放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

コロナに罹った3

2024年01月13日 13時56分25秒 | 肝苦りぃさ
新型コロナ罹患5日。

お風呂に入ることができた。
それまでは、朝夕に熱いタオルを持ってきてくれて、背中など拭いてもらっていた。
(ホントに病院並みの待遇です)
人間50歳の坂を越えると新陳代謝も衰え大して垢も出なくなる。
髪の毛もやや脂付いたがフケ・カユミ・脂臭などは無し。
といっても体臭などはよくわからない状態だが。
手指などは却って乾燥期の手荒れから開放されてよかったくらいである。
4日位ならお風呂に入らなくても大丈夫らしい。
とはいえ、お風呂。
温かい湯に身を沈めたくない筈がない。
そういう時には災害で何日も入浴できない人々のことを想う。

入浴順序は当然ながら家族が全員入った最後。
ちなみに脱いだ衣類も家族とは別に洗濯する。罹患初日からそうだった。
洗濯機を二回廻すことになるのだから、その負担にはやはり頭が下がる。

少し寒かったが、まず全身を洗い、それから浴槽に身を入れた。
温かい。
つま先、指の先の毛細血管まで温まってゆくのがわかる。
鼻腔もしかり。
奥の方までゆっくり開いてゆくような気がした。

浴槽に浮かんでいる柚子をすくい、鼻先にもってゆく。
何も香ってこなかった。
だめか。

もう一度ふかく吸い込んでみる。
お、左の鼻腔に何か懐かしい香り。

遅れて右の鼻腔からも遠く懐かしい香りがした。
柚子だ。
柚子の香りが・・・。

それにしても香りが遠い。柚子は目の前にあるのに、こんなにも遠い。
くそコロナ。

風呂から上がり、寝室へ。
ふと柚子に似た香りを嗅いだ気がした。
あれ、と思い、BELAちゃんが置いてくれたアロマストーンを手に取る。
今度は右の鼻から香りが届いた。
柚子とも少し違う。柑橘系だろうか。野生種のような香り。橙?橘?
筑波山のふくれみかん?

BELAちゃんに言うと、驚き、喜んでくれた。
でも柑橘系はハズレ。
「レモングラスだよ。武雄の。」
ハズレはくやしい。でもいい香り。

佐賀県武雄の陶土で作った小石のような素焼きに、同じく武雄産のレモングラスのエッセンスを滴下したものだという。
陶土は素焼きだが、下半分には空色の釉薬を塗ってある。こうすればエッセンスを滴下しても下から染み出すことはない。
上半分の素焼き部分からはエッセンスが少しずつ蒸発して香るという仕掛け。かなり長持ちしそうな仕掛け。
本当は寝室いっぱいにレモングラスが香っているのだろう。でも僕は素焼きを鼻先に持ってきてやっと検知できるくらい。

仕方がない、ゆっくり行こう。
仕事も再開しなければ。
多くの人に迷惑をかけた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナに罹った2

2024年01月11日 19時36分04秒 | 肝苦りぃさ
新型コロナ罹患4日目。

やっと微熱が下がりはじめたが、夕方になるとやはり37℃を超える。
こういう体質は子供の頃から変わらない。

トイレに立って、ふと芳香剤の匂いがしないことに気がついた。
あれ

寝室に戻り、龍角散のど飴を口に含む。
いつもなら鼻腔に昇るハーブの香りがしない。

嗅覚やられた。
なんてこった。
新型コロナは何か爪痕残さないと気が済まないらしい。

鼻から空気を深く吸う。
空気の温度は分かるが何も匂わない。
のど飴が口の中でなくなっても、ついにハーブの香りはやってこなかった。

これが後遺症になるかも知れない。

BELAちゃんが心配してアロマを用意してくれた。
小さな素焼きの荒肌にアロマオイルを一滴染みこませてある。
何の香りかは聞いていない。
鼻を近づけてみる。
やはり香ってこない。

