鉄道シリーズ 番外編その2。昭和9年12月号の時間表を見ていたら、思わぬタイムテーブルを見つけた。当時はまだもちろん鉄道がメイン、次が航路という時代だったが、もう航空路の民間輸送が3社で行われていたというもの。
まずは日本航空輸送であるが、東京発9時30分~名古屋11時20分着、30発~大阪12時20分着、13時発~福岡16時着、20時40分発~蔚山22時30分着、40分発~ソウル0時40分着、50分発~ピョンヤン2時着、2時10分発~新義州3時10分着、20分発~大連4時着という壮観な航路。運賃も東京~大阪でも30円かかった。
国内では東京航空輸送社が、東京~下田~清水という航路を1往復、時間は片道東京から清水で2時間半かかった。この会社は相羽有という飛行機好きの民間人が紆余曲折を経て1928年に作った民間航空会社で1929年に東京~下田の民間航空輸送を始めたもの。その後、4人乗りの愛知ABー1号機の貸与を受け、エアガールを乗せた航空事業も展開したが、戦争に向かう時代の流れの中で1939年に大日本航空設立に合わせ解散した。
さらに日本航空輸送研究所が大阪~高松~松山という航路を1往復である。これも大阪から松山まで2時間40分かかった。この会社も1922年に徳島県出身のタクシー会社経営者井上長一により設立された民間航空輸送会社だったが、東京航空輸送社同様国策会社である大日本航空設立に合わせ解散している。
一方、大日本航空は国策会社であり、日本航空輸送をベースに1939年12月に設立、国際線、国内線の運航を1社に独占させた。そして上記2社以外にも日本海航空、安藤航空の2社もあったが、これら4社は全て解散した。しかし、太平洋戦争終結と同時にこの大日本航空も解散した。何れの航空会社も短い間しか存在できなかったが、当時民間でも飛行機を飛ばしたいという先人たちの思いを感じ、少し詳細に調べて見たくなった。