放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

The Life Eater 2023

2023年04月01日 18時22分30秒 | 東日本大震災
2023年3月、石巻へ行った。
今年の3月は、明るくて温かい。
それでも海の耀きは、あの日のことを思い出させる。
そう
この季節は海の色が最も碧く、とても澄み渡っている。
なぜあんなに狂ったような禍をもたらしたのか戸惑ってしまうほど美しく碧い海。
そのあと、天地には涙のような霙(みぞれ)がざんざんと降った。

しばらく石巻へは行けなかったが、道路が改善してからやっと日和山の下の道を通った。
そうそう、更地になって砂埃だらけの土地に「がんばろう石巻」と書かれた看板があったっけ。
あの看板は今、どうなっているのだろうか。
 
日和山の懐には痛々しい壁をさらす門脇小学校の旧校舎がある。当時の校舎を左右ともに短くしてしまったが、まるで児童を護る城壁のように構えたその姿は変わらない。
津波火災、という最も怖ろしい災害をこの城壁は黒焦げになりながら受け止めた。
水平避難でも垂直避難でもなく、シンプルに山に逃げる、という行動が助け合いを生み、多くの人が難を逃れた。
これまで宮城県内の多くの震災学校遺構を見てきた。
それぞれに災害への教訓を持っており、答えが一つではないことを教えてくれる。

亘理の中浜小学校は究極の垂直避難で命を繋いだ。
仙台の荒浜小学校も垂直避難。ほかの選択肢はなかった。
石巻の大川小学校は、迷いと水平避難が被害を大きくした。

そして門脇小学校の場合、垂直避難も水平避難も正解ではなかった。
児童と引率する教諭はいち早く校庭から裏山への道を辿って日和山へと逃れていた。
一方、避難してきた住民と一部教諭は校舎と屋内運動場に残っていた。
そこへ津波が迫る。

この時の怖ろしい映像が残っている。
映像は校舎の屋上から撮られたものだ。
車から漏れたガソリンや埠頭にある燃料などが海面に集まり、そこへ漏電火災などの火花が引火する。
すなわち、海が燃えながら陸に押し寄せてくるのだ。漂流物が炎上しながら押し寄せる場合もあるという。
門脇小学校校舎の屋上に避難していた市民は燃えながら校舎にぶつかる波頭を目撃した。
 押し寄せる衝撃と轟音、アブラの匂い、熱風。
   どんなにか怖かったことだろう。
少し波が引いたとき、みんなは決断した。山へと伝い逃げる方法を模索しよう。
時間は限られている。校舎の裏山はそそり立つ擁壁があって、直接渡れない。
誰かが教壇を担ぎ出して2階から擁壁へと渡した。
教壇は重い。市民は高齢者や女性が多かった。文字通り火事場の怪力である。
こうしてみんなは裏山へ逃れた。

今、校舎に残る机や椅子は天板や座面がすべて焼け落ちている。
黒板も焼けてひしゃげた鉄板だけが残っている。戦場のようだ。
生生しい震災の資料。
当時のラジオから避難を呼びかける音声データ(よく残っていたね)。
地震の膨大なデータ。
そして今なお残る裏山の擁壁。
防災や減災が身近な課題であることを教えてくれる。

もしも亘理の中浜小学校のケースで津波火災に襲われた場合、屋上倉庫に避難した児童はどうなっていたことだろう。
避難の仕方に答えはない。いつも結果だけが存在する。

体育館に向うと、そこに「がんばろう石巻」の看板があった。おう、ここにいたか。
その左をぐるっと廻るとなんと災害公営住宅が残っていた。この展開は重い。
東北仕様の二重扉。当時の家電製品。
壁に空いた穴。
阪神淡路の震災より進化しているという応急住宅だが、やはり悲しい記憶でいっぱいになってしまった。

