烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

眼差しの欲望

2006-04-16 23:55:00 | 随想

表象する欲求としての衝動のうちには、いわば予め視線が注がれている一つの<点>が、つまり衝動がそれにもとづいて一つにする働きを行う統一性そのものが含まれている。この着眼点、もしくは視点は、衝動の構成部分なのである。
(『哲学と反哲学』木田元著、岩波現代文庫より)

 ある対象を見つめるときに、意識しているにせよしていないにせよ、対象の側から<私>を見つめる点(視点)が存在している。そしてそれがないとこちらから見ている対象を含んだ構図の統一が崩れてしまうような、そういう視点が<私>が見る風景には予め織り込まれている。
 このハイデガーの指摘の重要性は、単に視線という知覚の潜在的構造について言及したことよりも、さらに深く「表象する欲求としての衝動」が作用していることが根本にあることを明らかにしていることだ。
 私の眼差しを支えている風景の中の「しみ」としての視点は、欲望の視点である。そして私はこの視点に同一化することは決してできない。
 私が対象を見つめる(対象に視線を向ける)。それはいい。ではその中に潜む欲望は誰の欲望なのか。ラカンであれば、大文字の他者の欲望と答える。ものを見つめるときに、常にそして既に私は他者の欲望に従っている。
 見て楽しむとき私が楽しいだけではない。私の中の他者も楽しんでいる。