気長に恢復を待つしかないか・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナに罹った

2024年01月10日 10時05分39秒 | 肝苦りぃさ
具合が悪くなり診療所へ行くと、医者から新型コロナ陽性であると告げられた。

この感染症は4年前と比べると弱毒化が進み第5類感染症相当に移行している。けど防疫はしなければならない。僕は寝室隔離が決まった。

隔離を恨む話しをするつもりはない。
家族の適切かつ迅速な感染対策に驚き、感謝し、並以上の負担に申し訳なく思っていている。
常時換気、ペーパータオル設置、アルコールスプレー配置。
僕は寝室とトイレの往来だけ。あとは上げ膳据え膳、着替えの用意、シーツ、カバーの交換。病院並の対応である。
家族の予定もみんなキャンセル。
ここまでしてもらって家族に感染させるわけにはいかない。
腹括って療養生活に入った。

ノドの痛みは1日目で引いた。けど眉間のムカムカと頭痛がひどい。あとしつこい微熱。
眉間のムカムカと頭痛と微熱のせいで眼球から後頭部へクギ2本刺さっているみたいな不快感。
3日目に寝ていられなくなり、布団に座り込んだ。

寝室にはラジオはあるけどテレビはない。
あっても眉間のムカムカで見ていられない。
字も読む気になれない。
触るもの全てに菌を残留させてしまうから触ろうとも思わない。
なにもすることが無いまま座っているだけ。
なんとなく能登地震(2024/1/1発災)の被災地のことを思った。

あちらが大変な状況なのは言うまでもない。
きっと多くの方が寒くてテレビもないところで安否の判らない人を想いながらじっと座っているのだろう。
それはこんな風なのだろうか。
(あちらの感染状況が心配です)
目を閉じると耳ばかり澄んで、やたら外の音が気になる。
考え事ばかりしてしまうのは、時間が有り余っているから。
でも考え事にはやがて妄想がまじり、答えの出ないメビウスループができるだけ。
余計に疲れて落ちこむ。
思考が明るく正常化するには誰かに声を掛けてもらえる必要がある。

ウクライナでもガザでも今この瞬間に呆然と座り込んで、今いない人のことを想う人がいるのだろう。
まるで何かに閉じ込められたように、そこから抜け出せない。
時間の経過を待つしか無い。

かつて新型コロナに罹った家族が地域に住めなくなり引っ越しを余儀なくされた事案があった。
責められて自死した人もいた。
治療に当たった医師の子が保育所から拒まれる話も聞いた。
今のコロナ株とは毒性が違うのかもしれないが、あの時傷ついた人たちに、今の僕はなんて言ったらいいのだろう。
無知とは恥ずかしいこと。
今すでに危機や恐怖と併存していることを知らない愚かさ・・・
災害や戦災、感染症。
それだけではない。
もしも今、家族が急変し、認知症や感情障害になったとしたらどうなるか。
家族が突然暴れ、または目を離すと何をするかわからないようになったら。
その日から危機や恐怖と同居していることになる。
実際それに耐えながら暮らしている人は少なくはない。
そんな人たちには、近所にコロナ患者がいることなぞ恐怖のうちには入らないだろう。

現世(うつしよ)は苦界にて浄土にあらず。
それは壊れやすく、長持ちしない生命だから。
それこそが唯一の平等性だと気がついているくせに目を背ける指導者たちはなんて罪深いんだろう。

日常生活から離れ、想いは遠くを彷徨う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ禍で、あえて疫病の本を読む?

2020年07月19日 00時41分17秒 | 肝苦りぃさ
春ころ、某番組で、アルベール・カミュの「ペスト」を解説していました。
そこで疫病をテーマにした本をよんでみようか? という話になり、本をいくつか購入して読むことにしました。
といっても、本はBELAちゃんセレクションですが。

長引くコロナ禍にあって、とにかく疫病の収束というものをイメージして見たかったのです。

まず、カミュの「ペスト」
一言、難解です。
どうして外国の作品ってこんなに言い回しが難しいんでしょうか?
翻訳するとそうなっちゃうのか、いやいや、元々難しいことを言おうとしているんでしょうね。
でもそんなに難しくしなくても伝えることってできるんじゃあ・・・。
この作品の場合、ペスト感染症は不条理な災禍の代表として書かれていますが、その裏には別の不条理-たとえば戦争、または特定の連帯のために他者を一方的に否定、排斥すること-などメッセージが山盛りで詰め込まれています。医師である主人公は努めて誠実であろうとし、キリスト神学で説かれる試練も恩恵もこの不条理な世界を解き明かしていないと激しく抗議します。犠牲者を出し続ける病魔「ペスト」に対し、「果てしなく続く敗北」(と告白している)に身も心も疲弊してゆきます。それでも誠実(医療従事者としての職務に誠実)であり続けようとする彼の勇気は、多くの不条理に悩む同士を集め、かれらも一緒に闘ってくれる同志となります。
疫病の収束を見届けるまで。
壮絶な、はてしない戦いを。

次にスティーヴン・ジョンソンの「感染地図」。こっちはロンドンで突然発生したコレラの話し(実話)。
実はこの本を一番初めに読んだ。これも結構難解。
1854年、ロンドンのブロード・ストリートで発生したコレラについて医師と牧師がそれぞれのフィールドワークを通じて一つの水源に禍が潜んでいることを突き止めた「疫学の黎明」と言ってもよい出来事。二人はまったく違う方向からコレラを地域から取り除こうとしてあるき回り、たった一つの答えに辿り着いた。それが管に破損のある井戸ポンプだった。破損した部位からは雨水や汚水が流れ込んでいる。そこへある母親が子供の吐瀉物を捨てた。それが井戸へと流れ込むとは知らずに・・・。このようにしてコレラは発生した。
二人は行政に掛け合い、井戸のポンプ柄を取り外させることに成功した(ポンプの柄は当時はりっぱなインフラ設備)。ポンプ柄を外せば、だれもそこから水を飲まなくなる。はたしてコレラ患者の発生は急速に減っていった。
コレラ菌が確認される30年も前の話である。つまりコレラが細菌であることすら判っていない時代に、手探りで水に異変が起きていることを推理し、その場所まで特定したという話だ。その手法は地図に詳細な被害データを書き込んでゆくこと。移転した家族まで調べたという。その結果、ブロード・ストリートのある井戸を利用する世帯だけがコレラの伝播が著しいことを浮き彫りにした。積極的疫学の基本と言っていい。

三冊目は吉村 昭の「破船」。
これは貧しい魚村で起きた悲劇。
港をこしらえるには浅瀬の岩礁が邪魔、なので細々とした営漁しかできない。
かといって背後の山は肥沃とは程遠く、十分な作物もできない。
不思議なことに、海が荒れる夜には必ず浜辺で塩炊きを当番で行う。なぜか。
浜辺で塩炊きする火が沖の船をおびき寄せる。灯りを頼りに磯に迷い込む船があれば、それは岩礁に噛み砕かれてたちまち座礁する。
座礁した船は「お船様」と呼ばれ、村に幸をもたらすのだ。
ある夜、大きな廻運船(弁才船か)が座礁した。
村人たちは異様な興奮に包まれて、沖へと小舟を繰り出す。
廻運船に乗っていた水夫を殴り殺し、積荷を手早く降ろし、最後に船材を残らず解体し浜に運んでしまう。岩礁には端材一つ残らない。
まるで死骸を解体する蟻のよう。
村人たちは「お船様」に感謝を捧げるが、罪の意識は殆どない。。
恵みを頂く、奪うという自覚すらない。
それでも代官やお役人に知れるとて手が後ろにまわるということだけはよく知っている。

あくる年、また船が沖で座礁した。
再び興奮に包まれる村人。だが今度は様子がおかしい。
新内には赤い布を着せられた遺体がたくさん横たわっているだけ。食料もない。水夫もいない。
村人たち「お船様」ではないと判断。死人を乗せた船を沖へ返すことにした。しかし赤い布は上等だったので、貰うことにした。
これが災禍のはじまりだった。
村人たちに高熱で倒れる人が続出した。
どこの家でもばたばた倒れる。
やがて死人が累々と出るようになった。一命をとりとめた人も体中にひどい腫れものができた。
疱瘡である。
はたして村はどうなってゆくのか、という話し。

いやぁ重かった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッチング

2016年05月07日 10時46分29秒 | 肝苦りぃさ
 「マッチング」という言葉は、ある寄付団体から初めて聞いた。もう十年以上前の話だが・・・。
 直訳すれば「一致する」「調和する」という副詞的表現になるだろうか。やみくもに寄付金をバラまくのではなく、求められているところに、過不足なく適切に支援したいという目的意識が明確に出ている(そのため、審査はとても細かくて、またモニタリング期間も長かった)。
 
