放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

「人や銀河や修羅や海胆は」

2011年07月26日 15時16分29秒 | 観劇日記
 「人や銀河や修羅や海胆(うに)は」
 この単語にピピンときてしまった。
 これって宮澤賢治の「春と修羅」の序文じゃないですか。
 あ、でもこれ演劇だ。どこの? TheatreGroup“OCT/PASS”? お、地元の老舗じゃないですか。 
 うわ、ど、どこで上演するの? あ、巡回講演なんだ。

 情報を集めていたら、秋保のほうねん座さんからも案内が届いた。
 OCT/PASSさん、秋保にも来るんだね。・・・よっしゃ。

 秋保ではチャリティパフォーマンスを開催するらしい。ほうねん座さんもステージあり。お、これは楽しみ。
 というわけで、平成23年7月24日(日曜日)、秋保のほうねん座さんのトコロ(正しくは久賀山荘前デッキ)に行ってきました。
 ほうねん座さんには、一度「夏合宿」でお邪魔したことがある。太鼓叩いてなんだかスカッとした気分で帰ってきた記憶がある。
 座長さんをはじめ、みなさんますますお元気で。なんだか震災があったのがウソみたく思えてくるくらい明るい明るい!
  
 こうやってあらためて聴くと、民族芸能ってJAZZに似ているよな・・・。ソウルダンスかつソウルミュージックなんだよね。きっと根っこは同じなんだろうな。もちろん、今日のパフォーマンスには「ことほぐ」という役割があるから、あまり内面的にえぐりこむような空気は出していなかったけど。

 その後、しばらく休演して、いよいよ「人や銀河や修羅や海胆は」開演。
 
 「ハンムンムンムン・ムネネ村」の人々が、こんど赴任してくる中学校の教師・賢治さんの登場を、今か今かと待っているところからお話は始まる。

 意外にも笑いが多かった。キャラも強烈なのばっかり。
 宮澤賢治役の人だけがクールに好青年を演じ続けた。
 
 劇中、「鹿踊り」のくだりがあった。タイ舞踊なども取り入れた鹿の独特の動きに魅了された。セリフ運びも気持ちいい。
 今日に至るまでに相当濃密な稽古があったのだろうと想像した。

 とにかく、子供が多かったせいか、客席からはしきりにゲラゲラ笑うこえが湧いた。
 大丈夫かなぁ、劇というよりコントになりつつあるんだけど?
 
 ところが、ふと、間をおいて、場面は「永訣の刻」へと展開する。
 夜のとばりをごとごと走る軽便鉄道のその車輌に、ひっそりとすわる生き物たちの姿。
 「ひかりの素足」の楢夫、「よだかの星」のよだか、「グスコーブドリの伝記」のブドリ、「なめとこ山の熊」の小十郎と熊。
 やっぱり出たか。

 みんなみんな、賢治の中の何かを伝えるために死んでいった、賢治の古い友人たち。
 「だれも苦しまなくていい世界」
 そのために邁進できた人、したくても出来なかった人、
 でもみんな他者の苦しみが見えていた。そこへ寄り添う方法も知っていた。ただそれは、あまりに遠くにあった。

 ばかで、めちゃくちゃで、てんでなってないドングリでいい。デクノボウと呼ばれてもなんでもかまわない。そこへいって寄り添える人、みんなそうなりたがっていた。それを望んでいた。

 被災した人々がすぐ近くにいるのに、そこへ飛び込んでいけない僕の焦燥に、それはちょっと似ていた。
 
 汽笛が鳴った。賞賛でもねぎらいでもない、ただすきとおるようにまっすぐぴいんと響く汽笛。
 (そのほんとうの汽笛が僕にも聞こえるほど穏やかで涼やかな心持ちになるまでには、いったいどのくらい・・・。)

 いま、永訣の刻が来ていた。そしてそれは、本当の永訣の始まりへとつながる・・・。賢治の目の前には、妹トシが座っていた・・・。


 最後に、「ハンムンムンムンムン・ムムネ」は「ペンネンネンネンネン・ネネム」とも言い、それはいずれも「グスコーブドリ」を自己パロディした作品群です。それもかなりコメディ・タッチでね。


 うん、面白かった。
 キャラ強烈だったけど、それをこなす役者さん、すごいですね。
 あのあと、みんなちゃんと「素」にもどれたかしら?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater33~

2011年07月25日 01時25分13秒 | 東日本大震災
 仙台から国道4号線・6号線を南進し、阿武隈川を渡る。
 そのまま南進すると亘理町に至る。
 
 時期が時期であるならば、通りの脇には「いちご狩り」の「のぼり」がはためき、海産物の案内もさかんにやっていた。
 今年は打って変わって、なんともさびしいかぎり。

 悠里館(JR亘理駅舎)の近くを通り、鳥の海へとつづくにつれて、風景に不思議な「ひずみ」が浮かんでくる。
 
 家々の生け垣がみんな枯れている。竹林もすっかり黄色くなっている。
 家と家とのあいだにガレキが積み上げられている。
 船が道端にひっくり返っている。
 
 そしてその先には、がらんとした荒地が出現した。どこを見ても薄茶色だらけの世界だった。
 こりゃあ、安否確認どころではないな・・・。

 このあたりから角田へ避難してきた人がいる。
 義父が管理している家の半分をその家族へ提供することになっていた。
 それなりに話を聞いてはいたが、想像を絶する被害である。イチゴ農家もほとんどがやられたという。
 亘理のイチゴブランドはダメかもしれない・・・。
 やむなくその日は仙台空港方面へと引き返した。

 後日、ちょっとびっくりするニュースが入ってきた。
 
 北海道の伊達市が亘理町のイチゴ農家を誘致する、というのだ。

 へぇええ。

 そもそも、北海道の伊達市の礎を築いたのは亘理伊達氏の家臣だった。
 戊辰戦争で敗れ、亘理の伊達氏(よーするに仙台伊達氏の分家ですな)は新政府にその知行を没収。北海道の警備・開拓を示唆されたという。
 亘理の領主であった伊達邦成(くにしげ)公をはじめ、家臣団は数回にわけて北海道は有珠山のふもとの荒野を目指した。
 辛酸のはてに拓いたの地がいまの伊達市というわけ。
 その伊達市が故地・亘理の産業復興に名乗りを挙げた。亘理の土地が潮で使えないなら、北の大地で栽培はできまいか?と。
 これもまた「絆」なのかしら・・・。

 温暖な亘理とくらべ、やや日の翳りがある北の噴火湾。それでも亘理イチゴの再生を期する「ゆりかご」となるかどうか。
 挑戦してゆく農家の人々、受け入れる人々、どちらにも開拓魂を見た気がした。  
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お中元どうしよう?

2011年07月14日 15時06分31秒 | Weblog
 目下の悩み。お中元。

 特に東北地方の外へ送っていいものかどうか、考えれば考えるほど悩ましい。

 「支援してもらったお礼を送ろうとしたら拒否された」
 「そのうち遊びに行きます、といったら、来ないで、と言われた」
 など、身近に聞こえてくる話がよけいに悩みを深くする。
 よーするに原発問題で東北人が他の地方から忌避されている。


 被災したからお中元を贈るのは差し控えよう、と言う考え方もあるだろうし、
 被災したときにヒトにモノを贈っているバヤイかっ、という考えもあるだろう。
 さらに、放射能物質が付着しているかもしれないから贈れない
 (または発送経路上に放射能ホットスポットがあるから贈れない)なんて考えもあるだろう。

 逆にそんなことを勘繰ると、先方が「そんなに了見が狭いヤツだと思われていたのか」とヘソを曲げてしまいかねない。

 んーどうしよう。
 と、そこへ「南相馬の牛肉問題」が発覚。
 (・・・風評被害をこっちから裏付けてどーすんの。)
 放射能ってのはホントにタチが悪い。どうしてこんなものに依存してしまうのだろう。

 
 今年はホントに多くの人に助けてもらった。万分の一もお返し出来ないんだけれど、せめて感謝の気持ちを伝えたい。
 だけど、この「気持ち」が裏目に出てしまうのはコワイ。

 風評被害には負けたくない。けれど余計に傷口を広げるようなマネになるのも不本意。結局、お中元の届いたところにだけお返しをするという形を取らざるを得ない。
 なんか来るのを待っているのってナニサマ的で好きじゃないけど、それは僕たちを忌避しているかいないかの判断するってことになるわけで、その辺を詫びつつ贈ることになるだろう。

 とりあえず、あの人とあの人とあの人にだけは、喜んでくれそうなものを贈りたい・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災~The Life Eater32~

2011年07月14日 12時51分21秒 | 東日本大震災
 3.11の大震災からもう4ヶ月が経った。早いものである。

 初めの1ヶ月は長かった。
 ライフラインがズタズタな状態で、「復旧には1ヶ月~数ヶ月」という言葉がとびかい、一日一日がとても長く感じられた時期だった。
 それから、四十九日、2ヶ月目、3ヶ月、百か日と時間の経過は日常に近いスピードに推移してゆき、7月11日で4ヶ月を経過した。
 
 実は仙台では今でも下水処理施設が直っていない。

 設備そのものが津波で損壊して、修理の見通しが立っていないのだ。
 なんとか下水を薬剤で処理することはできているようだが、いつマンホールからあふれるか判らない状態である。

 ガス精製工場も直っていない。
 現在は新潟から天然ガスの供給を受けている。
 まだまだ他県のお世話になることが多いのが現状。ほんとうの復興はまだまだ先の話なのである。

 昨日、大阪や神戸の車輌を見かけた。
 震災が風化しつつあるのではないか、と思っていたが、まだまだ手を差し伸べてくれる人たちはいるのだ。

 思わず頭を下げた。


 自衛隊の人たちも被災地ではうんと頑張ってくれて、そのことがこちらでは大きな評判となっている。
 自衛隊の立場をよく理解できた。この人たちのために税金払ってきてよかった・・・。

 ところがそう簡単な話ではないらしい。

 ニュースなどで聞くかぎりでは、災害復旧活動は「止むを得ない場合」の活動であり、本来の任務(国防)と背反しないようにしなければならない、らしい。
 つまり捜索活動、道路等の復旧、支援物資の配給、避難所での生活支援(炊き出しやおフロ)などは本来の任務ではない、そういうのは警察や地方公務員のシゴトだ、というのだ。

 あれれ?

 僕たちは、自衛隊の皆さんが「任務外の支援」をしてくれたから感謝しているのではない。
 ただ単純に、被災地の奥まで入って多くの人々を救援してくれたから感謝しているのだ。

 だって、自治体だけではどうにもならないような規模の救援活動を、圧倒的な人員とすごい設備で行ってきたではないか(なんてったって国家組織だもんね)。
 野営しながら被災者を支援できる、そんなスキルを持った人が自衛隊には数万人規模で在籍している。その力は地方公務員の比ではない。どうか「任務外の任務」といわずに、この実績とみんなの賞賛を受け取ってほしい。

 とにかく、任務外を任務外だからとそっぽを向くこともなく、全力で取り組んだことも敬意を表するべきだと思う。その英断が被災地に勇気と元気を届けていたと思うから。この度量と組織力が今の政治家たちにあればねぇ・・・。

 この話題のついでに、自衛隊の任務について考えなおしていただけませんかねぇ。
 災害救助を数万人規模で行える組織があってもいいんじゃないかと思うんですケド。


 いろいろなドキュメンタリー番組をみていて、任務だけにとらわれずに、自分の知識(知恵)と技能、使える設備などを全投入して災害復旧に取り組んでくれた人々が、たくさんいたことに感動をおぼえる。
 全国から集結した医療団もそうだし、ガス事業者、水道事業者、電力事業者、警察官、教師、多くのボランティア、自衛隊、そして友人たち。

 体面だけに囚われているおエライさんは、災害がどこで起こっているかもご存知ないだろう。そういった人々には理解できない「日本人の姿」を、僕たちは見ることができた。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

17th Anniv

2011年07月07日 12時34分09秒 | Weblog
 今日は僕とBELAちゃんの結婚記念日です。
 17年になります。

 あっという間でした。
 
 昨日、車中で「BELA抜き人生」というタイトルでシュミレートしていました。

 おそらく僕は何もしない男になっていただろう。
 ろくに部屋の掃除もしない。皿もコップも干からびて・・・。
 病気になっても部屋でごろごろしているような・・・。
 
 あこがれの「放菴」もなく、子供たちもいない。
 数少ない友人はますます離れ、お日さまもまぶしくて顔も上げられない・・・。
 いま、生きていたかなぁ・・・。

 BELAちゃん、出会ってくれてありがとう。
 僕に関心を向けてくれてありがとう。
 
 人生を大きく広げてくれたのはあなたです。
 ありがとう、ありがとう。

 世界で一番大切な人です。

 大きな災害があったけど、僕たちは奇跡的に無事だった。
 きっと僕らはなにかをする使命があるのかもしれない。
 でも今は、今に感謝です。 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンティキの家2

2011年07月07日 10時05分01秒 | Weblog
 7月3日(日)、角田市に設計士さん(ちろりん村の村長さん=耐震診断もできる人)が到着した。
 「いやぁ、蓮がきれいだったねぇ」と設計士さん。
 そーなんです。ホントきれいなんですー。

 設計士さん、まず外観をぐるり。
 「はぁ、基礎はツカ石なんだねぇ。」
 すごい、一発で見抜いた!
 それから建物に入って、内壁の割れたところから中の部材を覗いている。
 「いいねぇ。惚れ惚れするねぇ。」
 そーですか?
 「あ、ちょっと床が傾いているんだねぇ。」
 ああ、これヤバいですか?
 「ううん。住んでいる人が頭痛とかめまいするとかならジャッキであげねくてねぇけど、もう慣れたすぺ?」
 思わず義父と義母が顔を見合わせて笑う。
 ― おや、一瞬で空気が和んだぞ ―

 「お、二階には小屋組みが見えているんですね。ちょっと、拝見しても?」
 「は、はいどうぞどうぞ。」
 義母があわてて梯子のような階段を先導する。
 「あの、牛梁、すごいなぁ・・・。」
 まるで遺跡を発見した考古学者のようだ。

 「いやぁ、すばらしい出来ですねぇ。これ、地元の大工さんが造ったのすか?」
 「んだ。この地区に住んでいた大工さん。」
 「屋根は、もしかして・・・。」
 「うん、実は合掌造りなの。」
 「あ、やっぱり。」
 えっ、合掌造りなの!?
 「これはヒジョーに丁寧に造ってありますよ。たいへんなお仕事ですね。職人のはしくれとして、尊敬しますね。」
 それを聞いて義父は思わずニコニコしていた。

 で、肝心の耐震補強については・・・?
 「必要ないでしょう。まだまだもちますよ。」
 ええっ!
 「まずツカ石ってのがいいね。
 みんな誤解しているけど、基礎をツカ石にするってのは今で言う『免震構造』でね。揺れたら基礎から建物が外れるように最初から出来ているの。厳島神社なんかと一緒の構造。外れたらまたあとで戻せばいいの。
 それから『ヌキ』っていう横板が壁にはいっているけど、これにクサビが入っている。これで建物の揺れを吸収しているの。壊れるときはまずクサビがつぶれるから。そのときはクサビを取り替えればいい、ヌキまで壊れたらヌキを取り替える。そうやって小さな部材から交換できて、なるべく柱まで取り替えなくても大概なおせるように出来ているの。
 いわば地震が来ても破壊力を受け流すっつうか、『柳に風』っつう建物なんですわ。
 これを下手に現代の火打ち金物で固定なんかしたら、地震の時そこだけ材が裂けてかえってひどいことになるから、これはこれで現代と設計思想がまるで違うということを知っておいてほしいのっさ。」
 へえええ。
 「まあ建付けはどんどんゆがんでいくから、どうしてもなおしてほしいというのであればジャッキアップすっけど、建物としてはこのままで90%倒れないと思いますね。」
 
 義父も義母も少し驚いたような、それでもこの家の強さを分ってもらえてうれしいような、複雑な顔をしていた。
 
 こんな話しをどこかで聞いたような気がする。
 そうだ・・・。ヘイエルダールだ。コンティキ号だ。

 南米インディオが海を渡ってポリネシア人になったという説を支持するために、人類学者ヘイエルダール氏は当時でも手に入った材料(バルサ)を使ってイカダを制作。そのまま実際に太平洋を漂流した。
 当初「すぐに沈んでしまうぞ」と揶揄されたが、結局沈むことなく(ナマ木だったのが幸いしたとか・・・)、南サモア諸島に漂着するに至る。

 漂流中、どんな大波が来てもイカダのすきまから水が逃げていくので現代の船よりもよっぽど波をあしらうのに適していたという。それこそ「柳に風」。現代人が思うようにいかないことでも、先達の知恵というものがちゃんと用意されているのだ。

 「おそらく、その大工さんも、クサビを打つ理由まではわかんなかったと思うよ。けれど先輩たちからそんなふうに教わっていたんだべね。」

 義母が義父の顔を覗き込むようにして
 「いがったねぇ?」
 義父はこまったような、ほっとしたような笑顔を義母に返した。
 僕らもなんだか肩の荷がおりた。
 設計士さん(ちろりん村の村長さん)、かっこいいなぁ。

 「いまは建築法がやかましいから、基礎や柱にはかならず火打ち金物ってので固定してやんなきゃ建築確認通らない。オレらも仕事だから法律は守んなきゃなんねえべし・・・、けれど一番長持ちする建物ってのは、こういう柔軟な家なんですよ。これからも大事にしてください。」
 
 まるでどこかの鑑定団みたい・・・。
 置き忘れられた職人の「想い」というか「矜持」というか、そういったものが、震災の傍らで甦った瞬間だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンティキの家

2011年07月07日 00時32分57秒 | Weblog
 BELAちゃんの実家は角田市にある。
 築60年以上の古い家。
 3.11東日本大震災でも柱が傾くなどの被害が出た。

 同時にご先祖の墓石(棹石)が倒れるなどの被害もあって、少なからず出費がかさむことになった。
 これは困ったなぁ。

 お義父さんも心労のせいか食が振るわず、お通じもあまりよくないらしい。
 困った困った・・・。

 あんまり困って、僕たちは放菴の設計・管理をしてくれた設計士さんに相談してみた。
 誰よりも木造建築と大工を愛し、その研究と工夫に日々を奉げる熱い人。
 いまは被災地のあちこちで耐震診断に引っ張りだされている。多忙ですね。

 やっと電話がつながり内容を聞いてもらう。
 「柱がみな垂直でないの? んー、それじゃあね、角田市で罹災証明書取れるかどうかやってみてくれない?
 建物診断で罹災証明とれればなんぼか修理代出ると思うから。」
 「はあ、わかりました。やってみます。」

 義父を説得して、渋々ながら市の調査員に来てもらうことになった。
 
 それでも不機嫌な義父。
 調査員に対する言葉でも「おメェらにこの家がわかるはずねぇベ?」という態度が見え隠れする。
 おとーさん、ケンカ腰になるのだけはやめて・・・。

 義父はだれよりもこの家のことを知っていた。
 近所の大工さんが建ててくれた家。
 基礎のない置石(ツカ石)に柱を立てて木組みをした家。
 ヌキ(貫)と呼ばれる横板を利かせた家。
 今の建築しかしらない若いやつにわかる筈が無い・・・。

 そうかもしれないが、市の調査員だってこれがお仕事なんだからしょうがない。
 柱の傾斜を測り、写真を撮って帰っていった。
 一週間後、「罹災証明書(一部損壊)」が届いた。

 「一部損壊かぁ。」
 設計士さんはちょっと不満のよう。
 「まあ、近いうちに拝見させてもらいますね。」
 そうして2週間が過ぎた。
 そのあいだ、お墓の修復、法事やらお義父さんは忙しくすごした。そしてまた少しずつ体調を悪くしていった。
 
 2週間後、やっと設計士さんをお招きできた。
 義父がまたケンカ腰になったらどうしよう・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結局、何しに来たの?

2011年07月05日 01時08分28秒 | Weblog
 拝啓、松本龍復興相

 いったい被災地で何をしたいのか判りません。
 知事のアタマ踏んづけて威張るとなにかいいことがあるのでしょうか。

 「知恵を出さないやつは助けない」
 上等です。助けてもらわなくて結構です。
 このまま死にます。
 だから二度と東北には来ないでください。
 すくなくとも自分が東北で役に立てるとは思わないでください。

 まるで戊辰の役で乗り込んできた「官軍」です。
 かつて東北は何度か植民地のように攻め獲られ、そのたびに征服者は大威張りで乗り込んできました。
 

 「自分は九州生まれのB型だから語気荒く・・・。」
 そういうこと言えばますます官軍っぽく聞こえるとは考えないんですね。
 松本氏は東北に対する理解がないようです。
  
 枝野官房長官が松本氏のことをとりなして「復興にかける思い」といっていました。
 「理解なき思い」ってなんですか。傍から聞けばそれ「独りよがり」っていいます。

 もう一度言います。
 このまま死にますから助けてもらわなくて結構です。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TEO TORIATTE

2011年07月01日 11時16分11秒 | Weblog
 「QUEEN」の名曲「TEO TORIATTE」(手をとりあって)を久しぶりに聴いた。
 3.11震災から聴かれることが多いという。
 (僕は昨日初めて知ったけど・・・)

 そういえば、今年はフレディ・マーキュリー没後20年。
 彼の霊が哭いているのかもしれない。

 「手をとりあって このまま行こう
  愛する人よ
  静かな宵に光を点し 愛しき教えを抱(いだ)き」
 (このフレーズ(サビです)、なんと日本語でそのまま歌っています)

 なるほど、この言葉は沁みる。
 手をとりあうのはなにも生き残った人だけでなくていいと思う。
 もう会えない人、どこにいるかわからない人、そういう人とも「愛しき教え」は共有できる。

 「愛しき教え」がなんなのか、そこは別に何だっていいんだ。
 その人との共通理解で、いちばん思い出にのこっていること・・・、それが「教え」でいいじゃない。

 20年の時を超えて、フレディがメッセージを送っているような気がする。
 
 「強くあれ。決して想いを曲げるな。
  あなたが全て、僕のすべて、いつまでもいつまでも」(私訳byCOZY)

 このあたりは福島の人たちと一緒に歌いたい。
 すべての被災した人、犠牲になった人たちと歌いたい。

 一緒に推移を見守ることしか出来ない。
 みんな人心地つける日がくることを、放射能が一刻も早く消えることを、海と里の恵みが戻ってくることを、祈ることしかできない。
 だけど伝えたい、差別や排除にだけは負けるな。

 なにも手立てが尽きたその瞬間から、さらにもう一日、もう一日と、生きていてほしい。砂を噛むような、けれどがむしゃらに生きてほしい。
 そして声を出してゆこう。書ける人は書こう。描けるひとも描こう。歌う人は歌おう。怒れる人は怒ろう。笑える時はみんなと分かち合おう。泣きたい時はみんなも巻き込もう。疲れた時は目を閉じよう。動けるときは力を出そう。
 そして明日のために力をほんの少し残しておこう。

  
 
   
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする