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hokutoのきまぐれ散歩

ブログも13年目。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。はてなブログにも投稿を始めました。

谷中付近の坂⑤〜岡倉天心の旧居には六角堂

2025-08-21 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その252。谷中付近の坂道⑤、『夕やけだんだん』を前回訪れたのは2015年10月、その時は今回のような酷暑もなく、ちゃんとだんだんの下には三毛猫が寝ていたのであるが、その風景の変わりようには驚かされる。

(当時の写メ)


階段の下からが『谷中ぎんざ』、商店街は風情を楽しむ人で混んでいるかと思えば、暑すぎて人はまばら。過ぎたるはなお及ばざるというが、幾らいい天気でも暑すぎると人出は激減する。

私は階段下まで戻り、通称・六阿弥陀通りを右に曲がる。曲がるところには大正11年創業の老舗の飴屋さん『後藤の飴』という店もある。

さらに大きな山門のある長命寺の向かいに人が並んでいるが、これがかき氷で有名な『ひみつ堂』。

(長命寺山門)

(ひみつ堂)

若い人に限らず、老若男女が暑くて日陰もない中、長い列を作って入場を待っていた。(列はこの左側に伸びていた)



少し先の左側には『岡倉天心邸跡、前期日本美術院跡』が小さな公園となっている。岡倉天心は明治初期に活躍した美術史家である。東京開成所(東京大学の前身)に入所、英語が堪能であったことからフェノロサの弟子となり、美術品の収集を手伝った。廃仏毀釈の嵐の中、数々の仏像を守ったことでも知られている。その後、日本美術学校、日本美術院の設立に尽力、1913年に50歳で亡くなった。



この場所には彼の私邸があり、1967年に岡倉天心記念公園を開設した。奥の六角堂には彼の像も保管されている。

彼は六角堂には中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が建物全体で表現されていると考え、1905年に茨城県の五浦海岸に建築(その後、東日本大震災で崩壊、2012年に再興)された。この公園内の六角堂は1967年に公園開設の際に作られたもの。



他に天心終焉の地である新潟県赤倉温泉の山荘跡にも1959年に有志により建設された六角堂がある。



因みに入口のコンクリート製の六角堂はトイレである。(以下、次回)

夏らしく幽霊坂を巡る②

2025-08-19 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』番外編②、前回に続き東京にある幽霊坂を巡ります。5番目の幽霊坂は港区泉岳寺駅から歩いてすぐのところにある。山門を出て右に曲がり、次のマンションの所を右に曲がると狭くてグネグネと曲がる上り坂。一部は急坂となっている。



坂を登ると二本榎通りに出るが、これを見た方面に歩くと亀塚公園の手前を左に行く細い坂道が現れるがこれが6番目の幽霊坂。
案内板には『坂の両側に寺院が並び物寂しい坂であるため、この名がついたらしいが、森有礼の名を取り、有礼坂が由来とするする説もある。





🟦5番🟥6番

7番目は豊島区目白台の幽霊坂。目白通りに面した目白台運動公園から神田川に向かう細い急坂。目白台運動公園は旧田中角栄邸であり、その脇を行くと和敬塾脇を通る坂道。



この坂道は今も大きな木立と高い塀の間を通り、この坂道を利用して肝試しが行われていたことから名前が付いたもの。坂の上から少し行くとカテドラル教会がある。

8番目は新宿区牛込柳町にある『宝竜寺坂』である。長い階段坂だが、標識には『坂の上に宝竜寺があったため、こう呼ばれた。

(宝竜寺坂)

また、明治頃は寺の樹木が生い茂り、淋しい坂であり、幽霊が出るといわれていたため、幽霊坂とも呼ばれた』とあった。



(乃木坂)

同じように港区にある乃木坂も幽霊坂の別名がある。他にも中野区東中野の『ゆうれい坂』、品川区南品川の『ゆうれい坂』、北区田端の『幽霊坂』などがある。



最後に新宿区下落合の野鳥の森公園の横の坂は『おばけ坂』である。細い急坂でS字に曲がりながら細くなるため、途中からは車両が通行できず、道の真ん中に赤いコーンが置いてある。