 ほんとうに役に立つもので支援したい、もらっても置くところに困ったり、あるいは邪魔にされるようなものではなく、ほんとうに必要な物を。

 とても大切なことではあるが、一方でこんなに難しいことはない。
 「良かれと思えばこそ」と言うが、先方が見えていないと自分の都合を押し付けてしまう。かと言って当り障りのないものをと思うと、十分なものでない可能性もある。
 どっちにしても、貰った方は文句の言い様がない。「ありがたいと思えばこそ」というのが貰う側に要求される態度なのだから。
 支援する側にはまず大抵、感謝の言葉しか返って来ないだろう。先方の事情はこの感謝の言葉が邪魔していてよく見えない。先方の要求を理解するためには、いっそ支援する側に回らないほうがよっぽどいい、という不思議な事態すら生じてくる。

 このたびの熊本・大分の震災を知り、東北地方で、ある人は東日本大震災を思い出したり、あるいは被災された人を慮って涙したり、または「今度こそ恩返しだ」と思い立ったり、さまざまな反応があったことだろう。でもここで一番見極めなければならないのが「マッチング」ではないか。

 つい東日本大震災の延長線で地震被害を想像してしまうが、まず状況が違う。津波がなかったのだから、生活物資の流出は少なかったはずである。一方で目の前に家があるのに帰れないという悔しさが大きいだろう。住居確保が一番の先決だろうが、そこで必要になってくるものは都北の被災地とは違ってくるのではないだろうか。

 情報は報道やSNSにたよるしかないが、一方でまだまだデマが流布しやすい状況でもある。
 考えたくないが、募金・カンパを装う詐欺だって出てくる。逆に被災地の財産が奪われているかもしれない。これらの横行に目を光らせていることもまた支援と言えるのではないか。

 始められる応援はできるだけ参加したい。けど、やっぱり初めにマッチングありきであってほしいと強く願う。諸氏、冷静であれ。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インフル×3

2015年01月27日 23時35分11秒 | 肝苦りぃさ
 年の暮れから正月にかけて、放菴一家四人のうち三人がインフルエンザに罹患しました。

 まず12/30に長男が発症。夕方、つくば市の急患センターへ駆け込み、そこでインフルA型と診断されました。
 で、イナビル処方→吸引。

 翌日、強行で仙台へ帰る。
 一日中、車内で同じ空気を吸っていたものだから、マスク越しに感染が広がる。
 翌日(元旦)、BELAちゃんが発熱で急患センター。午後には次男が発熱して市立病院へ。
 ふたりともイナビルを吸引。

 こうして放菴はインフル患者を3人かかえてしまいました。
 まあ、考えようによっては、年末年始休暇のうちにインフルを済ましておくというのは、なかなか都合がいいかもしれない。
 大人は職場にかける迷惑がかなり少ないし、子供も学校を欠席しなくてよい。

 家族は、みんな僕に感染さないように努力してくれました。でも、こんだけ濃縮にウイルスにこの身をさらしている。
 家族から「生きたワクチン」を得たようです。                                                                                                                                                                                                     
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマトと蓮の花

2012年08月28日 16時58分45秒 | 肝苦りぃさ
 いつもいつもイノチの野菜を分けてくれたあの人が、逝きました。
 蓮の花も盛りを過ぎた残暑の頃に逝きました。
 享年64歳。まだまだこれから楽しいこともいっぱいあったはずなのに、残念でなりません。
 
 春先には血色もよかったので、病院からの宣告はだれも信じておらず、
 なんか、このまま長く生きてくれるんじゃないかと、どこかで願っていました。

 ガン治療に御利益のある神社に毎週お参りに行き、願掛けの「箍(たが)」を納めたお社に手を合わせていました。
 先週も、お参りに行き、放菴に戻ると、角田から電話。
 「おじさん、昨日亡くなったよ。」

 しばらく声も出ませんでした。

 この話を子供たちにすると、困ったような、疲れたような顔をするのです。
 悲しい、という顔でなはく、どちらかというと、「またか」という顔。
 無理もありません。

 ここらは、震災からずっと、「死」が身近でありすぎるのです。
 
 もちろん、いろいろ楽しい体験をさせてくれたおじさんですから、大好きなのです。
 だから、ニコニコ顔は自然に出来るのに、沈痛な面持ちは疲れる・・・みたいです。
 まあ、悔やみ顔の似合う子供なんてかわいくないんですけどね。

 それでもやさしい次男Mクンは、翌日自分で育てたプランターからプチトマトを採れるだけ採って、一緒に角田へ行きました。イノチの野菜を分けてくれたから、いっぱい可愛がってくれたから。

 
 出棺前に間に合って焼香机をはさんでおじさんと対面。
 
 白い棺に収まって、穏やかな貌を見せるおじさん。
 おじさん・・・。
  痛くて苦しかったでしょう。お疲れ様でした。
   ほんとうにお世話になりました。
    おばさんのこと、見守っていてくださいね。

 おばさんが言いました。
 「おんちゃんね、私に、『ここサ一緒に入ろ』っていうんだよ。『こっそり入ろ、オレ痩せたから、あんた一人くらい入れっぺ』て。『あんた独り残していくのがオレ一番気がかりだ』って。」

 BELAちゃん号泣です。

 Mクンがトマトを差し出すと、おばさんは
 「ありがとね。これおんちゃんと分けっこするから。半分はお棺に入れてあっちで食べてもらうからね。」

 またまたBELAちゃん号泣。

 「Mクン、ここで夏合宿させてあげたかったって残念がっていたよ。一番の心残りだって。」
 
 これからも畑手伝いに来ます。MクンもYクンもいっぱい働きますから。

 帰り道、蓮沼では、ぽってりとしたツボミが空を見上げていました。
 咲き遅れのツボミです。
 おじさんをいざなうために待っていたのかもしれません。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壺井栄「大根の葉」を読んで2

2012年07月19日 11時42分44秒 | 肝苦りぃさ
 ふたたび壺井栄「大根の葉」に戻る。
 瀬戸内の山里の母子で暮らす小さな家。
 観音山のよく見える、小さなお家
 お母さんは言うことを聞かない健ちゃんを抱き寄せ、その両目を手でふさいだ。
 健ちゃんはえへらえへら笑っていた。
 「健ちゃん、それ、キャラメルあげよ、さあここにあるで。キャラメルいらんのか。
 「いる。---キャマレル、早よおくれいの。」
 健ちゃんがもどかしがってお母さんの手をかなぐり捨てて、キャラメルに手を伸ばそうとすると、お母さんはまた目隠しをした。
 「さあ、健ちゃん、キャラメル取り、ひとりで取り。ひとりで取ったらみな健ので。」 
 健ちゃんは知らなかったが、これが今の克ちゃんの世界であった。
 ひとりで好きなものを取ることができない。それが何なのか、知ること出来ない。何かを知ろうと思うことは、すべてが眩しい光の彼方にあり、何かを求めることは、目を刺すような苦痛とともにあった。

 健ちゃんは、お母さんに諭されて、やっと克子がかわいそうな状態であることを理解した。そして、やさしい健ちゃんは、克子とおかあさんが遠くの病院へいかなければならないことを理解した。
 
 健ちゃんは祖母の家にあずけられ、慣れない生活のなかで自分の居場所を一生懸命作ろうとする。
 それは、見えない光に苛まれながらうごめく克子の姿勢と重なるものがある。
 おかあさんもまた、可能性の光明を求めて、這い上がろうとしていた。
 家族は、みんな必死だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壺井栄「大根の葉」を読んで

2012年07月11日 14時36分07秒 | 肝苦りぃさ
 BELAちゃんが何気に買ってきたオムニバス短編の読み物のなかに、壺井栄の「大根の葉」という、ちんまりとした短編が入っていた。

 壺井栄独特の文体には瀬戸内の美しい情景がたっぷりと織り込まれており、それが読む人をたちまち夢のようなノスタルジーへいざなう。

 物語は、5歳の男の子「健」とお母さんとの、やんわりとした会話から始まる。
 ゆっくりと健ちゃんをさとすお母さん、それを聞きたがらない健ちゃん。

 お母さんは妹の克子を負ぶってどこかへ出かけようとしていた。
 克ちゃんはもう2歳になるのに、自分で歩こうとしない。お母さんの胸にしがみつき、ほかのものを見ようとしない。
 お母さんと克ちゃんが行こうとしているのは、どうやら遠く神戸にある大きな病院であるらしい。
 そして健ちゃんは、一緒には連れて行ってもらえない。あこがれの汽車に乗れるのは克ちゃんとお母さんだけ。健ちゃんは隣村のお婆ちゃん家へ預けられる・・・。

