死と誕生

 『死と誕生 ハイデガー・九鬼周造・アーレント』(森一郎著、東京大学出版会刊)を読む。
 多忙にかこつけてブログの更新間隔が思いのほかあいてしまった。どうせ読む人も少なかろうという思いがある反面、誰かが見ているという思いもありまた記録をつける。自分だけの日記だったらとうの昔にやめていたかもしれないのに。読んだものに限らず、何かしら記録を残すというのは言葉をもつことになった人間の宿痾なのかもしれない。
 前に読んだのがどちらかというと気軽に読める評論だったが、今回の本は重厚であり、読書時間も少なかったため時間がかかった。妊娠のつぎは誕生そして死という連想がはたらいたわけでもないのだが、ハードカバーの本を持って回りながら少しずつ読むという日々だった。
 死へ向かう存在というハイデガーの定式化に対して、誕生というもう一方の極を対置した弟子のアーレントという読みは、専門家のあいだでは議論があるところであろうが、私にとってはたいへん新鮮で、感動的ですらあった。感動というと変な感じだが、揺さぶられるような感じを確かにこの本は与えてくれる。
 アーレントのいう出生性(natality)は、古代ギリシャの伝統的思考である作られたものとしての人間とは異なる思考であること、そしてそれが記憶と想起において可能になることが書かれている。『アウグスティヌスにおける愛の概念』への増補として彼女は次のフレーズを挿入する。

意識をもち想起する存在として人間を規定する決定的事実は、誕生もしくは「出生性」である。すなわち、われわれは誕生を通じてこの世界へやって来た、という事実である。欲求する存在として人間を規定する決定的事実は、死もしくは可死性であった。これは、われわれは死においてこの世界から去っていく、という事実である。死への恐れと、生の不完全性が、欲求の原動力であた。これに対し、そもそもいのちを与えられたということに対する感謝が、想起の原動力なのである。なぜなら、たとえ悲惨であろうと、いのちは大切にされるからである。

この後著者はこの節の最後にこう結論している。

ハイデガーは、彼の見立てによる被制作性本位の伝統的存在概念とは異なる、新たな存在了解の可能性を求めて、死という終りの分析から引き出された「有限性」にもとづく実存本位の存在論を構築しようとした。この世界内部的終末論は、若き日に神学を断念した者なりの「原始キリスト教における事実的生の経験」の甦生であったことだろう。だが、そのさい終わりにもっぱら定位したため、始まりを十分考慮に入れないままにとどまった。これに対してアーレントは、ハイデガーによって派生的なものと見なされいわば打ち捨てられた「被造性」というキリスト教の中心思想のなかに、始まりというテーマを発見し、それを誕生の問題として捉え直すことで、世界内存在の現象学を再試行したのである。そこに浮上した実存カテゴリーこそ、「出生性」にほかならない。

誕生して記憶という自分自身に対する「印づけ」が可能になることで始まりを志向できるようになり、それが同時に自分という存在をあらしめる。そして自分が作られて在るという意識を人間はもつということ、これは神の有無によらず事実であり根本的なことであり、ある意味で人間の宿痾なのだろう。

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妊娠小説

 『妊娠小説』(斉藤美奈子著、ちくま文庫)を読む。
 以前『謎解き村上春樹』を読んだ際に本書のことが触れてあり、読もうと思っていたのだが、彼女の他の作品から読み始めようやくこの本にたどり着いた。妊娠が描かれている小説(本の裏表紙に書いてあるように『舞姫』から『風の歌を聴け』まで)を片っ端からとりあげ、その構造を分析している。
 小説で取り上げられる妊娠は、「おめでた」でも「ご懐妊」でもなく、まさに「妊娠」として即物的に表現されているという指摘が鋭い感覚だと感じた。この事件としての妊娠の描写は、決まっており「受胎告知」を中心として構造化されていることが指摘される。このことから妊娠とは日常生活で繰りかえされる「神話」であることがわかるのである。
 著者によれば小説は、出会い→初性交→受胎告知→中絶→別れへと進み、盛り上がり度は当然受胎告知をピークとする。これと並行して登場する男女間の距離は、出会い→接近→性交の定着→受胎→亀裂の発生→離反→別れとなる。
 妊娠小説にはメンズ系とレディス系があるそうなのだが、前者の類型としては
・青年打撃譚:若い男が恋人の妊娠で打撃を受ける話
・浮気男疲労譚:中年(妻子持ち)の男が愛人の妊娠で疲れる話
・恋愛挫折譚:若い男が恋人の妊娠中絶(流産)で失望する話
・中絶疑惑譚:中高年の男が過去の妊娠中絶に疑惑を抱く話
があり、後者の類型としては
・おぼこ娘自立譚:女が妊娠中絶を契機に男を捨てる話
・母子家庭創生譚:男が消滅して女が出産を決意する話
・妊娠無常譚:女が妊娠中絶できずひどい目にあう話
・妊娠誤謬譚:妊娠がまちがいだったと知る話
これらの類型を出産抑止力と出産促進力の大小関係から分析しているところは大変面白い。
 そして最終章(「避妊をめぐる冒険」)では、そもそもどうして妊娠という事件が出来するに至ったのか、すなわちなぜ避妊をしなかったのかの原因にメスを入れている。ここはそれを言っちゃあという感じがなきにしもあらずだが、著者によると
・避妊が存在しない世界だった(異界型)
・避妊を実行しなかった(避妊非実行型)
・正しい避妊の知識を持っていなかった(知識不足型)
・正しく避妊を実行できなかった(運用失敗型)
に分類できる。そしてこうした不条理な妊娠小説の避妊感覚と結末について評してこうまとめる。

この結末には、現代の日本文学(とこの国の文化)の一端がはしなくも露呈しているようにも思われる。中絶は深遠だが、避妊は浮薄である。中絶には精緻な描写が求められるが、避妊の知識はガサツでよい。中絶はなにをおいても語らねばならぬが、避妊は語るに及ばぬ。そこにあるのは「避妊はダサいが、中絶はカッコイイ」という価値観で、だからこそ妊娠小説は書かれ、避妊は小説に出てこない。

中絶と避妊といういずれも妊娠→出産を回避する方法論に対する見方の無意識的先入観を指摘している。こうした無意識の態度というのは、妊娠に限らず非常におおくの二者択一の問題にからんでいるのではないかと思う。



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文学的商品学

 『文学的商品学』(斉藤美奈子著、文春文庫)を読む。
 文学作品に描かれるさまざまなモノをそれを消費する立場に普段立っている読者の視点から見つめ、小説を論じるという文学論(または商品論)である。冒頭には「商品情報を読むように小説を読んでみよう」というちょっと変わったしかし十分挑戦的な読みを読者に勧めている。ここで俎上に載せられる作品は、もはや作者のテクストではなく、読者のテクストである。小説を読むと否応なく気づくところだが、ディテールというのは特に作品のリアリティに寄与している。構成や筋書きがしっかりしていてもここで失敗すると急に読書欲が殺がれてしまう。著者も指摘するように「神は細部に宿り給う」のである。こうした細部=ディテールがよくできている部分は、それを鑑賞するに骨董を愛でるようにして楽しむフェティッシュなやり方が楽しくもあり、私的にはそれで十分でもあるのだが、ここで作者は描かれた細部で串刺しして同じ商品が登場する作品を一気に読者の前に曝しだして、論じまくる。これは解剖台の上で一つの作品を分析するという方法とは違い、衆目の眺めるところで商品販売を実演するようなちょっと大道芸人的なところがあるが、キーワードで縦横に(同時代および通時的に)串刺しするというのはまさにインターネットでのハイパーテキスト的発想である。
 並べられる商品は衣服、自動車、香水、食品、ホテル、オートバイの他、バンド、野球そして貧困まである。貧困も「商品」として扱うのは、これを描いて売りにしている小説があるからである。小説に描かれるものはすべて商品であるし、その時代の商品を描くことで小説は成り立っている。
 細部が描けていない例として、第2章では『失楽園』と『女ざかり』の服装音痴があげられている。ここで著者は、

 第一に、これらは「服装」は書いていても「ファッション」を書いていないということです。衣服というものは、いまや流行なくして語れません。(中略)
 第二に、これらは衣装の「説明」はしても「描写」はしていません。

