満州事変から日中事変へ

 『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子著、岩波新書)を読む。
 戦争への道を突き進んでいく日本の状況を戦略、外交、経済などの面から分析されている。興味をひいたのは、盧溝橋事件のところだった。支那駐屯群歩兵第一連隊が夜間演習を行っているとき、二等兵の行方不明事件に単を発した偶発的衝突が上海の日本租界での市街戦に発展し、戦争となる。対ソ戦しか念頭になかった日本陸軍はソ連の動向が気になっていたから、現役兵率の高い精鋭部隊を上海・南京戦に投入しなかったのだという。これは同時代の専門家も疑問だったようで、元陸相の荒木貞夫は、日記に

動員令下る。出動は未だなり。今回の召集は、後備の未年者と第一乙未教育[補充]兵を招集したるは何によれるか

と書いていることが紹介されている。
 現役兵というのは、軍の中核を担うことを期待された者で満二十歳から二年間(海軍では三年)勤めた。その期間が終わると予備役となり、その期間は五年四ヶ月(海軍は五年)。予備役が終わった者は後備役で、十年(海軍は五年)戦時の召集に応ずる義務があったという。この年齢の違いが軍紀に影響を与えたようだ。上の「第一乙未教育補充兵」というのは、第一乙種合格で、一期三ヶ月の教育召集を経験しない兵を指す。上海・南京戦に従軍した兵士は軍隊としての質が悪かったということだ。陸軍の調査によると、中国戦線における役種区分は、現役兵率16.9%、予備兵28.3%、後備兵41.5%、補充兵13.5%という割合であった(四捨五入のため合計は100にならない)。第十軍軍法会議の記録による被告の役種をみると、既決犯では後備兵が57.8%、予備役22.5%、補充兵役14.7%、現役3.9%と圧倒的に後備兵が多い。すなわち後備兵率が高い軍隊は規律がゆるく犯罪率が高い”あぶない”軍なのだ。
 速戦即決で中国との戦争に勝利するという見込みがはずれ、戦況が長期化すると帰還兵の不穏な話(「先頭間一番嬉しいものは掠奪で上官も第一線では見ても知らぬ振をするから思う存分掠奪するものもあった」、「戦地では強姦位何とも思わぬ」)が漏れ伝わるようになり、軍も言動取締りを行ったようだ。
 見込み違いながら国民には正当性を主張せざるを得ないから近衛内閣は「東亜新秩序」声明を出し、政府よりの知識人の言説がこれを支持する。まさにこういうのを泥沼化というのだろう。
 戦争はよくないと単純にいわれるが、十五年戦争は宣戦布告もなく始まった「戦争」であり、収拾がつかないまま拡大していった。当然政府の責任は問われるのだが、調停のタイミングを逃してしまうと悲惨な結果になるという点で、外交能力の質が決定的に重要である。そこでは「戦争はいけない」などという大所高所からの原則論を唱える人よりも狐のような鋭い損得勘定に対する嗅覚をもった外交判断を下せる人物のほうがはるかに必要のように思う。残念ながら当時の日本にはそういう人材がいなかったということだろう。

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水戸学と明治維新

 『水戸学と明治維新』(吉田敏純著、吉川弘文館)を読む。尊王攘夷の国体論の根幹とされる水戸学についての一般向けの解説書である。会沢正志斎と藤田東湖と二人まとめて述べられることが多いが、本書では二人の違いについても解説してある。私にとっては知らないことばかりで、多少難しく感じるのだが、正志斎の『新論』のポイントは、国体の用語が初めて天皇制における意味で語られたことであるが、皇祖神が忠孝の教えによって建国して以来、天皇を中心とする国体を維持してきたということ以上の厳密さはなく、曖昧さももっていたということである。そしてこの当時の時代背景から、欧米列強に対するかなりの危機感をもって書かれたらしい。正志斎は彼なりに世界情勢を学んでいたらしいが、著者によるとロシアの実力を過大評価していたこと、欧米列強の進出を宗教的世界統一戦争の一環としてとらえていたことの二つの誤認があるという。そうした外圧から自国を防衛するために、儒教的道徳が強調され(儒者だから当然だが)、侵すべからざる「国体」を強調する必要があったのだろう。
 正志斎は、儒教的立場から神を説いており、そのはじめは天祖、天照大神である。「記紀に記された天照より以前の神々、天神に言及することはない。天に究極的な価値を認める正志斎にとって、宇宙生成論にそのほかの原理は不要だったからである」という。また天皇の営む神道行事により民衆を臣として教化していくというもので、「由らしむべし、知らしむべからず」というものだったという。
 これに対して藤田東湖は、本居宣長の国学の影響を受けており、道は天神の創造したものととらえたという。『古事記』にのみ出てくる別天神を造化三神ととらえる『古事記伝』の説にしたがったものという。このあたりの神の概念の儒教的と国学的区別はよく分からないことが多い。東湖は国学的な要素もありながら、朱子学的道徳も重視していた。国学に対しては政治学的な主体を重視する立場から批判もしている。

本居にとって道とは、皇祖神によって作られた天皇の天下を治めるためのものである。本居にとって神は絶大であった。東湖も批判したように、善事は直毘神の悪事は禍津日神の所為と、人間の道徳的責任を抹殺するほどであった。本居学においては、人間は主体性をもてないのである。それゆえ人間は政治的には、「すべて下たる者、よくてもあしくても、その時々の上の掟のままに、従ひ行ふぞ、即古の道の意には有ける」(「宇比山踏」)と、ただ支配に従順に服従するだけである。本居は被治者の側の思想家として、幕藩体制を肯定していたのである。
 これに対して東湖は、修己治人の道徳を一人ひとりがもつように説いた。各人の道徳的修養は政治に昇化しなければならないと説いたのである。

  また正志斎が民衆というのを基本的に下のレベルの存在としてみていたのに対して、東湖は、「国体の尊厳」を「風俗に帰し」たと儒教側から批判されるくらい、天照の国では古来から道はおのずと行われてきたとして、民衆を教導するまでもないとした。著者は東湖が民衆を基本的に信頼していたのだと述べている。

 いわゆる「水戸学」の思想が後世にそう捉えられる思想として形成されるまでは、以上のようなさまざまな要素が作用して形成されていったということになる。よく分からない部分もあるのだが、水戸学において国学が与えた影響というのは大きい。倫理的に見ると、主意主義的なところがありながら、批判的精神にかけるという性格があり、これは後の歴史に暗い影を落とすようになった一因かと思われた。

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輸入学問の功罪

『輸入学問の功罪』(鈴木直著、ちくま新書)を読む。副題に「この翻訳わかりますか?」とあるので、西洋の学問を導入する際の翻訳の問題を取り扱った本だろうと思って手にした。最初に取り上げられるのは、マルクスの『資本論』である。著者は、この著作が、「経済学、社会学、歴史学、政治学、思想史、哲学等々の専門家がそれぞれの分野で一度は読むべき古典とみなし、著名な作家や文芸批評家が影響を受け、同時にまたアカデミズムの外部で、しかもその批判者として活動する市民や学生や労働者が広範に受容した書物となると『資本論』以外にはほとんど思い当たらない」ということで取り上げている。主に対比されるのが、高畠素之訳(改造社刊)と、河上肇・宮川実訳(岩波刊)である。前者は訳文がこなれており、後者は生硬な訳なのであるが、訳文のみをあれこれ論うだけであれば、他に数多ある翻訳論の本と変わりはないのだが、本書では、高畠訳の後に出版されたにもかかわらず訳文としては見劣りせざるをえない河上訳のほうが普及してしまったのかという問題に、日本のアカデミズムの構造的問題、というより精神病理的問題が奥にあることを指摘する。この問題は著者も指摘しているが、「意外に奥が深」く、この点を掘り下げたところが類書と一線を画している。

 文体の中にこめられた禁欲、パラノイア的な固執、類型化への衝動、辞書の訳語へのフェティシズム的信仰。そこには著者や訳者の学問的誠意を越えて、この国のエリート養成制度にしみこんだ抑圧が、そして近代化の歪みが反映している。そこにはまた、日本の近代化モデルとなったドイツという国、ドイツ語という言語、そこで醸成された教養主義という理念が、直接間接に影を落としている。

 明治の近代化のうねりの中に、著者は「内からの近代化」(徳川時代の知識層によって進んだ内発的過程)、「外からの近代化」(西洋からの翻訳を介しての思想の受容過程)、「上からの近代化」(政府主導の官僚制に基づく近代化仮定)、「下からの近代化」(身分制度からの解放を求める民衆による社会改革過程)の四つの運動をみる。著者の診断によると、「外からの近代化」は「上からの近代化」へ取り込まれてしまった結果、翻訳文化の内的成熟、対話的成長の契機が失われた。この「上からの近代化」はあまりにも目覚しく、また成果が上がったため、「内からの近代化」、「下からの近代化」が過小評価されることとなったという。
 著者はわが国独特の翻訳文化の受容風土として、

(1)第一は、「外からの近代化」の媒体であった翻訳文化と、その基盤となる外国語教育が、国家エリート選抜のための高等教育に囲い込まれることによって、経済社会や一般庶民の自己学習過程から切り離されていったことだ。(以下略)
(2)第二は、支配層の市民社会からの遊離に呼応して、本来「内なる近代化」の担い手たちであった経済主体たちの非政治化が進んだことだ。(以下略)
(3)第三は、明治維新によって一瞬の希望を与えられた「下からの近代化」が抑圧され、その失望と怨恨がマグマのように民衆の意識下に蓄えられたことだ。(以下略)

という三点を特に指摘している。
 「上からの近代化」は市場での淘汰を受けず、現実から隔離されてしまったため、冒頭のような奇妙な翻訳が堂々と生き残ることになる。これは生物に限らず、市場でも淘汰圧がないと生きた化石になるといういい見本であろう。通常はそういう代物は淘汰されて消えるのであるが、アカデミズムの翻訳というのは一定の受容があるため、悪文の訳でも生き残ることになる。
 後半ではその代表として、カントとヘーゲルが取り上げられる。昔から何度挑戦しても挫折を味あわされた哲学の両巨頭である。このあたりの各翻訳の比較対照は面白かった。逐語訳のセンスのなさを批判して、返す刀でわかりやすさを重視したあまり原文の意図が見えなくなってしまうことについても批判している。ここでも著者は、訳文のあら捜しにとどまらず、さらに深い病巣にメスを入れている。

 ・・・あの常軌を逸する逐語訳への偏執をもう一度思い出してみよう。そこにはなにか共通性がないだろうか。言語表現の複雑性や多様性に対する近代エリートたちの不安のようなものが感じられないだろうか。表現の快楽を抑制する倫理的リゴリズム、具体的内容よりも抽象的操作を、意味よりシンタックスを、文脈よりも文法を重視する翻訳態度。原著への跪拝と読者への無関心。そこに欠落しているのは、訳者が同時に読者の目で訳文をたえず修正していく重層的で対話的な態度だ。
 立ち止まって考えてみれば、あの翻訳文体は、市場が生み出す消費文化から、あるいは世界共同体に組み込まれた国際関係の現実から目を背け、空疎なレトリックで自我の煩悶を表明してきた若きエリートたちの孤独感と傷ついた社会化過程の表現だったのではないだろうか。

 西洋からの輸入思想による近代化を翻訳の文体から分析するという試みはたいへん面白いが、その問題の深さと射程の広さに比較すると、例文としてあげている翻訳の種類が限られておりやや物足りない印象は否めない。本書は翻訳による近代化「序説」として、さらなる発展を待ちたい。