よく見ると『二輪しか通行できません。この下通り抜け不可、クランクを何十台もバックで戻っています』と書かれていて、おばけよりそちらの方がら怖そうな坂道である。

11の幽霊坂と1つのおばけ坂を歩いてみると細い急坂が多く、塀や樹木などで薄暗い(またはかった)という共通点がある。ただ、その後の区画整理などで地形が変わり、さらに樹木なども無くなって今は夜も幽霊が出てこない坂が多く、未だに夜が薄気味悪いのは7番目の目白台の幽霊坂と下落合のおばけ坂くらいのものである。


夏らしく幽霊坂を歩く①

2025-08-17 05:00:00 | 坂道

『東京の坂、日本の坂』番外編①。なかなか終わらない夏に坂道を登ったり、降ったりするのはかなりつらい。今回からは今まで歩いた坂道に多少新しい坂道を加えて『名前に拘った坂道』の特集をご披露したい。

まず、第1回に選んだのは『幽霊坂』である。夏には怪談噺がよく似合うが、今は街灯も増え、車も走る中で幽霊が出てきそうな坂道というのも減った。但し、昔から付けられた名前は簡単には変えられない。まず最初の『幽霊坂』はJR総武線飯田橋駅から5分程度のところにある。(住所は千代田区富士見)飯田橋駅を降りて、神楽坂からつながる道(早稲田通り)に架かるのが牛込橋である。欄干には江戸城の櫓を模したオブジェが付いている。



さらにこれを渡ると右手にかつての牛込門跡があり、江戸の遺跡を垣間見ることができる。


そのまままっすぐ歩き、2本目を右に曲がると平坦な道が急に上り坂となるが、これが1本目の『幽霊坂』。短いが急坂である。



坂の頂上はT字路となっているが、これを右に曲がる道が2本目の『幽霊坂』。両側に塀があるが、江戸時代は両側に高い木が生えていて暗い坂道であったのだろうか。





道を戻り、右手に『ふじみこどもひろば』を見ながらまっすぐ行く。その先に左に曲がる緩いへの字のように曲がる坂道があるが、これが3本目の『幽霊坂』。すぐ近くにありながら、同じ名前が付いているのも珍しい。




深緑・幽霊坂、赤・紅梅坂

同じ千代田区にはもう1本『幽霊坂』がある。お茶の水駅からソラシティまで行き、左に下る坂道が『幽霊坂』、坂を示す案内板の文字も幽霊っぽい。



実は本郷通りを挟んでニコライ堂横を通る『紅梅坂』とは大正13年の区画整理までは一本の坂道で幽霊坂の由来は案内板によると『東京名所図会には紅梅坂は往時樹木鬱蒼にして昼尚凄寂たりしを以て俗に幽霊坂と唱えたりを今は改めて紅梅坂と称す』とある。昔はかなり寂しい所であったようだ。今はその面影もない。(②に続く)


谷中周辺の坂④〜御殿坂、七面坂、ゆうやけだんだん

2025-08-13 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その251。谷中周辺の坂④。前回は2022年6月に行ったが、その際に回りきれなかった坂を中心にJR日暮里駅から地下鉄千代田線根津駅までウロウロしてみた。



JR山手線日暮里駅西口を降りるとすぐのところに大きな鉄橋である下隠殿橋がある。
この橋の真ん中あたりにはバルコニーが設置されていて下には京浜東北線、山手線、新幹線(東北、秋田、山形、北海道、上越、北陸)、高崎線、宇都宮線(東北本線)、常磐線、京成本線と言った数多くの電車を見ることができる。



途中にある建物にもその姿が描かれていて鉄分の多い人や子供たちに人気があるスポットである。これと並ぶのが田端駅側の跨線橋である。



下隠殿橋と反対側に向かう上り坂が『御殿坂』である。御殿坂の名前は江戸時代の書籍にはあるが、御殿が何を指すのか等ははっきりとしていない。





坂を登り始めると右手に本行寺という日蓮宗の古刹。江戸時代から観月の名所として知られ、月見寺とも呼ばれた。太田道灌の孫である太田資高の開基であり、幕臣・永井尚志や儒学者・市河寛斎など著名人の墓がある。



隣には経王寺という日蓮宗のお寺が並ぶ。こちらには日蓮が刻んだといわれる大黒天が鎮守として祀られている。

街並みも谷中せんべいの店には懐かしい『地球瓶』と言われる丸い瓶が並んでいる。



向かいにある中野屋という佃煮屋さんでは公魚やアミ、葉唐辛子、鰻など多くの種類が並べられるなど見ているだけで楽しいお店が多い。



坂道はその先あたりで下り坂となり、左右に道が分かれる。左側に向かう細い下り坂が『七面坂』、由来は坂上にある長命院の七面堂に因むものである。





坂上まで戻り、右側の広い道をいくと石段となり、『夕焼けだんだん』と呼ばれている。この石段は西に向かうため、夕焼けが美しく、下町情緒を感じられる名前としてつけられた。地元町会が公募したところ、谷中に居住する森まゆみさんの作品として採用された。

冬の夕方には暖を求めて地元の猫たちが集まるため、名所となっているが、この日は33℃まで気温が上がったため、とても猫が集まれる状況ではなかった。



22年6月の写メだが、この時は猫が寝転んでいた。(以下、次回)



玉川学園前付近の坂④〜なかよし坂、花影坂、ふれあい坂

2025-08-11 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その250。玉川学園前付近の坂④、月見坂をヘロヘロになりながら頂上まで登る。

すると尾根伝いの道、これを右に。道なりに歩くと左側に玉川中央幼稚園、中からは子供たちの声が聞こえる。ただ、毎日この幼稚園まで来るのは坂道が大変だろう。



道は3つに分かれが、最も右の道を降りていく。坂の名前は『なかよし坂』、幼稚園児が毎日上り下りするから付いたようだ。



郵便局が途中にあるが、この前に説明板が設置されていた。200mほどの坂を降りると玉川学園前駅前通りに出る。



左に曲がると玉川学園のキャンパスだが、その前を通り過ぎて左の方に歩いていく。桜並木が続くゆるい坂道となるが、これが『花影坂』。マンションを回り込むように坂道は続く。





T字路を左の方に行くと玉川学園コミニュティセンターを挟むように坂が2本あるが、これが『ふれあい坂』。両方とも階段坂であるが、奥の方の坂道を降りていく。



あまり長くはないが、左右に曲がりながら降りていく。坂下に説明板がある。コミニュティセンターは多目的ホールが幾つもあり、ロビーは子供図書館の閲覧室のようなスペース。



外の暑さを避けようと涼しい室内には大勢の人が涼んでいた。他にも区役所の出張所のような公的証明書の発行などもやっている。

コミニュティセンターからは歩道橋で駅まで繋がっていて駅に出て小田急線に乗ることができた。

玉川学園前という場所は小田急線が背骨のようになり、そこから左右に10本の坂道、急坂の多い街である。


玉川学園前駅付近の坂道③〜無窮坂、月見坂

2025-08-09 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その249。玉川学園駅付近の坂③。のらくろ坂を下り、左に少し行き、右手に玉川学園前第1踏切があるところを反対の左に登る坂道が『無窮坂』。



名前の由来は坂の中間に無窮会図書館があったため、付けられたもの。今は取り壊されていて住宅となっている。

無窮会図書館は1915年に平沼騏一郎(第35代内閣総理大臣、元日大総長)により創設された神道、国学関係の旧蔵書を収めた施設。他に東洋文化研究所を運営している。

しかし、私の持っている資料には無窮図書館前に坂の表示板があると書いてあったために、周囲をうろうろする。坂の途中を右に行くと分譲地になっていてこれより奥には何もなく、やむなく坂の頂上まで登る。ここで坂上のバス停が『無窮坂上』であることを発見、ようやく確認できる。酷暑の中をふらふらになりながら坂上から下を眺めると周囲を見渡すことができた。

無窮坂を下り、踏切をわたり、反対側に出る。広い交通量の多い通りをさらに渡り、右に向かうと左側に登るほぼまっすぐな坂が出てくる。この坂道が『月見坂』、名前の由来は1991年に住民投票で決まったものだが、それ以前から地名に月見ヶ丘とあったことによる。



月見坂を登ると小田急線を挟んで反対側の丘陵地がよく見えるが、この上に月が昇ると良い眺めなのであろう。

坂の途中には月見坂の表示板がある。さらにその隣には『斜度41度、失速、転倒注意』の看板も合わせて付いていた。確かに玉川学園前駅周辺で歩いた坂道では最も斜度がある坂道のようであった。(以下 次回)

玉川学園前駅付近の坂道②〜のらくろ坂ほか

2025-08-04 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その248。玉川学園駅付近の坂②、竹坂を降りて左に行くと城南信用金庫の小さな店舗があり、左に行く上り坂が現れる。これが『ころころ坂』。



その名前通りの急坂でほぼ真っ直ぐ登っている。表示板は坂を降りたところにある。急坂の上から何かを落とすところころ転がることから付けられた名前のようである。



坂を登り、コミニュティパスの通る道を右へ。『七丁目児童公園前』のバス停がある。この辺りのお宅は昭和30〜40年代の懐かしい家が多い。やはり、坂を登るのは大変だが、坂上の方が展望がいいからなのか、大きなお宅が多かった。



うち一軒のお宅に小さな額が掛かっていて『どんな小さな一歩にも意味はある』と書かれていた。絵も添えられていて思わず意味を考えさせられた。



この次の道を右に下る坂が『のらくろ坂』。人気漫画家田河水泡のお宅が坂上にあったことを知っていたので探してみたが、田河さんというお宅は見つからなかった。

田河水泡が玉川学園前に新居を購入したの1969年のこと、ほかにも線路を挟んで反対側には遠藤周作、有名人では森村誠一、赤川次郎、片岡義男、みつはしちかこ、赤瀬川原平など多くの人に愛されたい町である。田河氏はこの地で買った家に温室があることを喜び、長年の望みだった蘭の栽培をしたとのことである。

田河水泡氏は本名を高見澤仲太郎といい、ペンネームを決める際に'TAKAMIZ・AWA'から『たがわみず・あわ』とし、漢字を当てはめて『田河水・泡』とした。しかし、周りの人が『たがわ・すいほう』と呼んでいたので自らも『たがわ・すいほう』としたというエピソードを初めて知ったのである。

坂を下ると一番下のところに『のらくろ坂』の表示板を発見した。(以下、次回)

玉川学園前駅付近の坂道①

2025-08-02 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その247。今回は玉川学園前駅周辺の坂道を巡った。玉川学園前駅で下車するのは初めてだが、以前から名前が成城学園前駅とよく似ているなあと思っていた。

今回初めて知ったのだが、玉川学園前駅は当時の成城高校(旧制)の学長だった小原国芳が成城高校と同じ手法を取り入れるべく駅舎を無償提供することで1929年に駅を誘致した。そこから学園と住宅が共に発展してきた街なのである。



地図を見ると小田急線は一番低いところを走っていて南口・北口から上り坂が並行して作られている。今回は南口から一本ずつ巡ることにしたのである。

玉川学園駅周辺の坂道は1988年に『玉川学園地域を考える住民懇話会』が公募で名前を募集し、そこから付けられたものが多い。西武新宿?線上井草駅、京王線桜上水駅などでも同様の取組みを行っているが、地元に愛される地域づくりにはいい方法である。我々坂道好きに取っても嬉しいことである。最初の坂道は南口を降りて左の方に歩き、踏切が出てくるが、これを踏切 と反対側に登る坂道である。 



坂を登ると左側にぬぼこ本宮という神社が出てくるが、そのそばに『うぐいす坂(女坂)』と刻まれた標識がある。由来はこの辺りが鶯谷と呼ばれたことらしい。





『ぬぼこ』は『瓊宝庫』のこと。起源は吉備石神神宮だが、天武朝のころよりその祭祀が途絶え、御神跡さえ不明になっていた。本宮社伝・抜剣影流宗家・宮崎雲丹先聖が研究、昭和8年に御真跡を発見した。その武蔵野宮として出雲造の社殿を作ったもの。ここに赤い鳥居があったのだが、朽ちて倒壊の危険があるため取り除かれていた。

ぬぽこと書いた提灯が竹林の中に続いていたが、どこからが神社で個人宅かわからず後にした。

坂の上にはコミニュティパスのバス停、さらに横には市民から寄贈されたベンチがあった。





ぬぼこ本宮を右に曲がり、次の下り坂が『うぐいす坂(男坂)』、女坂と並行に位置するが、やはり男坂だけあって勾配は急である。





下ると南口の駅前通りに出る。これを左に行くとほぼ南口の向かい辺りを登る坂道が『竹坂』、かつては竹林があったために付けられたなまえである。(以下、次回)



川崎市岡上付近の急坂を巡る④

2025-07-17 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その246。川崎市岡上西地区の9本の急坂も後半、5番坂はちゃんと標識もある。下から登り始めるがやはり初めはそれほどの勾配ではないが、一旦平坦になり、その先が勾配がキツくなる。

さらに登って行くと坂道が階段となるのだが、階段から先は最上部分に住む方の私道であろう。



5番坂下あたりに和光大学の正門がある。さらに4番坂はないと聞いていたため、次は3番坂である。



しばらく歩くと3番坂を発見。これは階段坂で途中から右の方に曲がっている。その先を登るとかなり高い位置まで到達、上からの眺めが素晴らしい。




坂下の道を右に曲がり歩く。納豆屋さんが現れたが、2番坂はここから登る。たらだらと長い坂ではあるが、それほど勾配はキツくない。





いよいよ最後の1番坂、坂下にはアトリエ1番坂という絵画教室があり、目印になる。





初めの登りはキツくはなく、登り終えると左右に坂道が伸びるが、その先は階段となっている。坂上まで登るとアザミの花が綺麗に咲いていた。ここに到着したのが、1430。



第9公園前のバス停に着いたのが1219だから2時間以上を炎天下の中坂を登ったり降りたりの繰り返し、坂道巡りをしたことになった。あーしんど。こんなに暑いとは思いませんでした。


川崎市岡上付近の急坂を巡る③

2025-07-15 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その245。10番坂の勾配のキツさに驚きつつ、坂下まで再び降りてくる。登りもきついが、下りも転ばないようにそろそろと歩く。日差しはキツく、タオルで額を拭ってもまた汗が噴き出す。



坂下の道を戻るように歩き出し、9番、8番の標識を通過、7番坂を目指す。反対側に和光大学の入口が現れたが、和光大学は東京都町田市にあり、この坂下の道が都県境にあたるのである。



(和光大学)

右側に7番坂の標識が現れたが、坂道の方はS字となってはいるが、勾配は緩く、平凡な住宅街の坂道である。



次の6番が見当たらない。7番からは少し離れたところにあるらしいのだが、何回か往復してようやく判明。何しろ坂の下にあるはずの標識がない。





坂上まで上がるが、ここでようやく自販機を発見。登りの時は買わずに帰りに買って飲むが実に美味い。7番坂よりは長く、傾斜も厳しいようである。


(川崎市側)
坂下の道を歩いて不思議なことを発見、右と左では参議院選挙のポスターが違うのである。思わず間違えそうになる都県境の街である。(以下、次回)