震災直後、この辺はびょうびょうと吹く浜風と灰色または茶色い世界だった。
やがて歳月が経ち、避難の丘やメモリアル施設ができて、様子がすっかり変わった。
きっとそのほうが良いんだろう。
いつまでも灰色と茶色の世界ではやりきれない。
でも、失ったものを忘れないようにしてあげないと、誰かが覚えていてあげないと、この浜辺に刻まれた悲しみは封印されて行き場がなくなってしまうような気がする。
少しづつ蒸発・・・いや、昇華するように癒やされてゆくことが、人にも土地にも必要なんだと思う。
メモリアル施設や震災遺構は、誰かの記憶を喚起したり、伝承したりすることで、その地の悲しみを昇華させることも役割の一つではないかと思った。
もちろん防災教育も大事な役割ですけど。
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The Life-Eater 2021

2021年06月12日 00時22分40秒 | 東日本大震災
  山元町立震災遺構・中浜小学校のことについて書きたい。
 ここが震災遺構として保存公開が始まったのが昨年2020年10月のことだった。
 僕が訪れたのは公開されて間もない11月中旬。
 ここで聞いた被災体験談は稀有なもので、ある意味奇跡でもあり、いろいろ考えさせられてしまう。

 山元町中浜地区はそもそも海に面している。中浜小学校も海から400メートルと近い。津波が来る前の写真では住宅に囲まれていたが、現在はすぐ目の前に波が打ち寄せいているように見える。
 平成元年(1989)、小学校舎を新しくする際に、敷地は2メートル嵩上げされた。津波や高潮を懸念する住民の声を反映させたという。小学校の現在も海側には、長大な土台が壁のようにそびえている。
 しかしここは津波発生時の避難想定先にはならなかった。
 海から近すぎたのだ。津波が発生すれば、内陸部の坂元小学校まで逃げることになっていた。

 新しい校舎は2階建てで、その屋上には赤い三角屋根の収納スペースが設置された可愛らしい建物。
 開放的な教室、明るい日差しが注ぐ多目的室、多くの卒業生にとって想い出深い学校だったことだろう。

 今は、無残にも倒壊した時計台、ひしゃげたフェンス、倒れた柱、めくれた床板、ところどころに何かを引きずり回したような痕跡が痛々しく残る。
 波は海側から突入し、歪んだ流痕を残して北側の壁を大きく破壊して去っていったようだ。いまはすっかり外が見えるようになった校舎をひゅうひゅうと浜風が吹き抜けてゆく。

 あの日、激しい揺れに襲われたあと、坂本地区にも津波警報が発令される。予想される津波の高さは10メートルだった。
 校長先生は決断に迫られた。
 津波に追いかけられるのを承知で全校生徒と住民を坂元小学校まで誘導するか
 避難計画とは違うが、このまま校舎に留まり、10メートルの津波に耐えるか。

 前者であれば、恐ろしい速さで駆け上がってくる津波に呑まれて児童が犠牲になると思った。
 後者は、事前に計画した避難方法と違うのでみんな混乱する。しかもここは2階建て。10メートル以上の津波が来ればやはり犠牲者が出てしまう。避難計画通りに避難させなかったという誹りが矢のように降り注ぐだろう。

 校長先生は究極の決断をした。
 校舎屋上までの高さは確か8メートルだった。これに嵩上げ土台2メートルが加わる。合わせて10メートル。
 この10メートルに賭けよう。
 
 校長先生はみんなを屋上へ通じる細い階段へと誘導した。
 きっとこの階段を登ればみんな地獄のフチを見ることになる。
 はたしてこの判断は間違っていないのか。
 本当に津波は10メートルより高くなることはないのだろうか。
 いろいろなことを考えながら校長先生はみんなを屋上へ誘導し、最後に自身も階段を登ったという。

 屋上に上り、児童はなるべく奥の方へ待機させた。なるべく津波を目撃してしまわないような配慮だった。
 やがて津波到来。どんどん潮位が上がってゆき、真っ黒い水が押し寄せた。目で見ていなくても、あの轟音は耳朶に染み付くほど恐怖だったはずである。
 幸い、津波はギリギリのところで下がっていった。その黒い水の痕はいまでも校舎外壁に不気味な縞模様となって残っている。

