hokutoのきまぐれ散歩

ブログも11年目、遂に3900日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

関東三十六不動尊⑧〜目赤不動尊

2024-04-19 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑧、目青不動・目白不動と巡ったが、今回は目赤不動尊にお参りする。東京メトロ南北線本駒込駅を降りてわずか1分でお寺の前に到着。

第13番札所大聖山東朝院南谷寺は比叡山南谷出身の万行律師が江戸時代初期の元和年間(1615〜1624)に伊勢国赤目山で不動明王像を授けられた。この尊像を護持し、諸国を巡り、駒込村動坂に南谷寺を創建したものである。因みにこの不動尊(当時)の前の坂道が『不動坂』と呼ばれ、これが現在の動坂である。



1628年3代将軍家光が鷹狩りに訪れた際にそれまで『赤目不動』と呼ばれていた当寺の本尊を目白不動・目黒不動同様に『目赤不動』と呼び、現在の土地を与え、大聖山東朝院と号するようになったのである。


本駒込駅を降りるとあいにくの雨、北へ少し歩くと左側に文京区が建てた『旧駒込片町』の案内板、『目赤不動』の由来についても記されていた。

『目赤不動尊』と石に刻まれた門柱、中に入ると奥に阿弥陀如来を祀る本堂、その手前右側に目赤不動堂が設えてある。



手前には六地蔵が並び大日如来の坐像が置かれている。不動明王は大日如来の化身ということになっているからであろう。



不動堂は雨のため中に入ることができず、外から手を合わせることにする。奥には不動明王像が安置されていることが分かった。



また、旧目赤不動跡は動坂上に不動堂としてあったのだが、戦災で失われ、再建はされた。しかし、1983年に南谷寺の不動堂が再建されると旧跡地は役割を終え、1985年の区画整理の際に取り壊された。今は動坂の脇に残されている説明板に詳細が書かれているのみとなっている。






関東三十六不動尊巡り⑦〜神木不動尊

2024-04-09 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑦、今回は第6番神木(しぼく)不動尊、正式名称・神木山等覺院にお参りする。今まで回った6ヶ所の霊場はいずれも東京都内にあったが、36ヶ所の内訳は東京19、神奈川7、埼玉5、千葉5となっている。神木不動尊は川崎市宮前区にある。アクセスは東急田園都市線溝の口駅・JR横浜線武蔵溝の口駅や小田急線登戸駅・向ヶ丘遊園駅からバスに乗って行くのだが、バス便は意外に多く、困ることはない。



ただ、神木本町バス停からは少し歩くので神木不動前バス停からの方が分かりやすい。ただ、お寺は道路を渡り、3分ほど細い道をぐねぐねと曲がりながら歩くと急に歴史を感じる仁王門かが見えてくる。明治15年に造られた堂々した門で左右に仁王像が祀られている。

門を入ると目の前の斜面にツツジが植えられていて、その間に不動明王像が配されている。



等覺院の由緒はよくわからないが、江戸時代の書物には名前がある。本堂は安政年間(1855〜1860)に造られたものである。また、言い伝えでは東夷征伐に日本武尊が喉の渇きを覚えた時に現れた白鶴に導かれ、泉の湧き水を飲んだところ疲れが癒えて、泉に感謝を込めて木を植えた。この木は神木と崇められ、その後訪れた円珍(智証大師)が本尊の不動明王像を刻んだと伝わる。

周囲がツツジの木で囲まれた先に本堂があり、中に入る。前には奥の方に立派な不動明王像と脇侍の絵が2つ。



入口左には大きな不動明王坐像、その姿に圧倒される。その姿を凝視すると何か見透かされているような、心の中を見られているような不思議な気分となる。

隣には賓頭盧尊者、通称おびんづる様の像、地蔵菩薩像などが並んでいる。静かな堂内であった。もちろん、本尊の不動明王像は秘仏のため見ることは叶わなかったが。



寺務所に行き、御朱印などを頂き、不動明王坐像の迫力と外の風景の美しさを話すとここは少し高いのでよく見える。さらに上にある稲荷神社に行くとさらにいい風景が見られますと言われ、本堂を出て右の方から稲荷神社に上がる坂道を歩く。



足元にはスミレの可愛らしい花が咲いていて思わず写メを撮る。階段の上に登り、稲荷神社にお参りの後反対側を見ると確かに高速道路と向こうの山まで見ることができた。僅かに都会を離れた静かなお寺で静かな時間を過ごすことができた。







関東三十六不動尊巡り⑥〜目白不動尊

2024-03-30 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑥、今回は第14番札所目白不動尊をお参りした。目白不動尊の正式名称は神霊山慈眼寺金乗院で真言宗豊山派のお寺である。実は私の義両親の墓があるお寺からほど近く、お彼岸に墓参りをした後、伺った。