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未知なるものへの生成

 『未知なるものへの生成』(守永直幹著、春秋社刊)を読む。ベルクソンの特異な哲学を今という時代に読み解き、現代的解釈を求めることを目的として書かれたなかなか重厚な著作である。ベルクソンは存在を持続として捉え、認識においては直観を、そして判断においては共鳴の重要性を説く。以前ベルクソンを読んだときには、この直観というのがどうもとらえどころがない感じがして(これには日本語で”直観”ということばの使い方にひきずられていたのが一因かと思う)、まるで禅僧から教えを説かれているようで敬遠していた。ドゥルーズによれば、ベルクソンの直観というのは「きわめて慎重に練り上げられた方法的な概念」であったようで、「ベルクソン的直観は(1)ニセの問題を批判しつつ真の問いを立て、(2)事象を差異化し、(3)持続を介して時間化にかかわる」。著者はこれほどきっちり定式化せずとも、ゆるさをもった直観こそが重要だと説く。精神と身体の相互浸透ということがここでも出てくるのだが、このあたりは対象の認識において、ボトムアップ的な認識とボトムダウン的な認識があるという認知科学の概念と一緒に考えるとどこか相通じるところがあるようで興味深いと感じた。人間の脳がどのようにものを認識するかということについて、ベルクソンの哲学は大きなヒントを与えてくれるような気がする。知性による分析一辺倒の認識では限界は明らかなのだ。そしてカント的悟性の枠組みをも”ゆるめ”、鋳型を解体し、生成変化させる直観こそが、創造にとって重要なのである。人間の創造性ということを考察していく上で、ベルクソンはまさにこれからの哲学の方向性を示唆しているかもしれない。
 とはいうもののやはりベルクソン哲学は難解なところがある。彼の哲学をまさに”持続”の哲学として、”舞踊”にたとえるならば、踊りを習うにあたって、師匠はとにかく踊ることから始めよと指示するのだ。師匠の踊りを横から眺めて動きを分析してから踊るのではなく、とにかく自ら踊りの”流れ”に身を任せ、そこから師匠の踊りに近づけていくことが課せられる。身体と精神の相互浸透を説く彼の哲学にはどこかスピノザ的なところもあるのだが、スピノザの踊りはすでに完成された踊りで永遠の相のもとで踊られる。ベルクソンの踊りは今踊られ生成しつつある。
 踊ればそのうちわかるというやり方は、科学的な方法論を信奉する人にとってはどこか神秘主義的な臭いがする。確かにここでは視点の変更が要請される。しかし一旦彼の思考の波にのると実に深い洞察だと気づかされる。

 I-2の多様性を論じた部分は、リーマン多様体論などが出てくるのだが、その数学的意味と哲学との関連性がよくわからなかった。比喩的に述べているのであろうが、このあたりはポストモダン的な韜晦趣味になっている印象だった。これに対してII部は、大変刺激的でアリストテレスの場所論を論じたところやハイデガーと対比した芸術論のところを興味深く読んだ。
 

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国家神道

 『国家神道』(村上重良著、岩波新書)を読む。近代天皇制がつくり出した国家神道という宗教がどのように成立したかを原始神道から辿りその来歴を説明した本である。民族宗教(ネーションとしての民族ではなく、エトノスとしての民族)は、特定の創始者をもつ創唱宗教とは異なり、自然成立的性格をもっている。体系性は乏しく儀礼中心の原始宗教であるが、これを基盤にしてキリスト教や仏教などの創唱宗教が成立している。 日本にもそうした創唱宗教が渡来しているが、それに包摂されることなく神道は生き残っている。通常は創唱宗教の進出、定着によって多くの民族宗教は独自性を失い、それぞれの地域で宗教の単一化が実現するということだが、その点日本は例外的な地域であるという。これは一つには日本が地理的に孤立しており古代社会ですでに単一化した社会が成立しており、宗教が社会の統合のために積極的役割を持たなかったことがあると著者は指摘している。仏教をはじめとして、儒教、道教、キリスト教などが渡来しながら、さまざまな習合をしつつも民族宗教としての神道が維持されてきたのは確かに不思議な感じはする。また国家神道が成立するまでは海外へと伝播するような展開もみせずに孤立して、日本民族にしか通用しなかったというのも単に地理的な孤立性だけからは説明しがたいような気がする。
 創唱宗教のような強固な精神性、拡張性をもたなかったことで、その宗教的儀礼の形式的な外面性のみが残った。この外面的な儀礼性というものは、まさにその儀礼のかたちから宗教としての性格をもつが、精神性に乏しい故の形式性から宗教性が薄いともいえる。神社に参拝することが、宗教心でそうしているのか、単に儀礼的にそうしているのかが区別が非常につきづらいのだ。神道のこういう割り切れなさがたとえば政治家の靖国参拝をどう解釈するのかややこしくしている一因といえるだろう。ほとんどの日本人は神社に参拝したことがあるだろうが、それが宗教心からそうしたかと問われて自信を持ってそうだといえる日本人はどれくらいいるのだろう。 
 国家神道は天皇を中心に配置して、帝国日本を統合する権力として作用したのも事実である。この中心にいた天皇というのは神として崇められていたわけであるが、国民(臣民)のこの信仰心というのは一体何だったのだろうか。

 本書は岩波新書の青版で最近復刊されたものらしい。最近の軽い新書とは違ってきっちりと書き込まれた重みのある新書だった。新書という同じ体裁でもずいぶん変わるものだ。

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軍事学入門

 『軍事学入門』(別宮暖朗著、ちくま文庫)を読む。
 十九世紀以降の先史について具体例を挙げながら、軍事・外交について素人にもわかるように解説した本である。戦争を始めるにあたってどのような計画がなされるのか、勝算をどう見極めるのか、戦後処理はどのようにするのかなどなど論じられることは具体的である。平和論者からみればいわゆるタカ派の議論なのであるが、現実論者の著者からすれば、「非武装中立」などというお題目を唱える平和論者こそ、客観的に世界を分析しなさいよということになる。考えてみれば、学校の授業ではまず軍事学のことは教わらない。だからおそらくほとんどの日本人は軍隊が実際にどのような構成で、どう動くのかということには詳しくないはずである。歴史で習うのは政治史が中心で、戦争はあくまでそれに付随する事件であるから、実際の戦争のケース分析などはない。たんなる観念として戦争は避けるべきだと教われば、戦争絶対反対という抽象的なことしか考えられなくなる。戦争は悲惨であることは間違いない。避けるべきであることも間違いない。しかし戦争勃発の原因や軍備、戦争の遂行について知らなければ、戦争回避についての備えの知識は実らない。
 著者としては、軍事全般についてもっと現実的なことをより多くの人に知ってほしいということだろう。そして何よりも戦争を未然に回避するためには先制攻撃をいかに回避するかということが何よりも重要であること、そのために他国の軍事バランスを考慮して現実的な外交戦略を行っていくことが国家の生き残りのためには必要であることがメッセージとして感じられる。
 トルストイの言葉をもじっていえば、平和な国家というものはどれも似たようなものであるが、戦争を行っている国家はどれもそれぞれの事情があるものなのだ。平和について論じるためには平和以上に戦争について知った上で議論する必要があるとこの本を読んで感じた。
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共産主義が見た夢

 『共産主義が見た夢』(リチャード・パイプス著、飯嶋貴子訳、ランダムハウス講談社刊)を読む。
 マルクスが唱えた歴史哲学に基づく”マルクス主義”が実際の歴史の中でどのような末路を辿ったかを簡潔にまとめた本である。資本主義は内部に矛盾を抱えており、崩壊する運命にあると診断したマルクスだったが、資本主義はその矛盾を駆動力として拡張発展し、現在に至っている。これに対して共産主義はその硬直性のために崩壊している。著者は、マルクス主義の誤りとして

マルクス主義は私有財産を廃止しようと懸命に試みるが、私有財産は移行的な歴史的現象、すなわち原始共産制と発展した共産主義との合間に生じたものにすぎないというマルクス主義の基本的論点は、明らかに誤りである。(中略)
 人類には本来、無限の適応力があり、したがって強制と教育を組み合わせれば、物欲のない人間、プラトンが思い描いた「私的なものや個人的なものを生活の中からすべて取り除」いたような、社会全体に溶け込もうとする人間をつくり出すことができるというマルクス主義の概念もまた、同じく誤りである。

と指摘する。

 結局共産主義は、人間の欲望というものに対する理解がなかったといえる。所有欲という生得的な性質を環境によって変更することができるとして強制的に私有財産を放棄させたことで、社会は活力のないものとなり、そこでは”悪夢”しか見ることができなかったというわけである。著者の書き方では、マルクスの主張がそもそも間違っているから、現実に理論を適応したら悲惨な結果しか生まれないということになる。理論が誤っていたのか、その適応を誤ったのかそのあたりが気になるところであるが・・・。結果を重視する立場からすれば、理論はその適応も含んでいるはずであるからいずれであろうと使い物にならないということであろう。一方マルクスを擁護する立場からすれば、マルクスが本来主張していないことを”マルクス主義”は行っているということだろうか。しかしこれも不都合なところが起きると本当はそうではなかったという言い訳に聞こえるところもある。工学的な発想からすれば現実に適応できない理論ならば、その適応以前に理論自体を棄却すべきであろう。この詳細は私にはわからないが、少なくとも払った代償はあまりにも大きすぎたことは間違いない。

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未完のレーニン-2

 『未完のレーニン』の第三部は『国家と革命』についての分析である。支配階級(資本家)(C1)と被支配階級(プロレタリアート)(C2)との和解不可能な階級対立から国家が発生するという図式から両者ならびに国家間に作用する力のヴェクトルが図式的に説明される。本来C1とC2間の対立・抗争が実際上には表面化することなく、抑圧されていること、そしてC1からC2への権力支配の力は、国家という装置によって代替され、国家権力が公的暴力を行使することによって、C2を支配する構図になっているのが近代資本主義国家の特徴となっていることが説明される。そして何よりもC1のC2に対する支配は人格的な人間関係に基く支配ではなく、それが労働力の売買という物の関係による支配になっており、物である資本はC1の欲望とは無関係に増殖していくということがポイントである。国家という装置も法秩序を張り巡らせるということで成員(C1とC2)に普遍的に妥当するものとして現れるため、ここでも支配関係は、脱人格化されている。国家が揮う権力はC1から備給されるが、それはC2を搾取することによって成り立っているからおのずと限界がある。こうした特殊な「力」学によってこの構図は成り立っていることになる。C2がブルジョア国家を打倒する革命における「力」は、この力関係を反転させることによって達成されるわけだが、この力の源泉は何か別の力ではなく、C2から由来する国家の「特殊な力」を国家を暴力的に解体することで「普遍的な力」にするという質の転換を図れば済むことだというわけである。その力とはどこか他の場所からやってきたり、遠い未来からやってくるものではない。今ここにある力であるという意味でリアルなものである。
 自らを抑圧していると思っている対象の中に自己を見出し、同一化するというわけだが、その際にある暴力的な切断がほどこされざるを得ない。末尾のところで著者は木村敏の『時間と自己』を引用しつつ、レーニンの革命の祝祭性と狂気について触れているが、幻想を突き抜けてリアルなものと一体化するとき人は狂気に陥らざるを得ないのである。
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未完のレーニン

 『未完のレーニン』(白井聡著、講談社選書メチエ)を読む。
 なぜ今レーニンか?という思いでこの本を手にした。冒頭では偶像としてのレーニンが廃棄された現在、亡霊としてのレーニンではなく「リアル」なレーニンを召喚することで、純粋資本主義の姿をリアルに映し出すことの必要性が述べられる。
 本書ではレーニンの著作で両極端の評価を受ける『何をなすべきか?』と『国家と革命』をとりあげ、読み込んでいく。前者は否定的な評価を受けているが、革命というものが世界の「外部」からもたらさなければならないことを述べた極めてラディカルな言説であること、後者は肯定的に評価されるが、ユートピア主義の書ではなく、むしろユートピア主義の無力さを批判した書物であることを指摘する。
 読んで面白かったのは、『何をなすべきか?』を分析した第二部だ。ここではフロイトの言説を参照しながら革命の外部性について述べている。マルクスの言説と精神分析との類似点にはラカンも指摘しているが、著者は革命という事件を精神分析的に解析している。「階級圧意識の外部注入論」のポイントは、社会主義理論の労働者階級に対する絶対的な「外部性」ということである。この「外部性」がフロイトのいう無意識と対比させられる。真の社会主義的イデオロギーは、プロレタリア階級の内発的意識においては「抑圧」されている。この抑圧によりさまざまな症候が現れるのであるが、この原因となっているのが、「労働力の商品化」というトラウマである。マルクスこそ症候の発見者である(ラカン)というわけである。労働力という特殊な商品があたかも公正な等価交換という形をとりながら交換(搾取)され、剰余価値を生み出し、資本家に資本が蓄積していく。マルクスは搾取のない社会すなわち症候のない普遍的社会が可能だと主張したわけで、レーニンはそれを「外部」からもたらす(革命)ことにより現実化しようと試みたことになる。階級意識が注入されないと労働者は、この現実に気づかず自然状態に拝跪しているわけで、これは「モーセと一神教」でフロイトが述べているような偶像崇拝の状態である。フロイトのいう”エジプト人”モーセという外部の他者は、偶像崇拝から一神教をもたらす。資本主義内部での偶像崇拝は、貨幣という偶像に跪くことで、私たちは貨幣という物神により普遍的価値が実現されているように振舞っていることになる。神経症の患者がその症候を訴えながらも症候がなくなることを拒むように、私たちは貨幣という症候を楽しんでいるということだろう。レーニンは、この忘却され無意識に抑圧されたトラウマを革命により治療することを目指すわけであるが、これは世界の内部における回復というものではなく、世界の外部への超出を目指すことによってなされる。
 

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ナショナリズム論の名著50

 『ナショナリズム論の名著50』(大澤真幸編、平凡社刊)を読む。最近近代天皇制のことについての本などを読むことが多く、ナショナリズムについて自分の理解が足りないことを知り、ブックガイドとして適当な本がないか探していたところ、本書に出会った。編者のまえがきには「ナショナリズム論の重要著作を紹介し、批判することを目的としている」とある。編者の大澤氏自身も、古典的な名著であるE.ゲルナーの『ネーションとナショナリズム』とA.D.スミスの『ネーションのエスニックな起源』の二著について解説している。どれも必読書といったものだろうが、読んだことがあるものは数少ない。
 本書は限られたスペースに要領よく各書の要点がまとめられているので、これからその本を読もうとするものにとっては大変ありがたい。また本書を読むことで、ナショナリズムをどうとらえるかという各研究者の視点も分かり、見通しがよい。それと同時にナショナリズムという代物がいかにやっかいで扱いにくいものなのかも分かった。
 一般に研究対象とういものは、ある共通の定義可能な概念のもとに研究され、議論されるというのが通例だろうが、どうやらナショナリズムというものはそうではないらしい。本書を読むと、ナショナリズムの定義としてゲルナーが述べている「政治的な単位と民族的(文化的)単位とが一致すべきだとする一つの政治的原理」だというのが最小公約数的概念として妥当なものであるということがわかる。政治的単位というのは、個人の自由と平等という前提に立脚したものであり、民族的単位というのは、集団で共通する歴史的本質という前提に立脚したものである。このシヴィックなものとエスニックなものの統合をめざした歴史的運動がナショナリズムだというわけである。前者は、自由と平等という普遍に向かう包摂的なものでありつつ、実は特定の政治信条を受け容れる限りにおいて自由と平等が認められるという排除のヴェクトルも内在している。後者は文化の違いを強調する排除的な性質をもちつつも宗教という名のもとに文化の違いを超える包摂的なヴェクトルも有している。
 二つの相反する性質を内在する二つの単位が、その時々に遭遇する文化的他者や経済産業の変動という要因に反応して変化する相貌をみせるというプロメテウス的存在なのだということがわかる。
 通読して非常にお買い得なブックガイドだと思った。しかしこの本のおかげでさらにまた手に入れたくなる本が増えてしまいそうになるのはちょっと困った。
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