難病の母の介護・傷つきあいながらの12年間

2015-04-27 13:17:21 | 日記

  難病の母の介護・傷つきあいながらの12年間

 

  深夜放送の愛聴者の一人である。その私は、眠りにつく時間にかかわりなく必ずと言ってよいほど3時半頃に目を覚ます。私の体内時計はそのように組み込まれているのだろう。40余年にわたり労働者をやってきたことへの「ご褒美」である「毎日が日曜日」。何時寝ても、起きても良い。この日の早朝も4時ちょっと前に目が覚める。手元スイッチでラジオをON、エャーホーンを耳に差し込む。その時の番組が、「明日へのことば」(難病ALSの母の介護から学んだこと・2回シリーズ)日本ALS協会理事 川口有美子さんの1回目の放送であった。

  その日のアンカーは、川口さんを次のように紹介している。「川口さんが専業主婦だった1995年、実母が難病のALSを発症し、2007年に亡くなるまで12年間にわたって自宅で介護した。当時はまだ介護サービスが不足していて、疲れ果てた川口さんは、「ないなら自分で作るしかない」と、患者向けの事業所を設立。患者の意思伝達方法の研究を進める一方で、介護体験をつづった作品が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。番組では川口さんに、患者と家族の葛藤やコミュニケーション、尊厳死への考えなどをお話しいただきます」。

  介護の相手が誰であれ、12年間にわたる自宅での介護は並大抵のものではないだろう。言葉を語れない有美子さんの母親は、文字盤を手にして自分の意志を伝える。有美子さんはその文字盤を見ながら対応する。それこそ「ケンカ腰の」のやり取りが何回あったことかと。母親にしてみれば、思うようにいかない自分への苛立ちを文字盤に表す。娘である有美子さんにとっては、その苛立ちをやさしく包み込む余裕を失う。殺意を覚えたことがあったとも告白している。そうだと思う。よく介護問題を語るときに、識者はそれこそ物知り顔に「虐待」を取り上げる。また、これもかつての報道作品にあったが、老人施設での「身体拘束」がある。手を拘束しなければ体を掻きむしり、その傷が化膿する。あるいは排便をかき回してしまう。介護職員の数が圧倒的に不足をしている。ましてや深夜となればベットから這い出る人もいる。コールが鳴り響く。奇声はあちらこちらから発生する。日中より手がかかる。だが日中より介護者の数は少ない。このような状況が自宅介護の場合も同様となる。むしろ助けを呼ぶにも相手がいない。そこで拘束する代わりにベットの脇に添い寝となる。まず熟睡はできない。心身とも疲労困ぱいの状態に陥る。殺意を覚えたという有美子さんにとっては、「虐待とか身体拘束」といったことは「後出しジャンケン」のものであったろうと痛感し、報告を聞いていた。

  そして、その中で忘れられない報告を耳にする。そのような母親であっても時折落ち着くことがある。そのときは娘に感謝し、いたわりの言葉を文字盤に打つ。そして、「このような苦労をしないような世の中になってほしいと。最後に選挙が大事と打つ」。元気な時の母親は、地域の運動に熱心であり選挙を大事にしていた。そのことが蘇る瞬間を、まだ母親は持っていると有美子さんは報告する。それは4月23日・24日両日の番組であった。

  2日後は今年度後半の統一地方選挙日。全国軒並み40%の低投票率。「介護・医療・社会保障」はこれで良いのか。「難病老夫人」の声が天から聞いた想いとなった27日である。決して忘れることのできない重い「声」だった。