系統樹思考の世界

 『系統樹思考の世界』(三中信宏著、講談社現代新書)を読む。基本は生物を分類する方法論の話であるが、およそ世界の中にあるありとあらゆるものを「分類する」営みについて書こうという新書としてはだいぶ欲張りな野心的な本である。繰り返しのない進化という現象を分類という営みでどのように再現するのかということは、当然歴史をどう記述するのかという方法論を避けては語れない。著者がパースやギンスブルグを引用しているのも当然だろう。



理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する-アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。
 第三の推論様式としてのアブダクションは、さまざまな学問分野において、”単純性(「オッカムの剃刀」)”とか”尤度”あるいは”モデル選択”というキーワードのもとに、これまでばらばらに論じられてきました。しかし、将来的には統一されていくだろうと私は推測しています。


と控えめに書かれてあるが、そこからは著者のこれからの展望についての旺盛な意欲が伺える。
 方法論としての説明は第3章にあるが、ほんの入り口を紹介したという感じであった。ひょっとするとあまりに大部になりすぎて、この本には今回入れられなかったのではないだろうか。これからするとこの本は「序章」というべきものだろう。おそらく将来「本論」がハードカバーで出版されるのだろう(期待しています)。
 読み通してみると、系統樹にまつわる方法論よりも著者の研究生活の「歴史」がところどころに語られていて、そちらの方がずっと面白かった(特にプロローグとあとがき)。というと何だか本論を軽く見ているようで著者に失礼だろうか。いや人間は生まれてから何かに興味をいだき、成長してそれぞれどこかの枝に迷い込みながら歴史を作っていくのだ。私たちは人生で何かを分類しそこにやりがいを見出し、自分も歴史という大きな樹木の中に分類されているのだということが分かり、愉快な本だった。

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確率的発想法2

 『確率的発想法』は、教えられ、考えさせられるところの多々あった有益な本だった。特になんとなく漠然と考えていたことを数学的に表記することで明確にできるという点をまた教えられたことだ。数学の本質というのは、学校でやらされるように暗記した公式を使って解を導きだすことにあるのではなくて、とらえにくい現象を、できるだけ分解し簡単な文字や手順に置き換えて表記することにある。同じ著者の『算数の発想』を読んだときにも感じたが、ほんとうに大切な考え方は小中学校で習う仕事算や旅人算を解くにあたってのとっかかりの考え方ではないだろうか。いったん解法として出来上がってしまうと、すぐに「○○算の解き方」という受験テクニックになってしまい、問題を読んだときにすぐにその解法を連想するかどうかが勝負になってしまうのだが、最初にどうその現象を分解するかという目の付け所こそが発想法としては大切なのだ。高校になると数式や文字が最初からでてくるし、これが数学だと思い込んでしまうのだが、実際の生活には最初から数式や文字はころがっていない。現象をどううまく変換するかこれが大切である。
 この本では、特に後半の第6章のコモン・ノレッジのところと、第8章と終章のところが私にとってのポイントだった。第6章の「個人の知識を足し合わせたもの」と「集団としての知識」が必ずしも同一ではないこと、そして「公共」的な知識が不確実性を回避するのに役立つということが説明されているところは、なんとなくそう思っていたことを数学的に表記するとはっきりするということのお手本であった。第8章の帰納的意志決定における論理的選好の重要性はさまざまな社会的行動を客観的に見直してみるときに非常に有用だということを教えてくれた。論理的選好の公理系は、記述的推測理論でなりながら、規範的性格ももっているという点は重要だ。そして著者が指摘している次のこと



 個人が十分に有望な公理系とその修正システムをもっていたとしても、社会の構造、集団の知識のかね合いによっては、最適選択からずっと遠ざけられてしまうかもしれない


が自由と自己決定の問題を考える上で考慮しておかねばならないことだ。



 人々は、独特な内面的論理をもっており、それが経験と矛盾しない限り、その論理を捨てることができません。それでも、あらゆる経験が外部からじゅうぶん撹乱的に与えられ、そこでさまざまな方向に論理の修正が生じれば、自分の現状の選択が最適なものではないと気づき、行動を変化させることもできるでしょう。一方、市場の構造(または社会ゲームの構造)は、必ずしも人々にフレクシブルな環境や経験を与えてくれるものとは、限りません。むしろどちらかというと(中略)慣性や硬直性をもった場合が少なくないと考えられます。


