hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

下丸子駅から沼部駅あたりの坂道②

2024-10-03 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その218、『昭和の暮らし博物館』を出て、元の道を右に曲がるとすぐに鵜の木八幡神社の前に出る。小雨が降っているなか、ご近所さんだろうか、おばあさんが丁寧に参拝されていた。


この辺りには先程の博物館だけでなく、昔懐かしいアパートも点在、うち写メに撮った1軒はまだまだ健在のようである。



すぐ前の道が下り坂になっていて少し歩くと環八通りに出る。これを反対側に渡ると大きなお寺があった。増明院という智山派のお寺を左回りするように坂がある。




登り終えると今度は下り坂となるが、この坂道が『富士見坂』。細い坂で左右に曲がりながら進むと開けるが、マンションが林立していてとても富士山は見ることができない。



坂を降りると東急多摩川線鵜の木駅前に出る。これを右に曲がると公園に突き当たるが、右に上る坂道が現れた。

(この突き当たりを右に)

『河原坂』である。江戸時代はほぼ東急多摩川線あたりが多摩川であり、河原があったらしく地名も河原である。河原に向かう坂のため、河原坂と付けられたらしい。



坂の途中が鵜の木松山公園、ここは『鵜の木1丁目横穴墓群』という古墳であり、そのうちの6号墓のみが発掘後そのまま保存されている。

奈良時代の墓らしく、中には3人の人が埋葬されていた。案内板によるとほぼこの公園全体がお墓で1〜7号墓まである。


小さな公園だが、大きな桜の木があり、花見の頃には大勢の人が集まるだろう。



雨が止まないので隣の沼部駅までは東急多摩川線に乗ることにした。(以下、次回)


下丸子駅から沼部駅あたりの坂道①

2024-10-01 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その217。今回は東急多摩川線下丸子駅を降りて坂巡りをする。前回の坂巡りは7月24日だからかれこれ2ヶ月ぶり。というのも今年の夏の暑さで坂道を上ったり下りたりするのが辛かったからである。

実は下丸子駅には数週間前に降りて、飲みに行ったのだが、そう言えばこの辺りの坂道に行ったことがないことに気づき、再び下車した。

下丸子駅は日中は駅員のいない無人の駅、トイレは蒲田方面しかなく、地下通路もないため、多摩川方面の乗客は我慢するしかないらしい。駅を降りて踏切を渡ると右手に大田区民プラザ、その前を通過して行く。

ここで本来ならまっすぐ行くべきところを左に曲がり、道を間違えて多摩堤通りの方に行ってしまったのだが、光明寺の大きな池が邪魔になり、近道ができず、やむなく元まで戻り環八に出る。

交差点で向かいに渡り、少し左に行くと右に入る道に出てくる。これを行くと左側に藤森稲荷神社が出てくる。小さいが、立派な鳥居があり、お参りする。



その横を登って行くのが『ぬめり坂』、昔の鎌倉街道筋で緩やかな坂道である。案内板には『なだらかな坂だがぬめって上れなかった。



付近の豪家に美しい娘がいた。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んで坂に生き埋めになった。以来坂道の通行は容易になり、付近は繁盛した』とある。悲しい物語だが、この程度の坂でそこまでするかとは思ってしまう。ただ、昔は舗装技術もないのでやむを得ないことだったのかも知れない。





また、その先の二又の分かれ道のところに道祖神があり、道標となっている。正面には『(左側)矢口渡新田神社川崎(右側)池上本門寺大森)』、右側には『東てふふゑき久ヶ原五反田方面』、左側には『峯御嶽神社奥沢大岡山洗足池方面』とある。

道標を右手の方に行くと住宅地となる。案内板があり、右に行くと『昭和の暮らし博物館』とあるので立ち寄る。この博物館は昭和25年築の民家を昭和の家を残したいと個人が始めたもので小泉さんという女性が生まれ育った家を公開している。




内部は殆ど昭和がそのまま残されていて私のような世代には懐かしさの塊。特に2階の子供部屋は高校の時に訪ねた友人の下宿そのままみたい。

他に画家の吉井忠さんのアトリエなのか、絵の展示もあった。(以下、次回)

中目黒駅〜目黒駅の坂巡り③

2024-07-24 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その216。中目黒駅〜目黒駅の坂巡り③。新富士遺跡から次の坂を目指すが、なぜか再び、別所坂の上にある新富士遺跡に戻ってしまう。やむを得ずUターンし、気を取り直して歩く。

途中には馬頭観世音(石仏)が祀られていてこの道が江戸時代から続く古道であることを実感。しかし、この辺りの道は真っ直ぐではなく、勾配もあるので難しい。同じところをぐるぐる回ったのは初体験である。



坂を降りて広い道に出るが、ここにも道しるべがある。彫ってある字はよく読めないが、説明板には『中央に南無阿弥陀、右側にゆうてんじ道、左側に不動尊道(目黒不動尊)』と書かれていて1779年に作られたもの』と書かれていた。




パス通りを右折すると右側に防衛技術研究所の広大な土地がある。その脇をかなりの時間歩く。信号を右に曲がるとかなり広い道が出てきて下り坂となるが、これが『新茶屋坂』である。



かつては三田用水が上を通る茶屋坂隧道があった。しかし、1975年に三田用水は用済みとなり、廃止をされ、さらに2003年に道路拡幅のため姿を消した。



新茶屋坂から右に分かれていく道を歩き、二又を右、さらに真っ直ぐ降っていく坂道が『茶屋坂』である。





説明板にもあるが、『江戸時代は江戸から目黒に入る道の一つで大きな松が生えた芝原の中をくねくねと下る九十九折りの坂で富士の眺めのいいところであった。坂上に百姓彦四郎の開いた茶屋があり、将軍家光や吉宗が鷹狩りの際に都度立ち寄り休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、爺々と話しかけたので爺が茶屋と呼ばれ、広重の絵にも描かれている』と書かれる通り、彦四郎の茶屋があったのでこの名前がつけられた。また、落語『目黒のサンマ』はこんなエピソードから生まれたのであろう。



茶屋坂を下り、茶屋坂街かど公園を越え、真っ直ぐいくと目黒清掃工場の大きな煙突が出てくる。



目黒川が現れ、田道橋がかけられている。目黒区のコミニュティバスの愛称は『さんまバス』と名付けられている。



ここからは目黒川に沿って歩く。川沿いには桜が植えられていて花見の時期は大変な人で混み合うようだ。





目黒上橋まで歩き、目黒通りを左に曲がると権之助坂のバス停。道路は二又に分かれるが右側の逆一方通行の方が『権之助坂』である。権之助坂は田道付近に住んでいた菅沼権之助という名主に由来する。権之助は村人のために年貢を緩めて貰おうと訴えを申し出るが、捕まってしまい、死罪になる。刑場に向かう際に願いを聞かれ、我が家を見たいと言ったため、この坂(当時は新坂)の上から見て、喜んだ。村人たちは権之助の功績を讃えて最後に振り向いたこの坂を権之助坂と呼ぶようになったとのことである。



権之助坂を上がるともう目黒駅、しかし、坂や旧跡を訪ねながらの散策は2時間半かかった。







中目黒駅〜目黒駅周辺の坂道②

2024-07-14 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その215。中目黒〜目黒駅の坂道巡り②。新道坂と並行する旧道を歩く。この道は坂の塀に色々とカラフルなペイントがなされていて面白い。



坂を下ると目黒川日の出橋に出る。少し戻り、右に曲がり、駒沢通りの歩道橋を渡る。



左に少し行き、右に曲がると目黒学院の前に出る。この道をそのまま真っ直ぐ歩くと『この先階段あり、車の通り抜けはできません』という標識が現れる。この道をひたすら行くと最後は右に石段が出てくる。これが『別所坂』である。



別所坂の標識によると『この近くに別所という地名があったので別所坂と呼ばれるようになった。「別所」は新しく開いた土地のことを意味するが、目黒では突き当たりの場所、行き止まりのことを「べっしょ」といっていたことが地名になったともいう』と由来に関して書かれていた。





階段の下には庚申塔が6柱あるが、これは庚申講を信仰する人が建てたもので、豊作や長寿、家内安全を祈ると共に交流の場として集ったもので3年18回の集まりを終えると塔を建てた。この庚申塔は1665年〜1764年までに建てられたものである。



階段を登るとようやく一息つく。ここも眺めの良い場所であったため、江戸後期に千島探検をした近藤重蔵がミニ富士(築山)を作り、目切坂の元富士に対し、新富士と呼ばれて多くの見物人を集めたと言われる。



その遺構が平成3年に発掘され、新富士遺跡と言われている。なお、この新富士に関しては山を作った町人塚原半之助と近藤重蔵・富蔵(息子)とが諍いを起こし、殺傷事件(槍が崎事件)を起こしたという後日談もある。


この辺りは高台となっていて坂の上から真っ直ぐに歩くが、道がわかりづらく、近道と思い曲がるとさらにあらぬ方向に向かい、気がつくと元のところに戻るという体験をしてしまった。(以下、次回)


中目黒駅〜目黒駅の坂巡り①

2024-07-06 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その214。今回は東京メトロ日比谷線の終点である中目黒駅から山手線目黒駅までを坂を巡りながら歩くことにした。

中目黒駅から目黒駅まで普通に歩くならば駒沢通りを行き、大鳥神社を左に曲がり、真っ直ぐ行くルートとなる。地図アプリでは2.31km、28分程度で到着する。

しかし、今回は中目黒駅を出て向かい側(蔦屋書店側)に渡り、左に曲がる。2本目の道を右に曲がり、目黒川に架かる別所橋を渡る。



突き当たる西郷山通りを左へ。すると右にうねうねと曲がりながら上る坂があらわれるがこれが『目切坂』。





青葉台と上目黒の境を上っていくのだが、右側は東京音楽大学の近代的なキャンパスが広がる。この辺りは丸旦山と呼ばれていて、切通を作ったのだが、斜めに切ったようになったため、ひき臼の目切りに似ていたことから取られた名前である。





かなり急で長い坂はかつては深い林の中にあったため、『くらやみ坂』『しめきり坂』などとも呼ばれていた。



富士山信仰が流行した江戸後期には坂を登り切ったところに12mほどの築山を作り、ミニ富士と見立てて手軽に富士登山をできるようにしていた。





また、お地蔵さんの乗った道しるべがあり、よく見ると『右、大山道、南無阿弥陀、左、祐天寺』と彫られている。当時は寂しいところで旅人はこうした道標を頼りに歩いたのであろう。



坂を登り切った左側に『旧朝倉家住宅』がある。以前に訪問したことがあるので前回の写メを流用したが、東京府会議長などを歴任した朝倉虎治郎氏により大正8年に作られた邸宅でその後経済安定本部なども置かれたことがある。





今は文科省所有で敷地は5419㎡ある。余談だが、代官山ビルサイドテラスも元は朝倉家保有の土地で建築家槇文彦により1969年に作られた。



目の前の旧山手通りを右に曲がると槍が崎の交差点、これを右に曲がる下り坂(駒沢通り)となる。これが『新道坂(しんどうさか)』である。名前の由来は別所坂と目切坂の間に新たに作られた坂道のためである。因みに旧道は線路沿いに下る坂道となる。(以下、次回)


成城学園前駅から仙川沿いの坂と橋を巡る②

2024-06-09 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その213。仙川を遡りながら坂道を散策の続き。祖師谷の神明社にお参りした後、道なりに右の方に歩く。

細い道ではあるが、コミニュティバスが走っていて『つりがね池公園』バス停を通過する。



バス停の先を右に回り込むと『つりがね池公園』にたどり着く。住宅地に細長い池が突然現れる。池には太鼓橋がかかっていて周囲を周ることもできる。かつてこの池は多くの水が池底から湧くことで知られており、つりがね池の由来は昔日照りに農民が困っていた時にこれを救おうと釣鐘を錘として抱いて身を沈めたことからといわれている。ただ、今はわずかに湧く程度に過ぎない。



曲がり角まで少し戻り、池とほぼ並行している道が上り坂となっているが、これが『地福寺坂』である。地福寺は明治以前に廃寺となってしまったようである。



再び鞍橋に戻り、仙川沿いの道を歩く。両側が祖師谷公園で遊具やテニスコート、植物園など様々な施設も揃っている。



『せきれい橋』を越えると『宮下橋』、ここは成城学園駅〜千歳烏山駅のバス路線がある。ちょうど細くなっているため、渋滞になりやすい区間。



その先右側には駒沢大学の野球グラウンドがある。もちろん、人工芝であり、あまりの立派さに驚く。

ここで坂道を通り越したことに気づき、宮下橋まで戻る。左に曲がり、Y字路を右に曲がって行くと地蔵堂、その前に石仏が5つ並んでいる。このうち左3つは馬頭観音、右の2つは庚申塔である。



この道は滝坂道と言われた古道、緩やかな坂になっていて『安穏寺坂』である。坂の名前通り坂を上がると左側に安穏寺がある。

本当は再び仙川に沿って歩き、京王線仙川駅まで行く予定であったが、日が沈んできたこともあり、榎バス停から千歳烏山駅までバスで帰ることにした。






成城学園前駅から仙川沿いに橋と坂を巡る①

2024-06-01 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その212。今回は坂道と川歩きのコラボ企画である。小田急線成城学園前駅から仙川を遡りながら、坂道も歩くことにした。

成城学園前駅に到着したのが平日午後3時半、ここから仙川沿いを歩き、途中にある坂道を巡る。駅北口を右の方に向かうと学生、特に女子学生がどんどん増えていく。当たり前、というのは成城学園があるからで、その横を川に突き当たるまで歩く。

下り坂となり、小田急線の陸橋と交差しているのが『成城橋』、さらに川上に行くとすぐの所に『東原橋』がある。



この辺りまで来ると学生の姿もぽつりぽつりとなる。左側には成城大学の校舎、対岸は高級住宅地となっていて庭のバラが綺麗に咲いている。





少し行くとトラス橋が見えてくるが、橋脚はそれぞれ大学の敷地の中にあり、一般の人は通行不可となっている。川を挟んで校舎などがあるために作られた橋なのだろう。

この辺りの仙川は幅も狭く、透明で川底も見ることができる。また、川の真ん中にできた地面からは草が茂り、葉の色もかなり濃くなってきた。



『さくら橋』を渡ると大学のグラウンド、広々としている。この辺りから川幅が広くなり、また水面からの高さが高くなる。





『稲荷山橋』の先では白鷺が魚を探している姿を偶然発見した。





『大石橋』まで到着、この辺りは凡そ400m毎に橋が作られていて、その間隔にかなり距離を感じる。ようやく『鞍橋』に到着、右前方は都立祖師谷公園となる。



変形4叉路の最も左道を歩くと上りの緩い坂道。これが『金兵衞坂』、由来は付近にある加々美家が坂下に隠居所建てたからとWebには書いてあった。しかし、金兵衞のどのように繋がるのかはわからない。



再び鞍橋まで戻り、祖師谷公園を横切り歩く。道は突き当たるのでこれを右に曲がり、3本目を左に行くと上り坂がでてくる。





これが『弔い坂』、細い路地のような道だが、東側が祖師谷、西側が上祖師谷に分割されていて1695年の検地の際に作られた。
この道をまっすぐ行くと安穏寺に至るのだが、死者を載せた輿を若者が担いで歩く弔い道であったためである。



畑もあるのんびりした風景。坂を降りて左に行くと何もない所に鳥居があり、草も刈られていない中に小さな祠がある。今は看板も壊れていてわからないが、神明社とあったようだ。



明治時代初年まではこの地に熊野神社と稲荷森稲荷社があったが、この二つは明治7年に合祀、さらに明治43年に神明社と合祀。現在は小さな祠と庚申塔のみが残されているのである。(以下、次回)


トキワ台駅〜小竹向原駅付近の坂道①

2024-05-12 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その210。今回は東武東上線ときわ台駅から東京メトロ有楽町線小竹向原駅までの坂道を散策する。



ときわ台駅は1935年に武蔵常盤駅として開業、1926年に今の駅名に変更された。名前の由来は天祖神社の境内にある『常盤松』から名付けられた。





常盤台は東急の田園調布や日吉、阪急の千里山のように駅開業時から住宅分譲地開発を東武電鉄が行ったもの。環状道路やプロムナード、クルドサックなどを備えた設計となっている。





排水は全て暗渠、専用水道を備えていて一戸の広さが80坪までとなっていた。駅舎は2018年のリニューアル工事の際に開業当時の大谷石造りの瀟洒な洋風建築にしたものである。



駅の歴史や常盤台住宅の移り変わりなどの写真をパネルにして『武蔵常盤小径』と名付けて駅舎側面に展示している。



北口から踏切を渡り、商店街を行く。2本目を左に下る緩い坂道が『暗闇坂』。昔は木が茂って暗かったためついた名前のようだが、いまは両側にマンションが立つ、緩い坂道。



坂下は環七、他の人のブログによると常盤台の名前の元になった常盤松の生えている天祖神社に向かう古道のようである。



坂下まで降りて環七を向かいに渡り、右に曲がる。目の前には板橋中央陸橋、そのまま川越街道との交差点迄行く。交差点のところを左斜めに進む細い道が出てくるが、これを戻るように行く。



この細い道が旧川越街道であり、交差点を越えた斜め前にある長命寺に到達する道であった。この緩い上り坂が『長命寺坂』である。今は太い通りに阻まれているため、名前の由来が分かりづらい。



坂を上って真っ直ぐ行くと石神井川にかかる下頭橋(げとうばし)の所に出る。この橋は近隣の村人が協力して1798年に石橋を架けたものであり、その際に六地蔵を置いた。



橋の名前の由来は六蔵という者が金を出したなど諸説あるが、よくわからない。橋を渡った先からが上板橋宿となっていた。



そのまま大山の方に歩いて行くが商店街となり、ちらほら店が出てくる。寿堂紙製品工業という会社のところで右に弧を描き曲がっていく。この辺りは旧街道のためか、かなり古い民家もところどころにある。



旧川越街道は緩い上り坂となっているが、この坂道が『海老山の坂』、かつて周辺が海老山と呼ばれていたことに由来するのだが、ネットで調べると『かつて飢饉に備えた稗(ひえ)蔵があり、ヒエが訛ってエビとなった』とあるが、ヒエがどう訛ればエビになるのだろうかと疑問に思った。



街道沿いには豊敬稲荷神社がある。(以下次回)

北品川〜五反田駅辺りの坂② まぼろしの坂探訪

2024-05-05 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その209。御殿山からまっすぐ歩くと『八ツ山の坂』に突き当たる。右手から左手に下って行く坂道はそれほど勾配は厳しくない。



説明板によると『武蔵野台地の突端にあたる丘陵で湾岸に突き出す砂州が8つあったことから八ツ山と呼ばれた。そのため、八ツ山の坂と名付けられた。』とのことである。

この先は坂は右に曲がっていて、そのオフィスビルが続くが、その真ん中あたりの右に上る坂を見るとここに崖線があることに気づく。(この坂には名前がない。)

第一興商ビルの右に入る道を行くと道はクネクネと曲がり、その先を右に折れると坂道が現れる。1段階目の坂自体も急坂だが、上り切ると左に折れて少し先にある2段階目の階段坂が続く。



上り切るとようやく勾配がなくなるが、この坂が『まぼろしの坂の隣にある坂』の先まで歩くと車道があり、その先にはセルビア大使館となる。



少し戻り、車道を右に少し行くと『この先車両の通り抜けはできません』の看板、この先にあるのが『まぼろしの坂』である。



その先の車止めから急に下り始め、少し平らになるが、再び急坂となる。左側の壁面は南欧風、端の部分は階段となる。ほぼ直角に左に曲がり、ようやく坂はおしまい。



ただ、さっき上った坂もほぼ同じくらいの傾斜があるような気がした。

(隣の坂)

私も以前に東京都東大和市にある傾斜37度の坂道に行ったこともあるが、こちらは29度だとか。23区内では最も急勾配である。

(傾斜37度の坂道)

坂下まで下りて元の広い道に出て、右の方に向かう。細い通りから右手を見るとかなり高いところが森のようになっていて島津山の高さを改めて知る。

さらに行くと五反田駅が見えてくる。駅前交差点から国道1号線で高輪台方向に上る坂が『相生坂』。説明板は坂の真ん中あたり、高輪台に向かい左側にようやく発見。



由来は『江戸時代から呼ばれていて、御殿山から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道と中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことによるとされている。道路が改修されて急坂はなだらかな坂になった』とのこと。

城南五山(つまり八ツ山、御殿山、花房山、池田山、島津山の5ヶ所にある高台)のうち花房山を除く4山に沿ってある坂を歩く散歩となった。山手線の内側とは思えない自然が残り、とにかく閑静な住宅地でとにかく眺めはいい、しかし歩いて回るとなると大変な地区である。






北品川〜五反田辺りの坂道①

2024-04-27 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その208。東京のソメイヨシノも終わりに近づいてきたが、今回は花も見ながら京急北品川駅からJR五反田駅まで坂道を巡ることにした。北品川駅は第一京浜(国道15号線)に面している。



(八ツ山橋方向)
すぐのところにある歩道橋を反対側に渡り、川崎方面に歩き出す。品川女学院は新校舎を建設中、その先を右に曲がる。


御殿山通りに入り、緩い坂道を上る。少し歩くとJRの跨線橋がある。下には新幹線、東海道本線、山手線、京浜東北線がひっきりなしに通過している。



その先右手にあるのが御殿山庭園。東京マリオットホテルの中にあり、人工的に作られた滝や池、散り始めたソメイヨシノが美しい。花びらが地面を敷き詰めている。





ミャンマー大使館の横を通り、その先を左に曲がる。この辺りは桜並木となっていて美しい景色が広がる。次の角を左に曲がると緩い下り坂となって行く。



これが『御殿山の坂』、江戸時代に将軍が鷹狩りに来た際に休むために設けられていた品川御殿があったため御殿山と呼ばれていた。『この坂道は以前は急坂だったが、改修を経て今は緩やかな坂となった』と案内板にはあるが、だんだんと勾配はキツくなり、それなりの坂道である。



一旦、坂道を降りた後、再び上り、まっすぐ進む。先程曲がった角には『翡翠原石館』がある。入場料700円は払うほど興味なく周りを歩いたのみである。



この辺りにはさすが御殿山という大豪邸が並んでいる。一つずつ丁寧に見たが、昔風の古いお屋敷、なかなか洒落た洋館、色々とある。ただ、この道はフラットで助かった。(以下、次回)



(訪問、4月12日)