 あたり一面は泥海と化した。
 波が引いても第二波がやってくる。しばらくは誰も救助に来れないだろう。浜は、町は、いったい今どうなっているのだろう。雪が降り始めていた。
 児童教師それから地域住民あわせて約90名。みんなで屋上にある三角屋根の収納スペースに入った。ここなら屋上に居るよりも安全である。
 中には学芸会や運動会の小道具、いろいろなものが散乱していた。電灯も点かない、エアコンもない。通風孔から冷たい風が入り込んでくる。  
 大人たちで通風孔を塞ぎ、毛布や暗幕や身体を保護できそうなものをかき集めた。非常食料や持ち寄ったお菓子を児童たちに分けた。
 児童たちはめいめい横になれるスペースを見つけて身体を横にしたという。
 長い長い一夜だったことだろう。
 中浜小学校は、今でも当時の避難行動について問題提起をし続けている。   
 
 確かな事。あのとき大人たちはみんな最後まで人命を護ることに一生懸命であった。
 その点については、痛ましい犠牲者を出してしまった他の避難所や学校でも同じことが言えるのではないか。
 「津波てんでんこ」なんて諺(ことわざ)があるが、でも学校という現場において、大人が子供を見捨てて逃げ出したという話は聞こえてこない。東日本大震災という災害下において、誰もが一生懸命だった。みんな助かりたいと願いながら。
 ただ評価・審判されてしまうのは、防災計画の出来・不出来であり、瞬間の大人たちの機転であり、その結果であり、そしてその後の説明責任ではないか。
 
 中浜小学校で、もし犠牲者が出てしまえば大人たちへの評価は今とはすっかり違うはずである。そう考えると、あの瞬間生きるために非常階段を登ることを決断した校長先生の胸中は・・・。
 多くの人が悩んで、考えて、それでも最後に辿り着く事実は、子どもたちを死なせずに済んだということ。それ以上の結論は恐らく出ないのではないか。たとえ完璧な防災計画で効果的な避難行動が出来て犠牲者が出なかったとしても、その結論は果たして必然か。本当に必然か。必然で片付けていいのか。悩まなくていいのか。もしかして偶然だったかもしれないって、疑わなくていいのか。
 実は世界中のすべての現象は偶然の連続であって、人にはどうしようもないことばかりなんじゃないか・・・。特にそれが災害であったならば・・・。中浜小学校の問題提起の本質は、「その瞬間にできる最良のことは」何なのか、ということではないか。

いかに犠牲者を出さずに行動するか
いかに被害を最小限度にするか
一連の行動を正確に説明できるか。

そもそも全てが偶然の連続であったなら、最良の行動ですら結果論にすぎない。それでも固定的な思考で決まった行動を取るだけではなく、想定されていない驚異に対して広角的にアンテナを張り続けて行動すれば、それが最良である確率は向上する。屋上への避難の話は、そういった要素を多分に含んでいた。

誰に褒められなくてもいい、あの瞬間の人々の緊張と英知と幸運を、赤い屋根の校舎は伝えている。
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「阿(おもね)る」ことと「カタルシス」

2021年03月12日 00時54分11秒 | 東日本大震災
「阿(おもね)っている」
そういう気分がないわけではない。もちろん自分のこと。

これだけ地域によって復興の有様が多様化してしまい、「進む」「あきらめる」の差もひどい。
一口に「東日本大震災」といっても、被害状況や、その後の支援の入り方も、そして変容する地域もさまざまだ。
誰彼なく傷つけてしまわないように、態度を控えめに、相手に寄り添うような姿勢を示そうとする。
するとそれは、どこか「阿る」ような態度になってゆく。
自分の拙い理解が、相手の被災体験には到底及はないのだから、そうするしかない。でも「阿っている」と思ってしまうと、もう言葉が一つも出てこなくなる。
テレビ番組で「震災」を取り上げた番組は、3.11までは本当に多い。でもそれをすぎると、とたんに「震災」というキーワードは絶滅寸前まで少なくなる。これを見ると、「やっぱ阿った?」と訊きたくなる。

でもこれ、実は悪循環な思考だと今日知った。
「阿って」いたっていいのだ。そんなものを気にする必要は、多分ない。
「阿って」「阿って」、仕舞いには「東日本大震災」関連のキーワードを聞いただけで目頭が熱くなるほど「阿って」しまえばいいのだ。
3.11、海に向かって涙した人がいっぱいいたと思う。
誰も忘れてほしくない、忘れたくない、そう思って、周囲と話をして、いっぱい語り合って、泣いて泣いて、そして少しだけ苦しみが軽くなる一時だった。
3.11のときばかり阿って、という考えがある一方、たとえ阿っていたって、誰かの苦しみを軽く出来るかもしれない。持続性があれば -阿っていることすら忘れるくらいに- 誰かの助けになるかもしれない。そこに小さなカタルシスが生まれるはず。
気にしなくていい。忘れてしまうよりもずって値打ちがあるから。


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3.11だけではないだろう?