と鋭く批判する。確かに衣装に限らず小説の中で描かれるべき視点から描かれるはずの描写がされず、作者の乏しき知識でいいかげんにすまされてしまうと格段に小説の味わいが減じてしまう。でも衣装などは読者が着たきりすずめの中年男性か流行に敏感なティーンエイジャーかによって受け取り方がかなり違うから作者の方も大変だろう。ファッション業界用語を並べて詳述すればいいというものでもないからだ。しかし著者は、力の入れどころであるべき風俗小説でそれが単なる「説明」や「報告」になってしまうところを問題視している。

 次章の「広告代理店式カタログ小説」では、PR誌などに連載されることもある性格上モノが主人公となる小説であることを述べ、「カタログ小説の三大法則」を導出している。いわく(1)一品種一人の法則、(2)商品情報優先の法則、(3)正面攻めの法則。最後の(3)は(1)、(2)から生まれる必然的結果で、「はずしの技」、「ずらしの技」がきかないというものだ。

ブランド品は、もともとブランドストーリーを売る商品でもあります。それを題材に新たに作品を書くならば、批評精神を発揮して、メーカーが希望する商品イメージなり商品ストーリーなりを異化するか破壊する物語にしなければ、本当は意味がないし、おもしろくもありません。(中略)しかし、カタログ小説はそれがなかなかできません。なぜでしょうか。商品の「すかした部分」をいっしょになって笑うためには、かなり突っ込んだ商品知識が必要だからです。(中略)
 したがって、意地悪ないい方をすれば、カタログ小説は、商品に追随した形になりがちです。べつにいえば、メーカーを後追いする広告代理店形式の物語になってしまうわけです。

 第4章でも著者の洞察は鋭く、小説に描かれた食品の深層を指摘する。(1)食べ物は(性的な)記憶の再生装置である。(2)食べ物の比喩をつきつめていくと人生論になる。(3)料理は男女間の距離を測る道具である。(4)現代文学は非日常的な料理しか相手にしない。
 まさに細部には作者の意図や無意識が思わず出てしまうところであり、そこを逆手にとって作品を鑑賞するという読み方も十分許されるのだ。

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文章読本さん江

 『文章読本さん江』(斉藤美奈子著、ちくま文庫)を読む。
 いわゆる文章読本なるものは私も過去にいろいろと読んだ。この本で御三家(谷崎潤一郎、三島由紀夫、清水幾太郎)、新御三家(本田勝一、丸谷才一、井上ひさし)と称される面々である。文章読本が一般の文章のメタ解析であるならば、本書はそのメタメタ解析である。それによって何が暴かれるか。印刷された「プロの」文章を頂点にいただき、それを崇めるようにさせるヒエラルキーであり、それを支配する言説を生み出してきた男性中心の「サムライの帝国」である。
 本書で教えられたのは、一般向けに次々と著される文章読本が明治時代以降の日本語の国語教育の流れと密接な関係があったということである。数多ある文章読本の嚆矢にあげられることの多い谷崎本は、実用文と芸術文の区別を退け、思うことを率直に書くことを説いており、後続の類書から集中砲火を受けるのであるが、なぜそうした言説が出てきたかはそれまでの教育方法を読むとなるほどと理解できるのである。やはりさまざまな言説はそれがなされた歴史的コンテキストぬきでは語れないのだ。
 著者はこれらの読本の意識下に潜む貴族主義を指弾していく。一見芸術主義から遠いように見える本多の読本にもそれは見られるのだ(しかし本書は高校時代読んだが、修飾語や句読点の使い方など教えられることの多かった読本だった)。一言でいえば文章読本はパターナリズム的言説の最たるものなのだ。くだけていえば知的エリートたちのおせっかい本なのだ。
 最後に著者は「さまざまなる衣装」と題した章で、文章と服飾の共通点を述べ、「衣装も文章も、放っておけばかならず大衆化し、簡略化し、カジュアル化する」、「民主化に貢献するようなスタイルの変革は必ず「外部」と「下部」からやってくる」と指摘する。「文は人なり」のアンチテーゼであるが、服飾は着る人のセンスを反映するのは間違いない。
 ブログ開設者が十人に一人となったことが今日の朝刊で報道されていた。重複して開設している人もいるだろうが、今や誰もが「劇場型」の文章を書ける時代となった。ここに一定の枠をはめようとすることは不可能だろう。定型文を指導する文章読本は一定の需要がこれからもあるだろう。芸術的な文章を採集し、称揚して悦に入るという文章読本は「文章読本」というジャンルでは過去の遺物となるのだろうか。
 それにしても文章読本で引用される文章はいずれも「読みやすい」文章ばかりである。読みやすさを説いているのだから当たり前といえば当たり前だろうが、読んですらすらわかるような文章から作られた本なら読む価値はない。並みの言葉で言えないから表現は難解にものなる。それは決して悪文ではない。
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ナイフ投げ師

 『ナイフ投げ師』(スティーヴン・ミルハウザー著、柴田元幸訳、白水社刊)を読む。 
 1943年生まれのアメリカの作家でありながら、作風は幻想的である。巻末の解説によるとここに収められた作品は1990年代に発表された作品だというのが、ちょっと意外な感じである。
 この短編集の表題にもなっている『ナイフ投げ師』や、『パラダイス・パーク』には、見世物という大衆娯楽でありながら芸術的至高を目指す奇矯な人物が描かれている。ナイフ投げ師のヘンシュは、「彼なりのあり方で、一人の芸術家ではなかっただろうか? したがって、彼のやり口に眉をひそめ、下卑た見世物師として彼を蔑みながらも、その大胆さには私たちも感嘆させられた」という人物である。彼はナイフをアシスタントの体をわずかに傷つけるように投げる。そして「彼女の首筋に細い赤いしたたりを、肩へ流れ落ちていくしたたりを見」ることになる。皮膚の白さと血の赤さの対照が生み出す官能、続いてそのアシスタントが身につける黒いドレスの下にあるであろう「ほかの包帯、ほかの傷を彼女の腰や脇腹や乳房の端に私たちは想像」する。その”しるし”をつけてほしいと観客たちは求める。

 ナイフ投げ師は、『パラダイス・パーク』にもほんの少し登場している。1924年5月に炎上崩落するまでにその閉鎖された空間で繰り広げられた数々の幻想的なアミューズメントが語られている。

あまりの恐ろしさに客がヒステリーに陥ってすすり泣いたという<恐怖の館>、卑猥なポーズの裸体を映し出すびっくりハウス・ミラーなどをめぐる禍々しい報告。回転する円盤に縛りつけられたスパンコール衣装の女性の手首にナイフ投げ師がナイフを突き刺し、剣呑み男が喉から血まみれの剣を引き出す、煙に包まれたサイドショー。あまりにも過激なせいで卒倒する客や発狂する客まで出た乗り物の話、恐怖と恍惚の叫び声にあふれた<エロスの館>の話を我々は耳にする。心乱されるエロチックな展示品の並ぶ<快楽館>では、特製の装帯(ハーネス)をつけた女性客たちが、落とし戸を通って、大広間に据えられた長さ二十メートル近い透明なガラスの円柱のなかを落ちていく。

 其外、美しい建築物を以て充たされた大市街や、猛獣毒蛇毒草の園や、噴泉や滝の流れや様々の水の遊戯を羅列した、しぶきと水煙の世界なども己に設計は出来ている。いつとはなく、それらの一つ一つの世界を夜毎の夢の様に見尽くして、旅人は最後に渦巻くオーロラと、むせ返る香気と、万花鏡の花園と、華麗な鳥類と、嬉戯する人間との夢幻の世界に這入るのだ。

 前半の引用は『パラダイス・パーク』からだが、後半の引用は江戸川乱歩の『パノラマ島綺譚』からである。私がハウザーの一連の短篇を読んで、まっさきに連想したのが江戸川乱歩だった。単に幻想的というにとどまらず、芸術的な至高美を目指しながらも、内在する狂気のために目ざす楽園から逸れていってしまう二流の人々が描かれていると言う点で両者には共通するところがあるし、巨大な人工的構築物(広い意味で都市という構造)の中で夢を紡ぐというところにも相通じるものがある。訳者の指摘するとおり、この魅力は「吸血鬼に噛まれることに似ていて、いったんその魔法に感染してしまったら、健康を取り戻すことは不可能に近い」ものだ。しかしこの魅力にとりつかれたらもはや健康でなくてもいいというより”健全な”欲望を抑えることができなくなる。

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恥辱

 『恥辱』(J・M・クッツェー著、鴻巣友季子訳、早川書房刊)を読む。
 以前『マイケル・K』、『夷狄を待ちながら』が面白かったし、本書で二度目のブッカー賞を受賞したということもあり読んでみた。前二作とは異なり、フィクションの要素は影を潜め、リアリスティックな展開となっている。かつては現代文学の教授だったが、大学の合理化のため古典・現代文学部が閉鎖となりコミュニケーション学部の准教授に格下げとなった52歳の教授デヴィット・ラウリーが主人公である。離婚を2回している彼は性欲の処理に町で娼婦を相手にしていたが、聴講生に手を出し大学を追われる羽目になる。前半の三面記事にありそうな話は淡々と進み、続いて彼は娘ルーシーのもとに身を寄せる。そこで不本意な生活を黒人たちと送るうちに、ある日強盗傷害の被害にあう。同時に娘はレイプされる。
 当時の南アフリカ社会の暗部が描かれると同時に、その災難を力強く受けいれながらその土地で行き続ける娘との葛藤が描かれている。彼はそこで女性の獣医ベヴ・ショウの下で犬の屠殺に従事する。乾いたアフリカの空の下での性と死の日常がただ淡々と悪びれることなく描かれている。どこか割り切れてもいないし、悟りきれてもいない主人公は犬の屠殺という自分の仕事を続けていく。
 この小説は好き嫌いが分かれるだろう。私はどちらかというと前二作のような小説のほうが好きだ。ただ解決しなければならないが、どうしようもない社会の矛盾や人間の性(さが)をさらりと描いてみせながら重い読後感を確かに残す手法は小説としてさすがだといえよう。
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秘密の動物誌

 『秘密の動物誌』(ジョアン・フォンクベルタ、ペレ・フォルミゲーラ著、荒俣宏監修、管啓次郎訳、ちくま学芸文庫)を読む。以前筑摩書房から同名の題で刊行されていた本の文庫版である。謎の動物学者ペーター・アーマイゼンハウフェン博士が世界各地で写真に収め分析した珍獣の記録を紹介するという形の幻想動物誌である。
 有翼の蛙や像、多足の蛇、尾部が蛇となっている齧歯類、脚をもつ魚など驚嘆すべき動物たちの写真が掲載されている。その中には根室海峡で北海道の漁師たちに発見されたコック・バシロサウルスという恐竜の末裔のような生物もある。博士の友人である大阪大学の鹿鳴助教授は、この海洋生物を密かに保存していたという。なんとも楽しい幻想博物誌であるが、自然科学の体裁をとり写真で掲載されている(なんとX線写真まであるものもある)点が、いかにも現代らしい手のこんだ方法である。現在ならばさらにコンピュータグラフィックスを高度に駆使して、さらに”リアル”な珍獣を説得力のある形で提示できるに違いない。この珍妙な記述と写真を眺めながら、各時代によって、どのレベルの証拠(らしい)物件があると、その存在を他人に信用させることができるのかを考えてみるのも面白いだろう。現代人であれば、インターネットに写真つきで掲載されていればすぐに信用してしまうかもしれない。最近はメディアリテラシーなどといって安易に信用しないようにする教育がなされているようだが、基本的に相手を信じたいのが人間なのである。
 小さい頃未知の密林や絶海の孤島にはどれほど奇妙で恐ろしい生物が棲息しているかを紹介した本を読み、いたく感動した覚えがあるが、古代、中世ヨーロッパの珍獣譚から現代の怪獣にいたるまで未知の生物の存在に胸躍る興味を覚えるのは共通した心性のようだ。しかしこうした性向は(なぜかわからないが)一般的に男性のほうが強いようだ。これらの生物は、人間世界と縁のないところで密かに生活しているところが想像力を刺激する。これがあるとき人間の知るところとなり、捕獲されてしまうことは胸躍ることであると同時に秘密の世界の版図がまたひとつ狭くなったことを私たちに告げる。未確認生物の本体を知りたいと渇望しつつ、どこかで捕まらずに棲息していてほしいというアンビバレントな欲望があるかぎり、奇獣珍獣は生まれ続けるのかもしれない。
 偶然気づいたが、本書の中に登場するスカティナ・スカティナという謎の宇宙人のような生物は、この直前に読んだ『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』の巻末にある、ザルツブルク大聖堂博物館に収蔵されている奇妙な生物(おそらくエイの乾燥標本か)の写真とまったく同じであった。
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回転木馬のデッドヒート

 『回転木馬のデッドヒート』(村上春樹著、講談社文庫)を読む。
 現代の都市で生活するさまざまな人たちのちょっと変わった生活のスケッチ集といった印象の短編集だった。まず表題が変わっている。デッドヒートといえば、ふつうは直線コースをまっしぐらにゴール目指して競争していくものだが、それが回転木馬に乗った状態で行うというのだから。まずゴールがどこなのかはっきりしない。そして誰が先頭走者なのかも皆目わからない。先頭を走っている(走っているのかどうかも定かではないのだが)木馬は自分の先を行くのか、周回遅れなのか。それを決めるのはただ自分だけしかいない。そう都会生活者にとって、自分が果たして勝者なのか敗者なのかを決めるのは結局自分なのだ。したがってそれを気にしている人は自意識が過剰な人だ。そうした人たちが語る日常が小説家というフィルターにかかるときに、底に溜まる澱は、「なんとなく居心地の悪い気分」にさせるものであり、「身よりのない孤児たちのような」ものだという。語ることでは語りつくせない、語ろうとしても語りきれない、象徴化を拒み続ける、ある意味どうしようもなく残るモノがあるのだ。それをなんとかしようとする虚しい試みが表題の不自然さにはこめられている。
 夫のために海外で半ズボンを買おうとした30分のあいだに離婚を決めてしまった女性、タクシーに乗った男の絵に魅せられた女性、誕生日をきっかけに人生の折り返し点を自覚した男性など彼・彼女たちの語りはどこか哀しさを漂わせている。それがどこかといわれるとなんとも言いようのない哀しさである。人生の中にはおそらくいくつものエアーポケットが仕掛けてあり、気づかずに生きていく人たちには全く見えないのだが、ふとそれにはまってしまうとリズムが狂ってしまうような見えない渦があるのだろう。そこにつかまると前に進めず、いつも同じところをぐるぐると回ってしまうような、でも自分は前に進んでいると錯覚するような、そんな特異点があるのだろう。この不思議な短編集は、決してそれを描き出してはいない。だからそれがどんなものかは読んだあともはっきりしない。ただそれがたしかに”ある”ことは実感できる。そんな不思議な物語である。
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灯台守の話

 『灯台守の話』(ジャネット・ウィンターソン著、岸本佐知子訳、白水社刊)を読む。 シルバーと名づけられた女の子が母親と死別し、盲目の灯台守のピューの元で生活することになることから話は始まる。彼女の父親は港に偶然立ち寄った船乗りで、そこで「母さんの胎内に錨をおろした」。彼女の家は「崖の上に斜めに突き刺さって建って」おり、ある日足を滑らせ家の中から崖下へ転落してしまう。このとき彼女は十歳。「十年前、わたしは虚空をまっしぐらに落ちて母さんの岸辺にたどり着き、この世に生まれた。そして今また母さんがべつの虚空をまっしぐらに落ち、わたしの手の届かないところに行ってしまった」というわけである。なんとも不思議な始まりの小説だ。 彼女の親代わりとなったピューは代々灯台守をしている。盲目でありながら光を航行する船に投げかけ船を導く役目をしているという不思議な人だ。外に光を与える源でありながら、その内部は闇に包まれている。



 光が仕事なのに、わたしたちの暮らしは闇の中だった。光はけっして絶やしてはならなかったけれど、それ以外のものを照らす必要はなかった。あらゆるものに闇がつきまとっていた。闇は基本だった。わたしの服は闇で縁かがりされた。時化帽をかぶれば、つばが顔に黒い陰をおとした。(中略) 闇はひとつの実体だった。わたしはしだいに闇の中を見、闇を透かして見、自分の中にある闇が見えるようになった。


