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放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

須賀利(スガリ)

2012年05月21日 15時16分07秒 | Weblog
 先週からハチの巣を三つは攻撃している。

 同居できればそのほうがいいんだろうけどね。
 菜園の害虫も取ってくれるし、アタマのいい種類ならば無用に人を刺さないというから。

 けれど、イロイロ考えて、やっぱりスプレーをぶっかけた。

 一つは、場所が物干しのすぐワキだった。
 もう一つは寝室の軒の下。網戸を開ければ至近距離。
 三つ目は玄関のすぐワキのナンテンの枝の下。

 ちょっと我々の生活に近すぎる。
 人が手を出せないような大屋根の向こうとか(どこですかソレ)、一本杉のてっぺんとかならいいんだけれど、手が届くところに巣をかけられちゃ、やっぱりこっちが落ち着かない。

 物干しのすぐワキの巣は、クロスズメバチという小柄なやつ。一匹だけなのを知っていたから、昼間でもすぐにスプレーをかけた。
 もう一つは、多分フタモンアシナガバチというヤツ。遠くから見るとスズメバチそっくり。もしかしてそうだったらどうしようかと、かなりヒヤヒヤだった。
 襲撃は午後7時頃。
 部屋の電気をすっかり消して、そっと寝室の窓に足をかける。
 なるべく音を立てないように網戸を開けて、暗闇のなか見当をつけてスプレーを発射。
 結構長くかけた。

 それから玄関下に親蜂が落ちているのを確認。
 ごめんね。殺生しちゃったね。
 あの場所では共存できないんだ。

 ぽたぽた音がするのでそちらにライトを向けると、さっきのスプレーがしずくになって落ちてきていた。蜂の毒よりもこっちのほうがはるかに危険なのだ。人間って罪深い。
 なにしろ、このスプレーをたっぷり浴びた屍骸は、アリだって持って行こうとしないんだから。


 余談だが、蜂のことを古語で「スガリ」というらしい。(ある展覧会で「須賀利御太刀」(加茂御祖神社)という刀を見た)
 角田の義父はいまでも蜂(主にスズメバチ)のことを「スガリ」と呼ぶ。

 語源はよくわからない。けど、判らなくても「スガリ」というのは蜂のシャープで攻撃的で、針をもっているイメージをよく捉えていると思う。そして、その美しさも。

 軒下で死んだスガリは、シャープなデルタ翼をしていた。こわいけれど、このシェイプには、惹かれる。
 
  

 
 
 

日蝕

2012年05月21日 12時44分25秒 | Weblog
「日蝕」
この字はすざまじいね。「お日様を蝕(むしば)む」って書くんだね。

昔の宿耀術では不吉な日とされたけど、今日はまるで天文ショーという乗りだったっけ。

このまえ仙台市天文台でプラネタリウム上映「黒い太陽」を次男坊と一緒に観た。
(どっかで似たようなタイトルのドラマがあったような・・・)
テーマはもちろん皆既日食。
プラネタリウム専用のカメラで2009年の皆既日食(於:宮古島)を撮影していたんだね。
これがまたすんげーリアル。
風がそよぐ草原にみんなで寝転んで観測している感じ。

日食が始まった瞬間、なんだか鳥が啼きだし、風がさわぐ。
皆既日食の瞬間が近づくと、空はいっそう冥くなり、みんなで息を詰めている緊張感がこちらの身体をも縛りつける。

やがて金環日食。
金色のフレアがよく見える。その中心に、真っ黒い塊がまるで光を喰う穴のようにボコっとあいているように見える。

しかしその塊はだんだん中心からずれてゆき、次の瞬間、塊のフチから強い光がほとばしる。
まるで死者が復活してゆくよう。

草原全体に歓声が上がる。
その声に応じるように草原はいっそう明るくなってゆく。

いやぁ・・・。スゴイもん観ちゃったなぁ。(ってプラネタリウムなんだけどね)

「黒い太陽」を観たあとの次男坊がポツリと一言。
「あんな怖いの、起こらなければいいなぁ。」

ありゃ、ヘタレですか?


そんでもって今日。2012年5月21日午前7時20分頃。仙台の上空はよく晴れています。

けれどやっぱり日蝕がはじまると雲もないのに空がどんよりとしてくる。
日蝕を知らなければ、どうにも説明がつかない現象。
へえええ、これは面白い体験だ。

子供たちも朝ごはんそっちのけで代わる代わる外に飛び出して空を眺めている。
(あ、日食観察グラスは売り切れだったので、直接太陽を見ないように言っていました)

空が薄暗い状況はしばらく続いた。
僕も出勤間際に空を見上げた。

並んで建つ建物の屋根と屋根の間からちょうど太陽が見えた。

一瞬、だけど直視してしまった。
ぎらり、と強い光が網膜に焼きついた。
青いとも白いともいえないような影が幽霊のように視界にはりついて消えない。

だけど、見た。
まるで太陽がべっこりと凹んでるような影が・・・。
きっと空気の抜けたバレーボールにパンチするとあんな影になるかもしれない。

網膜に焼きついた幽霊もよくよく検めると、やはり凹んだ光のシルエットだった。
暫くのあいだ、この幽霊は視界から消えてくれなかった。よい子のみなさんは真似をしてはいけませんよ。

このごろ視力が衰えている。眼球が老いているのがわかる。
ピントが合わせずらい。眼球の中に異物が浮いている。
眼球が縮んできているのだ。



職場に着くと、数人でなにかビニールのようなものを上にかざして見上げている。

聞けばお菓子のビニール包装のなるべく色の濃い部分で日蝕を見ているという。

ああ、やっぱりね。
そういうヤツ必ず出てくるよね。
僕も小学校の頃、半透明の下敷きにスミ塗って部分日食を見た記憶がある。
あれは、杉並区堀ノ内の環七にかかる陸橋の上だった。

光化学スモッグもかかっていたからとても見易かったっけ。


くれぐれも、現代のお子ちゃまはマネしないでね。




竜巻

2012年04月27日 13時20分18秒 | Weblog
 ちょっとあまりのことに言葉がでない。

 正月につくばに帰省した際に、筑波山周辺の道は車で通っている。当然、小田、北条のあたりも通過した。
 もともと、このあたりは中坊の頃からチャリでよく通ったところ。
 まさか、そこがこんな惨事に見舞われるとは・・・。

 犠牲者も出た。自分の子どもと同い年の中学生。気の毒でならない。
 
 なんだか、このごろ度を越してひどい災害や事故が多いように思う。考えるだけで神経を蝕ばむ不快さを感じる。

 現場に居合わせて、生き延びた人、生きることが出来なかった人。
 あしたという瞬間は、いつもこういう理不尽な選択肢の連続なのではないか。
  
 「こういうときに宗教って、何の役にたつんだろう」
 BELAちゃんがぽつりと言った。

 「宗教」というものが、すがるためだけにあるのだとしたら、おそらく何の役にもたたないだろう。臨済さんではないが、それは馬糞に等しい。
 「宗教」が、この気が狂いそうな現状を冷静に受け止めるための(ほんの僅かでも)智慧をもたらすものであったならいいな、と思う。

 震災のとき、僕たちの生死は天秤にかけられた。
 あんなに遠くに感じていた生死の天秤が、ときにすぐ目の前で傾(かし)いでいる。待ったなしで傾いでゆくその有様は、ちっぽけな僕には気が狂いそうなほど理不尽に見えてならない。

 もしもあの瞬間に帰省していたならば、僕もあの竜巻を見たかもしれない。

 僕はなるべく冷静に、一種の諦観を持って、この理不尽に明日も耐えてゆかなければならない。 
 

HP消滅!(°o°;)

2012年03月19日 00時18分12秒 | Weblog
 あまりのショックに声もでない・・・。

 僕のHP「放菴」(OCNカフェ)が消滅!
 なんと2月末でサービスが終了していたらしい。
 不覚にも3月に入ってから気がついた。全ては後の祭り・・・。
 
 あそこが「放菴日記抄」の本宅だったのにー。
 いろいろ書きなぐってきたけれど、保存しておいたコラムなんてそんなにない。
 特に、最後に書いたコラムは一部しか保存していなかった。
 不覚、不覚。

 諸行無常とはこのことか・・・。自分の場合、書行無情、かな。

 ああ、またどこか書くとこさがさなくちゃ。

今日、ホワイトデーだっちゃ?

2012年03月14日 10時48分27秒 | Weblog
 昨年は震災直後で霧散してしまったホワイトデー。
 今年もなんだかニュースではホワイトデーの「ホ」の字も出ない。

 しばらくはホワイトデーの影が薄い3月ばかり訪れるかも。

 2月にNHK(Eテレ)で「極める!チョコ学」というものをやっていた。
 チョコの誕生までの歴史や、難易度高そうなデコレーションチョコの作り方なんかもやっていて、無節操な僕も夜中に偶然みつけて、一回は観た。

 まぁ、あれはバレンタインデーに引っ掛けた番組だったんだろうけど、一方でチョコはこんだけ叡智の詰まったごちそうなんだぞ、という面白い企画だったと思う。

 で、3月に入って、なんか自分なりにやってみようかとアタマの中で材料を組み立てつつ、BELAちゃんにホワイトデーの話をすると、
 「いい、うち甘いものいっぱいあるんだもん」と、やんわり拒否。 orz

 実際、なんだかお供えしてあるお菓子は山のようになっていて、食べているんだけれどなかなか減らないという有難い状況だったりする。

 で、作戦変更。
 家にあるバリバリ系のお菓子を、かたっぱしから溶かしたチョコにつけてチョコフォンデュにしちゃえ! 
 おせんべいも柿ピーもポテチもいっさいがっさいチョコまみれ! ということで今週中に決行予定。どんなもんでしょ。

 ホワイトデーだかなんだかわからない計画だけど、まあ、オトコの考えることなんざ、こんなモンです。

 結果は後日報告ということで。 

天国にぶっ放せ

2012年03月07日 12時07分02秒 | Weblog
 2012年3月11日、仙台では泉ヶ岳の山頂から、天国に向かってでっかい花火を打ち上げるらしい。
 
 こういうことを思いつく、そして実行できる人を素直にカッコイイと思う。

 そして、なんだか中途半端な我が身を思い、ため息が出る。

 震災は多くの家族の幸せを引き裂いた。
 そして、その事実に心を痛めた人々が支援にまわった。
 被災地にあって(幸い)財産や家族を失わずにすんだ人々もまた支援にまわった。
 「絆」という言葉があちこちで聞かれ、それが日本人の世界的な評価さえも変えた。

 その騒ぎの中にあって、僕はいったい何をしただろう、と考える。
 被災はしたけれど、放菴は基礎に数本ヒビが入っただけ。(自力で補修できてしまった)
 家族にも犠牲はない。
 被害といえば、圧倒的なモノ不足であえいだぐらい。それも友人の英雄的な行動力で何度も救われた。
 
 被害が少なかったのだから支援にまわったらよかったのに・・・。
 そんな囁きが耳裏で聞こえるような気がする。

 でも実際には、出来なかった。
 瓦礫の撤去とか、避難所のお手伝いとか、身を挺するような支援は、まるで出来なかった。

 震災後、子供たちも親との密着を求めてきたし(「お父さん、お母さん」と呼んでいた次男が「パパ、ママ」に退行した)
 毎日、ただひたすら食料や燃料確保のために行列に並んでばかりいた記憶がある。

 それがひと段落ついてからも、実家や知り合いのために支援物資を運んだりはしたが、やはり津波の爪あとナマナマしい地域へ足を踏み入れる勇気は、なかった。
 この目で津波の惨状を見ることができたのは、すっかり暑い季節になってからだった。

 自分を責めるのは正しくないことだとは、思う。
 なんの足しにもならないし、自分なりに出来ることは多分していたのだろう。

 それでも、ガレキ撤去や避難所で駆け回っている人々を(映像とかで)見ると、不思議と心がざわつく。ホントに自分にできることはないのか。どっかで怠けていないのか。
 
 ガレキ撤去のニーズはまだまだなくならないという。

 2012年の3月11日を、震災からの一区切りと表現する人がいる。
 ちょっとその表現は早くないスか?

 いまだに家族の見つからない人や自宅に戻れない人にとって、毎日は震災から続く悪夢の延長であり、1年たったからって悪夢は覚めてくれないのだ。

 どうか3月11日の意味を取り違えないでほしい。
 追憶の日ではあっても、あの日からの延長線上にあることに変わりはないのだ。
 この1年で何ができただろう。これから何をしなければならないのだろうか。

 中途半端な被災者なりに考えている。

 あと、どこで花火を見ようか、とも考えている。

春の雪

2012年02月28日 13時56分45秒 | Weblog
 仙台も雪が降った。
 土曜日が一番降っただろうか。
 日曜日も月曜日も、空は明るいのに勢いよく降った。
 この季節、空が晴れていてもどこからか風に吹かれて雪が降る。

 東北の太平洋沿岸部には俗に、「春のドカ雪」と呼ばれる雪の降り方がある。
 これは大陸からの寒気に太平洋の湿った空気が混ざるので、水分を多く含んだ雪が降るという現象。
 
 まあ、雪じたいが水分なんだから、言っていることがヘンに聞こえるだろうが、真冬のサラサラした雪が季節の推移とともにボッタリとした雪になり、やがてみぞれとなり、さいごには雨になる。東北に春がやってくるときの天候イベントのようなものだ。

 「春のドカ雪」は、このサラサラ雪からボッタリ雪に変わるころの雪をいう。
 特徴は、やけに粒がデカい。ホコリでも降っているかと思うくらい。
 粒がデカいくらいだから、積もるのも早い。
 そんでもって水分を多く含んだ雪は重い。建物の屋根に残ると危険だが、地面に積もり、除雪し切れなかった雪も夜には氷結し、いちめん氷塊になるから厄介だ。しかもこういう重くて堅い物に限ってなかなか消えない。歩くときは足の裏にスパイクがほしくなる。

 あの日、3月11日にも雪が降った。
 激しい雪が降りしきる中、街へ津波が押し寄せる映像を誰でも何度も見たことがあるだろう。
 あれは本当に降ったのだ。
 それまで降っていなかったのに、地震の直後から、堰を切ったように降りだしたのだ。
 激しい揺れが襲来した直後、空は無言のままに粒の大きい雪を落とし続けた。
 僕らは明るい空を見上げ、困惑しつつこの雪を顔に受けていた。
 
 あれは警告だったのだろうか。

 これから多くの人が亡くなるよ、という・・・。

 
  雪はそのままふりしきり、べちゃべちゃとした氷塊となって渋滞している車のタイヤに噛み付いた。

 ラジオから流れる恐ろしい災害の情報と、二次災害にもなりかねないドカ雪を不安な気持ちで見上げていたのを思い出す。
 
 雪を見てあの頃を思い出すというのは、またあの頃と同じような降り方をしていたということなんだろう。

 震災からもうすぐ1年。
 寒い春は、気持ちが沈む。

口内炎

2012年01月17日 14時31分51秒 | Weblog
 舌の左に口内炎ができました。
 ちょうど奥歯にこすれるところ。

 かなりイタイです。(><)

 食べるのもツライ。
 しゃべるのもツライ。
 なにをしていてもツライ。

 痛みをこらえるために知らず知らずに奥歯をぎゅっと噛んでいる。
 これが左顎の筋肉痛を起こし、ついでに偏頭痛も併発。
 左目の眼底までズキズキしてきた・・・。

 もともと口内炎とはオトモダチのようなもの。
 しょっちゅうできている。しかも治りにくい。
 4週間くらいそのまんま、なんてぇときもある。
 口内環境がよろしくないのだろうと思い、このごろはピュ○ーラとか併用するようにしていた。
 正月の口内炎は4日ほどでふさがったのに・・・。

 今度はよりによって舌、常に奥歯にこすれて痛いところだよ。
 これがほっぺたの裏側とかにできた口内炎ならブクブク嗽(うがい)していれば気が紛れるのに。

 なにしててもイタイ・・・。
 軟膏塗ってもすぐに取れちゃうし。
 あーもう、こんなところに貼れる絆創膏はないものか・・・。

 そういえば、学生の頃、舌に出来た口内炎をお医者さんに焼いてもらったことがある。

 なんだっけ、アレ、硝酸銀だったかな・・・。
 
 なんかそんなのを使って焼いてもらって、やっと物が食べられた記憶がある・・・。
 どっかでやってくんないかな、硝酸銀。


 
  

寒空の救出

2011年12月25日 01時49分38秒 | Weblog
 天皇誕生日の金曜日。

 クリスマス寒波が襲来していた。
 日差しはあるものの、風は身を切るように冷たい。気温も一向に上がらないような一日だった。

 その電話は、僕とBELAちゃんが車で買出しにいっているときに入ってきた。

 「あのぉ、僕だけど。」
 「うん? Mクン(我が家の次男坊)どーしたの?」
 電話で応対するBELAちゃん、だんだん声のトーンに驚きや呆れた感じがでてきて、最後にため息ついて「わかった、そのまま待ってて」と言った。
 僕はハンドルを握っている最中だったので、電話には加わることができず、ひたすらBELAちゃんの報告を待つだけだった。

 「Mクンねぇ、公園でブランコにはさまっちゃったんだって。」
 「・・・? はぁ?」
 「ジャンパーのすそがブランコにはさまってって動けないんだって。」
 「はぁ・・・。」
 さきほどのBELAちゃんの呆れたトーンの意味がやっと判った。
 「・・・この寒空じゃあなぁ。急いで向かいますか。」ハンドルを切って交差点に向かった。


 公園に到着したのはそれから10分以上経った頃。

 なるほど、公園のブランコにたった一人、小さな男の子がいた。
 冬枯れの芝生。だれもいない公園。その真ん中にぽつんと一人。ブランコにまたがって背中を丸めている。

 こういう情景を見ると、やっぱり人様の親たるもの、自然と駆け足になってしまう。
 「Mクン! 待たせてゴメンね。寒かった?」
 「うん・・・」
 そりゃ寒かったろう。一緒に遊んでいたお友達も先に帰ってしまって、たった一人で冷たい風にさらされていたのだ。

 Mクンのジャンパーはブランコの鎖の輪っかにがっちり噛んでいた。
 「いま外してやるからな。」
 ところがこれがハンパじゃなく奥まで噛んでいてびくともしない。
 ジャンパーには鎖のサビがこびりつきあちこち茶色くなっている。
 「切っちゃおうか」
 「ええー!」
 切っちゃったら、この寒空に着るものがなくなっちゃう。Mクンは自転車で来ているから、どうしても帰りは防寒対策の整った条件にしなくちゃいけない。
 「だって、こままじゃあどんどん身体が冷えていくよ!」
 そりゃ大変だ。
 ぐいぐい裾をひっぱる。角度を変えて引っ張ってみる。BELAちゃんはMクンを背中から抱きしめて、僕は地面にヒザをついていろいろ試している。遠くから見たら、何をしているように見えるのだろう?

 努力の甲斐も空しく変化はなかった。ジャンパーは鎖にがっちり噛んだまま。

 「やっぱり切ろう。」
 BELAちゃんは近くのママ友に電話。しかし留守電・・・。
 「私、交番に行って万能はさみでも借りてくる。」
 BELAちゃんは駆け出した。
 わぁ・・・、やっぱり切るのスか?
 それよりMクン、そろそろ限界だよなぁ。

 「Mクン、ジャンパー脱ごう。そんでもって車まで走ろう。車の中なら日光であったかいから、ここよりいいよ。」
 この寒い中でジャンパーを脱がすのはかわいそうだけど、このままにしておくのは、もっとかわいそうなこと。僕は思い切ってジャンパーを脱がせた。そしてMクンを横抱きにして車へ走った。
 「急いで中入って! あ、ブランケット二つあるでしょ? 肩と膝にかけるの!
 そうそう。暖かいでしょ。うん、じっとしててね。ドア閉めるぞ。」

 僕は車のドアを閉めると、またブランコに戻った。
 不思議と生身の人間がぶら下がっているジャンパーだと引っ張る力にも遠慮があったかもしれない。その証拠に、人間が着ていない状態のジャンパーだと引っ張る力にも割り増しパワーが掛かり、裾は鎖からブチっとぬけた。

 ふう

 ジャンパーの裾はすっかり茶色く汚れ、生地は変によれていて元に戻らない。でも無いよりはましなのだ。

 僕はジャンパーをぶら下げて車に向かった。
 そのとき、通りの向こうからパトカーが滑り込んできた。
 
 あれ、あれ。おまわりさん3人も乗っているよ。
 パトカーに向かってジャンパーを差し出す。パトカーからBELAちゃんも出てきた。

 「ええー取れたのー!!」
 「うん、なんとか。」

 おまわりさんは笑ってパトカーは走り去った。
 すっかりお騒がせをしてしまった呈だ。
 あとで訊いたら、BELAちゃんが交番で「なんか刃物かしてください!」と言ったので心配になって三人も乗って来たのではないかという。

 挨拶にいかなきゃね・・・。
 さっきスーパーで買ったばかりのみかんをより分けて、お詫びのつもりで6個ばかり交番へ届けた。
 BELAちゃんはMクンの自転車を押して帰ってくれて、Mクンは車で放菴へ帰った。

 いやぁ、とんだ救出劇だったね。

 放菴のカウンターにホットミルクが湯気をだしながら並んだ。
 

うたのチカラ

2011年12月02日 13時36分31秒 | Weblog
うたのチカラ、ってすごいな、と時々感じる。

ある特定の体験をすると、心の底に、その体験を想起させる「ツボ」のようなものができる。
この「ツボ」を押されると、不覚にも涙腺のスイッチがはいってしまう。。

「うた」はときどき、このスイッチを難なく探し出してしまう。
非常に困ったものだ。

先々月、テレビでいわき市のフラガールの特集を観た。
そこで紹介されていたのがAirialの「息吹」という曲。

何気に聴いていたら(「あ、歌上手いな」とか考えながら)、あるフレーズにきて心をワシ掴みにされた。

 ~ 暗い瓦礫の中から
     明日へ生きろと 声がする ~

うわぁ・・・、そう来たか。
この一言で、それ以後の歌詞から連想される風景ががらりと変わった。

 ~ いまあなたの声が聞きたい いま温かい声が 聞きたい ~

何気に聴くとただのラブソングだけど、さっきのあのフレーズの後に聴くと、被災地に生きる必死な想いが切ないほど伝わってくる。

これは「絶望」を経験した人のための歌だと思った。

僕らは圧倒的な「絶望」に直面した。
巨大で、残酷で、容赦のない・・・。
 多くのものを失くし、あとに寒さと断絶と瓦礫と差別が残された。
  終わらない悪い夢。生きていることが理不尽なような逆相の世界。
   ここから始めるしかなかった。
    恨んでも悲しんでも、ここに居続けることが生きること。
    だから、生きることを止めないで。
     いつかこの地にたくさんの花をさかせるまで・・・。

うたのチカラって、スゴイ・・・。
この曲を聴いている瞬間、気持ちは3月に戻ってしまう。
思い出すのは、あの閉塞感と、薄氷の上を歩くような心もとない、けれども確かな僕らの息遣い。
あのとき、みんなが同じ息遣いをしていた。まるで少ない酸素を分け合って吸っているような・・・。
いけね、鼻の奥がツーンとしてきた。

「息吹」はそもそもスパリゾート・ハワイアンズが再起と被災地の復興のために提供された楽曲。
だけど、これはハワイアンズのみならず、多くの人に聴いてほしい一曲だと思う。

フラガールのメンバーも「みんなに聴いてほしい」とテレビ特番で言っていた。
ありがとう。

もっともっと多くの人に聴いてほしい。僕もそう思います。