目白不動尊と言えば江戸五不動(目黒、目白、目青、目黄、目赤)の一つである由緒あるお寺であるのだが、元々この不動尊像はこの寺にあった訳ではない。二代将軍秀忠の命により奈良の長谷寺の本尊と十一面観世音像を関口台(文京区関口)に新長谷寺を建立。



さらに三代将軍家光は当山の本尊断臀不動明王に目白の名を送り、五色不動の一つとした。このため、関口周辺を『目白台』と呼ぶようになった。しかし、太平洋戦争で全焼、この金乗院に遷座することとなったのである。

断臀不動明王像は弘法大師作と伝わりられ、かつては50年に一度開帳される秘仏であった。その縁起によると弘法大師が湯殿山に参籠された際に大日如来が現れて不動明王の姿に変じ、大師に『この地は諸仏内証秘密の浄土なれば有為の穢火をきらえり。故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火を与うべし』といわれた。

持っていた剣で左側の臀を切ると、霊火が盛んに燃えいでて、仏身にみちあふれた。その姿を2体に刻んで1つを同国荒沢に安置、もう1つを自ら護持した、というものである。



金乗院の山門は江戸時代(約200年前)建立されたもので屋根部分は焼失したものの、全焼は免れた。これを1988年に修理したもので、立派な外観を誇る。

境内に入ると右手に本堂、本尊は金銅仏の聖観音像。お堂は1945年4月の空襲で全焼し、1971年に再建されたものである。
その前には『倶利伽羅不動庚辛』、1866年に建てられた不動明王の法形を表した庚申塔で姿は珍しいものである。



階段を上がると不動堂、お堂の奥にパンフレットの表紙と同じ不動明王像。たしかに右手の下に炎が出ている力強いお像。



5月と10月の各28日には開帳されるとのこと。ぜひ実物に手を合わせて見たいものである。

関東三十六不動巡り⑤〜宝仙寺

2024-03-22 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑤、今回は15番札所宝仙寺に伺った。正式には『真言宗豊山派明王山宝仙寺』、東京メトロ丸の内線中野坂上駅で下車をし、青梅街道を荻窪方面に5分ほど歩くと宝仙寺の信号が出てくる。これを渡ると山門前に到着する。

宝仙寺の由来は平安後期に源義家により創建された。義家は後三年の役で奥州を平定、帰途に陣中で護持していた不動明王像を安置するために建立をしたものである。





境内の入口には山門、仁王像が2体納められ、睨みを効かせている。境内に入ると石碑があり、『中野町役場跡』とある。ここに明治28年から昭和初期まで区役所があった。



すぐ目の前には三重塔、もとは寛永年間に今の第十中学の校庭に高さ24mの塔があり、江戸時代には名所であった。しかし、昭和20年の空襲で焼失、その後平成4年に法起寺三重塔を模した塔が再興された。なかなか立派な塔である。



本堂には不動明王像が安置されているが、これはお前立ちで鎌倉時代に作られたもの。本尊は鎌倉時代に秘仏となった。他に降三世明王、軍茶利明王、金剛夜叉明王、大威徳明王も合わせ、五大明王が安置されている。



御影堂は三重塔と同じく平成4年に作られたもので中には2.4mの弘法大師像が安置されていた。



境内は広く、整備されていて左側には広い墓地、その前に引導地蔵尊坐像が並べられ、そばの石仏は明和9年に作られたものである。

他にも多くの臼が山のように積まれた臼塚や鎌倉時代の無名五輪塔など歴史を感じさせられる碑が、あちらこちらにあり、ゆっくり見ているうちにあっという間に1時間くらい経ってしまった。




関東三十六不動巡り④〜不動院

2024-03-14 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り④、今回は第22番札所不動院に伺った。蔵前でラーメンを食べた後10分少しを歩いて到着。表通りから一本入った静かなところにある。

山門をくぐると3階建のコンクリート製の本堂の入口がある。階段を上がり、ガラス戸のそばまで行くと中から御住職がお見えになり、戸を開け中に入れてもらう。



玄関前には少し時代がかったお雛様の7段飾り、『まだ飾られているのですか』と私が尋ねると『なかなか片付けようと思ってもついつい決心がつかなくて』、何処も同じである。

当院は真言宗智山派のお寺で本山は京都智積院とか、まずは3階の本堂まで上がり、お参りをする。

奈良時代の良弁作と伝わる不動明王像、これには長年の願いであった母との再会を果たしたのち、このような母子別離の悲しみが世の中からなくなればという思いをこの木像に謹刻したと伝わる。このため、『子守り不動』と呼ばれている。言われてみれば優しいお顔の不動明王像である。

他にも仏像は多数置かれているが、右手の部屋に置かれていた三尊は脇侍が十一面観音と地蔵菩薩。しかし、本尊は御住職に伺っても分からなかった。
本尊の良弁作の不動明王像は幾度となく変転を重ね、肥前国平戸の松浦氏の守護仏として祀られていた時には島原の乱平定に霊験を顕わし、深く信仰された。その後、元禄10年に平戸藩主松浦鎮信が当院は松浦藩上屋敷の鬼門にあることなどから松浦家の祈願所とし、良弁作の不動明王像など松浦氏に伝わる仏像を寄託した。なお、今の本堂は1965年に落慶したものである。

住職に『この辺りはお寺が多いみたいですね』と尋ねたが、『かつては多くあったお寺も練馬区や烏山など随分減って寂しい限りです』とのことであった。浅草の喧騒とは打って変わって静かな場所にひっそりしていて、参拝するにも心落ち着くお寺であった。
私は蔵前駅から歩いたが、帰りは浅草通りに出て右に曲がるとすぐに銀座線田原町駅、途中何軒もの仏具屋さんがある。






関東三十六不動巡り③〜目青不動尊(教學院)

2024-03-08 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動巡り③、3番目に伺ったのは第16番札所の教学院である。正式名称は『竹園山最勝寺教學院』、通称『目青不動』とよばれている。江戸五不動は東西南北中央の5つの方角を指していて、目黒、目白、目青、目黄、目赤。ただ、目黄が2つあるため、6寺となっている。

目青不動は世田谷区太子堂、東急世田谷線(玉電)の終点三軒茶屋電停を降りて進行方向とは逆に少し歩くと線路沿いに山門が現れる。



教學院の創建は1311年で当初江戸城紅葉山にあった。ご本尊は阿弥陀如来で太田道灌がこれを麹町に移し、さらに赤坂、青山などを転々とした。江戸時代には寛永寺の末寺となったが、1909年に現在の地に移転した。

目青不動は正善寺(麻布谷町)の本尊であったが、同寺が廃寺となり、教學院に移されたものである。目青不動尊は慈覚大師円仁作の像であるが、秘仏として厨子に納められ、我々は拝むことができない。その代わりのお前立ちの不動尊は1642年の銘がある青銅製の1m余りの像である。



山門からお寺に入ると正面に不動堂があり、こちらにも納経所とあるが誰もいない。まずは不動尊に手を合わせようとするが、本堂は戸が半分しか開かなかった。中に入ると少し暗いが不動尊像ははっきりとみることができた。ちなみに『目青不動』と言っても別に目が青いわけではなく、かつて青山にあったことから『目青不動』と言われるようになったらしい。

ちょうど梅の花が咲き誇り、左手奥に本堂があるが、こちらは正面の戸が閉まっていた。横に生えている大木は『チシャノキ』である。



左手の庫裏の建物に『納経受付』と赤字で書かれていて中に入る。上品な女性に対応していただき、御朱印と今年の暦などを頂いた。


その際に不動堂の戸が半分しか開かないことを聞くとつい先日も賽銭泥棒にあったため、少しでも用心になればと戸を半分しか開かないようにしたとのこと。また、私が三十六不動巡りを始めたばかりと話すと10年以上かかる人もいらっしゃるとか。



外に出て境内を見て歩く。大きな石碑には『獣魂碑』、これは食肉の組合が建てたものらしい。振り返ると庫裏の後ろにキャロットタワー、現代らしい風景である。

帰りに山門から玉電が横切る姿を写メに収めて帰ることにした。




関東三十六不動巡り②〜薬研堀不動院

2024-03-02 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動巡り②。2番目に伺ったのは第21番札所の『薬研堀不動院』である。正式には大本山川崎大師平間寺東京別院薬研堀不動院、つまり川崎大師の東京別院ということになる。

由緒は1585年豊臣秀吉の兵火にあった際に根来寺の大印僧都が尊像を守護して籠に入れ東国に下った。やがて隅田川そばに1591年堂宇を建てたものである。ご本尊は秘仏で1137年真言宗の中興の祖と言われる覚鑁上人が43歳の厄年を無事に済まされたお礼に紀州根来寺に安置されたものである。

今の川崎大師別院となったのは1892年のことで今は東京三大不動として目黒不動、目白不動と共に信仰を集めていて江戸名所図会にも載っている。



場所は都営浅草線東日本橋駅から歩いてすぐのところにある。細かい場所がわからなくても沢山の幟と参道を示す石柱があるのですぐに到着する。

不動院の前に到着するとニ階建てとなっている本堂に上がるのだが、階段が結構急である。実は関東大震災で旧本堂が倒壊してしまい、街の再開発も相まって今の本堂は狭い敷地に二階建てにせざるを得なかったのである。



本堂に入るとご本尊と脇侍(大日、阿弥陀如来)が脇をかためている。ここで参拝するが、納経所は閉まっていて下に降りる。
隣の建物の一階に確かにあるが、ブザーを押してもなかなか人が来ない。一緒にいた人がインターホンを押し、ようやく御朱印を授かることができた。

納経所のお隣には遍路大師像、これは弘法大師1500年御遠忌記念に1979年に作られたもの。



また、講談発祥の地や順天堂発祥の地などの石碑が並んでいる。

ところで『やげんぼり』というとやはり唐辛子を思い出すが、その発祥の地もこの近くにある。現在、有名になった『やげん堀』も元々この辺りにあったのだが、今は浅草に場所を移している。

浅草は『七味唐辛子』、この近くにある大木唐辛子店は『七色唐辛子』と違うものらしい。

関東三十六ヶ所霊場巡り①〜第20番深川不動堂

2024-02-27 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動霊場巡り①。霊場巡りというと皆思い出すのは四国霊場八十八ヶ所巡り、私はまだ巡ってはいないが、これは退職後の楽しみに取っておいてある。しかし、大阪に赴任していた時にお取引先の方に『こちらにいるうちに西国三十三所霊場巡りはせんとあかんわ』と言われて始めたのが1998年、西国三十三ヶ所巡りは大阪にいるうちに結願。

さらに2002年に東京に戻り、坂東三十三所霊場巡り、秩父三十四所霊場巡りを始め、2004年に遂に日本百観音を結願。それから気がつけば20年が経過していた。

20年の早さに驚くとともに、区切りよくそれではと思い立ち、今回『関東三十六不動霊場』を巡ることにした。不動明王は大日如来の化身とも言われ、人を煩悩より救い出すとも言われている。



まず最初にと選んだのは深川不動尊、正式には成田山東京別院深川不動堂、第20番となっている。



地下鉄東京メトロ門前仲町駅を降りて出口を出ると目の前に入り口の赤い門がある。ここから参道に入ると土産物屋や漬物屋、酒屋など渋い店が並ぶ。



参道の中に永代寺が右手に現れる。このお寺は江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えた名刹であった。しかし、明治に入り、廃仏毀釈により廃寺となり、その跡に深川不動堂や深川公園がつくられた。
1896年に旧永代寺塔頭の吉祥院が永代寺の名を引き継いだものである。(ちなみに門前仲町の門前とは永代寺のことである。)
深川不動との関わりは以下の通りである。江戸時代初期に歌舞伎役者市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことから成田山の不動明王を拝観したいという江戸の人の要望が強くなった。これを受け1703年に永代寺で第一回の出開帳が開かれ、大層な人が集まったのである。その後も江戸時代には12回行われたのだが、廃仏毀釈後永代寺は廃寺になるも不動明王の人気は高く、1878年に成田不動の分霊を祀り、深川不動堂が設けられた。



つまり、成田山の東京出張所のようなものだが、本堂は関東大震災、東京大空襲で2度焼失しており、今の本堂は千葉県印西市の龍腹寺の堂を移築したもの。旧本堂には大きな『お願い不動明王像』が安置されている。



旧本堂でお参りをしてお堂の中に入ると内仏殿1階に『阿の橋』がある。これは梵字の始まりで全てのことの始まりを意味する石橋で真ん中に阿の梵字がライトアップされている。

これを渡ると十二支に合わせた観音様が並び、自分の干支の阿弥陀仏に手を合わせた。新たに作られた壮大な護摩を焚く本堂はまるで舞台のようで圧巻であった。



旧本堂を出ると左側に梵字がたくさん描かれた本堂の外壁を見ることができる。その横に総合案内所も完備されている。



さらに護摩木授与所の隣に御朱印を頂けるところがある。ここで新たに始める関東三十六霊場巡り専用の朱印帳とそれにはるお不動様と童子の御影を求める。



話を聞くと36ヶ所の詳細が書かれたガイドブックもある言われ、もちろん購入した。朱印帳はバインダー式になっていて御朱印の裏に御影を貼っていく方式であった。



最後に手水舎の前を通ると花がたくさん浮いていて花手水(はなちょうず)となっており、これを見て深川不動堂のお参りが完了した。古いお札を納めるところにもお不動様がいらっしゃり、幾体の不動明王像があるのだろうと思う。



これから三十六ヶ所を巡るのだが満願はいつになるのだろうか。それまで健康で行きたいものである。