 ここで問題なのは、では有効な柔軟性を生み出すため(そしてそれを維持する)には経験にどれくらいの撹乱が与えられるのが適当なのであろうか。硬直性を獲得した構造がその惰性的構造を脱するために必要な条件(必要な「過誤」の条件)とはどんなものだろうか。硬直性はある意味経験則の正しさを反映している故に獲得され、持続していると考えられるが、そこに変動が起きる場合、それは構造を構成する要素の変化から内在的に説明可能なのかということだ。著者は社会を惰性的状態から脱出させる可能性をもつものとして「公共財」という環境因をあげているが、そもそもその公共財とはどのように形成されるのだろう。


 終章では、人は未来だけでなく過去に対してもそれを「最適化させようとする」欲望をもつ生き物であるということが書かれてある。ヤスパースの形而上的責任という概念も引用されていてたいへん興味深いのだが、私たちが自分の予期しない(したがって通常の意味では責任のない)何か(事の良し悪しは問わない)あることが起こってしまったときに感じる漠然とした「居心地の悪さ」というものを説明し、それをどう処理すべきかということを考える時に、この視点はたいへん面白い。全知の存在ではない私たちが、必然的に背負う「過誤」をどう処理するかという問題は、人間を知恵のある合理的な存在として(あるいはそうあらまほしき存在)として定置させてきた西洋哲学史い一石を投じる視点かもしれない。

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確率的発想法

 『確率的発想法 数学を日常に活かす』(小島寛之著、NHKブックス)を読む。同じ著者による『算数の発想』が面白かったため、購入した。確率というものを単に数学の分野の中で説明するのではなく、経済活動というより身近なことに即して説明しているのが特徴で、大変面白い。経済のことについては素人なので余計そう感じるのかもしれないが。
 数学的考え方に慣れていると、確率的事象を客観的に評価する反面、「主観的評価」というものを見落としがちになる。この点を例えば医者と患者との間で交わされるインフォームド・コンセントを例にとって説明する。医師にとっての死亡率と患者にとっての死亡率はその確率が意味するところがまったく違うのだ。



医者と患者の例で示したように、あるリスクについて、データが自動的に集積されるような専門職の人間と、そのリスクが具体的に襲いかからんとしている孤立無援の人間とでは、リスクの感度の基盤が異なっていて当然です。専門家にとっては頻度であるものが、リスクの受け入れ側には内面的な恐れや危惧や覚悟であるのですから、頻度から想定される結論と人々の決断とは大きくずれることが十分ありえます。(中略)リスクの重大性を、専門家はたいがい、「年間死亡率」で判断し、普通の人は「破滅的になる危険性」「未来世代に対する恐怖」などで判断することが多いという報告です。


 さらに自然科学者がリスクを評価する際に「市場システム」の特性を見落としがちであるという指摘につづき、経済学者のリスクの捉えかたの危うさも指摘している。自己責任論を主張する場合に、ルールの公平性はもちろんであるが、効用の完全知あるいは選好の完全知(自分の意思決定を熟知した上での市場への参加)と個人の情報と知識によって参加を回避できることが前提とされていなければ、自由主義を錦の御旗に掲げて自己責任論を主張しても本質的にはリスクを分かっていないのだと論じている。特に後者の個人の情報と知識によって参加を「回避できる」ということは、現代社会では重要ではないかと思う。知らず識らずのうちにさまざまな(広い意味での)経済活動に巻き込まれているということがままあるからである。
 後半ではロールズの無知のヴェールの理論とフランク・ナイトという経済学者の不確実性の理論との関係が示唆されており、これも大変興味深い。