2019年03月17日 02時51分16秒 | 東日本大震災

 この日を思い出したくないという人がいる。
 この日を忘れたくないという人もいる。

 東日本大震災は広範囲に被災した災害だったけど、みんな同じ体験をしたわけではない。
 そして心の傷を癒やす方法なんてどこにもない。

 毎年やってくる3.11だけど、その日だけが鎮魂ではないだろう。
 たとえば8年前の今日は、発生から〇〇日が経っていて、まだ食料を求めて雪舞う空の下、袋をぶら下げて行列に並んでいた。水道は止まり、電気もつかない。ガスも出ない。そしてラジオの電波はしきりに福島第一原発のニュースと政府広告機構のCMを交互に流していた。
 8年前の今は何していたかと考えれば、今日が3.11でなくても毎日が鎮魂で、深刻な物資不足を耐えた自身を労うべきなんだと思えてくる。

 自分はどこか震災の日を神聖視しているところがある。
 おそらく執拗なフラッシュバックを軽減するために心のどこかを加工したのだろう。
 とても辛い記憶がいつのまにか眩しいような思い出に置き換わる、ということが僕には時々ある。心の安定を図るため、脳内に何か緩和物質が出るのか。あの日のことを思うとき、心の中に鎮魂の聖堂のようなものが出現する。その瞬間だけ、人間が嫌いで怖くて仕方がない僕でも、誰かと手を繋げるような気がする。その瞬間だけ、鎮魂を言葉にしても誰も笑わない、ように思える。

 この不思議な聖堂は他の人にもあるのだろうか。
 
 恐ろしい浪に呑まれていったはずの死者が、さっぱりとした顔で立っているのを想像できるような
 見つからない人が、手を振るのが見えるような
 焼かれた人も、潰された人も、ちぎれた人も、みんなみんな完全に癒えて笑っているような
 そして生き延びた僕らを祝福し、励まし、生きていることが罪ではないとおしえてくれるような
 「待っているよ」と言い残して光の向こうへ消えてゆくような・・・
   
 そんな聖堂をいつもこころに置いておきたい。   
 
 生きているつらさは、誰かの分も担っているから
 「こんなことになるならば、もう少し優しくしておけばよかった」
 「もう少し話を聞いておけばよかった」
 「もう少しわがまま言っておけばよかった」

 別れたからこそ生まれてきた感情がある。
 これは聖堂から出しておいて、日常生活のよく目につくところに置いておくことにしよう。

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一関気仙沼南三陸紀行(6)リアス・アークの船底に・・・

2016年10月12日 00時06分49秒 | 東日本大震災
 そこにあるものは、心の中の恐しい記憶を掻き寄せる本物の遺物。

 ひしゃげた鉄柱。
  ひしゃげたバイク
   ひしゃげた洗濯機
 鳴らないラジオ
  動かない時計
   つながらないケータイ

 そして壁にずらりと並んだ、被災した気仙沼周辺の写真。

 思い出した。
 被災した都市で共通の「音」がある。
 おそらく震災で町機能を失った地域では共通に聞こえていたであろう音。
 それはヘリコプターの爆音。
 余震に次ぐ余震で落ち着かない夜を越えて、やけにザラっとした朝がきても、そいつは無遠慮に鳴り響いていた。自衛隊なのか報道なのか分からない。まるで町の荒廃を告げるかのような機械の音。あの頃、ここの街でも、間違いなく爆音が鳴り響いていたはずだ。

 あの音を聞いていたであろう人たちの言葉が添えられている。
 家を失った。
 仕事を失った。
 大切な人を失った。
 あるはずの日課を失った。
 あの日を境に世界は変わってしまった・・・と。

 東北の人たちは、辛い時いつも静かに語る。
 どこまでも耐えようとするから感情を抑制するのだろうか。
 構わず怒りをぶつけてしまえばどんなにか楽だか。でもそれを受けとめて傷つく人もいる。そんな拡散はよくない、と我慢をしてしまう。ここに書かれた言葉たちも、どうしようもないくらいの絶望を、淡々と訴えてくる。   

 そして遺物たちも静かに語りだす。
 これらは、3.11の翌日からリアス・アークの職員たちが集めてきた生々しい震災の遺物だったり、被災者から譲り受けた。
 どうしてこんなものを集めてきたんだろう、と考える。
 震災直後、こういったものを「ガレキ」と呼んだ。いや、呼ばれた。
 もう使えないもの、という意味だ。
 昨日は「財産」だったのに、一瞬で「ガレキ」になった。
 そういったものが街中にあふれていた。どこにでも転がっていた。
 特に気仙沼ではガレキに、津波と炎上の爪痕が深く刻まれていた。
 この街がどんな目に遭ったのか、それを説明している、記憶の塊。だけど、それが道を塞ぎ、復興を妨げる。 
 5年が経ち、「ガレキ」はほとんど撤去された。街から「ガレキ」は無くなっていた。いずれ震災の記憶はうすれ、外から訪れた人々は、震災があったことを信じなくなるかもしれない。津波の怖さを忘れ、海を恐れなくなる。
 だからリアス・アークは悲しい記憶遺産を蒐集している。
 
 どこかの教育機関のアウトワークだろうか、中学生と思われる集団がぞろぞろと流れてきた。
 笑ってる子は一人も居ない。それはそうだろう、まだまだ記憶に新しい災害だから。けれどそのうち、へらへら笑いながらこのフロアに来る子どもたちも出てくるだろう。そのとき、本物の禍々しく痛々しい遺物たちが笑いを一瞬で凍らせてしまうのだ。 
 ヘリコプターの爆音は再現できないかもしれないが、それでもあの頃の凄絶さを慮る大事な空間だった。
 方舟は、その船底に最も重い人類の記憶を秘めているのだ。
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The Life Eater (癒やせる力)

2016年03月11日 14時46分00秒 | 東日本大震災
 半年近くこのブログから遠ざかっていた。

 でも書かなくちゃ。
 今日は書かなくちゃ。

 「もうじき東日本大震災から5年なんだね。」
 「しかも同じ金曜日だよ!」
 誰かが話していた。
 僕は、ある作業場に手伝いに来ていた。
 輪転機は回り続け、丁合機も断裁機も製本機も呻りを上げている。
 5年前、僕はここで強い揺れに遭遇した。
 あの日も応援を要請されてここに手伝いに来ていた。天気も最初はこんなのんびりした小春日和だった。それなのに・・・いろいろ思い出してくる。

 急につま先が冷たくなった。みるみる膝、腰から力が抜けてゆく。
 「なんだべ、ここでそんな話してヤ。」
 何気ないフリして答えた。みんな笑った。
 でも動けなかった。足がもつれる思いだった。

 どうも自分をちゃんと癒やせていないらしい。

 どこかで重低音を聞くと、地鳴りを思い出して心拍数が激しくなる。
 僕でさえこんな状態なのだから、もっと恐ろしいものや、悲しいものを見た人たちの日常生活はどうなのか。

 被災地、とよく言われるが、今はきっと津波到達地と原発による規制区域を指すのだろう。本当はもっと範囲が広いように思うのだが、激甚区域を憚って被災地とはなかなか言えない。
 人も同じで、被災状況がそれぞれ違いすぎるし、また環境改善の進んだ人と進まない人の差も開く一方。支援状況もなかなか進まないし、何よりも場所と資材と資金がどうにも上手く回らない。あらためて震災の規模の大きさを思い知らされる。だから悲しみの連鎖が止まらない。

 以前、「慰め」、「癒やし」について書いたことがある。
 「慰め」で人の心はなかなか癒えない。でも「慰め」のない世界は気が狂いそうになる。
 「癒やし」は自分自身に作用する能力であり、他者には作用しない。今はそういうふうに思う。
 他者に対して出来るのは「癒やし」を促すことだけである。それが「慰め」と呼ばれる行為なんだろう。

 でもこれが簡単には人に伝わらない。
 ふさぎこんでいたり、恨んでいたり、悔やんでいたり、そういう感情で自身を一杯にしているから他の感情が圧殺されている。または他の提案(癒やしの提案)が受け入れられない。まるで紐が絡まり硬く結ばれてしまっているのに似ている。紐をほどくのは自身の仕事であり、他者がこれをするのは難しい。でも他者が「癒やし」を促すとき、不思議な現象を起こす。

 「力をもらった」と言うひとがいる。「背中を押してもらった」と言うひともいる。
 絡まった紐は、あたためると結び目がゆるむらしい。
 人は「慰め」られて、自分を「癒やせる」力を思い出す。思い出すことで人は癒やされてゆく。
 「慰め」って、あまり上等な意味で使われることはすくなくなったけど、実はかなり高位なコミュニケーションなのではないだろうか。
 「癒やされる」という表現があるが、あれはきっと「癒やし」を促されることを短く表現しているのだろう。繰り返しになるが、他者は人を直接「癒やす」ことは出来ない。人に自我があるかぎり。
 
 ・・・とまあ、格好つけて書いたが、じっさい自分自身をうまく癒やせていない。揺り戻しのようなものがあって、上手く「癒し」が進まない。きっとまだまだ時間が必要なのだろう。
 自分を後回しにしている人が一番「癒やし」から遠くにいる。自暴自棄、利他的、または自分を大事にしていないのか、よくわからない。でも自身の歪みに気が付かないでいると、この身はやがて内側から崩壊してしまう。

 他者は、人の痛みを聞くと、その癒やし(=快復)の度合いを測ろうとする。それは腫れ物を触るような緊張感を伴う。
 手探りの緊張感。こんな緊張感、長続きするものではない。腫れ物扱いは、そこから継続的な付き合いに変化する場合と、飽きて付き合いが消滅してゆく場合とに分かれてしまう。
 
 東日本大震災の被害を蒙った人への支援では、長続きしないものが出てきている。やっぱり飽きたのだろうか。
 
 一人ひとりに自身を「癒やす」力が備わればいいと思う。「癒やす」力を思い出してくれたらいいと思う。最後は自力で立ち上がってほしい。でも一方で悲しみを忘れることもないだろう思う。
 5年前、こういうことがあった。信じられない現象に出会った。人の命を大量に呑みこんでゆく魔物を見た。思わぬ仕儀で多くのものを失った。
 都市がまるごと閉塞する恐怖を知った。機能は死に、道は絶たれ、物資が消えた。
 忘れるはずがない。この現実と付き合ってゆくしかない。これは確かに「腫れ物」なのかもしれない。でも人は「腫れ物」じゃない。
 
 みんな前へ進もうとしている。進もうとしているんだよ、と気がついてほしい。そして応援してほしい。
 この五年間でも震災の苦悩から抜けられずに逝った人達がいる。その一人を僕は知っている。
 最期に東の空をじいっと眺めて逝った人(いったいどなたがお迎えに来ていたのだろう)。今日あらためて黙祷を捧げたい。

 今日は天気がよい。
 きっと海はキラキラしているに違いない。東北で見る太平洋はいつも透き通ってて、春が一年のうちで一番綺麗なのだ。

 逝った人へ
 生きてゆく人へ
 祈りはつきない。
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国道6号線にて ~The Life Eater~2014.12.29

2014年12月31日 23時00分35秒 | 東日本大震災
 そこは、バリケードだらけの街だった。

 お店もバリケード
 民家の入り口もバリケード
 交差点もバリケード

 信号機は点滅したまま
 ときどき見かける人は皆なにやら分厚い服を着ている。

 ここは国道6号線。
 浪江から富岡へと通過する途上の様子。
 あちこちに放射能の線量を計測する機械がある。この日は大体1.2マイクロシーベルトを示していた。

 あらためて日付を書こう。 2014年12月29日(月曜日)のことである。天候は雨。通った時刻はだいたい9:20頃。

  
 今年の12月に、常磐高速道路が南相馬からさらに浪江まで開通した。南は富岡まで来ているから、あと1区間で東京から仙台までの常磐道が完成する。
 いまはその1区間だけ国道6号線に降りなければならない。

