放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater7~

2011年03月28日 17時45分31秒 | 東日本大震災
 雪はますます激しく、道はますます混雑していた。
 それにしても不思議な光景ばかりである。
 だんだんと薄暗くなってゆく街並みに信号機が点灯していない。
 コンビニはすべて閉店し、シャッターさえ下ろしている店もある。
 ガソリンスタンドも然り。ロープまで廻して人影も見当たらない。
 まるでゴーストタウンのようになった街をただ車の行列が亡者のようにのろのろと進んでゆく・・・。
 (後で知ったが、この状況は首都圏でも同じだったそうな。地震の被害規模が如何に広範であったかが伺える。)


 ときおり、余震がくる。そのたびに車がゆさぶられる。電柱が傾き、電線が垂れ下がってしまっているところもあった。
 道路がところどころ隆起または陥没している。日が暮れてくるとますます危険だった。
 ラジオでは繰り返し地震の被害状況を伝えている。彼らだって家族も財産もあるだろうに、それでもマイクの前から離れることが出来ないでいる。気の毒だなと思った。
 震度は初めMw8.2と出たがすぐに修正されてMw8.4、さらにMw8.8となった。ちなみに翌日にはMw9.0と修正されることになる。
 「地震」という呼称も途中から「大震災」と変わった。素朴なギモンだが、こういうのはいったい誰が命名するんだろ。
 

 すべての人を送り届けたあと、放菴にたどり着けたときには、もう夜の7時半をまわっていた。前程30キロ弱の道のりに4時間近く費やしたことになる。

 BELAちゃんも子供たちも無事だった。放菴もヒビひとつ入っていない。設計士さんと大工さんに感謝。 
 みんなに逢えてほっとした。大地震から4時間半、家族四人やっとそろうことができた。
 
 停電したリビングに、ランタンと懐中電灯とラジオを持ってきて、カウンターの下にみんなもぐりこんでいた。なぜか椅子で周囲にバリケードのようなものを設けている。
 「地震、恐くなかった?」
 恐くないはずはない。子供のナマの感情を全身でうけとめてやりたかった。
 けれど意外な答えが返ってきた。
 「ううん、おにいちゃんが迎えに来てくれたの。」
 「へぇ?」

 聞けば、中一の長男は、本震のあとすぐに下校の指示が出たので、いったん放菴に帰り、すぐに小学校の児童引取りに向かったのだという。その後はお向かいの家に兄弟二人とも上がらせてもらい、BELAちゃんの帰りを待っていたというのだ。しかも放菴の玄関に張り紙までして。

 しっかりとした対処に、正直おどろいた。
 
 もしも非常事態のとき、BELAちゃんは事業所から徒歩で帰らなければならないかもしれない。僕にいたってはますます遠い事業所であるから、徒歩なら数時間はかかる。ましてや残留者が事業所にいれば、数日帰宅できない可能性もある。その時、子供たちは自身の判断で行動しなければならない。ときには近所を頼ることも必要になってくる。
 常日頃から、こういう話は何度かしていた。しかし実際に子供たちが冷静にしかも的確に安全に行動できるか、僕たちの顔をみるまで不安に耐えていられるか、こういう点について、僕らの方が漠漠たる不安を抱えていた。

 兄弟は、その瞬間、冷静そのものだった。そして、辛抱強かった。
 長時間、両親に会えないときも想定して、懐中電灯も自分たちで用意していたという。

 「お水でないから、トイレは流せないよ。」
 あ、そっか。
 電気もつかないからどこも真っ暗。放菴の中で、何がどこにあるのか、こんなに悩んだことはない。
 ラジオはしきりに津波と余震について警告し、被害状況はつかめない、と繰り返していた。
 こう暗くては何もすることができない。
 僕たちは手探りで探し出したおせんべいや乾パンを食べて、そのままカウンターの下に頭を突っ込んで寝ることにした。
 もちろんゆっくり寝るどころの話ではない。しきりに揺れる。地鳴りもしゅっちゅう。

 せまい空間に身体を折り曲げて、みんなでひとかたまりになって寝た。すくなくともこの日、宮城県内で手足をゆっくり伸ばして寝れたひとはほとんど居なかったのではないか。避難所ならばなおさらだ。
 そこまで考えて、僕は愕然とした。

 今夜、家族と一緒に過ごせている人はどのくらいいるのだろう。

 自分の家が残っている人はどのくらいいるのだろう。

 今夜、生きられなかった人はどのくらいいるのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater6~

2011年03月27日 01時10分47秒 | 東日本大震災
 雪はだんだん本降りになってきた。
 余震はまだまだおさまりそうにない。
 時刻は午後の3時20分頃。
 実に僕たちは、30分以上ものあいだ、今後の決断ができずにうろうろしていたことになる。
 
 もしも海沿いにいたならば、津波警報をうけてパニックになっていたに違いない。そして、おそらく波に呑まれていただろう。
 事実、このころすでに仙台空港付近には津波の第一波が到達している。

 この状況で、僕は何度もBELAちゃんにメールを送ろうとしていた。無駄かもしれないけど、自身の無事を伝え、BELAちゃんの安否を知りたかった。放菴の無事と子供たちの状況も知りたかったが、こちらは誰も教えてくれる人がいない。僕かBELAちゃんが放菴にたどり着き、確認するしかなった。
 何度目かの通信で、やっと送信が出来た。届け。頼むから届いてくれ。
 余震がまた来た。とっさに建物に戻ってしまった。いけね。
 駐車場には一面に雪が降り続け、その中にみんなが避難しているマイクロバスがあった。

 僕たちが決断できずにいたのは、自力で帰れない人たちも一緒にいたからだ。 
 おおよそ20名ほどの人々が、公共機関や送迎バスを利用してこの高台にある職場へ来ていた。 
 だが交通機関は完全にマヒしている。なかには塩竈など、遠方かつ津波の被害を受けているかもしれない地域から来ている人もいる。
 連絡しようにも、通話は一切閉ざされている。

 雪はほとんど吹雪に近かった。路面状況の悪化も危惧される。
 とにかく送っていこう。
 ボスが指示を出す。
 
 各方面へ送ってゆく人数を確認し、それぞれの方面へあたる職員が割り振られた。
 僕は四名様お預かり。最終地点は名取市だった。なるべく西よりの道をいけ、と厳命された。
 津波を逃れてきた車と合流すれば、よけいに身動きが取れなくなるからだ。
 例の塩竈の人も、港の方へは行かず知り合いの家へ行ってもらうことにした。

 あとはクモの子を散らすがごとく、雪の中へ別れていった。
 最後にボスが残った。残留者が出るか、近隣の避難者が身を寄せてくるならば、ここで夜を明かす覚悟だったという。

 なんとか通りに出たものの、案の定クルマだらけで前に進めない。
 なにしろ信号がすっかりダメだった。しかも交差点からは絶え間なくクルマが流れ込んでくる。道が埋まらないはずがない。
 それでも不思議なのは、接触事故やクラクション、怒号などが一切なかったということだ。
 みんな静かに車幅を詰めあって、すこしずつ、すこしずつ進んでゆく。
 中には仕事が続けられらないからあきらめて帰路についたという人もいたかもしれない、けれども誰しもが「今頃ウチはどうなっているだろう」と思いながらハンドルを握っていたはずだ。それでもこの渋滞の中で、焦燥感のような感情が湧いてこないのは、東北人ならではの辛抱強さだったのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater5~

2011年03月23日 23時41分19秒 | 東日本大震災
 「都市機能は、完全に麻痺していた」と書いたが、事態はそれだけにとどまってはいなかった。
 マグニチュード9の本震は、東日本全域を一瞬で停電させ、さらに鉄道、高速道路を寸断した。
 その後発生した津波は太平洋沿岸部の都市・魚港を破壊し、膨大な犠牲者を波にさらっていった。
 塩竈、仙台の商業港も使えなくなり、石油コンビナートは爆破炎上した。
 下水処理場は全壊。ガス局の配管も波にひしゃがれ、いずれも復旧の見通しは立っていない。

 交通、流通、ライフラインのすべてが絶たれた。 
 この結果、岩手・宮城の人々はみな「閉じ込められた」格好となり、福島の人々は一部「移民」とならなければならなくなった。 

 「移民」の理由は南相馬の原発事故だ。
 津波の被害が電気系統を破壊し、その後の直下型地震が原発の窯をひどく不安定で危険きわまりないものにしてしまった。
 放射能モレが原因とされる環境被害が今後どれだけ広まってしまうのか、不安で仕方がない。
 まさにメガクエイク。  
 一番起こってほしくない事が、一挙に、しかも想定をはるかに超える規模で襲いかかってきたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater4~

2011年03月22日 01時16分57秒 | 東日本大震災
 本震がおさまったかと思ったら、すぐに次の揺れが来た。
 おさまると、また揺れる。
 ひっきりなしに揺れていた。

 「ここにいては危ない。」
 みんなで屋外に避難することにした。

 そのころから仙台北西部では雪が。寒さも一段と厳しくなってきた。
 誰かの提案で、マイクロバスを駐車場に出してきてその中で状況を待つことになった。

 非常用ラジオを引っ張り出してきて、もどかしい手でAM局をさがす。
 初めに飛び込んできた音声は津波の襲来を告げるものだった。
 「げ。」
 これは大変だと思い、何人かはケータイのワンセグを開く。
 僕も滅多につかったことのないワンセグを開いた。
 そこには、太平洋側全域にアラームの点滅する警報と、画面いっぱいに押し寄せる大波のようなものが映し出されていた。

 「なにコレ、どこ?」
 「大船渡だって?」
 「川? あ、家が押し流されてる!」
 「うわー、あー。」
 「ああー。」
 言葉にならないくらい信じられない光景だった。いまこの瞬間に、沿岸部の街がつぎつぎと津波に破壊されているのだ。
 
 そこへ、停電と断水、そしてガスが出ないという情報が来た。
 「ケータイもダメだ。」
 「フツーの電話もダメ!」 
 だんだんと今の状況がマズいものであることに気がつき始めたころ、
 「信号も止まっているよ!」
 これを聞いて僕たちはあわてて通りへ飛び出した。
 「わ・・・。」
 信号は確かに機能していなかった。停電がよほど大規模なものであることが想像できる。
 そして、目の前では、つぎつぎと車両が詰めてきて、たちまち大渋滞が発生した。

 都市機能は、完全に麻痺していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater3~

2011年03月20日 16時36分34秒 | 東日本大震災
 2011年3月11日午後2時46分(だそうです。)
 そのとき僕は、数人の人とともに職場で輪転機やら断裁機、帳合い機やらがバッタンバッタンと稼動している所にいた。
 機械の騒音に混じって、ふと聞きなれない重低音が耳に入ってきた。
 ―あれ、これ地鳴りかな? 大きい揺れが来るのかな。―
 足元に意識を遣ると、確かに床が少しずつ廻るようにゆっくり揺れはじめている。
 と思う間に、みるみる揺れは大きくなり、いままで感じたこともないくらい激しくなっていった。
 これは作業どころではない。あわてて非常口のサッシを開けに走りよる。
 そこへとなりの書棚がまるで歩くみたいにガッタンガッタン音たてて寄ってくる。
 片手で引き出しが飛び出してくるのを抑えながら、必死でサッシの鍵を開ける。
 足元に非常用の車椅子が倒れてきた。―けっこう痛い。―(脛を強打しました)
 こいつをどけて、やっとサッシを開ける。
 あとは揺れがひどすぎてそこから一歩も動けなくなってしまった。

 周囲を見ると、どこの家もガタンガタンと恐ろしい音を立てている。
 まるでスイッチが入った爆砕機みたい。
 ―長いな、長いぞ。―
 やや収束に近づいたかなと思ったら、ひときわ地鳴りが高くなり、ますます揺れが大きくなった。
 ―大丈夫かコレ。建物ギシギシ言ってるよ。―
 まだ揺れが収まらない。
 背後で誰かの叫び声も聞こえるがこちらはサッシの枠にしがみついているので精一杯。後ろを振りかえる余裕も無い。
 この頃が揺れのピークだったかもしれない。
 なんでこんなにムキなってるの、と訊きたくなるくらいに揺れに揺れまくった。
 バターン、ゴーン、ガシャン。
 これらの音がなにを意味しているのかわからない。メチャクチャになっていることだけは間違いないだろう。
 まだまだ揺れは衰えない。まるで悪路を疾走するトラックの荷台に立っているようだ。
 ―これはこまったな。―
 もしかしてこの建物も壊れちゃうのだろうか、そのとき、この場所ははたして大丈夫なのか。
 ―そういえば背後の帳合い機は大人の背丈よりも高いよな。―
 こっちに向かってなだれ込んできたらどうしよう。
 
 ギシギシバタン、ゴーン、ガチャン!
 戸外でも、ものすごい音が響いている。長い。あまりにも長すぎる。
 こんな激しくて長い地震は初めて体験する。これが「宮城県沖地震」なのか。

 かれこれ5~6分は揺れていただろうか。ようやっと戸外の騒音が治まり、足元を揺らす恐ろしい力も弱まってきた。
 建物のきしむ音もやっと静かになった。
 僕もやっとサッシの枠から手をはなし後ろを振り返った。

 「あーあ、停電しちゃったよ。」

 機械はみな止まり、室内はいろいろなものが散乱していた。
 そして、帳合い機には倒れまいと必死にしがみついている人がいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater2~

2011年03月18日 00時28分44秒 | 東日本大震災
 2011年3月11日(金)
 それはそれは大きな地震が起きた。
 マグニチュード9.0(Mw9.0)
 はじめ南三陸沖地震と呼ばれたその地震は、被害規模が拡大するにつれてその名称を変えていった。
「南三陸」から「東北地方太平洋沖」、おまけに「2011年」と西暦まで入る始末。
 翌日には「東北・関東大震災」「東日本大震災」と名称が両立し、これは現在まで続いている。

 これよりさかのぼること二日前、3月9日(水)、南三陸沖ではやや強い地震(Mw7.3)が起きていた。
 このとき、仙台では震度5を観測。
 
 信号機はグラングランと揺れ、大地は異常なざわめきを発していた。
 やけに長い。4~5分揺れていたのではないだろうか。
 
 やがて、ざわめきは遠のき、揺れはおさまった。
 街はまだ騒然としつつ、けれど思ったよりも被害が少ないことにほっとしていた。
 僕も、放菴の食器棚でグラス類が前進していたことに驚きながらも、「こんなもんか」と安堵していた。

 このころの、宮城県在住の人々の地震に関する概念は、およそ以下のとおりであろう。

 「宮城県には約30年周期で大きな地震が起きる。これを『宮城県沖地震』と呼んでいる。最後に起きた『宮城県沖地震』から30年以上が経過しているので、次の大地震がいつ来るかわからない。
 また『宮城県沖地震』は連動型になると被害が大きくなる傾向にある。数年前に起きた東北地方太平洋沖の地震は、この連動域の地震かもしれない。」
 ちなみに、この時、将来起こるであろう『宮城県沖地震』の震源域について特定が出来ていたという。いわゆる地底プレートの固着域(アスペリティ)だ。

 3月9日の地震は、この固着域から外れていたが、それでも一応「連動域」の地震であろうとされた。

 これでいよいよ来るのか、それともまた間隔が空いて忘れた頃に地震が起きるのか。
 とりあえず、僕たちは、この日常が終わらないことを祈っていた。祈っていただけだった。

 そして迎えた2011年3月11日。
 ぼくらの日常は無残にも・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater~

2011年03月17日 23時24分35秒 | 東日本大震災
 今日も仙台は寒かった
 明日も寒いだろう
 僕たちはみんなうつむいて
 ただ黙って行列を続けている。

 米はあるか
 肉は 魚は 果物は
 衛生用品は
 ガスコンロは
 灯油は
 ガソリンは

 わずかな体温さえも吸い取ってしまいそうな冷たい風と
 いちめんの粉雪

 もう二時間も突っ立ったまま
 ぼくはなんだかまるでぼうっとしていて
 何か悪い夢でも見ているかのよう。

 ときどき余震がくる
 それで現実を思い出す

 そうか
 そうだ
 大地震があったんだ。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする