放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

角館ー花巻紀行(角館の武家屋敷2)

2018年10月22日 02時03分19秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 石黒家には斜め向かいに別邸がある。
 こちらは一転して昭和レトロという趣き。
 ありがたいことに無料で入館できる。聞けば、お茶の稽古や集会に使われているという。市民の活用財産ということか。しかしこれだけの財産を維持するのはとても大変なことと思われる。施設の使用料だけで賄えるとは到底思えない。入館料を取ってもいいのでは・・・?

 別邸の裏はちょっとした雑木林になっていて(ここも誰かのお屋敷の跡地だろう)その向こうに回廊らしきものを配した洋館が見える。まるで江戸川乱歩。樺細工伝承館と回廊を持つこの洋館は武家屋敷の立ち並ぶ中ではかなり目立つ。打ちっぱなしのコンクリート柱。ひび割れた壁とツタ這う蔵。堂々とした古洋館である。ますます乱歩。
 ここが平福記念美術館である。
 近代アートの美術館かと思ってしまうが、平福穂庵(1844-1890)、平福百穂(1877-1933)親子ともに日本画家である。どちらも中央画壇で大いに活躍した。秋田の、角館の誇りと言ってもよいのだろう。しかし複雑ではある。
 時とともに忘れ去られることのないように角館に美術館を建てて平福親子を顕彰することは必要だが、一方でこの洋館を建てることで、ここの敷地に在ったであろう武家屋敷が忘れ去られる結果となったのではないだろうか。
 文化財を残すということは、時に押し流されないように抗うということであり、並大抵の努力ではできない。多くの仲間と、資金と、時間が必要である。残すことの意義も散々議論しただろう。残せないものの意味も散々考えたことだろう。角館の奇跡的な文化財遺構群にも悲しい話が多く隠れているのだろう。黙して語らぬ老シダレザクラの枝が、ただ静かに揺れていた。

 再び車上の人となる。
 ここから田沢湖近くを抜けて、山越えをする。
 目指すは岩手県雫石町。

角館ー花巻紀行(角館の武家屋敷)

2018年10月13日 02時24分17秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 さて角館の武家屋敷である。
 平福記念美術館まで歩こうということで樺細工伝承館から北へ向かう。
 道はかなり広く、道端には一部掘割も残る。武家らしい黒塗りの板塀も壮観で、多くは屋敷を塀越しに見ることになる。お屋敷の桜もずいぶん大きくて往来にまで枝を張り出している。広い通りなのに、かなりの面積の日陰ができている。だから武家屋敷の通りを歩くと、どこかセピアな光と翳(かげ)りの残像が、いつまでも瞼の裏に残ることになるのである。でもこんだけ日陰が多いと夏は正直たすかるわー。
 武家屋敷群を、これだけの規模で、しかも当時の雰囲気そのまま残せているのは紛れもない奇跡だ。多くの人々が同じ願いを持つからこそ維持できた。もちろん、ここでも現実の問題が次々と押し寄せていることだろう。継承者の高齢化、資金、老朽化、そして抗いがたい現代化の波。ここは明治維新以来、常に存亡の危機に晒されていると言っても良い。
 それでも、大きく茂った庭木の木漏れ日や、黒板の塀や、きれいな水音の掘割や、苔むした石畳などを見れば誰にも見せたことのない古い記憶のようなものが不意にこちらへ語りかけてくる。もしそういう体験を一度でもしてしまえば、この少し薄暗いケヤキの下のてりむくり屋根(やや反った屋根や、ふくらんだ屋根の意味)がかけがえのないものに見えてくるのである。ここでしか見られない風景。それが圧倒的な存在感で通りの向こうまでまっすぐ続いている。これだけの規模で残っているということは、新しさよりこの原風景を愛した人が多かったということだ。それが、この奇跡の原理だろう。自分は一観光客に過ぎないが、住民たちの熱意と努力には敬意を払いたい。
 お屋敷を訪ねてみようと思い、石黒家へと向かう。となりのお屋敷もすごく広いが、団体さんがゾロゾロ入っていったので敬遠した。

 で、石黒さんのお屋敷。
 むくり屋根をくぐり、奥を遮るような板壁の向こうに回ると、そこにはびっくりするほど広い土間があった。板壁は風雪よけだろう。北国ならではの工夫である。
 小上がりから靴を脱いで上がる。ボランティアガイドさんが待ち受ける中、次男坊はすすーと脇を進んで縁側にゴロン!大胆な奴だな。
 僕らも縁側に立つと、桜の老木と木立の間を抜ける風がさあっと額や頬をなでてゆく。今日は涼しい日でよかった。見渡せば、やわらかい木漏れ日と苔むす蹲(つくばい)。塀の外を歩く観光客の話し声もきれぎれに届くが、距離があるので耳障りではない。緑豊かな別天地でありながら隔世してもいない。半酔半醒の境地。
 そういえば・・・。蹲(つくばい)が軒の下にある。というか、軒がすごく深い。
 蹲自体は縁側のさき土の上にあるのだが、その向こうに敷居があって、支柱が真上に向かって伸びている。そしてその先に庇が張り出している。つまり、軒が深いのである。
 これも雪国ならではだろう。あとで調べると「土縁(つちえん)」といって、縁側の外側の地面周辺をさらに雨戸でくるりと囲むものらしい。在来の日本家屋は冬でも障子一枚で寒さを凌ごうという非常識な様式を頑なに守ってきたが(サッシが発明される前の話、ね。)、ことに日本海側の雪の多い地域では、土縁でもって寒さを緩衝する狙いがあるようだ。
 いつの間にか、家族全員が縁側でくつろいでいた。透かし欄間が織りなす影が美しい。次男坊が一番得意そうな顔をしている。次男坊は白石市の寿丸屋敷で縁側に寝っ転がって以来、古民家の愉しみ方をおぼえたようだ。そういえば長男も幼い頃、外出先で疲れていても、畳敷きの空間へ連れていくとすぐ元気になったっけ。きょうだい揃って「座敷のわらし」なのだ。
 石黒家住宅は表座敷など一部だけの公開。奥は現在も居住施設として使っている。でも、ここは座敷から土間、土間から蔵へと展開する広大な空間こそが見どころだろう。
 なにしろ土間から蔵まですべてが屋根続きなのだ。さきほどの土縁と同じで、これも豪雪寒冷地帯ならではの構造である。母屋と納屋と蔵が合体しているといえばいいのだろうか。雪の降る季節も、屋根の下で作業ができる構造。何度も言うが、かなり広い。真冬にこの屋根の下でしんしんと降る雪の音を聞いてみたい。かなり寒いんだろうけど。