放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater36~

2011年11月22日 14時29分48秒 | 東日本大震災
 東日本大震災について、ときどき、気になる報道がある。
 癇に障る、といったほうがいいかもしれない。

 最近のことで言えば、避難誘導に関する報道(某国営放送)。


 茨城県の某町では、津波発生後の緊急放送(役場から拡声器で避難を呼びかけた)が良かったから犠牲者が一人も出なかった、という。

 一方、岩手県の沿岸部では、同じく避難をさかんに呼びかけたにもかかわらず、逃げ遅れた人が出た、という。
 逃げ遅れたと言うよりは、だれも津波を知らせる呼びかけに危機感を感じなかった、という。
 
 -(サイレン) 津波警報が発令されました。急いで高台へ避難してください (サイレン)- 
 こんな感じの呼びかけだったようだ。

 そこで地元(と思われる)人のコメント。
 「あれではなぁ、実感わかないよ。訓練と一緒だもん。」

 はぁ?

 訓練と一緒で何が悪いの? 
 間違った情報を流しているわけでもない、間違った行動をさせようとしているわけでもない。
 それが何か?

 そもそも何のために訓練をしているのか。
 非常時に的確な情報と伝え行動を促すためではないのか。
 緊急放送に慣れるためではないはずだ。

 いっぽう茨城県の方はこうだ。
 「緊急避難命令。すみやかに高台へ避難せよ」

 町長の判断で、通常の訓練とは明らかに違う口調で避難を呼びかけた、という。

 なるほど、報道者の云わんとするところはわかる。
 
 でもそれと犠牲者ゼロとをそのまま直結させて評価しちゃうのはどうかと思う。
 茨城県(那珂川河口付近)では津波の高さは4m(だ、そうだ)
 岩手(宮古付近)では30m超。
 
 はたして、津波の大きさをムシして避難誘導の手法だけで被害状況を比較しちゃってよいのだろうか。
 また訓練どおり勤めを果たした所員を、犠牲者が出たからといって、問題視するのはいかがなものか。
 
 これは大雑把な報道だったと思う。
 底の浅い、一点主義の観点で番組を作られるのは迷惑だ。

 南三陸町の防災対策庁舎は、震災後訪れた報道関係者が必ず記念写真をとるところになっているという。
 ここは、さいごまで避難誘導を呼びかけ続けた女性職員が犠牲になったところ。

 その遺体は、庁舎の下の泥の中から見つかった。
 そんなところで記念写真をとっていてなんとも思わないのか。

 なんだか、首都圏の報道者から「避難誘導がマズかったから犠牲者が増えたんだ」と言われているようで気分が悪い
 

 
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ほうねん座稽古場公演~日本人の身体の動かし方

2011年11月14日 00時46分03秒 | 観劇日記
 平成23年11月12日(土)、仙台市秋保にて、ほうねん座の稽古場公演がありました。

 震災で被害のあった稽古場ですが、奇跡的に復活。
 座員をはじめ多くの支援者の、ますます想いのこもった場となったようです。

 演目はやっぱりパワフル! そして動きと響きにキレがある!
 大太鼓の響きは、まるで僕らの「上丹田、中丹田、下丹田」をつらぬきゆるがし、悪しき物を悉く粉砕するが如く、でした。

 でも、その所作というか動きは、普段日常生活で僕らが行なっているものとはちょっと違うのです。

 なんというか、その、あえて言えば「よくまとまっている感じ」・・・。
 それは軽やかでいて、けれどもバラけているふうでもない。
 ふわりとした感じとスルリとした感じが一緒になっているようで。けれども下から突き上げるような力強さもあるのです。
 
 ほうねん座さんが取り組んでいるものは純粋な伝承芸能です。
 きっとこれはすべて昔の人があたりまえに出来ていた体の動かし方なのでしょう。

 なぜこれが僕らの体には備わっていないのでしょうか。
 ふと、古武道家の甲野善紀さんの言葉を思い出しました。(NHKの「爆問学問」見ました?)
 「重いものを重いと感じて持ち上げるのではなく、いかに負荷を掛けないようにして持ち上げること」
 これがいにしえの人々にはちゃんと出来ていたというのです。
 
 この言葉は武技だけではなく、人類が本来持っていた身体の動かし方、つまり重いものを持ち上げるとき、道具を扱うときに、あたりまえにこなしていた動作についても言えると思います。
 特に日本人は、その体型ゆえに、手足の長い人種とはちがう、ちょいとした工夫が動作に必要なのではないでしょうか。

 あらためて稽古場公演で目にすることができた、踊りや唄、太鼓を叩く動作には、昔からの働く動作、特に農作業、漁り場作業のときにこなしていた体の使い方がちゃんと伝承として織り込まれているわけで、それゆえの美しさというものも、ちゃんと備わっていたのです。

 これってなんだろう?
 日本人が美しくみえる動作、ってなんだろう?

 大きな共通点は確かにありました。
 それは「半身を同時に使うこと」ではないかと思っています。

 右手が前に出るときには右足も前に出ているのです。左もしかり。
 そのとき、腰も右前、左前と変化するのです。
 この動作がよく見られたのが「立石の百姓踊り」。
 大振りな動作で鍬や天秤棒などを使い、右に左にと身体を展開させながら踊ります。
 最後に米俵が出来上がり荷車に積むというオメデタイ踊りです。

 田んぼを鋤き込む動作では身を低くして鋤をヨコにスイングします。このとき、やはり右手・右足が同時に前に出るのです。
 これが日本人の力の入れ方なのです。

 お相撲さんのつっぱりも右手と右足が同時に出ます。こちらはむしろ、右半身が同時に出て「衝き」が完成するカンジ。

 古武術の「棒術(杖術)」でも、(どの流派でも)たいがい右手・右足は同時に出ます。
 (こちらはむしろ腰がすばやく右に回転し、それに右上体・右下体が乗っかるカンジ)

 右手が前に出ているのに、左足が前に出ると、この場合どうしても動作がバラバラになります。これではホントの力が出せない。

 半身が同時に前に出てくる動作を「ナンバ」というそうです。
 甲野さんのいう「伝承」にはこういう動作もきっとはいっているのでしょう。


 再び甲野さんの言葉
 「人類はいま、数千年続いた伝承を、初めて失った。」
 日本人ならではの「理にかなった動作=伝承」。僕もこの身に継承できたらなぁ、と考えています。
 
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