 浪江インターで一般道へ降りるときから違和感はあった。
 料金所に人がいない。
 ETCならいいが、一般料金の支払いはどうするのか。
 料金の支払いは自動改札だった。しかしそこで重い扉がガー、と開いた。多分、鉛製の扉だろう。

 出てきた人の重そうな服を見て気の毒になった。
 福島第一原発の近くのこんな場所で詰めていなければならない業務って、どれだけ危険手当がつくのだろう。

 ここから「富岡街道」という道が国道6号線までつながっている。
 街を見ればバリケードだらけ。
 帰宅困難区域なのだ。ここは二輪車の通行は許可されていない。
 あんまりバリケードだらけなので、否応無しにここが一本道であると理解させられる。わき道への侵入は一切できない。許可されていない。
 このあたりに財産を置いてゆかなければならなかった町民の気持ちはいかばかりであろうか。

 国道6号線にでてからも状況は変わらなかった。作動していない信号機。封鎖された交差点。すべてが一本道だった。

 むかしよく立ち寄ったラーメン屋も、コンビニも、ガソリンスタンドも。みんなみぃんな廃墟だった。
 あらためて日付を書こう。 2014年12月29日(月曜日)のことである。天候は雨。通った時刻はだいたい9:40頃。

 国道6号線は広々とした枯れ野原に出た。

 いや、野原ではない。

 ここは、ここは耕作できなくなった田畑だ。

 除染された土であろうか? 黒く大きなビニールに包まれた塊があちこちに山積みされていた。ところどころ破けている。あんな包み方、あんな置き方ではもう2年ももたないだろう。

 ひどい話である。
 特定の企業や政治家、自治体を非難する話はいろいろ聞いた。けれど、これは言い換えれば経済発展のもたらした汚物であろう。震災がなければ飛散せずに済んだ。けれど震災で生まれた汚物ではない。もともと蓄積され続けていたものだ。僕らは、間違いなくこの蓄積されつつあるものの存在を知っていた。「六ヶ所村」という地名を知っている人ならば、この問題を知らぬ存ぜぬでは済まされない。

 僕らは、知らんぷりをして経済発展に寄りかかってきた。その闇の中で汚物がたまり続けていることを知りながら・・・。
 
 失礼を承知で言わせてもらえれば、ここは恐ろしい所である。でも見るべき場所かもしれない。
 福島の現状を。そして僕らの求めてきた繁栄の代償を。


 「復興」とは、いったいどこで進んでいることなのだろう。
 霞ヶ関だろうか、官僚の宿舎だろうか。
 誰かを悪者にするのは簡単だけど、それを断罪できる善者などいるのだろうか。被害者は別として・・。

 
 新年早々、こんなことを思い馳せていた。
 願わくば、今年こそ、浪江、双葉、大熊、そのほかに地域にも、明るいニュースが訪れますように。
 そう願わずにはいられない。

 
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雪降る夕べに ~The Life Eater~ 2014.3.11

2014年03月23日 00時07分40秒 | 東日本大震災
 あの日もこんな天気だった・・・。

 昼前は特になんてこともない天気だった。
 カラッと晴れたわけでもなく、グズついていたわけでもない。
 それが、大きな揺れのあとで空は暗転した。

 冷たい冷たいミゾレ。それが道路に重いシャーベットを集めてくる。
 冷たくて、重苦しい記憶・・・。

 「ダメですよ」
 声をかけられて我に返る。
 「そんな思い出し方していると、引きずられていきますよ。」
 「コワいこと言うね」
 思わず笑った。笑える話ではないんだけど、とりあえず笑えた。
 ここで笑えなければ、本当に引きずられて行っちゃうのかもしれない。
 
 この季節は、どうしたってあの日と同じような天気の日もあるだろう。思い出すのは仕方が無いけれど、できればあの日と同じ心境で思い出すのではなく、ちょっとずつでいいから何か新しいことを増やしながら思いだしてゆけるといい。

 巷の番組でも震災関連の内容がこの時期は増えてくる。
 何もこの季節でなくったっていいべ、と思ってしまう。
 3月に限らずいろいろな角度から地震や津波について報道したらいい。ドラマにしたらいい。
 けれど、3月11日は・・・、地震や津波を追体験させてしまう。
 できればこの日は、追体験させるのではなくて、「あの日から○年経って、何か変わったことは?」ということを国民に問いかけてほしい。
そうしてみんなが、震災当初の気持ちを思い出して邁進してくれたらいいな、と思う。

 
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ほんとうにうけいれてほしかったもの

2014年01月04日 01時13分39秒 | 東日本大震災
新年があけました。

歳末にもいろいろなニュースが飛び込んできて、思わぬ訃報なんかもあったりして、
あと、紅白を「あまちゃん」がジャックして茶の間まで盛り上がっちゃったりして、結構テレビでも東北弁をよくきくな、と感じた一年でしたが、

そういったざわめきが、ひと段落すると、不思議と心にわきあがってくるのは「某ちゃん」のことを書いたというドラマ「ラジオ」(NHK仙台放送局)でした。
これは全国版でやったのかどうかはわかりませんが、観たのは歳末だったもので、こっちは完全に大掃除の手が止まってしまい、そのあとがタイヘンでした。

ドラマは簡単に言うと東日本大震災で被害を受けた宮城県石巻市女川(おながわ)というところにあるFM局「女川さいがいラジオ」と、そこで感じたことをブログに書き続けた高校生Dj「某ちゃん」のお話。

ドラマの進行は淡々としたものでしたが、それゆえにリアルで、ときどき胸をわしづかみにされたような痛さがありました。

あれは災害の多面的なところのほんの一面にすぎない、とは思うのですが、その一面に、明確な答えと希望がなかなか訪れないことに打ちのめされ、「某ちゃん」とともに泣いていました。
考えても、考えても答えの出ない宿題。

被災地とは何なのか。

仙台在住、しかも内陸部に在住する人々は、時々「こっちは天国だね」と言われました。
「東部道路」という堤防を境にして、東はサラ地となり、西は無傷の高層ビルが以前と変わらず並んでいました。
現在も、仙台の東と西は同じ時間が経過したとは思えないほど状況に差があります。

それでも、あのとき、僕らも寒さに震え、食べ物を求めてさまよい、並び、わずかなものを分け合ったのです。
そして救援物資や燃料は僕らの横を通り過ぎ、みんな東へと向かったのです。

僕らは自分に出来ることは何か、ずっと考えてきたはずです。
あの時は、東へ向かう救援物資を見送ることが、精一杯の支援でした。
すこしずつ、できることを、送れるものを探しながら・・・。

いつか被災地への関心は薄れてゆくでしょう。またどこかで被災地が生まれるかもしれないから。
そのとき、近くにいる東北の僕らはかわらず自分にできる何かを探し続けていたいのです。

「せめて生きているモンが明るくしていなきゃ」
「あまちゃん」で「ナツばっぱ」が行っていたセリフです。

今年が、おだやかで、明るい一年でありますように。

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The Life Eater 38

2013年03月12日 13時42分02秒 | 東日本大震災
 この季節は、空も海も青く澄んでいて、まるで夢のようにキレイです。

 東北の寒さはまだまだ厳しいけれど、あの真冬の冥(くら)かった色彩を抜け出して、よっぽど空も明るく、また海も眩しいくらいなのです。
 きっと、いまがいちばん美しく見える頃なのかもしれません。

 昨年の3月11日もこんなに青かった。
 そしてその前の年も、午前中は、やっぱり青かった。空も、海も・・・。

 その後、真冬よりも冥い色をした濁流が押し寄せて、多くの命が散りました。
 
 あの日から、2年。
 けれど荒野は荒野のまま。
 ただススキとクマザサだけが青々と芽を伸ばしています。

 僕たちは、あの頃の生き残り。死に損ない。
 この荒野を、のちの世界に語り残す責務がある。

 これが天災のみならず、人災であったことも。
 心を痛めてくれた人がいるそばで、責任回避に腐心した人、惨事を利用した人がいたことを。
 
 そして、だれもが等しく、恐ろしい思いをしたことを。

 
 
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