烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

美しさという判断

2006-04-03 22:44:28 | 随想
 美的判断は、悟性による認識ではなく、美しいと判断する主観の感情であり、客観の概念ではないことをカントは、『判断力批判』で説いた。美はその形式により美しい。
 自然に存在する花鳥風月を私たちはだれに教わるわけでもなく美しいと感じることができる。花はそれが生殖器官として機能的に洗練された形態をとっているかどうかに関わらず、それ自体として美しい、と私は感じる。生物学的な目的とは無関係な根源的な美しさというものがある。これは生物学を教わってから感得する花の形態の美しさとは異なる。まったく主観的な判断であるにもかかわらず、この美しさは広く共有できることは実に不思議なことだ。

 カントはこれをア・プリオリな判断であるといったが、これは人間の神経細胞のネットワークの普遍的な布置を反映したものではないのか。言語は異なっても自然と言葉をしゃべるようになるのと同様に、表出の仕方に差はあっても自然と美しさを感じ取れるようになるということには、何らかの客観的な基礎があるはずだ。
 しかしもしそうした生物学的基礎があるとしたら、それはどのような仕組みで進化してきたのか。普遍的な美しさというものを感じ取れる能力をもつ個体は、それをもたない個体よりもより繁殖できたというのだろうか。個別的な美しさの判断能力であれば、あるいはそうかもしれない。それをすばやく判断できる個体のほうが、できない個体よりもより多くの子孫を残せたという可能性を想像することはできる。しかし美しさ一般というものも同様な形で進化的に獲得できるのだろうか。ありうることの一つは、個別性を超えた普遍性により判断がより柔軟になるという利点があるということではないだろうか。ある神経ネットワークの布置が普遍性をもたらすと同時に、そのネットワークの可塑性が普遍性を保証するのである。

 互いに異なった個体どうしが美しさという普遍を共有できること、互いのコミュニケーションを支えるものもこの可塑性を保証された普遍であるに違いない。地理的に隔離されていても、あるいはどれだけ時間的に隔離されていても美しさを理解できるというこの驚くべき能力には、神経組織の可塑性が関係しているはずだが、実に精妙なる技といわざるをえない。