放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

荒浜街道

2012年07月25日 13時38分06秒 | 東日本大震災
 日曜日に秋保で太鼓を叩かせてもらって、ニノ腕が上がらなくなった。

 どうも楽しくて楽しくて。
 楽しすぎて限界を忘れて叩きまくっていたらしい。
 とても濃厚で有意義な一日だったけど、その代償はそれなりにあった。

 ニノ腕の力こぶを作る筋肉がすっかり炎症を起こしていた。ここが使えないとかなり不便。
 顔が痒くても手が上がらない。
 味噌汁飲む時にもお椀が上げられない。
 受話器が持ち上がらない。
 カバンはどうにか持てるけど、今度は机の上まで上がらない。
 
 こういう状態が火曜日まで続いた。
 情けないど、寝具のタオルケットさえ自分で畳めなかった。

 さてその火曜日。
 次男坊(小4、夏休み中)にせがまれて、モーターショーに行った。
 (もちろん、お仕事は休暇取得しました。どうせ腕上がんないし・・・。)

 正直言うと、子供にはイマイチ乗り切れないイベントだったように思う。
 未来の自動車体験コーナーったって、自動車免許ないとNGだもんね。これでは子供はシラけるでしょ。
 (子供を喜ばせないと、未来の購買者は育たないと思うんだけどなぁ)

 次男坊も1時間半ぐらい居たら、「も、帰る」と一言。
 お昼前には帰路についていた。

 きっと産業道路は渋滞と信号で進まないだろうと判断し、浜辺の道をゆくことにした。

 広い地平線まで真っ直ぐにつづく埃っぽい一本道。
 雑草だらけ。ヒビだらけ。
 そこを作業用車両に混じって走った。
 大型車両が列をなしているのだが、信号や分岐がないのですいすい進む。

 あたりは右も左も作付をしておらず、ただただ荒地が広がっている。
 半壊の建物がそのまんま日差しと風にさらされている。
 ところどころに水溜りがあり、やけに赤い水が澱んでいる。その周りにはススキとクマザサだけが威勢いい。

 これらはみんな、津波の爪痕なのだ。
 人も住めない。作付もできない。
 道路に沿って電信柱は整備されていたが、おそらくあちこちの半壊した民家には電気なんて行っていないだろう。せいぜい護岸(盛り土)工事用の電源か、一つ二つの信号機につないでいるくらいだろう。
 上下水道だって壊れたまま手付かずではないか。
 
 いつのまにか荒浜に入っていた。
 ガレキはきれいに片付けられていて、人影もない。時々ヘルメットとニッカポッカ姿の人が道具をもって歩いているくらい。
 これはこれで復興の一段階なのだろうけど、住民が去った風景は、やっぱりあの時の悲しみを呼び寄せる。

 道はあいかわらず大型車両がえんえんと列をなしている。
 ハンドルをにぎる腕がズキズキ痛い。
 次男坊はすっかり無口になっていた。

 二木地区の交差点を見つけて沖野方面へ曲がった。
 それ以外は、どこも封鎖されていて、右も左も許可なく曲がれなかった。

 二木から東部道路に向かうころ、やっと民家が見え始めた。
 そして東部道路の高架をくぐると、風景は一変する。
 あたりは緑にあふれ、平地は作付された苗が青々としている。
 この極端な場面転換には、やっぱり戸惑いを覚える。

 一年四ヶ月経った今でも、復興に差がありすぎる。

 復興の仕方が違うといえばそうなのだが、「そこ」に住めなくなった人の想いを想像すると、酷さに言葉が出ない。
 
 
 
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壺井榮「大根の葉」を読んで4

2012年07月21日 11時38分13秒 | Weblog
 いわゆる「モリヌークス問題」は、デュドロ「盲人書簡」のなかで取り上げられている。

 ― あるところに開眼手術に成功した人(成人)がいた。彼(彼女)は生まれつきの全盲であり、生まれてからこれまでに一切の視覚経験をしてこなかった。開眼手術の成功は、つまり視界を妨げるものの除去に成功したといってよい。さて、この人は、球体(ボール?)と三角錐とを見せられて、それに触ることなく、どちらが球体で、どちらが三角錐であるかを正しく言えるだろうか。その時、この人の物の見え方は、視覚経験を積んできた同年齢の人と同じものなのだろうか。
 これが「モリヌークスの問題(又は質問)」と呼ばれるものである。

 「盲人書簡」は僕も苦労して読んだが、やっぱり難解すぎた。哲学書なんかまともに読んだことないもん。
 いわゆる「認識に関する哲学」なのだが、おもしろいのは、「自分とは条件の違うひとと、はたして同じ認識を共有できるのか?」という問いかけがあったこと。

 生まれつき全く目の見えない人が、ある日手術に成功して視界をさえぎるものが取り除けたとして、その時、球体と三角錐とを、触ることなく区別することができるのか?
 そのときの認識は健眼者と同じなのか?

 哲学書はここで質問そのものが成立するか否かで終始するのだが、僕らの疑問はそこではない。

 「モリヌークス問題」は発育の重要性を訴えているように思えてならない。
 つまりは、生まれてからの発育に、障碍があると重大な結果が残るというものだ。
 肢体不自由、内臓疾患、セロトニン受容器障害、そして眼疾患も。
 
 壺井榮「大根の葉」は、単に「そこひ」を題材とするだけではなく、健康な発達を願う人の情を織り交ぜることでリアリズムを持たせている。
 健康な発達を願う母の気持ちを子が察するところからお話は始まり、孫の健康な発達を願う祖父母の気遣い。さらに健康な発達を願う地域の人々。
 家族の気遣い合う暖かさを瑞々しく描きつつも、それを取り巻く祖父母との考え方のズレも多次元的に取り入れている。そしてそれが、本当にリアルに読む人の心を締めつける。

 いろいろなことを思い出して、思い出して、思い出して・・・。
 そして、最後に大事なことも思い出した。僕らもまだ道半ばなのだ。せめて子どもたちが運転免許を取れるくらいまで、がんばらなきゃ。
 健ちゃんとお母さんがみた観音山も、僕が仙台の病棟でみたクリスマスツリーも同じ。
 次の季節がきっといい季節であるように、願う、子と親のいる風景なのだ。
 
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壺井栄「大根の葉」を読んで3

2012年07月19日 13時14分35秒 | Weblog
 やがて手術の経過を報告するためにお母さんは祖母の家へ帰ってくる。
 そこで話される経過は、なんとも割り切れない。

 片目の手術は上手くいったが、もう一方はダメだったというのだ。

 先天性白内障の場合、生後早ければ早いほど水晶体は軟らかく、生後1~2ヶ月ではまるで液体のようだと言う。
 それを丁寧に除去し、合わせて毛様体という、水晶体を支える筋肉組織なども除去する。このとき、少しでも筋組織を残してしまうと、それが無制御に増殖し、再び視界をさえぎることになる。

 克子の手術が失敗したのは、きっとこういうことだろう。

 僕の場合、次男坊は術後1ヶ月の健診で発覚した。
 執刀したDrは、特に左目の毛様体がやや固着していて、除去しづらかったと言っていた。
 それが悪さし始めたらしい。
 散瞳薬で瞳孔を開いて観察すると、確かに瞳のフチに白いギザギザとしたものが顔を出していた。
 
 まるでクローン培養したナントカ細胞みたい。

 そうして、手術は二度も行われることになったのだ。保険がなければかなりの料金だった。上等な車が買えちゃうくらい・・・。
 長男も、実は瞳孔が開いたときに瞳を見ると、フチに白いギザギザがある。
 これがもう少しでしゃばって来ていたら、きっと彼も二度目の手術をしなければならなかっただろう。

 再び壺井栄「大根の葉」へ。
 手術が失敗したことを実家に伝えたお母さんは、再手術を受けたいと、泣きながら懇願する。
 しかし実家での反応は、厳しかった。

 高額な手術であると言うこと。
 開眼手術そのものが胡散臭く見られていること。
 幼子の体にメスが入ることへの抵抗。
 信心こそが一番子供のためではないかという考え。
 
 古い田舎の考えらしい、といえばそれまでだが、孫の体にメスが入ることへの抵抗は、現代でもあるだろう。

 現に、長男も次男も、なるべく早く手術させたいと言う話をしたときには、やはりBELAちゃんの実家では厳しい顔をした。
 次男の時には「お正月前に手術なんて何考えてんだ」といわれた。
 そのため、次男は手術の日程を一ヶ月繰り延べた。
 それでも入院させる直前には義母から「ホントにこんな小さい子の目を切らなきゃならないのか」と滲み出るような繰言を言われた。
 出来ることなら、三歳か、五歳くらいになるまで待てないのか、と。

 もちろん目の発達を考えるなら、一刻の猶予も出来ない状況だった。一般にデッドラインは生後3ヶ月と言われている。
 けれども孫の体を切られる祖父母の気持ちも痛いほどよくわかる。
 僕らだって子の体を切られる父母なのだから。
 だから、病院へ無理を言って一ヶ月繰り延べたのだ。
 
 「大根の葉」も、このあたりの心情は生々しく描かれる。
 お母さんの頭の中には、神戸のお医者さんの言った言葉がのしかかっていた。
 「いま手術をすれば一生懸命見ようとするが、遅くなると、もう目は物を見ようと努力しなくなる」
 
 壺井栄はよく調べてから執筆している。おそらくどこかで「モリヌークスの疑問」のことを知っていたのではないか。
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壺井栄「大根の葉」を読んで2

2012年07月19日 11時42分44秒 | 肝苦りぃさ
 ふたたび壺井栄「大根の葉」に戻る。
 瀬戸内の山里の母子で暮らす小さな家。
 観音山のよく見える、小さなお家
 お母さんは言うことを聞かない健ちゃんを抱き寄せ、その両目を手でふさいだ。
 健ちゃんはえへらえへら笑っていた。
 「健ちゃん、それ、キャラメルあげよ、さあここにあるで。キャラメルいらんのか。
 「いる。---キャマレル、早よおくれいの。」
 健ちゃんがもどかしがってお母さんの手をかなぐり捨てて、キャラメルに手を伸ばそうとすると、お母さんはまた目隠しをした。
 「さあ、健ちゃん、キャラメル取り、ひとりで取り。ひとりで取ったらみな健ので。」 
 健ちゃんは知らなかったが、これが今の克ちゃんの世界であった。
 ひとりで好きなものを取ることができない。それが何なのか、知ること出来ない。何かを知ろうと思うことは、すべてが眩しい光の彼方にあり、何かを求めることは、目を刺すような苦痛とともにあった。

 健ちゃんは、お母さんに諭されて、やっと克子がかわいそうな状態であることを理解した。そして、やさしい健ちゃんは、克子とおかあさんが遠くの病院へいかなければならないことを理解した。
 
 健ちゃんは祖母の家にあずけられ、慣れない生活のなかで自分の居場所を一生懸命作ろうとする。
 それは、見えない光に苛まれながらうごめく克子の姿勢と重なるものがある。
 おかあさんもまた、可能性の光明を求めて、這い上がろうとしていた。
 家族は、みんな必死だった。
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壺井栄「大根の葉」を読んで

2012年07月11日 14時36分07秒 | 肝苦りぃさ
 BELAちゃんが何気に買ってきたオムニバス短編の読み物のなかに、壺井栄の「大根の葉」という、ちんまりとした短編が入っていた。

 壺井栄独特の文体には瀬戸内の美しい情景がたっぷりと織り込まれており、それが読む人をたちまち夢のようなノスタルジーへいざなう。

 物語は、5歳の男の子「健」とお母さんとの、やんわりとした会話から始まる。
 ゆっくりと健ちゃんをさとすお母さん、それを聞きたがらない健ちゃん。

 お母さんは妹の克子を負ぶってどこかへ出かけようとしていた。
 克ちゃんはもう2歳になるのに、自分で歩こうとしない。お母さんの胸にしがみつき、ほかのものを見ようとしない。
 お母さんと克ちゃんが行こうとしているのは、どうやら遠く神戸にある大きな病院であるらしい。
 そして健ちゃんは、一緒には連れて行ってもらえない。あこがれの汽車に乗れるのは克ちゃんとお母さんだけ。健ちゃんは隣村のお婆ちゃん家へ預けられる・・・。

