍的に増大させることが可能になり、より複雑な多細胞生命体への道が開かれた。この細胞のサイズとエネルギー代謝の関係についての議論もたいへん面白い。大きいことはいいことなのだ。またエネルギー産生の際不可避的に生じるフリーラジカルを精妙に調整するシステムがどうしても必要であり、そのために今なおミトコンドリアには独自の遺伝子が、フリーラジカルによる変異を蒙る危険までおかして存在している理由だと説明されている。
 有性生殖がなぜコストがかかるのに進化したのかという難しい問題についても、ミトコンドリアとの共生の結果負うことになったフリーラジカルストレスが遺伝子組み換えを促進させた結果生まれたものではないかと推測している。ミトコンドリアという当初の寄生体から促されて宿主が遺伝子組み換えの相手を求めていたとうストーリーはいささか衝撃的である。極言すると求愛行動ももとをたどれば寄生体によって操られていたということか。同様に細胞の自死もミトコンドリアが重要な役割を担っている。細胞がいたずらに自死しないように呼吸鎖の電子の流れを精妙に調節する必要があるわけだが、そのための手段として脱共役システムがある。これと哺乳類や鳥類の体温維持システムと寿命の関係、ヒトの寿命と病気の関係の議論は目から鱗が落ちるものだった。当然これは老化の問題とつながるし、その調節システムの遺伝的多型が長寿と関係してくる。生まれてからの経過年数で老化は計られるべきものではなく、フリーラジカルの漏出速度とその処理効率によって計られるべきものだということになる。暦年齢は同じでもより老けて見える人もいれば、驚くほど若く見える人もいる。フリーラジカルの処理効率が遺伝的に規定されて改善する手だてが今のところないとすると、あとはなるべくフリーラジカルを不必要に産むようなストレスに曝さないようにするのが長寿の秘訣ということになる。ここで著者も述べているが、抗酸化を謳ったサプリメントなんかはまったく効果がないという。
 生命の発生・進化から現在の人の健康に関するまで実に幅広くかつ壮大な物語を著者は実に興味深くかつ堅実に語ってくれる。早くも今年の読書の大きな収穫である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

こころの起源

 『心の起源 脳・認知・一般知能の進化』(D.C.ギアリー著、小田亮訳、培風館刊)を読む。ダーウィンの革命的著書『種の起源』に倣いつけられた本書の題名どおり、人間の心がどのように進化してきたのかを論じる著書である。進化学、心理学、霊長類学など参照される学問分野は広大で引用される文献も膨大である。本書で著者が基本的スタンスとしてとっているのは、自然淘汰という「生存競争」は、人間という種においては生存を支えて繁殖を可能にする資源をコントロールすべく他の人間との間でくりひろげられる闘争が重要なものとなっており、これが心・知能の進化を促したというものである。
 情報処理機構として進化した心という装置は、限られた資源のコントロールをめぐる他者との競争のための装置である。資源は、物理的なものに限らず、社会的資源も含まれるし、他者の行動を予測してそれをコントロールすることも含まれる。私たちは人間の顔を認知したり、身の回りの物体の挙動についての認識など、いわゆる私たちの生活目線でみた素朴な認識(生活世界の認識)(本書では素朴物理学、素朴生物学、素朴心理学といわれる)は、そうした進化的競争の結果であるというわけである。以前読んだアフォーダンス理論などもそうした意味で私たちの認識には進化的基盤があることを主張しているのと同様である。
 他者をコントロールするためには、それを巧妙にシミュレートできればいい。他者を含んだ世界を自己の中でシミュレーションとして立ち上げ、操作してみることが必要である。そしてそれを効率よく行うためには高い流動性知能、大きなワーキングメモリがあればそれだけ有利になる。この情報処理のスペックの高さが知能の一つの指標というわけである。
 本書ではもっぱら認知的知能を中心に心を論じているので、道徳的感情の進化的意味について知りたい人にはやや不満が残るだろう。しかしそうした自己理知的メンタルモデルというものが、将来を計画し、社会関係の変化と臨機応変に対応するために発達したとすると、われわれが抱える不安や抑うつという現象はそのネガティブな側面であろうと指摘している。自己の未来像を将来に投影してシミュレートしようという欲望がかなうことは「善」であり、かなわぬことは「悪」となるだろう。精神疾患についてもそうした進化的に眺めると面白いだろう。またそうした点から道徳の自然的基盤を導出することが可能であろう。私たちは他の類人猿と異なりあまりに高度で複雑な演算回路を組み込んでしまったが故に、混乱しやすくなっているのだろう。「本能」が壊れた生物という比喩で語られることがよくあるが、むしろ本能をあまりにもバーチャル化してしまったと言うほうが正確かもしれない。著者も指摘しているように、脳の神経細胞ネットワークの遺伝子発現と神経活動をうまく抑制するシステムがはたらかないと過剰に「はりきる」ことになってしまうのかもしれない。そしてそれが躁病や双極性障害の原因であるのかもしれない。

 記述は全体を通して明快であり偏りがない。各章ごとに結論がつけられているので大部な書物ながら読みやすくなっている。用語索引の日本語には英語が付記されているのもいい。今年も残り少なくなったが大きな収穫があった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神と科学は共存できるか?

 『神と科学は共存できるか?』(スディーヴン・ジェイ・グールド著、狩野秀之、古谷圭一、新妻昭夫訳、日経BP社刊)を読む。
 グールドが師の3年前に上梓した本で、科学と宗教の関係という古くて新しい問題について論じた本である。この主題についてはグールドの仲間であり論敵でもあるドーキンスの『神は妄想である』がすぐ連想されるが、本書はドーキンスのそれが戦闘的なのと対照的に両者の分別ある共存を説いている。グールドはそれを

 敬意をもった非干渉-ふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉-という中心原理を、「NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権の原理」という言葉で要約できるはずである

と信じている。宗教が自然科学の分野に余計な干渉をすることは、グールドの母国であるアメリカでは創造主義者という原理主義がはびこっていることからしても大きな問題である。日本では公教育の場でこんな馬鹿げたことが起きていないことはまことに喜ばしい限りだ。しかし同時にグールドは科学が宗教というよりは道徳へ干渉することに対しても批判をする。

NOMAはまた、両刃の剣でもある。科学のマジステリウムの枠内に適切におさまった事実に関する結論の性質に対し、宗教がもはやなにも命じられないのであれば、科学者たちもまた、世界の経験主義的な本質についていかにすぐれた知識を持っていようと、道徳的な真実について、より高次の洞察を主張することはできない。たがいに対するこの情報は、かくも多様な感情が渦巻く世界にとって重要で実際的な帰結をもたらす-すなわち、われわれはこの原理を受けいれやすくなるし、その帰結を楽しみやすくなるだろう。

この点がドーキンスと大きく異なる点である。なぜグールドは物分りのよさそうな態度をしつつ科学に対して上品に踏みとどまるよう諭すのであろうか。道徳や宗教心といったこれもきわめて「経験的」なことについて科学がその自然的基盤を明らかにしようとすることは何ら越権的なことだと非難されるようなことではないと思う。グールドはそんなことが進むとまるで私たちの「よき心」が科学に食い尽くされてしまうのではないかと危惧しているような印象をうける。しかしながら科学によりある現象の基盤が解明されることと現象自体がまさにそう経験されることは違うことであろう。両者に超えがたい違いがあるとすればその点だろうが、それはグールドがいうような同一の経験論的土俵に立った棲み分けとはレベルが違うことだと思う(経験から超越した形而上学での議論であれば、宗教はいくらでも羽を広げて羽ばたくことが許されよう)。人間の美的感情の自然的基盤が完全に解明されたとしても私たちは素直に自然の美を愛でるであろう。冷酷な犯罪者が同情という感情を持たない理由の科学的原因が解明されれば、私たちは神に対してその犯罪者を呪わしめるよう祈るのではなく、もっと素直にその犯罪者に同情し、彼に課する量刑をもっと冷静に決めることができるのではないだろうか。そして不合理な感情を慰撫することもできるようになるのではないだろうか。それはそれぞれの人が違う神を違うように崇めるような状態よりは、より冷静に客観的に話し合う土俵を作ってくれると思う。
 狂信的な宗教を排除しさえすれば、あるいは盲目的な科学を生み出さずにおきさえすれば、互いに平和に両者が共存できると主張することはたしかに美しいことであるが、宗教は狂信を内包するものであり、科学は盲目的に邁進するものであり、どちらも人間が生み出す行為であると認め、少しでも客観的に討論していける土俵作りに努力していくのが正しい方向だろうと思う。そしてその能力はおそらくは宗教ではなく科学にあるのだと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

数学で考える

 『数学で考える』(小島寛之著、青土社刊)を読む。
 著者がいくつかの雑誌に掲載された文章をまとめて収録した本で、本の帯にあるように年金やヘッジファンド、村上春樹の小説などが題材になっている。
 「偽装現実の知覚テクノロジー」というエッセイでは、実数の連続性という数学で利用される数の性質が導出される中間値の定理の基礎づけがいかに重要かが語られ、経済学で使われる(らしい)ワルラスの一般均衡定理の論証に利用される不動点定理もその中間値の定理が必要であることを述べ、実数の連続性という性質をきちんと基礎づけることがいかに重要かを説明している。考えてみると数の連続性のイメージというのは証明されているという感覚よりも漠然とそう信じているという感覚に近い。厳密につきつめると普段の信憑に自信がもてなくなるということはよくあり、数学においてはだからこそ基礎づけがだいじというわけだ。

 「知っていることを知っている」のトポロジーでは、為替相場における投機戦略について相手の思考を読むということをどう数学的に定式化するかということがあつかわれている。お互いに共有している知識を集合を利用すると「知っていることを知っている」という高階の知識をより簡潔に表すことができるという点が非常に面白かった。

 村上春樹の小説が数学的だという著者のエッセイは「暗闇の幾何学」として書かれているが、作品の著述の一部を取り出して数学的なにおいがすると述べているにとどまり印象批評の域をでていないという感じである。数学的だから世界的に読まれているのだという「論証」はちょっと唐突な感じがしますね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

脳研究の最前線

 『脳研究の最前線』(理化学研究所脳科学総合研究センター編、講談社ブルーバックス)を読む。理化学研究所の脳科学総合研究センターが創立十周年を迎えるにあたって現在の研究の最前線をそれぞれの分野の第一人者たちが解説した本で上下二巻の構成である。
 前書きを書いている大御所の伊藤正男先生によると脳研究は大きく四つの柱があり、(1)感覚の入力から運動の出力までの経路の研究、(2)脳という器官の進化の研究、(3)脳神経回路網のモデル作製研究、(4)脳疾患研究であるという。本書は全部で12章あり、それぞれこのいずれかの分野の成果と展望を説明している。
 1400-1500gの中に約140億この神経細胞が複雑なネットワークをつくっているスーパーシステムであるから当然研究途上であり、「それを明らかにするのが難しいのは、多くの脳部位においてそれぞれの部位を構成している細胞の数があまり多く、それらの間の結合も複雑で、解析できるような規則性を見出すことが難しいから」である(第一章)。それでも感覚処理、運動処理の各システムの相互作用の解明が進められている。ここで脳の中である刺激を受け取ったところが出力の信号を出しそれを下位の部位に伝達するという信号伝達の「比喩」はまずいのではいかと疑義がもたれていることに注意したい。

問題の一つは「誰かが」という読み出しの主体を仮定してしまうところにあります。
 脳の中に小人がいて、その小人が脳の活動を見ている、あるいは読み出しているということとあまり相違がありません。だから、この考え方そのものに問題があります。

ではどういう仮説が妥当かというと明確な答えは現在ないところが隔靴掻痒の感がなきにしもあらずなのだが。
 続く第二、三、四章をみると脳は生存のために進化してきた精緻な「計算システム」であり、この計算は情動に色付けされているといえそうだ。欲望とは情動という色をもった計算なのだ。第十一章でも説明されているように対象を愛するという行為においても脳は”計算”しているようで、そこには合理的根拠がある。思うに脳が作り出したわれわれの社会は当初の予想を超えてあまりにも複雑化してしまったために脳はうまく計算できない場面に遭遇することが多々あるようになってしまったのではないだろうか。寿命が延びてしまったことにより癌や痴呆といった進化システムが想定していないような不具合に遭遇するようになったのと同様に、さまざまな社会病理は脳の想定を超えた(計算外の)問題なのかもしれない。それが精神疾患として反映しているのだろうか。第九章を読むとうつ病も統合失調症もなんらかの遺伝的基盤をもった脳の計算システムの病であるといえる。これらの疾病は分子レベルで解明されるだろうが、その表現形はそのときどきの社会や歴史を反映したものになるのもこのシステムが計算対象の”環境”に依存しているからだろう。精神分析のような作業仮説は精神疾患の解明という点からすると今やすっかり下火であるが、社会病理の説明という点ではある程度の効力をまだ持ち続けるだろう。

 脳の計算システムをシミュレートするとなると、これはとても困難な課題だろう(第十章)。生物システムを可能な限り模倣するモデルを構築しようとするアプローチは、当然のことながら「目標とする有機体の特性がよく知られていない場合に困難に直面する。脳科学の分野では多くの状況で実際にこの問題が起こっている」。これに対して現実の神経回路を模倣することではなく、「対象をある操作可能なレベルで抽象化したモデルのみを取り扱う」アプローチがあり、「対象である生物システムの種々の条件を仮定しながら可能性のあるモデルを列挙し、比較検討することによって一般化された原理やメカニズムに迫ろう」とする試みもある。工学的な細かいところはよくわからないが、全体を通してみるとデカルト的なモデルに代わるパラダイムが求められていることは間違いないようだ。

 

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

ヒトは食べられて進化した

 『ヒトは食べられて進化した』(ドナ・ハート、ロバート・W・サスマン著、伊藤伸子訳、化学同人刊)を読む。
 本書は人類の祖先をMan the Hunter(狩るヒト)ではなく、Man the Hunted(狩られるヒト)として捉えるほうが正しいと主張する。すなわち人類は他の動物たちの捕食の危険に曝されながら、それをうまく回避して子孫を残すように進化してきたのだというわけである。この説によれば、私たちの脳の進化も標的をうまくしとめるためではなく、うまく逃げおおせるために役に立ったというわけである。
 傍証として著者らは、ヒトを捕食する動物種がいかに多いかを説明する。トラやヒョウはむろんのこと、クマ、ハイエナ、ヘビ、ワニ、猛禽類などが猿やわれわれの祖先を餌にしている(いた)ことを説明している。これが本書の一つの中心である。この部分で紹介されている剣歯ネコという種は初期ヒトと共存しており、彼らはヒトを捕食していたという。その証拠として例えば、ノタルクトゥスという霊長類の頭蓋骨の化石にあいた穴は、ウルパウスという捕食者の歯にぴったりと符合することをあげる。大型ネコ科が大きな口を開けて、初期ヒト科の頭に齧り付いている様子が骨格を透視する形でイラストとなっており、説得力を感じさせる。ヒトが殺しあってあいた穴ではなく、捕食されていた証拠だというわけである。
 こうした並み居る敵たちに対して、我らが祖先は、どうしたであろうか。現在サバンナに生息するパタスモンキーは、相手の予測できない動きをとったり,小さな集団が広い範囲に分散したり,夜間出産する多くの霊長類に反して日中の出産するなどの戦略をとるという。ヒトの祖先は、身体の大型化、群れを作る社会性の形成、認知能力の向上、逆襲攻撃を対捕食者戦略としてとっていたと著者らは推察する。そして二足歩行や言語はヒトとなってから進化したものだろうと仮説を述べる。
 こうした特長が捕食者から逃れるのに役立ったのは確かだろうが、なぜヒトではここまで脳が進化し、言語が発達したのか、そしてそれは捕食という淘汰圧と必然的な関係があったのか、そのあたりはどうも説得力に欠けるように思う。
 ヒトをHunterとして理解する思考様式は、著者によるとキリスト教的原罪思想に関係しているという。しかし科学の仮説というのは、ある一定の思考パターンの延長や類推や逆転によって生まれる(ダーウィンの自然選択理論然り)から、その源がどこにあるかということで直ちにその科学的仮説を偏見だと断罪することは誤りだと思う。問題はそうした仮説が根拠なく社会へと適用されるところにある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

シャンパン 泡の科学

 『シャンパン 泡の科学』(ジェラール・リジェ=ベレール著、立花峰夫訳、白水社)を読む。著者は、ランス大学の醸造学研究所で学位を取得した同大学の助教授である。シャンパンの神秘的な泡について専門的立場から、その性質を平易に説明してくれる。シャンパンの泡は、注がれたグラスの内部の傷や凹凸から生まれるという説明(これはソムリエの人から聞いたのだが)を信じていたが、実はそうしたところで泡は生成していないということを本書で初めて知った。ガラスやクリスタルの傷や凹凸における湾曲面の臨界半径は気泡生成に必要な最低の長さよりもはるか短いというのだ。泡は、グラスの内面に付着している不純物から生成するのだという。だからいかなる不純物も付着していない完璧にきれいなフルートグラスにシャンパンを注いでも泡は全くたたないのだ。これは実際に実験され証明されているという。
 フルートグラスから立つ泡は、小さい方がエレガントで美しく、熟成されたシャンパンほどそうだといわれるが、これも物理学的に説明できる。
 泡は浮力によって上昇するにつれて過剰な二酸化炭素分子がどんどん泡に引き寄せられ、成長していく。上昇して泡が大きくなると浮力も大きななる。では宇宙空間ではシャンパンの泡はどうなるか。また太陽系では最も小さくてエレガントな泡ができるのはどの惑星なのか。ビールとシャンパンの泡の挙動が違うのはどうしてか。こうした興味深い疑問にもやさしく答えてくれる。
 目の前の一杯のシャンパンからこんなにエキサイティングな科学が語れるというのは実に楽しい。シャンパンを飲みながらであればもっと楽しいだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

迷惑な進化

 『迷惑な進化』(シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス著、矢野真千子訳、NHK出版刊)を読む。
 ヒトの疾患の病態や原因を進化という視点から研究する進化医学という新しい研究分野の一般向け解説書である。ふつう病気を考えるとき、私たちは自分に原因があると考える。高血圧になったのは塩分の取りすぎだろうし、糖尿病になったのは太りすぎのせいだと。しかしそもそもなぜヒトの体は余計な塩分を保持しやすいようにできているのか、どうしてカロリーが過剰で太ってしまうのか。このなぜという疑問に対して医者や生理学者は、内分泌や循環器のメカニズムから説明してくれる。それは腎臓のレニン・アンギオテンシン系であり、インスリンの脂肪細胞への作用であったりする。そこで納得してしまわずに、ではどうしてそういうシステムがあるのかを進化の視点から問う。すると一気に視点は過去に振り向けられる。乾燥したサバンナを食べるものも食べられずに移動していく私たちの祖先の姿である。そうした厳しい環境を生き抜くためには塩分をなるべく失わず、余剰なカロリーは直ちに脂肪にしてしまう個体が選択されるのだ。
 感染症にしても同様に、宿主と感染性病原体の関係は今まで演じてきた進化の競争の結果である。マラリヤやコレラなど致死的な感染症を私たちの祖先は生き抜いてきたが、その代償として一部の個体は不幸な疾患を背負わなければならなくなっている。ほぼ確定されているものから学説というレベルのものまであるので、注意は必要である。本書で紹介されているトキソプラズマ感染と統合失調症の関係などはこれからの解明を待たなければならないだろう。こうした結果は、私たちが決して進化の頂点にたつ生物ではないのだという進化的にみると当たり前のことを改めて印象づけてくれる。私たちは修理をしながら生存競争というレースをしている車の一台なのだ。。
 邦訳された類書としては『病気はなぜあるのか』(新曜社刊)や『病原体進化論』(新曜社刊)がある。本書はたいへん読みやすく書かれているし、原書が2007年の刊行なので新しい知見も盛り込まれている。また遺伝学だけでなくエピジェネティクス(後生遺伝学)の話題も盛り込まれている。これは今から解明されるべき非常に多くの問題を蔵している分野である。もし解明されると現在の医学を革命的に変える可能性がある。今私たちが何気なくしている生活習慣が子々孫々まで影響するかもしれないからである。

 こうした観点からどういう健康観、生命観を引き出すのか。私は過度に悲観的になる必要はないと考えている。むしろ気まぐれだけど滔々とした生命の大きな流れを感じるkとができると思うのだがどうだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人類最後のタブー

 『人類最後のタブー』(リー・M・シルヴァー著、楡井浩一訳、NHK出版刊)を読む。分子生物学がもたらす生命倫理問題を議論した著書である。定義されている問題は、現在のバイオテクノロジーのレベルから見て当然問題となる範囲のものであり、その点からみて扇情的ではない。しかし本書もドーキンスの宗教に対する攻撃同様、宗教的非科学的信念に対しては容赦するところがないので、”信心深い”人が読むとかなり挑発的に思えるだろう。実際本書はまず「霊魂」に対する科学者からの論駁から始まる。通常ならまず自分のテリトリーの客観性から解説を始めるのが定石だろうが、その点冒頭から挑戦的な印象を受ける。
 人間と動物の境界、受精卵の発生過程における人間の誕生の境界、人為と自然の境界というものが、現在の生物学からみれば、あいまいなものだということを著者は説得力のある議論で示す。

問題は、人間のES細胞を含む胚に由来するキメラマウスが、マウスの精子や卵子に加えて、完全に人間のものである精子や卵子を生み出せるという点。にある。そういう雑種のマウスの雄と雌が自然に高配すると、完全にマウスのものである胚に加えて、完全に人間のものである胚が生まれるだろう(中略)。もし妊娠したばかりの雌のマウスから、人間の胚を取り出して人間の至急に入れると、その胚は正常な子どもに成長できるだろうが、その遺伝学的良心は(人間と呼ぶことにするのでないかぎりは)マウスになる。マウスの両親それぞれに組み入れられているES細胞を生み出したヒトを両親と考えるべきだ、と思う人がいるかもしれない。しかし真に遺伝学的観点から考えると、その四人のヒト(ふたりの男女による受精卵が、メスのマウスに移植されて卵子となる。卵のふたりの男女による受精卵が、同様にオスのマウスに移植されて精子となるので、ES細胞の”親”は四人いることになる)は、両親ではなく祖父母だ。

そう、生物学的に議論するとそうなんですけどね、シルヴァー教授・・・。さらに教授はこれがマウスではなく大型の類人猿だったらと議論を進める。ここで嫌悪感を顕わにして、こんな技術は一切禁止だと情緒的に反応するのか、この現実に目を閉じずに議論していくのか。後者の態度が必要だと著者は述べる。ここであげてある例は確かにやや極端かもしれないが、事態が医学的治療と関係してくると事態は微妙である。
 著者は自らが行った思考実験を提示している。

ある敬虔なカトリックの夫婦が、最初の子どもが誕生したのを契機に、ふたりとも”嚢胞性線維症”を引き起こす遺伝子の突然変異を保持していることを悟る。ふたりめの子どもが欲しいが、突然変異とは無関係な医学的問題で妻の排卵が止まってしまった。かかりつけの医者に、排卵を開始して”自然な”妊娠を可能にするホルモン注射を頼む。医者はもし受胎すれば、胚は二十八パーセントの確立で先天性欠損症を持つと説明する。夫婦は危険性を理解しているが、それでも妊娠したいと思っている。さらに、どんな状況になっても中絶は考えないと医者に知らせる。子どもが重大な先天性欠損症を持って生まれてくる危険性が二十八パーセント存在する医療行為を医者が提供するのは倫理にかなっているのか、そして合法でありうるのか?

この質問に対してはたいてい生殖の自由という観点から夫婦の意志は阻止できず尊重すべきと答えられる。しかし、ここで次の質問が問われる。

遺伝子工学を利用して、正常な子どもが一生あらゆる形態の癌にもいっさいかからないようにする医療計画が練り上げられた。残念ながら、この計画には先天性欠損症を生じる危険性が二十パーセント伴う。この計画は許されるべきか?もし危険性が、現在のART措置と関連づけられる危険性と同じ八パーセントにまで低下したら、結論は違ってくるだろうか?

 こちらの質問がもし先に問われたなら、たいてい危険性の高さから反対されるだろう。前者はいわゆる”自然”に生じるリスクであり、後者は”不自然(人為的)”に生じるリスクであるとみなされているが、ここを著者は問題にする。両親の意志を尊重する立場からすれば、そこに自然も不自然もないだろう。合理的な考えの中にも私たちは何かしら情緒的な偏見を忍び込ませているのだと著者は指摘する。確かにそうだが、そういう情緒的反応も人間が進化によって獲得した客観的性質という面は否めないと思うのだが。まあそれも考慮に入れた上で敢えて徹底的に合理的に、功利的に議論を進めるのかということだろう。現在の科学の進歩はあまりにも早いので、どうしても長い時間をかけて獲得されたヒトの情緒的認知がそれに適応できないのである。これからの進歩も考慮すれば、私は功利的な観点というのは絶対必要であると思う。

 こうした倫理的議論とはまた別に、著者は現在のアメリカのようにカトリック原理主義が尖鋭になっていると、規制を逃れて科学者の頭脳がアジア(ここでは多神教であり、そうした倫理的葛藤が少ない)に流出してしまうのではないかと政治的な懸念も抱いている。著者のこうしたオリエンタリズム的視点は当然問題なのだが、確かに客観的にみて日本は一神教的風土は薄いから著者やドーキンスがあれほど躍起になるような”科学の敵”はいない。宗教的問題が解決されないとバイオテクノロジーの中心は将来アジアになり、特許など国家間の摩擦問題を産むかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