 健ちゃんは必死だった。お母さんと離れたくない。このままお家で一緒にいたい。

 だけど、お母さんはよそ行きの行李(こうり)に克ちゃんの着替えしか詰めていない。それを見て健ちゃんはがっかりした。


 克ちゃんは先天性の白内障であった。
 当時「そこひ」「白そこひ」と呼ばれ、治らないものとされていた。
 もちろん、西洋では「モリヌークスの質問」で知られているように、開眼手術というものが積極的に試みられていたが、これはなかなか失敗も多かったらしい。
 いまでも失敗の尽きない手術である。

 ― もう誕生日がこようというのに、克子はおもちゃを見せても素知らぬ顔だし、指をちらちらさせながら目のそばへ近づけていっても目ばたきもしない。そのくせ目玉はひっきりなしにくるくると動かしている。よく見ると瞳孔が魚の目のように、ぎらりと白く光る。それでいて明るいところではいつでも眉をひそめ、目をつぶったままうなだれこんで顔も上げなかった。同じころに生まれあわせたよその赤ん坊たちがみな愛嬌よく育ち、だんだん知恵づいてくるのに、克子は、いつまでたっても笑わない、きまじめな顔をしていた。赤いガラガラを見せても手は出さず、握らせてふって見せると、その音を聞いて、はじめて笑う。視点の定まらぬ瞳をくるくる動かしながら、力まかせにガラガラをふりまくっては、にこにこした。だが、何かのはずみでそれをとり落としても、ふたたび握らされるまで手を出そうとはしない。とり落したガラガラがまた手に帰ることなどは念頭にないのだ。泣きもせず、しずかな表情でただ、眼球を動かしてだけいた。物を見て喜ぶことも、騒ぐことも、何か欲しくて泣いて訴える事も知らない。まるまるとふとって風邪ひとつ引かない体でありながら、克子の感情の世界はただ食欲にともなうものよりほか、その成長をはばまれているようであった。それさえもお乳のほかはすべて受け身であった。あてがわれて唇にふれてきてはじめて口を開いた。おとなしい子だと村の人たちにほめられるたびに、お母さんはひとり、つらい思いをした。克子は母親の顔を覚えず、声を聞いて喜んだり、泣いたりするようになった。(壺井栄「大根の葉」より)


 ここまで読んで、思わず本を閉じた。
 いろんなことがいっぺんに思い出されてきた。

 
 僕の長男は常に瞳がゆらゆらしていた。
 オレンジ色の光を好み、そのほかの光には反応しない。
 じきに見えるようになるのだろうとタカをくくっていたが、生後1ヶ月健診で眼振(がんしん)を指摘され、大学病院で先天性白内障の宣告を受けた。

 ショックだった。けど思い当たるフシがなかったわけではない。

 ゆらゆらする瞳。凝視しない目。
 ときどき瞳のフチで何かを見ようとする。いわゆる「藪睨み」の形相だ。
 その不気味な動作を見ていると、うっすらとした不安が心の隅に巣食ってゆく。
 病院で宣告を受けたときに思った。あの不安をなぜもっと積極的に解消しようとしなかったのか。
 病棟の混み具合に影響され、開眼手術まではずいぶん待たされた。
 
 一般に、赤ちゃんはだいたい生後3ヶ月までに充分な視覚経験を積まないと、その後の成長に影響がでるとされている。手術までの日々は、(祖父母はむしろ遅くなることを望んだが)僕らにとっては身を炙られるような時間であった。
 結局、開眼手術が実現したのは、生後5ヶ月のときだった。手術が遅れたことは、もしかして自分が積極的に目のことを訴えなかったからではないか、と思うこともある。
 でも、僕らは、「一切後悔しないこと」にした。後悔のため次の判断が乱れるくらいなら、次の治療を妨げない配慮こそ優先すべきことだから。(けど、「生後5ヶ月」という言葉は慙愧とともにある)