 健ちゃんは必死だった。お母さんと離れたくない。このままお家で一緒にいたい。

 だけど、お母さんはよそ行きの行李(こうり)に克ちゃんの着替えしか詰めていない。それを見て健ちゃんはがっかりした。


 克ちゃんは先天性の白内障であった。
 当時「そこひ」「白そこひ」と呼ばれ、治らないものとされていた。
 もちろん、西洋では「モリヌークスの質問」で知られているように、開眼手術というものが積極的に試みられていたが、これはなかなか失敗も多かったらしい。
 いまでも失敗の尽きない手術である。

 ― もう誕生日がこようというのに、克子はおもちゃを見せても素知らぬ顔だし、指をちらちらさせながら目のそばへ近づけていっても目ばたきもしない。そのくせ目玉はひっきりなしにくるくると動かしている。よく見ると瞳孔が魚の目のように、ぎらりと白く光る。それでいて明るいところではいつでも眉をひそめ、目をつぶったままうなだれこんで顔も上げなかった。同じころに生まれあわせたよその赤ん坊たちがみな愛嬌よく育ち、だんだん知恵づいてくるのに、克子は、いつまでたっても笑わない、きまじめな顔をしていた。赤いガラガラを見せても手は出さず、握らせてふって見せると、その音を聞いて、はじめて笑う。視点の定まらぬ瞳をくるくる動かしながら、力まかせにガラガラをふりまくっては、にこにこした。だが、何かのはずみでそれをとり落としても、ふたたび握らされるまで手を出そうとはしない。とり落したガラガラがまた手に帰ることなどは念頭にないのだ。泣きもせず、しずかな表情でただ、眼球を動かしてだけいた。物を見て喜ぶことも、騒ぐことも、何か欲しくて泣いて訴える事も知らない。まるまるとふとって風邪ひとつ引かない体でありながら、克子の感情の世界はただ食欲にともなうものよりほか、その成長をはばまれているようであった。それさえもお乳のほかはすべて受け身であった。あてがわれて唇にふれてきてはじめて口を開いた。おとなしい子だと村の人たちにほめられるたびに、お母さんはひとり、つらい思いをした。克子は母親の顔を覚えず、声を聞いて喜んだり、泣いたりするようになった。(壺井栄「大根の葉」より)


 ここまで読んで、思わず本を閉じた。
 いろんなことがいっぺんに思い出されてきた。

 
 僕の長男は常に瞳がゆらゆらしていた。
 オレンジ色の光を好み、そのほかの光には反応しない。
 じきに見えるようになるのだろうとタカをくくっていたが、生後1ヶ月健診で眼振(がんしん)を指摘され、大学病院で先天性白内障の宣告を受けた。

 ショックだった。けど思い当たるフシがなかったわけではない。

 ゆらゆらする瞳。凝視しない目。
 ときどき瞳のフチで何かを見ようとする。いわゆる「藪睨み」の形相だ。
 その不気味な動作を見ていると、うっすらとした不安が心の隅に巣食ってゆく。
 病院で宣告を受けたときに思った。あの不安をなぜもっと積極的に解消しようとしなかったのか。
 病棟の混み具合に影響され、開眼手術まではずいぶん待たされた。
 
 一般に、赤ちゃんはだいたい生後3ヶ月までに充分な視覚経験を積まないと、その後の成長に影響がでるとされている。手術までの日々は、(祖父母はむしろ遅くなることを望んだが)僕らにとっては身を炙られるような時間であった。
 結局、開眼手術が実現したのは、生後5ヶ月のときだった。手術が遅れたことは、もしかして自分が積極的に目のことを訴えなかったからではないか、と思うこともある。
 でも、僕らは、「一切後悔しないこと」にした。後悔のため次の判断が乱れるくらいなら、次の治療を妨げない配慮こそ優先すべきことだから。(けど、「生後5ヶ月」という言葉は慙愧とともにある)

 瞳孔にきらりとひかるものにも見覚えがある。あれは次男坊の眼だった。
 焦点は合っていたものの、やはり眼の奥には障壁があった。
 長男の時よりは早く医者に見せることができた。次男は生後2ヶ月で手術となった。
 しかし次男の濁った水晶体は完全には除去できず、切除痕から再び増殖した。
 二度目の手術は4ヶ月後だった。
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