放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater16~

2011年04月28日 01時59分16秒 | 東日本大震災
 震災から十日が経つというころ、突然ケータイメールが届いた。
 「○○くんが閖上(ゆりあげ)で被災しました。小学校○年生が着れそうな服を提供してください。下着もあればお願いします。」
 一瞬、デマメールでも来たかと思った。でもよく見るとウチの子が通う塾の先生の名前だから尚ビックリ。
 BELAちゃんが電話で問い合わせると、先生は
 「今いろいろ手配してまして、服がある程度そろったら避難所まで届けに行こうかと思っています」とのこと。
 ○○くんはウチの次男坊と同い年。そっかぁ閖上(ゆりあげ)でしたか。

 広大な仙台平野を流れる大河・名取川はその河口付近に良港を持つ。
 閖上(ゆりあげ)港という。
 自治体は名取市だが、仙台市民にとってはなじみの深いところ。

 夏の花火大会、トライアスロンの会場。
 笹かまぼこの工場もあり、また休日の「ゆりあげ朝市」は仙台からも多くのお客さんが集まる。
 「美味しんぼ」では赤貝の特産地として紹介された。
 そこが津波でやられた。
 それこそ広大な仙台平野を、あのおぞましい泥水が恐ろしいスピードで覆いつくしていった。
 ガレキがガレキを為すが如く、血泥が血泥をこねあげるが如く、田も家も道路も川も・・・。
 ○○くんも、さぞ恐ろしいものをみたことだろう。

 これは急を要する話だ。
 さっそくウチにあるものをいろいろ引っ張り出してみる。
 ランドセルも、長男のお友達に声をかけてみたら、快く提供してくれた。
 さらにBELAちゃんの友人にも声かけてちょっともってきてもらった。

 先生は、明日頂いたものを持って閖上(ゆりあげ)に行ってくると言う。
 すげぇ。「英雄」はここにも居ました。
 
 そんなある日、「ゆりあげ朝市」が復活するという知らせを新聞でみつけた。
 「おおっ、いってみっぺ!」

 場所はいつもの海辺ではなく、名取市にあるショッピングモール・「エアリ」の西側駐車場だという。
 震災からまだ二週間という日曜日。まだまだ「恐慌」は続いている(エアリ近辺も、用水路にはガレキが流れ込んでいた)。しかもこの「物不足」のなか、よくぞ開催してくれた。
 「エアリ」でもエントランスからずらりと行列が連なっている。こちらは一般の買い物客。で、「ゆりあげ朝市」は駐車場の向こう。
 駐車場の奥へと進むと、そこには仮設トイレがずらりと並んでいた。
 そっかぁ、まだ水が出ていないんだ。

 この日の「朝市」は、再会の場でもあった。津波の被害を受けてあちこちの避難所へ分かれていた人々が集い、お互いを励ましあっている。漁協関係者が呼びかけた、閖上復興の誓いの場でもあったのだ。こちらでも「英雄」が、がんばっています。
 こう書くと、明るく聞こえるだろうが、実際には聞こえてきた話は、そんなに明るくはない。。
 「おう、ばんつぁん元気か。」
 「いや流された。浮かんでこねぇおん。」
 「・・・そっかぁ。」
 「いったんは逃げたんだ。それなのに津波見サ行ったもんな。・・・そんで流された。」

 実際しんどい話だ。
 ここから少し東のほうへ移動すると、もう風景は一変する。

 いちめんいちめん茶色の風景。
 ガレキとヘドロを町中にぬりたくって天日で乾かしたようなものだ。
 ほこりっぽく、それが磯臭い。
 田んぼは一面水びたし。海水だからこれから長い期間の塩害が心配だ。

 海を恨んでもしょうがないんだけど、なにもここまでしなくてもいいじゃないの?とグチりたくなる。
 一週間前は、あたりいちめん赤い旗が立っていたという。
 赤い旗は、そこに犠牲者が埋まっていることを意味する。
 
 ここが復興のスタートなのだ。みんなみんな胸がきしむような想いをしながら前へ進むのだ。
 あの日から、ちぎれた肉片のようなわだかまりを心のなかにしまって、毎日耐えている。
 一週間後はすこし楽になっているのだろうか、一ヵ月後はどうだ、一年後は・・・。
 忘れたいのではない。ただ、時間の経過とともに、この沁みるような気持ちが少しずつ和らいでくれたらいいのにと願っている。
 愚にもつかないとは知りながら、震災のあった日から、少しでも遠ざかろうとしている。震災も、原発も、早く「遠い過去」になればいいのに・・・。

 毎日毎日が、重い。
 でもいまは、これが「復興」なのだ。
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東日本大震災~The Life Eater15~

2011年04月24日 16時27分44秒 | 東日本大震災
 「恐慌」は仙台市内は比較的はやく解消されたのかもしれない。
 宮城県南部の場合、野菜の復活ははやかったが、肉、魚、そして乳製品では仙台市以上に苦労があった。
 宮城県南部に魚を供給していたのは、荒浜港、相馬港、仙台港(中央市場)である。いずれの港も津波で損壊した。
 仙台港は震災一週間後には漁船の入港ができるようになっていたが、陸揚げされた魚はすべて飢えた仙台市内へ流通してしまう。
 どうしても郡部は後回しである。人口の多い都市ゆえの「エゴ」は首都圏だけではないのだ。
 
 加えてライフラインの復旧も遅れていた。
 例えば、ふだん宮城県南部は(亘理郡を除いて)蔵王水系の水道管から供給を受けている。
 今度の震災では、この水道管がかなり大もとで破断した。 
 断水は多くの市町村におよんだ。

 BELAちゃんの実家は角田市。
 当然、断水の苦労が待っていた。
 
 「復旧、まだなの?」
 「んー?水か、まだまだ。白石で管が破けたんだ。相当かかるぞ。」
 実家に行くと、はじめの問答はかならずコレだった。
 「えー、みんな死んじゃうよ!」
 電気は被災後一週間しないうちに通電していた。
 ガスはプロパンだからなんとかなっている。
 お風呂は灯油。だけど水が出ない。

 「給水車なんか、あっちの山のほうサ来てんだど。遠くて年寄りがポリタンク抱えて上り下りでぎっとこでねぇのや!」
 「ナニソレ!なんとかなんないの!」
 実家では仕方なく山から採れる水も利用していたらしい。
 「沸かせば何だってことないのヤ。」
 と78歳になったお義母さん。
 さすが自然の恵み。でもリヤカーに水タンクを乗せてよたよた山道を下ってくる姿は想像しただけではらはらする。
 「慣れたワ。んでもこのあいだなんか、山の水で洗い物すっぺと思って食器もっていったっけ、トウチャンのお箸、沢に流してしまったな。」
 だ、だー!ナニやってんですか、お義母さん!
 (お箸って、津軽塗りのいいヤツだったのに・・・。)

 でもやっぱり清潔な水で手洗いしてほしい、飲み水も沸かさなくても手軽に飲める環境って大事だと思う。
 台所には10リットルポリタンクを設置。ほか10リットルほど置くようにした。
 これら飲用水は仙台で汲んでせっせと運ぶしかない。 
 ガソリンは入手に苦労したが(仙台では苦労して並んでもガソリン2000円分しか買えない)、何度も並んでやっと買った。
 (ちなみに丸森町では一回並んでも500円分しか買えなかったようだ。)
 ご近所にも山の水を運んで来てくれる方がいるので、角田入りの際には魚やお肉を差し入れした。
 「英雄」クンから頂いた支援物資もあるし、並んでGETしたものもあった。

 ささやかな恩返しだった。
 いつも心配して畑の物とかを分けてくれる。ご近所の方も分けてくれる。
 自然の豊かさがある地だが、一方で高齢化が進み、商店が1件しかない。
 だから今度の震災では、すっかり「買い物弱者」になってしまった。
 「津波の被災地でないから」というのも理由のようだ。
 この不便さ、なんとかしてあげたい。
 
 「このあいだマンホールもあふれてたっけな。」
 ええ!上水だけでなく下水もダメなの!
 「阿武隈川の下水処理場壊れたワ。修理に数年かかるど。回覧板廻ってきて、紙とウンコ流すなヅ言われだもの。」
 じゃあ用便するときどうすんの?
 「新聞紙にくるんで庭サ埋めるか、燃やせだど。」
 それはひどい・・・。

 そういえば、さっき道歩いていて、マンホールの蓋に赤く「モル」と書いてあった。なんの意味かと思ったが、あれは「漏る」ということだったのか!
 笑うに笑えない。強烈なお話。
 
 わいわいと物資を届けて(でも空のペットボトルはしっかり回収して)、夕方、仙台へと向かった。少しは役に立てたかな・・・。

 「大変だねぇ。でも自然の恵みはスゴイね。」
 「きれいな水がでるところだったからね。」
 夕闇が東の方からだんだんと迫ってきていた。
 
 そのとき、バイパスを数台の大型車両が通過した。
 灰色のマイクロバス。自衛隊の車両も見える。
 みんな赤色灯を廻し、けれどサイレンも鳴らさず、やや低速で走行していた。
 BELAちゃんと一瞬目を見合わせた。
 
 おそらく遺体を運んでいるのだろう。荒浜で見つかった遺体か、もしくは岩沼か・・・。
 運び先は角田にあるという遺体安置所だろうか。
 そこまで想像して、何も言えなくなった。
 
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東日本大震災~The Life Eater14~

2011年04月23日 00時54分07秒 | 東日本大震災
 「恐慌」と書いたが、それはやはり一種の集団ヒステリーだった。
 けれどもそのワリに意外とのんびりしていたな、とも思う。

 ナニ言ってんのかわかんね、とツッコミ来そうだが、まあゆっくり説明してみたい。

 まず、震災のせいで補給が絶たれたことは事実。流通経路は陸路もダメ。海路も空路もダメだったし、生産者のところに割合被害が集中してしまったから、補給のメドがまるで立たなくなった。そして石油タンクの炎上など在庫をかかえることすら出来なかったこともあって、市民の不安と恐怖は否応ナシに高まった。
  
 クルマに関しては、震災のとき街中大渋滞したから、みんなずいぶんアブラを消費してしまっていた。僕もガソリンをタンクの半分くらいは残っていたはずなのに、あの夜、放菴にたどり着いたとき、ガソリン残量はわずか1目盛りを切っていた。

 無い無い尽くしの仙台(笑)。

 笑っている場合じゃない。「恐慌」は起こるべくして起こった。
 震災の夜から市民はコンビニや小売店の前に並んでいた。他の都市も同じだっただろう。

 しかしこう言ってはナンだが、それはとてもお行儀が良かった。

 横入りもない、怒号もない。略奪もない。
 無い無い尽くしの仙台(笑)。

 笑っている場合じゃない。こっちは大真面目だ。

 震災からのち、市民は毎日朝早くから並んでいた。
 夕べの雪がそこかしこに残る。この寒さで命を落とした被災者も多かったという・・・。
 生きているもの、特にお年寄り、乳幼児を抱えるひとは、どんな思いで夜を耐えていることか。
 せめて物資があれば、ミルクは、水は、おむつは、ティッシュは・・・。

 だからスーパーマーケットでは駐車場にまるで長蛇の如く人が並ぶ。
 粉雪がはらりはらりと舞い、息が詰まるような冷たい風がどう、と吹く。

 何か違和感がある。
 よく見ると、店内に電灯もないし音楽もかかっていない。停電したままなのだ。
 「ウチのカミサンから朝早く並ばされたんだや。コメかって来いど。」
 「あーおコメ大事ですよねー。」
 「ところでお宅、震災は大丈夫?」
 「はい、なんとか。」
 
 どうやら並んでいる人同士で話しているみたい。それも初対面どうし、かな。

 ちらと振り返ると年配の男性が大学生くらいの女性二人と話をしている。
 震災の話題さえできれば、誰とでも話ができる。みんな一番の関心事だし、話せば自然と情報交換になるから。
 「そっちはもう電気通ったの?」
 「いえー、まだです。水もまだ出ていなくてー。」
 「じゃあオフロ大変だ。おねーちゃんだからフロへぇれねぇとキツイべ?」
 「もー髪の毛バサバサでー!」
 おじさんははっはっはと笑った。
 「駅前の方では始めっから断水しなかったところもあるみてぇだど。」
 「えーっありえなーい!」
 
 そのときお店の人が出てきた。
 「ただいま在庫の確認をしております。間もなく開店です。日用品はお一人5点まで。あっ、でもお酒はいっぱいあります。浴びるだけお買い上げいただいて結構ですー。」 
 行列から静かな笑いが起きる。
 「オレもコメやめて酒買うかな。」
 「ダメですよー。オクサンが怒りますよぉ!」

 そのとき、お店がぱあっと明るくなった。
 「あっ電気電気!」
 店員があわててお店の中へ走ってゆく。
 行列ではなぜだか拍手が起こった。


 こんなのんびりとした「恐慌」ってのもなんだろね。
 激甚災害が広範囲におよんだのだ。じたばたしたってどうにもならない、と誰もが知っているからだろうか。

 こんな話もある。
 ガソリンがほしくてクルマで並んでいたときに、急用が出来て戻らなくてはいけなくなった。
 そのとき、その人は前のクルマのドライバーに「この行列が進みだしたら自分のクルマも進めておいてほしい」と頼んだ。
 ありえないことを頼まれたドライバーはとまどいつつも引き受けた。
 急ぎ家に戻ったその人は、用事を片付け、そのあと何をおもったか台所に向かった。

 しばらく経って、クルマの並んでいるところに戻ったその人は、小さな包みを「お礼です」と言って相手のドライバーに差し出した。
 それは取り急ぎ作ってきたおむすびだった。コメも海苔も鮭も貴重品になってしまったこの時に、惜しげもなく使っておいしいおむすびを作ってきたのだ。
 ドライバーは大変喜んだという。

 この話はおむすびをこしらえた本人から聞いた。
 厨房に勤務していた人で、ホントに美味しい給食をつくる人だった。
 このときのおむすび、実はお裾分けしてもらっている。職場に差し入れしてくれたのだ。絶妙の塩加減のおいしいおいしいおむすびだった。

 自分が灯油を買う行列に並んだときは、「おつりがないので1000円まで」と言われた。ソレを聞いていたオジさんが、「だれかと組んで3000円にしたら二人分売ってくれるか?」と。
 GSの店員さんは、ちょっと考えて「はい、いいですよ。」
 するとその場でどんどん二人組ができていった。折半できる小銭さえ持っていれば成立する。見知らない人同士で「500円あります?」とかやり取りしている。給油が終われば「おせわさまー」「たすかりましたー」「どうもね!」などとやっている。

 「恐慌」は「恐慌」なんだけど、なぜか妙なところで人のふれあいができている。「袖摺りあうも他生の縁」というやつか。 
 震災から一ヶ月が経つころには、この「恐慌」もずいぶん解消された。寒空に並んだ思いでも、いつか笑い話になるだろう・・・。 
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東日本大震災~The Life Eater13~

2011年04月20日 00時19分17秒 | 東日本大震災
 翌日、友人MクンはBELAちゃんの職場の片付けにも手を貸してくれた。
 「お役に立ちまっせ~」とぐんぐん動いていた。
 なんだか見舞いというよりは、さらに踏み込んで災害ボランティアになりきってます・・・。
 やがて彼は仙台駅から再び新潟経由で横浜へ帰っていった。

 彼にはどうやってお礼したらいいのか。
 多分、支援物資やら旅費などでかなり出費だったはず。(彼とともに支援してくれた人たちもね・・・。)
 震災からたった一週間。ライフラインも交通システムもすべてダウンしているこの街に、万難を排し単身乗り込んできた彼の行動は「勇気」といってもいい。震災以後、こういう人のことを「英雄」と呼ぶ(笑)。こーいうカッコよさって自分にはないもんなぁ・・・。

 考えてみれば、「勇気」を以って「震災からの復興」を呼びかけている人が震災直後から存在していた。

 銭湯で「重油がなくなるまで営業する!」と思い切ったことをしたひとがいる。
 震災翌日、石油の供給が完全にとまっている最中に、である。

 お店の小麦粉と燃料が尽きるまで菓子を焼き続けていたひとがいる。  
 食糧事情が全く見通し立たない中で、あえて生産者の責任を果たそうとしたのである。

 灯油の在庫をすべて吐き出す覚悟で売り続けていたひとがいる。
 抱え込むのではなく、わずかでも希望の糧となるように。多くの人が明日を考えられる心地になれるように。

 震災からの1ヶ月は、津波の被災地に「飢えと寒さ」を、そして地震のみの被災地には「恐慌」をもたらした。
 インフラが破壊された。流通も封じられた。そして物資が入ってこない。見込みすらなかった。結局お店は「供給の予定は無い」と言ってさっさと閉めてしまう。または窓をいちめん新聞紙で覆った。
 このことが僕らの恐怖をかきたてた。
 人口の多い地域だから、この恐怖はますます増幅してゆく。 

 ・・・これが「恐慌」なんだ。限定地域かもしれないが、その中に閉じ込められた人にとって、これは「恐慌」と呼んでいい。
 僕らは閉じ込められ、置き去りにされた。そう思い込んでしまった。
 信号の消えた町をうろつき、あっちの行列、こっちの行列、物がありそうなところを捜してまわり、わずかな品物を求めてまわる。
 その瞬間、品物にありつけることが死活問題だった。これを「恐慌」と呼ばずしてなんと呼ぼう?

 だけど、「恐慌」に負けない強い気持ちを示して僕らを励ます人がいる。
 横浜という遠いところから、直通のアクセスも寸断された状況で、山のような物資を担いで彼はやってきた。
 ― オイ、忘れるな、ひとりじゃないだろ ―
 恐怖し絶望した僕らに「希望すること」を思い出させてくれる人は、やっぱり「英雄」と呼びたい。

 友人の支援はその後も続いた。
 食料、トレペ、コンタクト用品、娯楽用品にいたるまで、深慮が伺える物資が届くようになった。
 高速道路が解禁になってからは直接クルマでお魚やモチを届けてもらった。 
 この「英雄」は疲れをしらない。


 あれから、「復興」という言葉について考えている。

 「復興」・・・。3.11の震災の直後から、この言葉はすでに心の奥でかぼそい声を上げていた。
 けれどもそれはあまりにも現実味がなさすぎた。被害状況があまりに甚大だったからだ。
 
 けれど、多くの英雄が示していた「復興」は、「日常生活に帰ろう」という願いだったように思う。
 日常生活、そうか「日常生活」でいいんだ。
 知ること、考えることから始まり、話すこと、歩くこと、治すこと、買うこと、笑うこと、
 寝ること、食べること、まとめること、しまうこと、、
 耐えること、譲ること、守ること、愛でること、
 読むこと、聴くこと、さらに考えること、そして、また笑うこと。

 いつか誰かを助けられるように、自分自身が力をつけて、関わってゆこう。
 支援物資は、知っている人とも分けあった。
 並んで手に入れた肉や魚も、誰かと分けあった。
 水も、断水している地域へ何度も運んだ。
 関われる限り、力とアブラの限り。でもってムリは決してしない。

 第一に大事なことは家族を守ること。これがイチバンの「復興」だと信じて・・・!
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東日本大震災~The Life Eater12~

2011年04月15日 00時30分53秒 | 東日本大震災
 「あのさぁ、オレ、仙台行くわ。明日泊めて。」
 「ほぇ?」
 それは震災からやっと一週間が経ったという頃のこと。
 横浜の友人が突然、時間がつくれたからといって電話をくれた。
 「仙台、ったって、どうやって来るの?」
 まさか横浜から一般道を使って来るのかしら?
 「いやさすがにこっち(横浜)もガソリンなかなか手に入らなくてさぁ、車ってわけにはいかないんだ。」
 「あ、そうなんだ。」
 このとき、僕は首都圏でもガソリンが手に入りにくくなっていることを知った。
 「こっち(横浜)で行列つくってんのは群集心理。単なる買い占めなんだよ。たしかに横浜でもコンビナート燃えたけど、それでガソリン無いわけじゃないみたいだよ。」
 へえ。で、君はどの手段で来るの?
 「まず上越新幹線で新潟まで行って、そこから長距離バスに乗るよ。」
 す、すごい。
 日本海側まで廻るの? っつーか長距離バスっていま高速乗れるの?
 「高速乗れるらしいよ。テレビのテロップで案内やってた。たぶん緊急車両扱いなんだろ。新潟から磐越道、郡山から東北道で行くからね。よろしく。あ、メシの心配とか一切すんなよ。全部こっちで持って行くからお構いなく。」
 あまりの展開に頭がついてゆかない。

 BELAちゃんに話すと、BELAちゃんもお口あんぐり。
 「・・・すごい人なんだねぇ。」
 まぁ、子供の頃から大胆で即断の人だったけど。

 で、翌日、いろいろメールでやりとりしながら一日経過し、夜の11時頃、友人を迎えに仙台駅に向かった。
 夜の仙台駅周辺はすっかり灯が消えている。
 お店を開こうにも食材が不足している。おまけに電力不足の懸念がある。
 JRの踏み切りもバーが抜かれていて無条件に通過できる。震災から7日。当時、JRの復旧見通しはまったく立っていなかった。 
 あまりの変わりようにこっちが凹んでしまう。

 迎えに行くと、
 「おう。」
 大きなキャリングケース。大人がしゃがんで入れそうなくらい。さらにボストン級×2。
 「すごいね。」
 「中身はもっとすごいぞ。」
 よっこいしょ、と車のカーゴスペースに荷物を入れる。けっこう重いし。

 放菴に到着して、さあ御開帳となった。

 まず出てきたのは駅弁。それからレトルト食品(サバ、イワシなどの煮込み、新潟バスターミナルのカレー(レア物!)、ドンブリの素などなど)、レンジ調理できるパスタ、パスタソース、インスタントラーメン、インスタントみそ汁、缶詰、ふりかけ、のり、こんぶ、だし、ごま、しょうゆ、マヨネーズ、紅茶、煎茶、コンソメ、etcetc・・・。
 「すごいだろ。ほら。」
 すごいなんてもんじゃない。雑貨屋ひらけるぜ。こんだけありゃ。
 「さらに、これだ。重かったのは。」
 友人がケースのそこから引きずりだしたのは、なんと「IH調理器」。しかもポータブル型。
 さらに大鍋、フライパン。
 あまりの豊富な物資に声も出ない。

 「いや、ガスが復旧していないっていうからさ、こういうのないと不便かなぁって思って。カセットコンロだけじゃ心もとないだろうし。だいいちガスボンベ売ってないもんね。」

 そこまで読んでいましたか。脱帽です。
 
 「物資で余分なやつは近所にわけてくれていいよ。近所づきあいもあるだろうし、物資の拡散は復興にも役に立つかなぁって思うし。そもそも食べれるもの食べれないものもあるだろう。辛口のレトルトとかさ。そういうのむしろ近所に分けちゃって、あとは子供たちが食べれそうなものがあるといいんだけど。」
 ある、ある。魚とかドンブリの素とか!

 話は盛り上がりつつ、けれども友人はこれら持ってきたものは一切手をつけず、持参した駅弁を食べ始めた。

 「だって、オマエんトコに支援物資もってきて逆に厄介になるわけにはいかねーじゃん。ホント一晩泊めてもらうだけで後はお構いなく。」
 とはいえ、せっかく遠路はるばる来てくれた友人に酒のひとつも出さないわけにはいかないよ!
 戸棚に入っていて難を逃れた小さな芋焼酎。大丈夫、近所のスーパーでもお酒に限っては制限なく買えるから。
 
 友人Mクンの、その英雄的行動力にカンパイ!

 夜はしんしんと更けてゆく。
 

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東日本大震災~The Life Eater11~

2011年04月11日 23時17分36秒 | 東日本大震災
 被災地の中にあって、この放菴一家は恵まれていた方だと思う。
 確かに震災当日は全てのライフラインと通信手段が絶たれた。しかし数日後には水道と電気が復旧。これで電話機が使えるようになり、同時にケータイの充電も出来るようになった。これがどれだけ僕たちをほっとさせたことか。

 しかし、僕たちには別の不安が常に付きまとっていた。
 この不安を一言で言うならば、「飢餓感」というものか。

 震災からの1~2週間という時期は、食料や燃料の補給が全く見通し立たなかった。
 なにしろ生産者、パッケージ業界、仲介者、流通のすべてが活動できる状態ではなかったのだ。
  
 まいにち缶詰や貯蔵品の残りを数える日々。カセットコンロのボンベも二日で1本使ってしまった。このペースでは在庫はすぐになくなってしまうだろう。
 僕たちは震災の翌日から一日2食で過ごしていた。足りなければポン菓子やせんべいでしのいだ。
 これは電気や水道が復旧してからも続いた。

 はじめはガマンしてくれていた子供たちが、遠慮がちに「おなかすいた・・・。」とつぶやきだす。
 いたたまれない。なんともいえない気持ちになる。
 「ごめんな・・・。ポン菓子まだあったろ。」
 こどもたちはポン菓子を一斗缶からお皿に移してボリボリと食べていた。
 なんてっこった・・・。このありさまはよく時代劇とかで見るような状況じゃないか。
 ポン菓子といっても、要は米粒に圧をかけて一瞬で圧を抜く「バクダン」というやつ。ひなあられみたいな、だけど一切味付けされていないもの。パサパサで、お米の味しかしない。それをボリボリ夢中になって食べている。
 ヤバイぞこれは。なんとかしなきゃ。
 
 この行き詰まった状態をなんとかするには、やはりアレしかない。

 スーパー、売店、コンビニ、GS、とにかく人が並ぶ所に行ってひたすら並ぶ。
 並ぶ、並ぶ、並ぶ。
 朝早くから並ぶ。
 「お一人様2品まで」とか言われても並ぶ。
 2時間でも3時間でも並ぶ。
 雪でも風が吹きすさぶ日でも並ぶ。
 
 並べばお互い情報交換だって出来る。
 それで飢餓感・閉塞感だって幾分か紛れるし、どこのお店では何が手に入るのか判る。

 そんなある日、コンビニの外で並んでいたら、友人と電話がつながった。
 20年来の友人で、横浜在住。震災後、ずっと連絡を試みていてくれたという。
 「おおー。」
 「やっと繋がった。無事?」
 「どうにか無事。」
 「いやぁ、たいへんだったなぁ。」
 「まあ、被災者のなかではかなりマシなほうだけど。」
 「なんか、足りないものない?」
 「あるけど・・・。食料とか、燃料とか、カセットコンロのボンベもないし。」
 「なんか送ってやりたいけどな。」 
 「ムリだよ。道路通ってないもん。」
 そう、流通は完全に止まっている。支援物資は避難所にしか行かないし、宅急便は東北配達をしていない。そもそも、東北道は「緊急車両」とか「災害支援」とか表示のない車は通れない。
 「そっか・・・、まあ、何か考えるから。もうちょっと待ってて。」
 そう友人は電話の向こうで言った。
 このあと、彼の行動力に驚かされることになる。
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東日本大震災~The Life Eater10~

2011年04月05日 01時16分31秒 | 東日本大震災
 東北太平洋沿岸で、過去もっとも規模の大きかった津波は、「貞観の大津波」(西暦869年・「三代實録」より)だったと言われている。
 このときの津波は、陸奥国の城(多賀城のことか?)にまで到達したという。死者(溺れ死んだことになっている)は1000人余り、と伝わっている。ただしこれは正確に数えたものかどうかは不明。

 このことについて、研究者たちは実際に多賀城周辺を発掘。実際に大津波の痕跡を発見しているそうだ。
 最大で海岸から5キロメートルの内陸部にまで達する大津波。被害域もさぞかし広範囲であったことだろう。
 多賀城周辺では、さらにその下にも大津波の痕跡を示す砂が三層にわたって確認され、おおよそ800~1000年の周期でここを大津波が襲ってきていたことが判っている。(この周期は諸説あり、定かではない)
 
 東日本大震災での津波も、最大で海岸から5キロメートルの内陸部に達したという。
 「貞観の大津波」から実に1142年。まさに千年に一度の大津波だった。
 犠牲者は東北(太平洋側)のみならず、北は北海道、南は茨城、千葉でも出てしまった。
 被害域はもっと広い。なんと沖縄でも津波が観測されている。

 仙台でも貞山堀向こうの防風林をはるかに超える高い津波が襲ってくる瞬間の写真がある。
 これは地元の河北新報一面のブチ抜き写真だった。
 なまじ鮮明な写真だけに、見た瞬間、衝撃だった(撮っていたヒト無事だったのかしら?)。

 同じ河北新報のコラムで「浪分神社(なみわけじんじゃ)」について書いているのを見つけた。
 過去の津波でここまで波がきた、という。この波がまさに生死の境であった。
 神社はその「しるべ」であり、鎮魂の碑であり、教訓そのものでもあるという。 
 しかし、現在はそこからはるか荒浜に至るまで多くの住宅がならび、しかもその先には、むき出しの海岸だった。
 筆者は、「なぜ過去の教訓が生かされなかったのか」と嘆きを隠せない。
 津波に関する警告はここ数年、識者から繰り返し発信されていた。自治体も資金の確保さえ進めば、という思いであっただろう。
 - 震災があと数年遅ければ -
 嘆いても命は戻らない。

 ひとつ気になったことがある。「浪分神社」だ。
 最近どこかで聞いたか見たか、どういうわけだかその名称に覚えがあった。
 はて、どこだったっけ?
   
 さっそく「若林の散歩手帖」(木村孝文・著 宝文堂)をひもとく。
 すると、荒浜から七郷、霞の目と続く道沿いにある神社であることが記されていた。
 
 はた、と思い出す。

 震災のほんの2ヶ月まえに、ここを通っている。
 田子(たご)で用事を済ませ、ドライブ半分ランチ半分のつもりで東進したものの蒲生(がもう)付近で道に迷い、なぜか七郷(しちごう)に出て、浪分神社から横綱・谷風の墓碑前をすぎ、バイパスに戻ってレストランでランチした。
 あの神社だ・・・。すこし狭い通りの脇に一坪建てのお社があったっけ。そうだ「浪分神社」って書いてあったっけ。
 もしもあのとき震災に遭っていたら・・・。背筋が寒くなる。
 
 閖上(ゆりあげ)の朝市、荒浜の海浜緑地、新港のイベント会場・・・。考えてみれば同じ仙台だもの、海辺にはしょっちゅう出かけていた。そのとき津波がもしもきていたら・・・。恐ろしくて考えられない。

 僕たちは、もしかして「命びろい」したのだろうか。
 僕たちは、もしかして「誰か」の命をもらって生きているのだろうか。
 
 千年に1回の大津波が僕らの町にやってきた。
 このことを、千年伝える方法を見つけなければならない。
 
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東日本大震災~The Life Eater9~

2011年04月04日 01時22分01秒 | 東日本大震災
 震災後、ライフラインが寸断され、物資の補給も断絶する―という事態は、おそらく多くの日本人が想定していただろう。
 この想定は、16年前の「阪神・淡路大震災」のときに教訓として伝えられた。
 以後、識者たちは異口同音に家庭内での備蓄を呼びかけていた。

 -水、食料、懐中電灯、ラジオ、そして電池。
   これらを非常持ち出し袋に詰めて、いつでも持ち出せるようにしておくこと。-
 
 宮城県沖地震の発生が予測されていた昨今は、特にこの呼びかけが繰り返されてきた。
 けれど、今回の地震は、その破壊規模が大きく、妨害要素も依然として大きい。だから、より長期化する恐れがある。

 仙台でも、食料品店の前にえんえんと並ぶ長蛇の列を見かけるようになった。
 東北の3月はまだまだ寒い。放射冷却の朝、さんさんと雪の降る朝、みんなじっと耐えて並んでいる。

 初めの二三日はほとんど何も手に入らなかった。
 お店の人にきくと、「補給の見通しは全然立ちません」とのこと。
 そりゃそうだろう。
 震災直後、交通手段はすべてマヒ。ガソリンすら手に入らない。港も空港も津波で全壊。流通は完全に死んでいた。
 さらに県内の生産者でさえ、漁業、畜産、農作ともに続けるどころの話ではない。保管していたものでさえ停電の影響で保冷していられなくなっていた。

 供給の見通しが立たないから、食料品店でもとりあえず数量を制限をしてなるべくお客さんに行き渡らせるようにする。だから必然的にお客は一列に並ぶことになる。肉も魚も大豆食品も乳製品も貴重な食材だ。震災に遭ってあらためて思い知らされる。
 まるで逃れられることのできない悪夢のようだ。

 ガソリン、軽油、灯油、重油の供給も、同じ悪夢の中にあった。
 まず仙台新港の石油コンビナートが津波で破壊。さらに重油に火がつき、なんと四日間も燃えつづけていた。
 このときの煙は、仙台市西部の通称「仏舎利峠」からもよく見えた。
 このため、ガソリンスタンドでは、小出しにガソリンを販売(一回につき2000円分とか)。その後はぱったりと販売を止めてしまった。

 僕たちは震災により、ここに封じ込められてしまった。とくに宮城県は、その観が強い。
 かろうじて繋がっていたのは山形方面へのルートだけ。こちらも高速道路が封鎖されていたので、下の道で山越えするしかなかった。
 山形県は他の自治体に先駆けて支援を表明してくれた。僕たちは少なからずその表明で救われ、幾分かでも冷静になれた。
 
 この(一時的に)閉鎖された環境の中で、ラジオと新聞はいつも情報を届けてくれる。
 特に地元の河北新報が、この状況でも毎日発行されていたことは驚きである。
 もちろん、明るいニュースは望むべくも無いのだが・・・。
 
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東日本大震災~The Life Eater8~

2011年04月02日 01時56分22秒 | 東日本大震災
 翌日、寒くて目が覚めた。
 熟睡できたとは言いがたい。
 狭い空間。執拗な余震。おまけに神経も高ぶっている。
 だから眠りも断続的だった。
 疲労していると同時に緊張している。
 やっと眠れたのは明け方近くだったと思う。
 「ええ?違うよ。」
 なに、なにが違う?
 「イビキかいていたよ!」
 ありえないって、こっちは神経ビリビリしてんだから!
 「いーやイビキかいてた! 正直タフだなって思ったよ。眠れるときに寝ておこう、って根性、スゴイねっ。」
 そう言われてもホメられている気がしない・・・。

 日が高くなってから、街の様子を見に外出した。
 やっぱり信号機は死んだまま。
 どこのお店も閉まっている。コンビニもスーパーもみんな全滅。
 自販機さえ動かない。
 やけに静かな土曜日。

 なるほど。
 「被災地」になるってこういうことか。

 ときおり市民が一列に並んでいるのを見かける。
 なんだろう、と思っていたが、やがてそれが公衆電話を使いたい人たちの列であることに気がついた。
 ああそうか。
 「災害伝言ダイヤル」というやつだ。

 家の電話は停電で使用不能。そうでなくてもつながらないらしい。
 ケータイも通信制限とやらで完全にマヒ。おまけに昨日は必死に家族と連絡を取り合おうとしてたもんだから、とっくに電池切れだ。
 こういう人って結構いるんじゃないだろうか。
 結局、モバイルの進化とか言っていても、通信サービスがズタズタになると何の役にもたたないじゃないか。
 やっぱりこういうときは単純で古典的(アナログ)な方法が強いのだろうか。
 冷たい風の吹く朝、死んだ信号機の下、列を成して並んでいる市民の姿は、この街も一夜にして荒廃してしまったことを物語っている。
 
 歩いてケータイのショップへ行ってみたが
 「システムに甚大な支障があり当分の間閉店します」旨の張り紙があった。
 シャッターがひしゃげて、中のガラスはガムテープだらけ。

 帰る途中で、ふと道を曲がってスーパーに行ってみた。
 お、行列がある。

 お店は例のごとく閉まっている。中はきっとぐちゃぐちゃなのだろう。
 すると店長と思われるひとが、大きなカートにグレープフルーツを山盛りにして出てきた。後には店員たちが豆腐やら牛乳やらカートいっぱいに積んで続いてきた。

 「お一人さま10点まで。品物の種類にかかわらず、すべて100円にいたします。」
 
 わあっと行列が崩れた。けれども先を争うという感じでもない。手を伸ばし持てるだけ持ったら次の人にために道を空けている。このおとなしさが東北人ならではなのかもねぇ。
 僕もグレープフルーツを買った。乳製品、大豆製品などはもう無かった。

 販売はものの30分くらいで終了した。品物がなくなったからだ。
 みんなおとなしく並びなおして店員さんの前に商品を見せている。
 店員さんは指で数え、千円札をうけとる。レジが壊れているからすべて手作業だ。

 不便ではあったが、それでも誰もが納得するかたちで商品を提供してくれたのは有難かった。この有難さが、被災直後にあって僕たちを冷静にさせてくれたかもしれない。

 実際には、この後も延々と品不足の状態は続くのだが・・・。 

 グレープフルーツのほか特に得るものもなく放菴に帰ると、リビングには相変わらずカウンターの下に居住空間があり、椅子のバリケードが取り囲んでいる。
 周囲には毛布がまるまっていて、煎餅やらクッキーなどが置き散らかされている。
 窓際にはラジオが大威張りでがなりたてている。「ここを逃したらいつ出番がくるものか!」、という勢い。
 (Video killed the Radio star・・・)

 「そうだ、カセットコンロなかったっけ。」
 震災の翌日になって、ようやく本気で暖かいものを摂ることを考え始めた僕らは、相当にのんびり屋さんかもしれない。
 
 ほとんど10年以上使ってこなかったカセットコンロ。ボンベも3本ある。
 おそるおそる点火してみると、ボッと青い炎が燃えた。
 「おおっ、点いた。」
 おもわず拍手。
 今のところ調理器具といえばこれしかない。心細いったらありゃしない。 

 ライフラインの損壊は、おどろくほど直接的に僕らの生命線をおびやかす。
 まずガスの停止。さきほど書いたように調理に大きな支障をきたしている。
 
 つぎに断水。トイレの水も流せない。備蓄していた飲用水も12リットルしかない。トイレに使用していたらたちまち無くなってしまう。汚い話だが、こちらはお風呂の汲み置き水(捨ててなくてよかったー)を使うことにして、しかも大便のときしか使わないことにした。

 さらに停電。これは文字通り生活に大きな影となる。
 照明が使えないのはもちろん、暖房、冷蔵庫、風呂を沸かすことも出来ない。
 
 灯油もガソリンも無い。車も、このままでは動かなくなる。
 
 こう「無い無い尽くし」だと、もう寝ているより他は無くなる。
 いっそ家を出て、みんなで避難所へ行ったほうが安全なのではないか、一瞬そんな考えもよぎった。
 でも、居所がある人は、避難所へ押しかけるべきではないのではないかと考え、放菴一家は放菴に留まることにした。
 この日も、暗くなる前にそこそこの整理をして、みんなカウンターの下に頭を突っ込んで寝てしまった。

 この日も余震は多かった。
 疲労はすこしづつ身体にたまってゆく。澱のよう。
 
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