 そしてピューは彼女に物語りを語る。この地の先祖のダーク父子の話が語られる。物語の始まりは1802年ジョサイア・ダークがソルツを初めて訪れる。1814年にここに灯台建設が決定されたときである。ジョサイアの息子バベルは牧師となり、1850年にソルツの地を始めて踏む。しかも1859年にはあのチャールズ・ダーウィンと会っており、小説家のスティーヴンソンもソルツの灯台を訪れているという設定である。


 大海原を航海していくことを生きていくことに喩えられるなら、その道標となる光の導きが必要だ。しかしその光は常に私たちを照らしてくれるわけではない。不連続な光の明滅の中でそれでも私たちは自分の航跡を確かめるために自分の物語を語る。灯台守の話を読みながら自分の物語がちらちらと照らし出されるような、そんな不思議な気持ちがしてくる。



 ・・・これからわたしが語る物語は、わたしの人生の一部を語り、あとは闇の中に残したままにするだろう。あなたがすべてを知る必要はない。すべてなんていうものはどこにもない。物語それ自身に意味があるのだ。 人生が途切れ目なくつながった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。途切れ目なくつながった筋書きなんてありはしない、あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ。(中略) ほら、光の筋が海を照らしだす。あなたの物語。わたしの。彼の。それは見られ信じられるためにある。耳を傾けられるためにある。絶え間なく垂れ流される筋書きの世界で、日常の雑音を越えて、物語は耳を傾けられるのを待っている。


 年明け早々気ぜわしい世間をよそに、ゆっくりとした時間を物語りに浸りながら過ごず至福を味あわせてくれる佳品である。物語の中にでてくるタツノオトシゴをかたどった、クラフト・エヴィング商會による装釘もいい。


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ドストエフスキー 父親殺しの文学

 『ドストエフスキー 父親殺しの文学』(上・下)(亀山郁夫著、NHKブックス)を読む。
 年末から年明けにかけて読んだのが本書である。ドストエフスキーの人生(「伝記」)を辿りつつ、彼の小説に影響を与えた社会的事件を「事件と証言ファイル」として挿入しながら作品(「テキスト」)を分析(「講義」)していく著作である。
 「読者の皆さんには、どうか最後まで「眠らず」一気に読了されることを願ってやまない」と「はじめに」に記してあり、著者の意気込みが感じられる。(著者には申し訳ないが)一晩の睡眠をはさんで、年末年始をまたいで読了した。
 第一章ではドストエフスキーの父ミハエルの殺害事件がとりあげられている。この事件を分析して見せたフロイトはエディプス・コンプレックス理論を適応し、彼の父親殺害の無意識の願望を指摘した。この「父親殺し」のモチーフは彼の作品の随所に顔を出すが、とりわけ最後の大作『カラマーゾフの兄弟』では正面から取り上げられている。同時に著者は殺すことを「使嗾」するイワンの存在の重要性を指摘している。ドストエフスキーの小説を読むときに神と同時に悪(悪魔的悪)の存在に彼が正面から取り組んでいることがひしひしと伝わかるが、人間の行為が至高の存在によって使嗾されたものであるとしたらという可能性をこの著作で改めて考えさせられる。ドストエフスキーの小説にしばしば登場する道化的役割の人物もそうした使嗾された役回りを進んで引き受けている存在ではないだろうか。これは同時に嗜虐的・被虐的存在としての人間の意味について考える際にも重要な要素だろう。それにしてもこの作家の多重性、多層性、多中心性には恐るべきものがある。

 全編を通して随所に皇帝の暗殺未遂事件のことが挿入されているのを読むと、彼が生きた時代はまさにテロリズムの時代であったのだと実感する。そしてこれは宗教的対立がますます先鋭化する現代にも当てはまる状況ではないだろうか。初めてドストエフスキーの小説に触れたとき、その宗教性やロシアの土着性には全く違う時代の空気を感じていたのだが、いまこうして本書を読むと彼の作品は今まさに読まれるべきではないかということが肌で感じ取れる。著者が敢えて『カラマーゾフの兄弟』の新訳を世に問うたということは大変象徴的で、意義深いことだと思う。

 本書を読了後あわせて同じ著者による『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)も読んだ。こちらは表題の著作のダイジェスト版という感じで、もう一度要点を整理するのに役立った。上下二冊は重たいという人はこちらをまず読んでもいいかもしれない。

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