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トラウマの声を聞く

 『トラウマの声を聞く 共同体の記憶と歴史の未来』(下河辺美知子著、みすず書房刊)を読む。精神分析(ラカン派)批評の手法を応用して、戦争という集団の行為を語ること、語り継ぐことの難しさを論じた本である。
 人はさまざまな出来事を経験するが、それを適切に象徴化することでうまく現実界との出会いを避けている。あまりにも近すぎる剥き出しの現実界には耐えることができないので、それらは抑圧される。しかし抑圧された現実界はさまざまな形をとって回帰する。象徴化することができないトラウマは、抑圧され思い出せなくなる。しかし「現実の体験として反復するように余儀なくされる」。
 フロイトは『モーセと一神教』で、ユダヤ民族が抑圧した過去の罪(モーセの殺害)というものを仮説としてたて、集団としての記憶を論じた。史実としては無理のある仮定であるが、ある集団の中で敢えて「語られていないもの」がある場合には、そうさせるような過去の原体験があるはずだというのがフロイトの考え方なのだ。認められない(本人が否定する)徴候から抑圧された過去を構築することは、精神分析のおなじみの方法論だが、これを集団の歴史に適用できるかが大きな問題だろう。(精神分析の方法論を他の分野に応用するときには注意が必要だ。あまりにも切れすぎる刃物は使いすぎると、とんでもないものを切ってしまうからである。)しかしその当時一般に支持されていた言説としてとらえるならば、それらの言説を重ね合わせることにより、それらが語ることを避けていた点を浮かび上がらせることができるだろう。それはまさしく当時の人々が避けたい現実でありながら、人々を行動に駆り立てる欲望であり原因であろう。
 9.11以降声高に「テロとの戦い」が叫ばれると同時に、自由を創り出し守るアメリカが執拗に語られる。このときますます語られなくなるのはテロを起こす人々との和解である。「平和」を願いつつも、正義の戦いを叫ぶ人はそれだけは避けたい現実なのである。「自由」や「正義」という記号に帝国としてのシニフィエを備給して、それらのヘゲモニーを打ち立てることが戦いを遂行するための戦略なのである。この点については本書の『「自由の帝国」と表象の全体主義』がたいへん刺激的であった。
 日本でも「平和」や「愛国」、「正義」が頻繁に語られているが、これを語る者がどういう欲望をその言葉に注いでいるかを常に考えておく用心深さが必要だ。間違ってもそうした欲望に染まった言葉を自分が使うことのないようにはしておかねばならない。
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ヨーロッパ思想史のなかの自由

 『ヨーロッパ思想史のなかの自由』(半澤孝麿著、創文社刊)を読む。
 約400頁に及ぶ著書で、講義録という形をとっているので、やさしく語りかける文体となっているが、密度は非常に濃い。とても講義を聞き流すという感じでは読めない。カトリックとしての立場に立っていながら、記述は実に客観的で淡々と長大な思想史を論じている。それだけにどこも読み飛ばせない。
 というわけでとても一言で要約できるようなものでもなく、その能力もないのだが、そこを敢えて書けば、単なる拘束からの「自由」としてでなく、人間であることの根幹にかかわる倫理的価値としての「自由」の重要性を古代ギリシャから近代にかけてのヨーロッパ思想の中に読み取っていく著述である。
 ここで論じられるのは、「自由意志」がどうして可能なのかという議論よりも、人間の行為が自由な選択に発するものでなければならないという「信念」の議論である。ここで著者は、キリスト教成立以降のヨーロッパでは、「政治的自由」と「非政治的自由」とが絶えず緊張関係にあって、展開されてきたという仮説をたてる。パウロにみられる内面的自由の非政治性に着目し、それが単に国家と宗教という対立軸に収まるものではなく、近代においても連帯や友情をめぐる論争で顕在化していると述べ、ここにヨーロッパ的自由の特質を指摘している。
 個人の内面の自由、非政治的自由が、規範的価値を持つようになり、その自由な状態から生まれる「能力としての自由」を積極的に評価する立場と批判する立場を論じる。非政治的自由において、「能力としての自由」が高貴でありうるのは、それが善なる目的を目指してなされ、しかも行為者の心に発する内発的な選択であると論じたアウグスティヌスを特に重要視している。
 現代では状態としての自由ばかりが強調されるが、倫理的重みを担った能力としての自由という思想の歴史を教えられ、ヨーロッパ思想の深淵に改めて唸らされた。これは何度も繰り返して読む価値のある本だ。心して読まれたし。

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算数の発想

 『算数の発想 人間関係から宇宙の謎まで』(小島寛之著、NHKブックス)を読む。算数レベルで使われる思考法を使って、物理現象や経済学の考え方を説明する本であるが、読んでいて素直に楽しめる。この本のモチーフになっているのが、「ものごとを素朴にプリミティブに理解する」ということだ。数学という考え方自体が複雑な事象を簡潔にするためのものだから、当然だといわれればそうかもしれないが、あとがきにもあるように



「数理的な記号操作をすること」は、考えを緻密にまとめる上では大切だが、何かを本質的に理解することには役立たない。本質的に理解するためには、「それが要するにどういう発想なのか」を、とことん自分のなかでかみくだいて、単純化して、できるだけ身の回りにあるような感覚や人生観に引きつけて、その上で理解する、そういう作業が大事なのだ


その素朴に理解する上で算数の発想で使われる「ちょっとした工夫」が大切なのである。例えば、鶴亀算のときに利用するような「仮にすべてが亀であったとするならば」という仮定である。すべてが亀であったときに不足する脚の数から鶴の数が分かるというのを小学校の時に習って私も目から鱗が落ちた。それはちょうど幾何学のときで使う優れた補助線と同じである。
 本書には、その他フラクタル図形やパーコレーション(浸透)現象、秩序形成のモデルのことなどが説明してあるのだが、どれもわかりやすい。引用文献にもある『自己組織化の経済学』を読んだとき難解に感じたことが、すっきり説明されている。
 同じ日本放送出版会から出ている著者の『確率的発想法』も購入することにしようっと。

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脳死臓器移植は正しいか

 『脳死臓器移植は正しいか』(池田清彦著、角川ソフィア文庫)を読む。以前著者が著した『臓器移植 我、せずされず-反・脳死臓器移植の思想-』が絶版となっていたものが加筆訂正されて出版されたものだ。前著を買いそびれ入手できなかったので、早速購入した。
 日本でも脳死臓器移植が行われるようになり、最近では新聞での扱いも小さくなった。臓器移植法施行後第一号が出たあのときの大騒ぎとは(7年しかたっていないのに)隔世の感があるといっても過言ではないくらいだ。臓器移植法が成立するときから違和感を感じていたが、この著書には私の違和感と同じ点が指摘されいた。
 人の死について心臓死と脳死という二重基準ができてしまったことは、やはり変だ。脳死がいかに科学的であっても、死の判定に周囲の人間が納得することが社会的には必須だと思うからである。心臓死であっても死の判定は医師の専権事項である。しかしその判定は素人がみても納得できるものである。だから社会的に受容できる。脳死はそれに対して高度に専門的であり、医師であっても専門外であれば、判定は困難だろう。社会的に受容困難なものをいくら科学的に正しいからといって、社会に押しつけるのは傲慢である。それは何より新鮮な臓器が欲しいからに他ならない。そして「ドナーにならない」という意思表示がなければ家族の判断で臓器摘出が可能にする動きがあるが、これも自己決定権というのをあるとき声高に叫んでおきながら、こういうときに簡単に抜け道を作ってしまうやり方にも納得がいかない。著者が憂えているように、「みなし」で意思を確認してしまうやり方は、簡単に悪用されてしまうからである。これは欧米の基準がどうあれ、基本的な権利だからきちんとしておかねばならない。
 この本の中で述べられているように、脳死臓器移植は不完全な医療である。医療はどれをとっても不完全であるといえばそうだが、特にこの治療は社会にかける負担が大きい分問題の多い治療法といってよいだろう。そして知らず知らずのうちに脳死を期待する治療となり、他人の死を期待するようになる分、著者のいうようにそこには「浅ましさ」が出てくる。個人は助かり、善とされることも社会全体としてみれば悪ということはある。だから池田はこれは「愚行」だという。その愚行に社会資本を使うことに彼は反対している。




極めて不幸な社会的弱者は一方的に助けるほかはない。それは当然だ。私の考えでは、社会がシステムとして弱者にゲタをはかせるのは、そうしないと人は原則平等であるという民主主義社会の公準(フィクション)が守られないからであってそれ以外の理由からではない。かわいそうとか倫理とかいう話とは関係がないのだ。だから社会的弱者は社会システムとして助けてもらっても恩義を感じる必要はないのだ。これは社会が民主主義という自らのシステムを守るためにやっている事であって、実は弱者のためを思ってやっている事ではないからだ。余談だが、そう考えないと社会的弱者に対する人々の精神的差別をなくすのは難しいと私は思う。
 (中略)しかし不幸な人はさまざまであり、具体的にどのような人をどこまで助けるかについては議論はあり得る。その中で、残念ながら脳死移植という社会的デメリットが大きすぎる方法では助けられません、という話は成立し得る。(本書p146-147)



自己決定を重視するならば、敢えてドナーにならないという選択を批判なく許容する社会でなければならないし、ドナーになるという意思を善行だといって無条件に称揚することは慎むべきだろう。そうしないとこの国は、お国のために死ぬことが善行だとして賞賛される風潮にすぐ染まってしまうだろう。

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倫理としてのメディア

 『倫理としてのメディア』(井崎正敏著、NTT出版刊)を読む。本の帯に「メディアにかかわるすべての人々に、そして特にメディアを志す若い人々に、この本を強く推薦したい。」という竹田青嗣のことばが印刷してあった。私はメディアを志してもいないし、若いともいえないので特にこの本を推薦されないが、メディアにかかわる人間として購入したことになる。
 結論を先にいえば、著者はメディアの用いるコードの公共性の重要性を説き、そこにメディアの倫理性があると説いている。メディアの外側にいる(すわなち公的メディアとされる機関の受け手、著者のいうオーディエンスである)私は、そこに今のメディアがいつまでも中心的存在として振舞いたいというメディアの内側にいる著者の欲望を感じるのである。それはある意味メディアにいる人間としての責任の表明と表裏一体のものであるから、なんら問題はない。しかしではそのメディアが使用するコードがどのような責任を担うのかということについて、もう少し踏み込んだ言及があってもよかったのではないかと感じた。著者は、デリダやバルトを引用しつつコミュニケーションにおけるコードやコンテキストの重要性とその不確実性を指摘している。送り手がテキストにこめた意図は必ず受け手によってそのまま忠実にデコードされるわけではないことはすでに常識であるが、そのコードが送り手と受け手の抗争により鍛え上げられていくことが重要だと著者は説いている。



オーディエンスはみずからの大衆としての欲望だけをメディア・コードに吸い取られているのではなく、みずからが公共性のコードのなかに参与していくこと。両者の抗争がエクサイティングになればなるほどメディアは面白くない、それはメディア産業自体にもメリットであることをメディア側が自覚すること。
 以上のことをたんに当為として語るだけではなく、メディア側とオーディエンスとが一緒になってメディアというゲームを内側からいかにルール変更していくことができるか、ここに倫理としてのメディアの可能性がある。


 コードを公共の場で議論しながら作り上げていくべきだという主張と解釈できるが、ではその場合に責任の主体はどこにあるのであろうか。作り上げることに参加したオーディエンスにもあるのだろうか。それとも主体であるメディアが全面的に担うのであろうか。しかしコードがひとつのゲームとして変更されていくということに果たしてどれほどの責任が果たせるのだろうか。送られたメッセージに対する受けて側の解釈の優位性を認めている状態でどのように責任を担う主体が現れるのか。解決される問題が残されている。
 さらにメディアを介して発信されるメッセージが商品として市場で消費されるときに、このコードは果たして商品なのか。コードの公共性を論じるにあたりこの点は非常に重要だと思われる。NHKの受信料問題が論じられているが、私たちは受信料を払うことで、単に番組を買っているのかあるいは公共のコードを維持することに寄与しているのか。公共放送の重要性が論じられるのであれば、後者の視点にたって論じられて然るべきであろう。それにしても受信料問題がどうも単なる番組の売買の経済性という視点でしか論じられていないような印象を受けるし、「公共性」という言葉がベンチャー企業からの敵対的買収をかけられたときの言い訳としてお題目のように唱えられるだけという状態だから、この国のメディア文化はかなり底の浅いものだといえる。

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ヤバい経済学

 『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィト、スティーヴン・J・タブナー著、望月衛訳、東洋経済新報社刊)を読む。忘れてしまったが、どこかの新聞の書評で取り上げられていたのを見て、題名から連想されるような「ヤバい」内容ではないということが書かれていたので、購入した。
 本書の各章に統一性はないということが冒頭から書かれているように、扱う主題は答案を書きかえてまでいい点数をとらせるいんちき教師や相撲の八百長、ク・クラックス・クラン団員、麻薬の売人など多種多様であるが、一貫したものがあるとすれば、「インセンティブ」であろうか。あることを行わせるようにさせるために与えられる外的な促進的刺激、すなわち馬を走らせるための人参がインセンティブであるが、経済学というのは人間をインセンティブで動く存在とみなす。だからどのような利益が得られるかが分かるならば、集積されたデータ(試験の点数や星取表)からある一定の規則性を読み取ることでインセンティブに突き動かされているかどうかを推測することができる。いんちき教師による答案改変のところはミステリーのような面白さがあるし、巻末の後日談を読むとさらに面白い。
 相撲の八百長については日本では公然の秘密なのだろうか。こういう切り口で見るのも面白い。でも日本ではたぶん議論は盛り上がらないだろうな。論じることのインセンティブがないだろうから。
 ある閉鎖された集団でのみ共有されている情報(秘密)が公開されること、しかも貴重だと思われている情報が他愛もないものであるという形で公開されてしまうことほど組織の結束力を破壊するものはないということをKKKにまつわるエピソードは教えてくれる。
 ニューヨークで犯罪件数が減ったことの原因が、中絶の認可であるという議論の正否はよく分からないが、社会現象の変動にはときには予想もつかない要因が絡む可能性があるということを教えてくれる。しかしこれが真相だとすると、アメリカの貧困の病根は深いと言わざるをえない。軽やかな俊才の経済学的分析を読み終えて、その分析対象となった社会問題の病巣を思うとき手放しで面白いとも言えないなと感じた。

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モダニズムのニッポン

 『モダニズムのニッポン』(橋爪紳也著、角川選書)を読む。1920年代やっとラジオ放送が開始された頃、紙媒体の広告は現在よりもはるかに重みを持っていただろう。本書の中にある電化時代の到来を言祝ぐ広告やホテルなどの観光の宣伝広告を眺めると、当時の広告のメッセージは「実直」であり、広告をする側と広告をされる側の両者がともに同じ「未来」に向かって眼差しを向けていたことが感じられる。これはある意味幸福な時代であったのだろう。現代では広告の受け手は、素直に広告する側のメッセージを受け容れるような野暮なことはしない。必ずそのメタメッセージを読み取るように「できあがっている」。
 モダニズムの時代は、機能が優先される時代であり約束される新しい機能を素直に信じていた時代であった。そこでは「直線」、「流線型」が時代の先端であった。昭和五年には『直線時代』という雑誌が創刊されたという。
その主宰者の「時代の推移と直線生活」という文では



マルクスボーイならずとも、多少でも人間らしき感覚を有つ程の者は、最近に於ける生産力の目覚しき発展が、社会のあらゆる領域に、最もフレッシュな形態と、尖鋭な行動とをめまぐろ(ママ)しい程に要求し、振りまいて行くその旋風的光景を何うして見逃すことが出来やう。


と書かれている。余計な礼節や体裁は不要であり直截なこと、迅速で効率のよいことがすなわち善であるという精神が掲げられている。この頃から日本人はわき目も振らずに直線コースを走る(走らされる)ようになったのだろうか。1930年代には「流線型」が時代の最先端になり、蛔虫駆除までも「流線型に排出す」ると広告されていたということには苦笑してしまった。しかしそう声高に速さが宣伝されていたということからすると、当時は全体としてみればまだゆっくりとした時間の流れにあったのであろう。ちょうど現在が息をつく暇もないくらい忙しくしているからこそ、ゆとりやスローライフが叫ばれているように。


このほかに洗濯業が洋装の普及とともに近代化したことや石鹸も「清潔を善」とする公衆衛生的思想からさまざまな方法(石鹸彫刻展覧会など)で普及が図られたことが分かり興味深かった。また昭和初期に女性の洋装とともに「マネキンガール」(ファッションモデル)や「エアガール」(フライトアテンダント)などの職業が生まれたこと、女性の洋装化が風紀の紊乱とさる筋には認識されていたこと(「その内容は谷崎潤一郎氏が好んで書くところの作品に出る女以上のものばかりである。こうした男女の交渉は親にとって特に注意すべき大きな問題で、取調べ終了次第、事実を社会に発表して反省と注意を促す考えだ」)が紹介されている。女性に対する無意識の欲望の眼差しが時代の変化(この場合は洋装した女性の登場)を契機に投影された一例といえよう。

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