放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

国道6号線にて ~The Life Eater~2014.12.29

2014年12月31日 23時00分35秒 | 東日本大震災
 そこは、バリケードだらけの街だった。

 お店もバリケード
 民家の入り口もバリケード
 交差点もバリケード

 信号機は点滅したまま
 ときどき見かける人は皆なにやら分厚い服を着ている。

 ここは国道6号線。
 浪江から富岡へと通過する途上の様子。
 あちこちに放射能の線量を計測する機械がある。この日は大体1.2マイクロシーベルトを示していた。

 あらためて日付を書こう。 2014年12月29日(月曜日)のことである。天候は雨。通った時刻はだいたい9:20頃。

  
 今年の12月に、常磐高速道路が南相馬からさらに浪江まで開通した。南は富岡まで来ているから、あと1区間で東京から仙台までの常磐道が完成する。
 いまはその1区間だけ国道6号線に降りなければならない。

 浪江インターで一般道へ降りるときから違和感はあった。
 料金所に人がいない。
 ETCならいいが、一般料金の支払いはどうするのか。
 料金の支払いは自動改札だった。しかしそこで重い扉がガー、と開いた。多分、鉛製の扉だろう。

 出てきた人の重そうな服を見て気の毒になった。
 福島第一原発の近くのこんな場所で詰めていなければならない業務って、どれだけ危険手当がつくのだろう。

 ここから「富岡街道」という道が国道6号線までつながっている。
 街を見ればバリケードだらけ。
 帰宅困難区域なのだ。ここは二輪車の通行は許可されていない。
 あんまりバリケードだらけなので、否応無しにここが一本道であると理解させられる。わき道への侵入は一切できない。許可されていない。
 このあたりに財産を置いてゆかなければならなかった町民の気持ちはいかばかりであろうか。

 国道6号線にでてからも状況は変わらなかった。作動していない信号機。封鎖された交差点。すべてが一本道だった。

 むかしよく立ち寄ったラーメン屋も、コンビニも、ガソリンスタンドも。みんなみぃんな廃墟だった。
 あらためて日付を書こう。 2014年12月29日(月曜日)のことである。天候は雨。通った時刻はだいたい9:40頃。

 国道6号線は広々とした枯れ野原に出た。

 いや、野原ではない。

 ここは、ここは耕作できなくなった田畑だ。

 除染された土であろうか? 黒く大きなビニールに包まれた塊があちこちに山積みされていた。ところどころ破けている。あんな包み方、あんな置き方ではもう2年ももたないだろう。

 ひどい話である。
 特定の企業や政治家、自治体を非難する話はいろいろ聞いた。けれど、これは言い換えれば経済発展のもたらした汚物であろう。震災がなければ飛散せずに済んだ。けれど震災で生まれた汚物ではない。もともと蓄積され続けていたものだ。僕らは、間違いなくこの蓄積されつつあるものの存在を知っていた。「六ヶ所村」という地名を知っている人ならば、この問題を知らぬ存ぜぬでは済まされない。

 僕らは、知らんぷりをして経済発展に寄りかかってきた。その闇の中で汚物がたまり続けていることを知りながら・・・。
 
 失礼を承知で言わせてもらえれば、ここは恐ろしい所である。でも見るべき場所かもしれない。
 福島の現状を。そして僕らの求めてきた繁栄の代償を。


 「復興」とは、いったいどこで進んでいることなのだろう。
 霞ヶ関だろうか、官僚の宿舎だろうか。
 誰かを悪者にするのは簡単だけど、それを断罪できる善者などいるのだろうか。被害者は別として・・。

 
 新年早々、こんなことを思い馳せていた。
 願わくば、今年こそ、浪江、双葉、大熊、そのほかに地域にも、明るいニュースが訪れますように。
 そう願わずにはいられない。

 
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<花巻界隈(人物)紀行「佐々木鏡石」>

2014年12月05日 13時00分36秒 | Weblog
 遠野には佐々木鏡石(1886-1934、本名「喜善(きぜん・きよし)」)という人がいた。
 彼こそが遠野物語の土台。彼の語った話をもとに綴られたのが遠野物語だ。けれども柳田國男をヌキに遠野物語が成立しなかったのも事実である。

 農政省の役人でもあった柳田には、物事を簡潔明瞭に説明できる文章力と、本を出版できるほどの人脈があった。
 一方の佐々木は駆け出しの文学青年。自分の持っている知的財産の価値に気がついていなかった。
 佐々木は実家も裕福だったのだが、彼のほんとうの知的財産とは、子供の頃から囲炉裏端や墓地やお社の片隅で繰り返し繰り返し聴いてきた不思議な不思議な遠野の昔話である。
 ザシキワラシ、オシラサマ、山男、経年(ふったち)、迷い家(まよいが)、寒戸の婆(さむとのばば)・・・。

 柳田に呼び出され、問われるままに佐々木は語る。言い方は悪いが、知的財産をタダで他者に譲っているようなものだ。「遠野物語」の冒頭で「佐々木鏡石」の名を出してもらったのが唯一のご褒美であったか。

 柳田の功績で「民族学」が興り、遠野は一躍注目を浴びた。
 けれど「佐々木鏡石」という作家が世にでることはなかった。

 せっかく宮沢賢治との邂逅を果たしたのに、佐々木と賢治ではまるで月と太陽のようだ。
 無理やり郷里の議員にさせられ、財政的な責任を負わされたことなど、不幸の連続であったが、それ以前に佐々木の文学性を柳田が忌避していたからだと言われている。柳田は彼を封じたわけではないだろう。ただ、彼の文章の叙情的なところを嫌った。
 それでも柳田のお陰で佐々木は原稿料を得ることもあったようだ。結局、佐々木は柳田の傘から出ることが出来ずに48歳で亡くなる。
 佐々木の最期の地は仙台の清水沼であった。

 花巻の旅が終わってから、佐々木の終焉の地・仙台市宮城野区清水沼を訪ねてみた。沼そのものが消滅してしまっているので、当時のことはよくわからない。佐々木はこのころ郷里の資産をすべて取り上げられており、文字通り爪に灯をともすような生活であったと思われる。原稿の清書を手伝ってくれた娘もいまは亡く、失意の極みではなかったか。自身の書屋を誇った柳田とは大きな隔たりがある。

 それでも、佐々木は藤原相之助らとの邂逅に恵まれ、仙台にも郷土学が興ることになる。
 同時代には三原良吉、天江富三郎らがいて、みなマスコミを介して大いに仙台から文化を発信していた(「東北土俗講座」)。その環のなかに佐々木喜善はたしかに居て、その著作はいまも図書館に見ることができる。彼を以って曰く「日本のグリム」(追諡・大槻文彦)。 
 
 ただ、それでも郷土学というものは聞き伝えの収集が専らであり、科学のように検証や文献を重んずるようになるにはさらに時間が必要であった。
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