放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

一関気仙沼南三陸紀行(8)志津川にて

2016年10月30日 01時50分09秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 「語り部バス、間もなく出発です。お急ぎください。」
 翌朝、僕たちはお宿の正面ロータリーに並んだバスに乗り込んだ。
 天候は曇り。やや小雨が混じる。
 昨日までの地が灼けるような日差しは今日は無いらしい。

 僕たちがこのお宿に決めた理由は、この語り部バスと志津川湾内遊覧船があったから。
 東日本大震災の被害と、復興する今の志津川を語ってくれる「語り部」。お宿のバス運転手さんがお話を聞かせてくれる。
 いっぽう遊覧船は、風が出てきたので残念ながら欠航とのこと。小雨まじりの曇り空、当然か。

 語り部バス出発時間になった。
 バスは二台編成。ゆっくりとロータリを廻ってから国道45号線(東浜街道)を南下した。それぞれの運転手さんがお話をしながら被災地を案内する。
 彼らも被災者。
 被災当日、宿泊客の水、食料、寝具などの確保に追われ、家族の安否すら確認できなかったという。  
 一段落ついて家族の安否が確認できた。だが、自宅は土台から無くなっていたという。

 語り部バスは国道45号線を南下しつづけ、やがて低地に出た。右手に気仙沼線とみられるレールが見えるが、津波で寸断されている。これの復旧は難しいかもしれない。寸断された区間が多すぎるし、長すぎる。
 国道45号線(東浜街道)はこのまま内陸に向かう道なので、ここからは左折して国道398号線を南下する。
 小さな川(折立川)を渡るとき、かつての橋の残骸を見かけた。おそらく津波の引き波のとき、引きずられた家屋で破壊されたのだろう。周辺には建物は一軒もない。やや日陰の谷のような地形(そういえばリアスだった)に川だけが寂しそうに流れている。
 川向うにも何も建っていない空間が続いていて、右手にやや小高い丘と森が見えてきた。バスが停まる。
 「ここの高台には、戸倉小学校の生徒たちが避難したんです。奥に鳥居がちらっとあるのが見えますか? 五十鈴神社です。戸倉小学校も高台だったので避難場所に指定されていたのですが、教員で話し合ってもっと高いところに避難したそうです。それでも津波がどんどん水位を上げたので、あの鳥居を目指して逃げたそうです。この結果、校舎は3階まで水没しましたが、みんなは無事でした。」

 ・・・信じられない。
 高台の3階建ての校舎を飲み込む津波か。思わず上を見上げる。
 おそらく狭い地形に波が押し寄せて、そのまま溢れるように水位を上げたのだろう。子どもたちの足元めがけてどんどん膨れる海を想像しただけで強い恐怖を感じる。避難したみんなもさぞ怖かったことだろう。
 
 ふ、っとバスが動いて我に帰る。
 国道の脇道、つまり東の細い道へ入り、そのままどんどん丘を登ってゆく。
 かなり高い。海抜は10メートルをゆうに越えているんじゃないだろうか。そのまま丘をぐるりと登ると、窓ガラスの抜けた校舎があった。
 周囲に雑草の生えた広場があり、その向こうに体育館らしき建物が見えた。その背後には、大きな森が囲んでいる。
 雨が止んだのを見計らい、バスからみんな降りた。
 建造物の間から海が見える。かなりの見晴らし。つまり相当高い。
 「ここは戸倉中学校がありました。校舎を御覧ください。窓ガラスがないでしょ。ここまで津波がきました。」
 騒然とする。
 この高さはさすがにあり得ないと思いたい。けれど傷んだ校舎は残酷な現実を告げている。
 後日調べたら、このあたりは海抜15メートルだそうだ。15メートルの高さから下を見下ろしたことがあるだろうか。建物の床から天井までを大雑把に3メートルと仮定するとそれは5階の天井以上、すなわち大体6階建て建物から地表を見るのと同じである。結構な高さ。
 15メートルも下にあった筈の水面が、たちまち水かさを増して足元を濡らす。のみならず抗い難い力で身体を捉え、無理矢理どこかへ運ぼうとする。その恐ろしさは、想像の域を超えている。

 「津波は、後ろから来ました。」
 えっ、とみんな驚いて後ろを見る。
 後ろには裏山があるばかり。どうしてそんなことが?
 「裏山にそって谷底を波が駆け上がってきたのです。何人か気がついて急いで建物に逃げました。咄嗟に反対側の裏山に駆け上がった人もいます。それでも間に合わなくて、生徒や避難者が流されてしまいました。
 生死を分けた生き地獄がそこにあった。
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一関気仙沼南三陸紀行(7)歌津から志津川

2016年10月21日 01時51分53秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 気仙沼のリアス・アーク美術館を出たとき、更に陽は傾いていた。もう午後4時をとっくに廻っている。これから志津川まで移動しなければならない。ひとまず国道45号線に出ることだ。
 ところがまた道に迷ってしまう。
 どうしてこんなに道がぐにゃぐにゃなのー? まるでリアス地形の等高線に沿って道が出来ているみたい。曲がりくねって曲がりくねって、眼下に国道45号線が見えているのに寄ったり離れたり・・・。ってか地図見ろ。
 やっと国道に(信号のないところから)車を無理やり突っ込んだ。とにかく急がないと。志津川のお宿に5時着はほぼ不可能。BELAちゃんが遅れる旨をお宿に伝える。ぼくらの旅は、ほっつき歩いてばかりだからいつも遅れが出る。つくづくツアー向きじゃない。
 ひたすら国道を南下。
 はじめは真っ直ぐだった国道も、歌津のあたりからだんだん昇降を繰り返すようになる。
 リアス海岸(このごろ「リアス式」とは言わないようで・・・)は、例えるならばピアノの鍵盤上を走っているようなもの。白鍵から黒鍵にあがりまた下がる。上がって下がるを繰り返す。そして下がるときに必ず目にするのは、「津波浸水域」を示す案内板。低い所はかならず波に襲われている。こんな狭いところに波が押し寄せたのだ。みんなどうやって逃げたのだろう。
 破壊されたままの住居、一方で高台には何事もなかったように立派なお屋敷が建っていたりする。被害を受けた家は、さぞ辛かっただろう。被害を受けなかった家は、さぞ心苦しかったことだろう。生き地獄の浜道を、何も知らない観光客がとおり過ぎる。
 気仙沼行きのバスとすれ違う。このあたりは鉄道も被災したからバスが志津川から気仙沼までの連絡便を担っている。BRT方式という。

 ぱっと視界がひらけて、海がはっきり見えた。これまでは丘のすきまからちらっと見えるくらいで、少し海から遠いなと思いながら走っていた(それでも津波は来ている)が、今、国道45号線はまっすぐ海に向かっている。と、思ったら、右折の表示。正面は封鎖されていて道は不自然に90度右に折れている。ここは歌津大橋があったところ。
 橋は津波をかぶり、引き潮のときに流出した家屋がつぎつぎに衝突した。波が収まると、もう橋はなかった。津波は最高で15メートルを越える高さに達したという。このあたりもすっかりサラ地だが、震災前は民家がずらり建っていた。
 右折してすこし山沿いに入る。小高い丘の後ろをぐるりと迂回する道。驚いたことに、ここも波をかぶっている。伊里前とよばれる地域はほとんどが津波に呑まれていた。高いところを走る南三陸鉄道の駅もこわれたまま。復旧の見通しは立たず、このままでは廃線が決まってしまう。

 伊里前復興商店街前を通過。この時間では寄るのはムリでした。予定コースだったんだけどなぁ。

 再びピアノの鍵盤上を走るようなアップダウンが続く。またBRT方式のバスに出会う。そんなに乗っていない。
 せっかく寄ろうと思っていた寿司屋さんもお店もみんなとりあえずパス。ひたすら志津川を目指した。

 やがて山地が割れて川沿いを走るようになる。その先にまた海岸が見えてきた。このあたりも宅地でいっぱいだったはず。けれど今はどこもサラ地。
 ちいさな分岐路、そこに久しぶりに見る信号。左折すればきっとベイサイドアリーナがある。映画「ガレキとラジオ」の舞台となった災害ラジオ「FMみなさん」がそこにあった。
 映画はその後いろいろなことがあったようだが、災害ラジオは意味のある活動だったと思うし、被災した町の真ん中でそれを続けていた事実は、誰にも否定できない。多くの災害ラジオがそうであったように、修羅の日々にほんの少しの安らぎと有意義な情報を届けよう、災害に負けない元気と少しずつ進む復興を少しでも感じられるように、と活動していたのだから。

 再びR45号線を南下。
 視界はどんどん広くなる。ここが志津川だ。かつては漁業の町だったはずだが、今はまるで巨大な工業地帯のよう。特に海岸には幾つもの足場が建てられ、大規模な工事の真っ最中。あの南三陸町防災庁舎も足場に囲まれていまはもう近寄れない。ここには巨大な堤防が造られる。堤防だけではない。街全体のかさ上げを行っているのだ。
 さんさん商店街のそばを通り、ちょいとややこしい道をくねくね、志津川湾を左手に見ながらぐるっと海岸を向こうまで走る。
 やっと今日のお宿に到着。時刻は午後6時ちょっと過ぎていました。
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一関気仙沼南三陸紀行(6)リアス・アークの船底に・・・

2016年10月12日 00時06分49秒 | 東日本大震災
 そこにあるものは、心の中の恐しい記憶を掻き寄せる本物の遺物。

 ひしゃげた鉄柱。
  ひしゃげたバイク
   ひしゃげた洗濯機
 鳴らないラジオ
  動かない時計
   つながらないケータイ

 そして壁にずらりと並んだ、被災した気仙沼周辺の写真。

 思い出した。
 被災した都市で共通の「音」がある。
 おそらく震災で町機能を失った地域では共通に聞こえていたであろう音。
 それはヘリコプターの爆音。
 余震に次ぐ余震で落ち着かない夜を越えて、やけにザラっとした朝がきても、そいつは無遠慮に鳴り響いていた。自衛隊なのか報道なのか分からない。まるで町の荒廃を告げるかのような機械の音。あの頃、ここの街でも、間違いなく爆音が鳴り響いていたはずだ。

 あの音を聞いていたであろう人たちの言葉が添えられている。
 家を失った。
 仕事を失った。
 大切な人を失った。
 あるはずの日課を失った。
 あの日を境に世界は変わってしまった・・・と。

 東北の人たちは、辛い時いつも静かに語る。
 どこまでも耐えようとするから感情を抑制するのだろうか。
 構わず怒りをぶつけてしまえばどんなにか楽だか。でもそれを受けとめて傷つく人もいる。そんな拡散はよくない、と我慢をしてしまう。ここに書かれた言葉たちも、どうしようもないくらいの絶望を、淡々と訴えてくる。   

 そして遺物たちも静かに語りだす。
 これらは、3.11の翌日からリアス・アークの職員たちが集めてきた生々しい震災の遺物だったり、被災者から譲り受けた。
 どうしてこんなものを集めてきたんだろう、と考える。
 震災直後、こういったものを「ガレキ」と呼んだ。いや、呼ばれた。
 もう使えないもの、という意味だ。
 昨日は「財産」だったのに、一瞬で「ガレキ」になった。
 そういったものが街中にあふれていた。どこにでも転がっていた。
 特に気仙沼ではガレキに、津波と炎上の爪痕が深く刻まれていた。
 この街がどんな目に遭ったのか、それを説明している、記憶の塊。だけど、それが道を塞ぎ、復興を妨げる。 
 5年が経ち、「ガレキ」はほとんど撤去された。街から「ガレキ」は無くなっていた。いずれ震災の記憶はうすれ、外から訪れた人々は、震災があったことを信じなくなるかもしれない。津波の怖さを忘れ、海を恐れなくなる。
 だからリアス・アークは悲しい記憶遺産を蒐集している。
 
 どこかの教育機関のアウトワークだろうか、中学生と思われる集団がぞろぞろと流れてきた。
 笑ってる子は一人も居ない。それはそうだろう、まだまだ記憶に新しい災害だから。けれどそのうち、へらへら笑いながらこのフロアに来る子どもたちも出てくるだろう。そのとき、本物の禍々しく痛々しい遺物たちが笑いを一瞬で凍らせてしまうのだ。 
 ヘリコプターの爆音は再現できないかもしれないが、それでもあの頃の凄絶さを慮る大事な空間だった。
 方舟は、その船底に最も重い人類の記憶を秘めているのだ。
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一関気仙沼南三陸紀行(5)「空のすきまから」

2016年10月12日 00時04分50秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 とつぜん脳裏に音楽がひらめいて、ずうっと鳴りっぱなしになることが時々ある。
 石巻に行ったときにはボレロの「パヴァーヌ」だった。
 今回、国道284号線を駆け下って気仙沼の海が見えてきたときに鳴っていたのはpsy.s「child」だった。
 きっと真夏だったからだろう。明るくて、けれど終わりを惜しむような歌、遠くへ逝く人を幽かに感じている、ように聴こえる歌が出てきた。
 
 じっさいには気仙沼の町は明るかった。少なくとも車はせわしかった。
 気仙沼の動脈道路と心臓(漁業市場)が再開したのは何よりだ。けれど細い道に入るとこれがいっそニョロニョロしていてなかなか抜け出せなくなる。
 国道45号線が拡幅されるまでは、きっとこういったニョロニョロ道が多かったのだろう。中には高台に早く駆け上がるための道もあったのかもしれない。
 確かにニョロニョロと並行して高低差も激しい。ちょっとそっちの道へ行こうと思っても、車ではキツい勾配の坂があたりまえ。これがリアスか。今更ながら、この高低差が震災時にどのように作用したのか考えてしまう。
 
 ところで、さっきから何迷っているかと言えば、「リアスアーク美術館」を捜していたりする。
 どうも一番わかり易い道を逸してしまったようで、反対側から回り込むように・・・、いや、ぐるぐる廻っているだけかもしれない。
 BELAちゃんのスマホでナビしてもらう。
 どうか座標がズレていませんように。
 
 やっと着いたときにはお日様はけっこう傾いてきていて、美術館の駐車場はだんだん赤く染まってきていた。でも灼けるような暑さは相変わらず。
 階段を降りて建物へ。
 そもそも高台に置き忘れられた方舟のような美術館。海の見える展望台もついている。全国的に東日本大震災で破壊されたものを展示していることで有名になったが、やっぱり美術館なので、館内もかなり凝っている。
 非日常を意識させる高い天井。でも常設展示は海の暮らし、山の暮らしを取り上げている。海の幸、山の幸。どれも細やかな配慮を以って接しなければ恵まれない。特にお祭り、祀りは欠かせない。その様子を学芸員さんの手作りキャプションが丁寧に伝えてくれる。
 三陸はリアス海岸が北から南まで続いているが、それゆえに懐深い入江(湾)がいくつもある。気仙沼が「良港」と呼ばれるのは、この入江の深さと、あらゆる食品加工ができる設備が整っているから。それだけではなく、山から濃厚な栄養素がそっくり海に流れてゆく。
 賑やかな、豊かな、海と森が出会う楽園。そんな情景が浮かんでくる。
 学芸員さん、絵ウマいっす!

 もう一つの展示室には地元の芸術家が力を振るう。さまざまなアート。
 ふと隅っこに佇む女の子。っと思ったらこれもアート。すっげーリアル。存在感がそのまんま女の子。

 吹き抜けの広い廊下に戻る。あんなに肌を灼いた日差しも館内は空調設備のお陰で遠くに感じる。まさにここは方舟のキャノピー(天蓋)のよう。でも、展示はここだけではない。振り返ればそこに下へ降りてゆく階段が口を開けている。
 少し息を詰めて、手すりに手をかける。やや狭い金属の階段。
 眩しい日差しに背を向けて、一段一段降りてゆく。
 
 ここが方舟のもう一つの貌。
 東日本大震災の爪痕をそのまま展示している1階展示室だ。



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