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hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

『久我山歳時記』(62)〜穀雨となり

2025-04-20 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(62)、4月20日は『穀雨』、名前の通り、地上にある穀物にたっぷりと水分と栄養がため込まれ、元気に育つように恵の雨がしっとりと降り注ぐ季節である。

僅かの間に『寒さ』を心配することがなくなった反面、もう『暑さ』が気になりはじめ、真夏日も散見されるようになった。

七十二侯では『葭始生(あしはじめてしょうず〜4月24日)』『霧止出苗(きりやんでなえいずる〜4月29日)』『牡丹華(ぼたんはなさく〜5月4日)』とある。

4月11日から短い旅行に出て、13日に帰ってきたのだが、房総地方はもう花がどんどん咲き始め、館山や千倉の花摘み農園ではストックやポピー、ガーベラ、きんせんか、ベニジュームなも色とりどりの花が咲き乱れていた。



しかし、旅から帰ると久我山の街も一変していた。急に花が咲き始め、気が付かないうちにハナミズキが満開に。久我山の庭木にはハナミズキが多いが、ピンク、赤、白といった花をたくさんつけている。



よく見るとハナミズキも種類により、葉がかなり出ているもの、まだ、花だけが咲いているものと色々あるのに気づく。殆どのハナミズキは満開だが、我が家の背の低いハナミズキは芽が出たばかり、早くともあと2週間はかかるだろう。




庭の花と言えば、昨年ほぼ花が咲かなかったスズランが葉が出て、蕾が付いた。春の香りがするスズランが満開になるのが、待ち遠しい。




香りと言えばジャスミンの白い花が咲いていることを香りで確認した。通勤路の窓に巻きついているのだが、端の方から開花、いい香りがする。



他にも香りがするのが黄色の花が咲くカロライナジャスミンの花も咲き始めている。バラやニオイバンマツリもじきに咲き始める。



木に咲く花ではサツキが赤や白の花が咲き乱れ、リンゴの木にも白い花が付いている。



七十二侯にもあるボタンの赤い大きな蕾も色がつき始め、もうすぐ咲くのではという状態。



我が家のそばのお宅に巻きついて花を咲かせているのがフジ、他にも鉢植えのフジの花が長い花房を下げていた。



ただ、フジの花は甘い蜜が多いのか、蜂の攻撃には気をつけなくてはならない。

伊勢山皇大神宮にお参りする

2025-04-15 05:00:00 | 日記
野毛山不動尊にお参りした際に伊勢山皇大神宮の場所を尋ねると歩いて5分も掛からないと聞いて参拝することにした。


(野毛山不動尊の横を行く)

伊勢山皇大神宮は天照大御神を祭神とする横浜総鎮守である。明治3年に横浜が開港し、貿易の町として発展を遂げたがら住民の精神的支柱として神社創設が望まれた。このため、かつて武蔵国国司が伊勢神宮から勧請した戸部村の神社を同年4月に遷座したものである。

この場所が選ばれたのはすぐ裏手に1859年に神奈川奉行所が設置され、主要な道路も裏手に通る(横浜道、現在の横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線)などからだったようである。



元々、伊勢山皇大神宮は神奈川県知事井関盛良により創建されたことからも県との関係は密接であった。



大鳥居をくぐり、石段を登ると再び鳥居、だんだん茅葺きの神明造の本殿が見えてくるように設えてある。建物は2018年に創建150周年を記念して伊勢神宮から内宮旧西宝殿が下げ渡された由緒ある建物である。



鳥居側に『照四海』と名付けらた高さ6mの常夜燈が置かれている。これは横浜港の守り神を象徴していて現在の建物は二代目である。



お参りの後、社務所に伺い、御朱印を頂いて裏門からまっすぐ行くとバブル時代に神社が破産に追い込まれた高級ホテル、横浜開洋亭の跡に2010年に造られた伊勢山ヒルズが建っていた。



今は結婚式場とマジャーレ伊勢山という高級イタリアンレストランを営業しているようだ。




花見は毎年行きます②〜井の頭公園に足を伸ばしました

2025-04-09 05:00:00 | 日記
高井戸公園での花見は約60分、スマホでセンバツの決勝を聴きながらチューハイを開ける。これ以上飲むの眠くて使い物にならなくなるため、お酒はおしまい、足も痛くなってきたので店じまいをした。



高井戸公園の周りをぐるり歩くと旧NHKグラウンドのエリアに入る。野球とサッカーのグラウンドはそのままだが、トイレや管理棟などが新たに作られていた。シンボルツリーのもみの木を右に見て富士見ヶ丘駅に向かう。





夫婦2人で歩くとついつい子供が小さかった頃の話になってしまう。子供たちも皆、40近くになっているというのに。

富士見ヶ丘駅から2駅乗り、井の頭公園駅で降りる。駅周辺にもオシャレな店が増えたらしいが、あまり足を運んだことはない。駅周辺から人の数が増えた気がする。





階段を降りて公園に入るとブランコの周りに人垣ができている。子供たちには遊具が人気がある。神田川のスタートである水門橋を渡り、池の周りを歩く。先ほどの高井戸公園とは違い、立錐の余地もないほどの人、地面が見えないほどシートが引かれ、家族連れを中心に花見もたけなわ。午後1時のため、日も高く、花も美しい。



池の周りを歩いていくとたくさんのボートがでている。ただ、以前はもう少し多かったように思う池に張り出したソメイヨシノは一部は枯れ、一部は枝の落下防止のため落とされてしまったのか、少し寂しくなった気がする。





それにしても花見に折りたたみ机や椅子、パラソルなどを一式調達してじっくり花見をする集団や日本酒の一升瓶(銘酒)を並べて準備をしている人など、ゴザの上にごろ寝をして場所取りをするなどと言うことは一昔前のことのようである。

(25/3)
(21/3)
七井橋に向かうが、橋の袂から殆ど身動きが取れないほどの人、それでもようやく橋の中央まで行き、池の全景を写メに写した。毎年、同じような花を見ても毎回楽しいのが花見である。









『久我山歳時記』(61)〜晴明の輝き

2025-04-04 05:00:00 | 日記
春分から15日が過ぎていて4月4日は『晴明』である。晴明(せいめい)とは万物が清らかに生き生きとした様子を表した『清浄明潔』という言葉を訳した季語であり、花が咲き、蝶が舞い、空は青く澄み渡り、爽やかな風が吹く時期である。

さらに詳しい七十二侯では『玄鳥至(つばめきたる、〜4月8日)』『鴻雁北(こうがんかえる、〜4月13日)』『虹始見(にじはじめてあらわる、〜4月19日)』となる。

燕は渡り鳥のため、2021年以前は気象庁が生物季節観測と言って天気予報の一環で情報を観測していたが、今は梅、桜、アジサイの開花の3項目のみに絞ったため、民間の調査しかない。少し古いデータによると燕の初飛来時期は平年は3月28日、2015〜2020年のデータでも最も早くて3月23日、遅くて4月4日だからほぼ七十二侯に合致している。ちなみに久我山駅にはかつては毎年燕が巣を作っていたが、今はあまり見なくなった。







久我山を散歩すると、今はソメイヨシノは満開、他の桜は咲いているか、早咲きのサトザクラやヒカンザクラなどは咲き終えた。花見に行った時に周りをよく見るとレンギョウやボケ、ドウダンツツジ、モクレンなど木に咲く花も数多く咲いている。





コブシ(辛夷)やハクモクレンといった花びらの大きな花は迫力がある。また、モモやボケのように源平咲きをする木もあり、白い花と赤い花が同じ枝から出ているのも珍しい。虫が増えてくると虫媒花や鳥媒花は一斉に花を付けるらしい。




花の咲く木ばかりではなく、もみじや欅なども木も新芽が膨らみ、それが黄緑色の葉になって夏の濃いグリーンの木とは違い、この時期は美しくみえる。


それとともにチューリップやパンジー、クロッカス、ヒヤシンスのように花壇やプランターに植え込んである花が増えてきた。





花見で座っていたら、すぐ横にかつて植えられたと思われるムスカリが野生にもどったのだろうか、一本だけが紫色の花を付けていた。



雑草扱いされてはいるが、ナガミヒナゲシのオレンジの花や小さな花を付けたスミレなども健気に頑張っていた。

久我山ではツツジ(躑躅)、バラ(薔薇)、ハナミズキ(花水木)などが咲き始めるが、気がつくともうGWとなってしまうのである。

花見は毎年行きます①

2025-04-02 05:00:00 | 日記
『花見』を一家総出で行うようになったのは結婚して子供ができてからである。実家の家族は父親が,花見に興味を示さず、一度も行ったことはなかった。しかし、学生時代にサークルで一度行って以来、その良さを実感、生まれたばかりの子供と花見に行って以来、ほぼ毎年の行事となっている。

久我山には途中ブランクはあるが、住み始めたのが1991年、誰に教えてもらったのかは忘れてしまったが、京王井の頭線富士見ヶ丘駅から徒歩5分のところにかつてあったNHKグラウンドに行き始めた。広いグラウンドの周りに立派なソメイヨシノが30本近く植えてあり、地元住民が大挙して行く。ただ、黙認してくれていたこともあり、大々的に宣伝されることもなく、空いていた。また、井の頭公園のように地面が硬い土ではなく、芝生のため、子供が転んでもOKであった。


何があったのかは知らないがグラウンドは閉鎖され、管理もされずに放置されたが、ソメイヨシノは相変わらず咲いていて我々もお邪魔していた。杉並区がこのグラウンドと隣にあった旧本州製紙寮及びグラウンドを合わせて開発し、高井戸公園となった。今はこの公園に花見に行く。我が家からは15分ほど歩くが、神田川沿いの歩道にはソメイヨシノが植えてあり、これを見ながら公園まで。





右側には京王の検車区があり、ソメイヨシノばかりでなく、ナガミヒナゲシや土筆、スギナ、スズメノエンドウ、スイセンなど小さな植物も多数生えている。



橋を渡り、少し行くと公園の入口に到着する。入口のソメイヨシノは立派な大木でそばに朱色が鮮やかな木瓜、白い花のアシビや黄色い花が鮮やかなレンギョウ、紫のモクレンなどソメイヨシノ以外の植物もうえてある。





ゆるい坂を登った平坦なところにレジャーシートを敷いておにぎりを食べながらビールを飲む。これぞ至福の一時である。今いるあたりは旧本州製紙寮跡あたり。大きなソメイヨシノも多いが、新しい木に植え替えられたものも多い。(以下次回)








水天宮駅前のソメイヨシノの1週間

2025-03-29 05:00:00 | 日記
毎年のことだが、今年も桜、正式にはソメイヨシノの季節がやってきた。昨年より数日遅いが、3月21日から水天宮駅出口前にある一本の木を観察してみた。




(3月21日)
まずは3月21日、そろそろ開花日が近づいてきたというニュースが流れてはきたが、ソメイヨシノはまだまだ蕾は固く咲くという雰囲気ではない。ついでに蘖(ひこばえ)も見るが、こちらもまだだった。







(3月24日)

土日を跨いで24日は東京の開花宣言があった日。急に暖かくなり、開花が早まる。それでもまだ開花には至らない。ひこばえを見ると蕾の先端がわずかにピンクとなっている。



ただ、お隣の少し日当たりの良い木のひこばえはもう開花、可愛らしい花が10輪ほど咲いていた。







(3月25日)
25日はいよいよかと喜んだが、遠くから見てもまだ花は開いていない。しかし、道路側の数輪が確かに開いていた。蕾も膨らみ、いよいよ咲き始めることを確信させてくれた。





(3月26日)

26日にはすでにかなりの花が咲いている枝とまだ全く咲いていない枝があることに気づく。もう一本の日当たりのいい木はかなりの数の花を見ることができた。





(3月27日)

27日は天気は曇っていたが、気温は20℃を越え、厚着をしていると額に汗が出てくるほど。この気温の影響だろうか、もう十分花が開き、お花見をしても良いくらいである。







(3月28日)

28日は午前中雨が降り、花の色が白くなりそうである。もう3〜4分くらい咲いている。気温が高いので一気に開花スピードが早まり、週末に花見に行こうと思っているが、あまり咲きすぎるのも困る。まあ、これは人間が勝手に考えているだけだが。

(日本橋小学校前)

(堀留児童遊園)

28日は他のソメイヨシノも見に行く。事務所の前の公園の木はほぼ満開、僅か5日ほどでここまで咲いてしまった。





(江戸桜通り)

室町COREDO付近にある江戸桜通りももう満開の木が連なって大変美しい。
夕方、再度水天宮前駅出口のソメイヨシノを見に行くと明らかに朝より花は開いており、もう満開と言ってもいいくらいである。





(3月28日17時)

今年のソメイヨシノは短距離走のようであった。来週の月曜日まで保つのだろうか。


『久我山歳時記』(60)〜春分を迎えて

2025-03-20 05:00:00 | 日記
『春分』となった。この時期よく聞く言葉に『寒さ暑さも彼岸まで』というのがあるが、今年は気温の上下が激しく、最高気温が20℃を上回るかと思えば、19日のように雪が降ることもある。

(歩道の雪)

しかし、概ねこの格言は正しい。データを見ても3月20日の後は最低気温が上がり、10℃を切る日が急に少なくなる。昨年は20日〜23日頃は寒気の影響で最低気温が2℃くらいにはなったが、24日以降は上がり、また、最高気温は20℃を越す日が珍しくなくなった。

桜(ソメイヨシノ)の開花日は東京平均では3月24日。2021年と2023年は3月14日だったが、今年はどうやら平年の通りになりそうである。

3月20日が春分の日であるが、七十二侯では『雀始巣(すずめはじめてすくう・〜3月24日)』『桜始開(さくらはじめてひらく・〜3月29日)』『雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす・〜4月3日)』となっている。そういえば17日には近くの神社の境内で盛んにチュンチュンという雀の声、19日には春雷も聞いた。

(サトザクラ)


(ヒカンザクラ)

久我山も急に花が咲き始めた。桜の仲間で早咲きのサトザクラ、ヒカンザクラなどやや色の濃い桜が咲き始めている。



例年のことだが、久我山駅の名物にもなり始めた『久我山桜』も(久我山桜とは学校が多い久我山駅を利用する学生の卒業・入学を祝うため、窓に幹に見立てた紙を貼り、そこに寄せ書きを書いた桜の形の色紙を貼るイベント)

卒業式が始まる今ごろにはもう貼る場所がないほどの花が咲き誇っている。

(ハクモクレン)

(モクレン)
木全体に咲く花としてはハクモクレン(白木蓮)や木蓮が比較的大きめの花を木全体につけて美しい。低木ではあるが、ユキヤナギの白い花も枝全体に白い花を付けている。

(ユキヤナギ)

ちなみにユキヤナギという名前ではあるが、これは枝の形状が柳のように垂れているからでバラ科シモツケ属の低木である。

(アブラナ)



(ヒメソバツル)

少し前から菜の花(アブラナ)が黄色い花を付けている。さらに日当たりの良いところに群生するヒメソバツルのピンクの花を見かけるようになってきた。

(ジンチョウゲ)

良い香りがするのはジンチョウゲ(沈丁花)、よく見ると白い花とピンクの花があり,どちらも美しい。日当たりのそれほどよくないところにひっそりと植えてあることが多い。



(昨年のソメイヨシノ)

いよいよ、あとはソメイヨシノが咲くのを待つばかり、3月最終週の週末あたりが満開になるようである。私は今日はお墓参りに行きます。

再建された荻外荘を訪れる②〜スローモビリティにも乗車

2025-03-09 05:00:00 | 日記
荻外荘見学の続き。蔵の隣は喫茶室とショップとなっている。土曜日の午後ということもあり、たくさんの人。ショップでは絵葉書や風呂敷、バッグなどのノベルティを販売している。



戻って茶の間の先を右に曲がり、客間に向かう。ここは荻外荘の写真で最も有名な荻窪会談が行われた場所。荻窪会談は1940年7月19日に近衛文麿が組閣を行なうにあたり、海軍大臣になる予定の吉田善吾、同じく陸軍大臣候補の東條英機、外務大臣候補の松岡洋右の4人が日独伊三国軍事同盟の是非や長引く日中戦争の帰趨などを議論した。

戦争回避を目指した吉田と近衛に対して特に東條が反対、結果第二次世界大戦参戦に向かい突き進むことになったターニングポイントである。



VRも備えられていて当時の様子と重ね合わせることもできる。飾られていた人形や亀と海老の剥製なども再現されている。近衛文麿が座った渦巻きの模様がある椅子も当時のものとそっくりであった。



お隣は食堂、ここも壁紙まで忠実に再現され、中のモニターでは解説のVTRを見ることができる。10年にも渡り再建した過程、特に邸宅の半分は豊島区に移築後、再びこの地に再移築し、当時の様子(最初に作られた姿)の再現をする苦労や戦後吉田茂が首相になった頃に荻外荘に一時住んでいた様子など知らなかったことを多く知った。



その隣の書斎は昭和20年12月に近衛文麿が服毒自殺をした場所であり、歴史の重みを感じた。

また、ここからは庭を一望することができ、またVRを使いその復元もなられていて当時は下に降りたところに池があり、その先には水田が広がっていた状況がよくわかる。水田は集合住宅となってしまったが。

建物の見学を終えて外に出る。砂利道を歩き、坂の下から眺める。池の跡は芝生となり、ここから眺めると堂々とした建物の全景を見ることができる。当時のままだろうと思われる木も残されて武蔵野の雰囲気を味わうことができる。



昨年11月からは荻外荘下にスローモビリティが通っている。駅〜大田黒公園〜荻外荘公園〜荻窪2丁目〜駅を20分かけて循環運転しており、100円で乗ることができる。



バス停は前におばさん1人、その後ろに我々2人が並び、後ろにはおじさん1人。使われている車両は4人乗りのゴルフカーとと7人乗りのバスなのだが、やってきたのは4人乗り。ここで1人乗っているので我々までで満員となってしまう。




カートに乗って公道を走るのは不思議な感じがする。目線が低く、ゆっくり走るのでお店探しなどにはもってこいであった。無事に8分で荻窪駅西口に到着。ここでもう一台のバスも見ることができた。






再生された荻外荘を訪れる①

2025-03-07 05:00:00 | 日記
ようやく春らしくなり、気温も上り、天気も良かったので散歩方々最近オープンした『荻外荘(てきがいそう)公園』まで出かけることにした。

出発は午後2時半、我が家からは北東方向にあるため、まずは西高そばから井の頭通り、五日市街道、神明通りと歩き、右に曲がる。環八を渡り、まっすぐ行けば到達、3.7kmだからのんびり歩いても1時間はかからないくらいの距離である。

家を出て順調に歩くが予想外に暑い。ついこの間までは日向を狙って歩いていたのだが、日陰側の歩道を歩くとは。神明通りを右に曲がると急に道が広くなり、与謝野晶子夫妻が過ごした家が近くなる。



環八を渡ると少し上りになり、善福寺川を越えると急に左右に大邸宅が現れる。そうした街並みの中、右手に荻外荘は今も『近衛』という表札がかかる邸宅に入る。



入口から続く並木の木も大きく、屋敷の時代を感じる。荻外荘は1927年大正天皇の侍医頭を務めた医師・入澤達吉が楓荻荘として1927年に建設、1937年に首相となった近衛文麿が別荘を探していることを知った入澤が近衛に譲ったものである。

その後も含めて3回首相を務めた近衛が要人と会談を開き、太平洋戦争に関する重要な歴史の転換がこの地で行われた。さらに首相の地位を辞したのちも近衛はここに暮らすが、GHQからの呼出期限である1945年12月にこの邸で服毒自殺を図ったのである。



入口横に券売機があり、1人300円の入場料を支払い中に入る。混んでいるという噂を聞いていたが、それほどでもない。中に入り、左側にある屋敷の玄関から見ることにした。





玄関を上がると来客用応接室があり、床はタイル張り、つまりここまで土足のまま入れるようになっている。机は美しい螺鈿細工、飾り棚には中国製の陶器、天井から降りる掛け軸もある。後のビデオで知ったのだが、ここで近衛は記者会見を行ったのである。

少し目線を上げると『荻外荘』と書かれた看板がある。これは建物の名付け親である、西園寺公望により揮毫されたものである。

部屋の前には大きな太鼓、尚武太鼓が置かれている。これは1940年の組閣の際に打ち鳴らしたものである。



和室に行くと近衛夫人・千代子の生家前田家より杉並裁縫学校(現、荻窪高校)より贈られた7段飾りのお雛様が飾られていた。これは杉並裁縫学校の土地が前田家からの借地だった縁から贈られた物である。

蔵を見ると中には近衛文麿氏の礼服や陶器製の庭のエクステリア、箪笥などが置かれていた。(以下、次回』