 瞳孔にきらりとひかるものにも見覚えがある。あれは次男坊の眼だった。
 焦点は合っていたものの、やはり眼の奥には障壁があった。
 長男の時よりは早く医者に見せることができた。次男は生後2ヶ月で手術となった。
 しかし次男の濁った水晶体は完全には除去できず、切除痕から再び増殖した。
 二度目の手術は4ヶ月後だった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イノチの野菜

2012年04月09日 12時12分23秒 | 肝苦りぃさ
 日曜日、角田へお見舞い。
 お義父さん、昼前に便がでたようで、すこし顔の表情がゆるんでいた。

 「末期ガンの疑い」から一転、「ポリープ」または「リンパ腫」ということになり、すこしだけ悲壮感が和らいでいるこのごろ。
 といっても、腫瘍による動脈の狭窄は依然として問題。
 腹部奥の動脈にびっしりと腫瘍があり、これが脳にも転移している。
 悪性ガンのように組織を侵しているのではなく、ポリープだから動脈瘤なっているらしい。
 どっちにしても老体(82歳)に悪さをしている状況には変わりはない。
 いつ動脈が破裂するか、または血流が狭窄に阻まれ組織(特に脳組織)を壊疽させていかないか心配事は尽きない。
 
 いまは落ち着いているが、生活環境がかわると混乱するらしい。入院すると、すぐに譫妄状態(まだらボケ?)となり、何処にいるかもわからなくなる。
 いちど、譫妄状態のひどい時に付き添いで病院泊したことがある。
 やっぱり一睡もさせてくれなかった。
 点滴の針は引っこ抜く、尿管も抜こうとする。「帰るぞ」といって起き上がる、検査手術(開腹手術だった)の痕を指でほじくる。
 これが一晩中である。
 看護婦さんも眠剤入れてるのに眠らないものだから、どうにもお手上げの様子。すっかり放っておかれた。
 なるほど、いまの貧困福祉社会では「完全看護」という言葉は死語だと聞いたがホントだ。家族の負担はちっとも軽減しない。

 ・・・ってなわけで、在宅介護の日々である。お義父さんは上機嫌で、譫妄状態から開放された。
 それでもお義母さんは眠れない日を重ねているようだ。
 
 そんな義父母のためにいろいろ動いてくれた民生委員さんがいる。おかげさまで介護保険も適用になった。
 以前からお野菜もずいぶんわけてもらったし、畑仕事の体験もさせてもらった。
 ありがたい、ありがたいひと、

 その人が、今度はガンになった。

 胃から肺に転移しているらしい。
 末期のようだ。

 日曜日、角田に顔を出したのは、そのお見舞いを兼ねていた。

 すると、夕方、仙台に帰ろうかというときに、畑に誘われた。
 いってみると、あの人がスコップを持って作業している。
 
 子供たちと一緒に駆こんでいくと、奥様の笑い声が聞こえた。
 「ごめんねぇ、いま(仙台に)かえるとこだったんでしょ?」
 「いえいえ、却って恐縮ですぅ」
 明るい雰囲気にちょっとホッとした。

 大きなビニール袋に掘ったばかりのネギをどさっと分けてくれた。
 「こいづさ、バケツとかに移してすこし土を入れておくと長持ちすっから。」
 「はぁい」
 ご主人が力強くスコップを畝に刺し、ひとすくい土を取ってビニール袋に入れてくれた。
 「重いぞ、大丈夫か?」
 「平気」
 子供たちがヨッコイショと担ぐ。それを見てまたすこし笑ってくれた。
 
 僕は、命を分けていただいたように思えて、胸がいっぱいになってしまった。

 「じゃあね、元気でね。」
 奥様が言った。ご主人も優く笑って見送っている。
 元気でね、の意味を計りかねたが、「ご主人もお体大切に」と答えた。

 お互い、短い言葉にいろいろな思いを込めた挨拶になった。

 「食」ってイノチを頂くことなんだ、とは小理屈ていどに解っていたつもりだったが、これほど身に沁みたことはなかった。

 おかげさまで健康に暮らしています。
 病気にもかからず、怪我もしていません。
 ありがとう、ありがとう。
 いま、イノチを頂いています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする