hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

市ヶ谷亀ヶ岡八幡

2014-02-28 00:14:01 | 日記

市ヶ谷に仕事で行く。いつもお堀の内側ばかりだが、今日は橋を渡ってお堀の外に。


お堀にはボート場や釣り堀があるが、ボート場は休業中。さすがに2月にお堀にボートを漕ぐ人はいないようだ。一方、釣り堀は満員とはいかないが、釣り糸を垂れる人は多い。不思議なもので、どんな人が優雅に釣りをしているのか気になる。

靖国通りを渡るとT字路になっており、左に行くと自衛隊市ヶ谷駐屯地。そちらの方向に少し歩くと店がある。店名は『Militaly将』、自衛隊グッズ専門店で扱う商品は500種類以上、自衛隊まんじゅうから下敷き、絵葉書、レトルトカレー、Tシャツ、飛行機があしらわれたボールペン、徽章のレプリカなど看板通りかず多くの品揃え、目印は入り口の迷彩服を着たくまモン。中に入ると中々興味深く、あれこれ欲しくなる。


その角を右折すると目的地の亀ケ岡八幡宮、階段を42段登ると左手に茶の木稲荷が見える。元々はこの稲荷が始めにあり、後に八幡宮が移ってきたとのこと。



茶の木稲荷は神の使いの白キツネが誤って茶の木で目を突いたため、崇敬者は茶を忌み、正月三が日は茶を絶つという習俗があった。特に眼病の人は17日、或いは37日の間茶を断てば霊験があらたかであった言われて信仰され、眼病に効果があると信じられている。また、絵馬にも『子供の斜視が治りますよに』『母親の眼の手術が成功しますように』といった、眼にまつわるものが多い。小生も知合いが眼病のため、参拝並びにお守りを授けていたたくためにやって来たものである。


さらに10段上がると亀ケ岡八幡宮、この宮は1432年太田道灌により勤請されたもので、鶴岡八幡宮を茶の木稲荷のある場所に江戸城西方の守護神として建てたもの。昔は芝居小屋ができるほどの賑わいで多くの参詣者があったが、廃仏毀釈もあり、明治となり寂しくなった。さらに第二次大戦で焼失、しかし、1962年に今の社殿が建てられ、再び周囲の信仰を集めている。

大通りから僅か数メートル離れただけで驚くほど静かな神社がのんびり佇み、梅の花もほころび始めており、最近の雪の日が嘘のようである。ああ気持ちが良い。


四谷やまちゃん ~四谷グルメ

2014-02-27 06:41:15 | グルメ

以前から『居酒屋やまちゃん』の名前は聞いていたが、中々予約も取れず、縁なきまま閉店、店主は海外に。しかし、また日本に戻り、昨秋より酒だけを提供するお店を開いたとの噂を聞いていた。酒を良く飲みに行くTくんから急なメールが来て『王禄超辛口☆☆☆☆がもうあと3分の1しか残っていないので、飲みに行きましょう』というお誘いのメールが。
やむなく?これに応じて、6時半に『四谷やまちゃん』を訪問。店に着くとまだ先客はなし。入場料3150円也を払い青いカードを首に掛ける。この店は原則飲み放題、一部は一杯に限り無料試飲、さらにセレクト銘柄は追加料金(原価)で飲めるシステム。


なかなか連れが来ないのでまず『王禄超辛口』(島根県)を90ミリのぐい呑で頂く。これは辛いがふくよかさも併せ持ち旨味がたっぷりで、酒だけでも十分。さすが直汲み210本限定の4つ☆である。

酒を飲みながら店主と酒蔵の話に花が咲く。小生が毎年酒蔵巡りをしており、広木酒造(飛露喜)や萱島酒造(西の関)、王禄酒造などに行ってきた話をすると羨ましいとの反応。あっという間に飲み終わり、2杯目に。今度は『鷹来屋雄町純米』(大分県 )を頂く。少ししっかり系のため、予め用意した牡蠣の燻製の油漬けの缶詰を開けて嗜む、うまし。

ようやくTくんが到着、つまみもおでん、唐揚げ、ナムル、巻き寿司と豪華になる。まずは『仙禽』(栃木県)、甘みも残るがスッキリ感のあるキレ味鋭い酒。次はここで一杯だけ無料で飲める特別酒を頂く。因みにこの一杯を頂くと青のカードを赤に交換するシステム。種類が色々あって選択に迷ったが、結局『やまユ白』(秋田県)を頂くが、酸味が程よく好みに合う。


その次に『醸し人九平次大吟醸雄町』(愛知県)これも旨味が強い割に飲みやすく、あっという間に飲んでしまう。つまみも食べるが、やはり酒に集中するのもまたよい。其の後は『奈良萬』(福島県)、『新政、亜麻猫』(秋田県)、『花陽浴』(埼玉県)、最後にまた『王禄超辛口』とまあよく飲んだ。それでも隣で飲んでた女性にもう帰るの?と云われる始末、酒は強さではかなわない、あ~あ、年は取りたくないね。


最後に店主にカメラをむけるとポーズをつけてくれるほど気さくな方だった。酒を極めるには決して外せない店。是非、再訪したい店、但し、みんなが明日を考えず飲める金曜日は混んでいるため、予約は必須。ただ、それ以外は空いていることも多いと店主談。最後に来店のアドバイス、あまりつまみが多いと酒が入らない、そりゃ当たり前か?


四谷やまちゃん
新宿区四谷3ー11 野村ビル4階
0353154688

大原三千院

2014-02-26 05:45:26 | 日記



大原三千院を訪れたのは昨年4月10日。天気も芳しくなく、その前に訪れた比叡山延暦寺では風花が舞ったほど。この寺を訪れるのはかれこれ10年ぶりで、当時は『京都大原三千院~』などと歌を歌いながらいわゆる名所旧跡巡りの一つで大阪からこの寺を見に来た。しかしその後古寺巡礼を行うにあたり、この寺の阿弥陀三尊像を是非拝みたくて伺った次第。寺自体が986年恵心僧都源信が父母の菩提のため建立したと言われ、国宝阿弥陀三尊は姿が大きいため、本堂ではなく庭にある往生極楽院に収められている。本道を歩き、見事な庭にでると往生極楽院につく。その日は春休みも終わり、天候も曇天のため参詣の人が比較的少なく、じっくり座って拝むことができる。中尊の阿弥陀如来は来迎印を結び、右の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左の勢至菩薩は合掌し、両菩薩とも大和座りの自費に満ちた姿で感銘を受ける。

さらに庭を行くと可愛らしいわらべ地蔵がいくつも苔むした暖かそうな中に自然のままいらっしゃる姿は微笑ましい。こちらは必死にシャッターを切っていた。


さらにいくつものお堂が花や草の中にはえ、時間を思わず忘れてしまうような素晴らしい古刹である。また、少し遅い桜も良い思い出となった。こうした思い出に残る古刹をひとつづつ御紹介してゆきたい。なお、売店には便所の神様の御札も売っているのでぜひ買われると良い。


鳥の切手

2014-02-25 00:04:47 | 日記

切手シリーズ その10。我が国には鳥の図案の切手は多い。鳥を扱ったシリーズの記念切手では1963~64年に出された鳥シリーズ6種類(ルリカケス、雷鳥、ウグイスなど)、1975年に出された自然保護シリーズ第2集鳥類4種類(アホウドリ、タンチョウ、ハハジマメグロ、アカヒゲ)、1983~84年の特殊鳥類シリーズ10種類(ヤンバルクイナ、ノグチゲラなど)、1991~92年の水辺の鳥シリーズ16種類(オオシギ、エトピリカ、カワセミなど)と4回にわたり、36種類の切手が発行されている。



それより古い記念切手としては第一次世界大戦後の平和を記念した1919年の切手に平和の象徴の鳩が描かれて4種類発行されている。ほかにも1960年の国際鳥類保護会議で10円切手にトキの図案、1971年の第25回愛鳥週間で15円切手にシジュウカラの図案、1981年の自然公園50年で60円切手にトキの図案、1982年のふみの日で40円切手にカモメの図案、1988年の万国家禽会議で60円切手にニワトリの図案、などが数多く使われている。

また、通常切手や航空切手にはさらに古くから鳥の図案が使われている。最初に鳥の図案が使われたのは1875年(明治8年)の鳥切手でこれは外国郵便用として発行された3種類である。12銭が『かり』、15銭が『せきれい』、45銭が『たか』である。単片の切手も高いが、エンタイアはその使用例によりかなりの値打ちがある。

次に鳥の図案が使われたのが、1946年第一次昭和切手の1円落雁図(北斎)、さらに色を変えて発行された1947年第二次昭和切手の4円落雁図(北斎)。

ほぼ、同時期に戦後初めて発行された航空切手であるキジ航空5種類、これは敗戦国である日本は飛行機を図案にできなかったことによる。因みに琉球政府が出した航空切手には天女が描かれていた。


その後、1951年第一次動植物国宝切手の5円尾長鶏、1954年第二次動植物国宝切手の3円ホトトギス、 同じく1955年の5円オシドリ、1965年第三次動植物国宝切手の80円ヤマドリ、100円タンチョウヅル。その後も通常切手には数多く鳥が描かれており、5円コブハクチョウ(1971年)、90円イヌワシ(1973年)、41円オシドリ(1992年)、62円キジバト(同年)、72円ヤマガラ(同年)など多数が発行されている。



これだけ多くの切手の図案に鳥が使われているのは、空を飛んで行き来をすることを見て郵便を連想したのかもしれない。


東京マラソン観戦記?

2014-02-24 06:44:43 | 日記

東京マラソンなど興味を全く持っていなかったが、身近で観ると応援したくなるもの。

始めたのは2007年だから今年で8回目である。コースは新宿都庁~飯田橋~日比谷~品川~日比谷~日本橋~水天宮前~浅草~日本橋~築地~豊洲~東京ビッグサイトというなかなか複雑な経路。それでも参加できるのは10倍以上の倍率を勝ち残った運の良い人らしい。

いつもはスタートをTVで見るくらいだが、今日は仕事で箱崎まで出かけ、仕事の後、事務所に行こうとすると新大橋通りが横断不可とのこと。そうか東京マラソンと思い出したが、どうして渡ろうか思案していると地下鉄の通路がちょうど下に降りる歩道橋の役目をすることに気がつく。


警備は厳重で数多くの警官や警備員が立ってはいたが、和やかなのは人形町という場所の成せる技か。11時過ぎだったが、市民ランナーは浅草方面に、選手は昭和通り方向に、すれ違うタイミング。それにしてもそのスピードの違いにビックリ。

霰が舞う寒い天気だったが、走る方も応援する方も元気なもの。盛り上がりに感心した次第。


地下鉄丸ノ内線

2014-02-23 00:11:28 | 日記

鉄道シリーズ その47。今回は地下鉄丸ノ内線、1972年のフォークソングに『地下鉄に乗って』(猫)があることはご存知だろうか。このグループには吉田拓郎が曲を提供しており、作詞は岡本まさみ。その中に『いま赤坂見附をすぎたばかり、まだ新宿まではまだまだ~あさぁ』という一節がある。

小生はものごころがついた時には荻窪からバスで15分ぐらいの下井草というまだ畑や田んぼの残る辺りに住んでいた。そのため、都会には西武新宿線で新宿に出るか、バスで荻窪に行き、この地下鉄丸ノ内線に乗ることが多かったが、荻窪から銀座などに出るにはかなり時間がかかり、車窓からも何も見えず、先ほどの歌ではないが、飽き飽きしたことを思い出す。(ちなみに今も30分かかる)

当時地下鉄荻窪線と言われた荻窪~新宿はほぼ青梅街道に沿って走っており、都電、買収前は西武が経営する路面電車が走っていたが、1962年に地下鉄が完成すると程なく1963年12月に14系統都電杉並線は廃止された。この軌道は買収の経緯から少し狭く、やや小振りの電車が走っていた。

一方、地下鉄丸ノ内線は日本で4番目、東京では銀座線に次ぐ古い地下鉄で1954年に池袋~御茶ノ水、1957年に銀座(当時、西銀座)、1959年に新宿、1961年に新中野、1962年1月に荻窪、さらに1962年3月に方南町(方南支線)が完成、今の丸ノ内線は全通した。古いこともあり、銀座線と丸ノ内線は第三軌道方式である。

一つ不思議なのはその方南支線で中野坂上~方南町は折り返し運転をしているが、本線から入って来るのは方南町の一つ手前の中野富士見町止まりであること。これは方南町のホームが少し短く、6両編成の車両が入れないのが原因らしい。ただ、これは2017年度には方南町駅ホームを延長することにより、解消する方向で検討が進められている。


遊園地と私鉄

2014-02-22 07:44:24 | 日記

鉄道シリーズ その46。私鉄の駅の名前をみるとかつて経営していた(一部は今も経営されている)遊園地の名前を付けた駅は多い。関東に限っても西武鉄道の『西武園』『豊島園』これは今も遊園地はあるが、小田急電鉄の『向ヶ丘遊園(2002年閉園)』、京成電鉄の『谷津遊園(1982年閉園)』、京浜急行の『花月園(1946年閉園、競輪場も2002年廃止)』、変わったところではJR青梅線にあった『楽々園(現在、石神前駅)遊園地』も昭和初期につくられたが、戦前のうちに閉園している。


また、今は名前が変わったが、東急東横線の多摩川駅は昔は『多摩川園(1979年閉園)』だったし、東急田園都市線の二子玉川駅は『二子玉川園(1985年閉園)』であった。これは大正から昭和初期にかけて各私鉄のサイドビジネスとして沿線に遊園地を作り、集客をするとともに鉄道利用の促進をしたものである。


京王電鉄も相模原線京王多摩川駅に『京王遊園(1955年~1971年、今はテニスクラブとなっている。)』、『京王閣(1927年~1947年、今は競輪場となっている。)』があり、近くには日活の撮影所があったため、東洋のハリウッドと言われた時期もあったらしい。

また、都電荒川線をかつて経営していた王子電気軌道も一時『荒川遊園』を経営していたことがある。これは今は荒川区が運営していることもあり、閉園となっていないが、西武を除き殆どが閉園したことは寂しいものである。

そのうちなんでこの駅が『向ヶ丘遊園』というのか、なぜ急行停車駅なのか、すら分からなくなる日がくるような気がする。


皇室と首相の切手

2014-02-21 00:04:45 | 日記

切手シリーズ その9。日本は人物を描いた切手が少ないことはこのブログで紹介してきたが、特に皇室や総理大臣などの切手が少ない。例えばイギリスの通常切手にはエリザベス2世の肖像がしばしば使われ、今もシルエットは必ず付いている。アメリカの切手も一昔前は代々の大統領の肖像が載せられ、ケネディ大統領の切手もあった。

まず、皇室の方だが、明治・大正・昭和天皇の肖像が載せられた切手はない。もちろん、例えば立太子礼や天皇御結婚、即位⚫️周年といった記念切手は数多く発行されている。何しろ初めて発行された記念切手は1894年3月発行の『明治天皇銀婚』を記念したものである。しかし、図案は『オスメスのツルと菊花紋章』である。

皇族の肖像が記念切手になったのは次に発行された1896年8月の『日清戦争勝利』記念でこれには有栖川宮と北白川宮の肖像が使われている。

しかしその後の『大正天皇大礼』(1915年)『裕仁親王(のちの昭和天皇)立太子礼』(1916年)『皇太子ご成婚』(1923年、不発行切手)『大正天皇銀婚』(1925年)『昭和大礼』(1928年)など何回も皇族の行事に記念切手は発行されたが、御所の風景や冠、鳳凰、紋様などが描かれたに過ぎない。これは皇族の肖像が付いた切手に黒い消印が押されることが耐えられないからと言われている。


これを打ち破った画期的な記念切手が1959年4月に発行された『皇太子(明仁)ご成婚』の10円と30円の切手で皇太子(現在の天皇)ご夫妻の肖像が、描かれている。これは1993年に発行された『皇太子(浩宮)ご成婚』でも引き継がれている。

一方、総理大臣であるが、地方切手で伊藤博文没後100年が出されたことがある。あとは日米修好通商条約100年で岸信介の肖像が使われているくらいである。



総武線と両国駅

2014-02-20 06:41:36 | 日記

鉄道シリーズ その45。総武線と聞いてどの線、どの電車を思い浮かべるのか。実は(1)千葉~銚子間の総武本線、(2)中央・総武緩行線、いわゆる黄色い電車、(3)総武快速線、横須賀線と直通運転を行い、東京~千葉を走る、の3つのいずれもが『総武線』なのである。まあ、さだまさしの『檸檬』にも出てくる(2)を挙げる人が1番多い気がするけれど。(例えがかなり古いか?)

歴史を辿ると総武本線の当初の起点は両国橋駅(現在の両国駅)であった。(1904年に私鉄の総武鉄道として開業、その後国有化された。)本来であれば隅田川に鉄橋を掛けたいところだが、資金的な問題もあり、東京の東のターミナルは両国でここで乗客は市電に乗り換えていた。しかし、関東大震災後の復興計画で1933年に両国駅~お茶の水駅の高架線、1934年にお茶の水駅~中野駅の複々線化することとなり、中央本線への乗り入れを行ない、今の形になった。

車両も1963年には山手線に103系が導入されたのを機に総武線緩行に山手線に使用していた101系(レモンイエロー塗装)が移された。さらに1966年には三鷹駅まで複々線化が完成、三鷹駅~千葉駅の今の運行体制となった。

一方、錦糸町~東京の新線が1972年に完成、ほぼ同時に錦糸町~津田沼の複々線化が完了したため、快速線と緩行線を分離した。1981年には津田沼~千葉も複々線化し、今の運行とほぼ同じ状況になっている。

その総武地下線の影響を一番大きく受けたのが、両国駅である。それまでは千葉以遠の気動車急行『犬吠』『うち房』『そと房』などは両国駅の3~5番ホームから出発していたものが、1982年10月には急行も廃止され、特急3往復のみになり、殆どが東京駅地下ホーム発となってしまう。さらに1988年3月のダイヤ改正で両国発の特急もなくなり、単なる通過駅となってしまった。

両国駅総武緩行線の1~2番ホームから見える殆ど使われない3番ホーム(3本あったホームは現在1本、しかも殆ど使われず、普段は入れない)はかつて海水浴シーズンは気動車急行への乗降客で溢れかえっていたことなど想像だにつかない静けさとなり、一段低くなったホームがなぜあるのかさえ分からなくなりつつある。今は国技館で展示が終わった優勝力士の額が掛けてあるだけの寂しい昭和の駅がそこに残されたようである。



都電の思い出

2014-02-19 06:46:06 | 日記

鉄道シリーズ その44。都電にはかなり思い入れがある。文京区大塚に引っ越したのは昭和45年、小生が小学6年の時、ちょうど万国博が大阪で開かれた年である。もともと郊外に暮らしていたため、たまに新宿や渋谷に出た際には都電の姿は見たが、乗ったことなどあまりなかった。

それが家から5分の所には『音羽2丁目』の電停、これには20系統が走っていた。江戸川橋から上富士前、上野広小路などを経由して須田町まで。一方、春日通りまで10分歩くと『大塚2丁目』の電停、ここには16系統、大塚駅前~文京区役所~上野広小路~厩橋~錦糸町駅前が走っていた。当時珍しく、さらに他の系統にも乗り歩いた。例えば13系統、新宿駅前~水天宮前、新宿の専用軌道が懐かしい。

その中で今も残る32系統、現在の荒川線は早稲田~王子駅前~荒川車庫は友人の東池袋の下宿のそばでよく乗ったし、踏切も歩いた。一つずつ路線が廃止になる中でまさかこれだけは残るとは。

この路線は1913年に三ノ輪橋~飛鳥山下まで王子電気鉄道が開業したのが起源、これが徐々に延びて1932年に全通、当時は王子駅前~赤羽までの路線もあった。その後、1942年に東京市に事業譲渡し、その後、東京市が東京都となったため、晴れて都電となった。この路線の特色は王子電気鉄道という私鉄が作ったため、専用軌道が多く、それが残された理由らしい。元々は先に述べた32系統と27系統(三ノ輪橋~熊ノ前~王子駅前~赤羽)のうち王子駅前~赤羽を廃止し、一本化したものである。

それにしても、今もすっかり変わった大塚駅前、桜がよく似合う飛鳥山の坂、珍しく真っ直ぐな学習院下、様々なところで都電に出会うと堪らなく懐かしい思いがする。