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放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

寝相

2012年12月13日 11時04分15秒 | Weblog
朝、目が覚めたら、ズボンを脱いでいた。

どゆこと?

布団の中で寝ていたことは間違いない、けれど布団の中でズボンを脱いでいた。
まあパジャマのズボンなので簡単に脱げることは脱げるんだけど、なぜ脱いだのか理由がわからない。

どゆこと?

なんか恥ずかしくって布団から出られない。
かと言って布団の中でゴソゴソやっていると却って「不審な男」になってしまう。

うつらうつらしているとBELAちゃんに布団を剥がれてしまう。

布団のなか、足でズボンを手繰り寄せて(足繰り寄せて)何事もないフリしてそっと起き上がった。
スエットを着るドサクサでズボンを穿き、落ち着いてからしばし考え込む。

どゆこと?

そういえばさっき、起きて着替える夢を見たような気がする。
じゃあ、寝ぼけて脱いだ?

いやいや

なんか順序が違うような気がしてきた。

まず、ズボンを脱いでいて(だからなんで?)、それから着替える夢(ストーリー)を作り出したんじゃないかな。
ズボンを脱いだ自分のために後から説明を取って付けた的な・・・。

これまでにも寝ながらズボンを脱ぐということが時々あった。
本当に数年に1回とかいう感じ。その奇異で不可解な行動ゆえに忘られずにいる。

うーん・・・。


いろいろ考えて、一つの仮説ができた。

夏の暑いとき、ズボンを穿かずに寝るということはよくある。
それこそ、穿いていたって暑くて脱いでしまう。
これか?

この習慣が頭の隅に残っていて、冬でも無意識のうちにズボンを脱いでしまうのかしら?
布団の中が暖かくなってくると、体が「これから暑くなる」と勘違いして、ズボンを脱ぐのかもしれない。

こういう寝相の悪さってものあるんだねぇ。

うちの子供たちも、寝ながら「伸び」をするので、何度かパンチ&裏拳を喰らったことがあるけど、そういうのともまた違った、自分の深層心理のフチを覗くようでなんだか不気味な朝でした。



2012,12,7のこと。

2012年12月09日 02時53分24秒 | Weblog
ひさびさに来たね。デッカイの。

長くてすごくキモチワルイ揺れ方だった。
ケータイにも地震速報、津波警報と立て続けに入り、テレビやラジオでもひっきりなしに警告していた。
なかでも石巻市からの中継では、バックで複数のサイレンが鳴りっぱなし。

あの緊迫感。
一瞬にしてあのときのことがフラッシュバックする。

体中から血の気が引き、暗闇が怖くなる。

震源は3.11震災よりもさらに東。M7.2、深さ10km。
宮城県の最大震度は5弱。やっぱり余震の一つだという。

まだこんなのがあったのか・・・。
幸い、停電、断水などはなかった。被災地でも大きな被害は確認されていないという。
それでも、職場で地震に遭った僕は一時、同僚とともに関係者の安否確認作業に追われた。
(災害時通信規制のために作業はなかなかはかどらなかったけど・・・)
気のせいだろうか、電話回線は仙台市太白区には比較的早くつながった。
一方、仙台市の若林区、泉区などはなかなかつながらない。塩釜など県北にはとうとうつながることはなかった。

家に帰ったのは7時近く。ま、3.11よりは早かったか。
途中、やけに渋滞しているところが数箇所。
なんだろう、と気にして見てみると、それはたいていガソリンスタンドか、コンビニだった。
やはり3.11の震災を思い出して燃料や食料の確保に動く人がいるのだろう。
あとで考えれば大袈裟なことのように見える。
けど、あの恐怖を思い出せば、やはり居ても立ってもいられない、という心情は理解できる。
逆に今日の地震のおかげで仕事を切り上げることでできた人などは、このタイミングがむしろ燃料を買い込むチャンスであったかもしれない。

地震後の仙台・街模様である。


放菴になんとか到着、でもなんか変。

「・・・? なんで部屋こんなに寒くしているの? ストーブは?」
すかさず次男が答える。
「だって、地震のときは火は使えないんだよ。」
はあ、そうですね・・・。妙に地震慣れしちゃった?

カウンターには懐中電灯、若干のお菓子、そして息子の首から家の鍵がぶら下がっている。
これって、子供たちだけで避難するつもりだったの?
「うん、もっと大きな地震だったらいくつもりだった。だってお父さんかえってこれなくなっちゃうかもしれないでしょ。」
・・・、しっかりしたお子さんで・・・。

カウンターにはもう一つ、小さな箱が乗っていた。
あれ、シモヤケの薬じゃん。なにこれ?
「だって、避難所行ったらきっと寒いでしょ。ぼくシモヤケになっちゃうもん!」

これには笑った!なんつー思考回路だ。
けれど避難所へいけばどれだけ不便か、子供なりに考えているのだ。笑ったあとだけど、その思慮には見習うべきものがある。

こどもの一生懸命さはおかしくもあり、可愛くもある。
一方、これだけのリアリティを植えつけてしまった震災、って、やはり恐ろしい。
これからまたしばらく余震の恐怖と付き合わなければならない。
今回は南三陸などの海洋設備にも被害は少ないという。 なによりでしたね。

穴熊戦法ではちょっと・・・・

2012年10月02日 00時31分57秒 | Weblog
 日本はまだまだ関心が低いとアジア諸国からお叱りがあるようです。

 従軍慰安婦問題、領土問題、

 政治家や外務を行う官僚にすべて任せているのがいけないのでしょうか。
 歴史認識も今後の方向性も、みんなみんな、50年くらい昔の先輩官僚の打出した方針そのまんまなんでしょう。

 すなわちアメリカ。

 軍事力という笠の下で、日本は思考停止するという方策を選択しました。
 思考停止することで、日本軍の忌まわしいイメージを忘れようとした。そのほうが世界でもイメージの払拭に繋がるのではないか・・・。

 でも思考停止は戦略を失い、アジアとの対話の機会も減らしました。
 仕方がないから日本はお金をバラまいたのです。

 アジアでは、もうお金をバラまくしか居場所がなかった・・・。

 「島国根性の日本人は、カネよりも血と汗を流せ」
 これが中東へ自衛隊がPKOで出かけていった当時の日本への評価でした。

 このとき、僕らはこの言葉の本当の意味を知らなかったような気がします。
 東アジア諸国はこんな日本を一向に冷めやらぬ憎悪の目で見ていたのです。

 世界的なスポーツ界へ進出する日本人が増えているこのごろ、そういったことがさまざまな壁となって露呈してきました。それはスポーツ中継という映像となって茶の間へなだれ込んできました。僕たちは、日本人選手の活躍と同時に、「嫌われている日本人像」まで見せ付けられることになるのです。

 そうして再燃した領土問題。

 そう、領土問題は存在するのです。
 戦後、思考停止していた間もこの問題はくすぶっていたのです。

 でも僕はナショナリズムは嫌いです。

 ナショナリズム=民族的閉鎖性

 というのが昨今の図式です。
 この国の海山河を大事にしたい、とは思います。
 でも「あの島は確保したい」とは考えません。

 尖閣諸島は、豊かなところです。
 大自然そのままです。(大自然に回帰しつつある、というと正確かな) 
 しかもアホウドリの生息地です。

 このままユネスコに移管したい、とさえ思います。
 でも残念ながらユネスコは実効支配できる力はありません。

 周囲の国家が合意して、領土権を放棄し、なおかつ(全くの厚意で)共同で島を管理するようなことにでもならない限り、ユネスコも健全に島を管理できないでしょう。

 あのきれいな島を、ナワバリ争いの道しるべとしていることに人間の愚かさを感じます。

 

つま先を揚げていこう!

2012年09月14日 12時42分05秒 | Weblog
 運動不足なのだろう、足を引きずるような歩き方をすることがある。

 足の裏になんだか違和感がある。足指の第一関節のところで軟骨がはみ出しているらしい。
 それが足裏の肉球にはさまれ、体重をかけるとイタイ。

 ここはときどき痛くなる。
 こうなると板の間は歩きづらい。階段はしんどい。
 まるでオジイチャンのような歩き方になってしまう。

 足をかばうあまり背中は曲がり、腰にまで違和感が生まれる。

 そこで、ときどき話題にする「なんば歩き」を思い出した。
 これは実は足裏の使い方にも特徴がある。
 
 重心はやや踵(かかと)寄り。だけど地面を足全体で踏む。
 つま先を上げる、特に親指は一番高く上げる。

 往年の武道家と呼ばれる人たちは、常にこの親指がピンと上がっていたらしい。

 ためしにつま先を上げてみる。親指もピンと上げる。
 すると不思議と歩き方が変わった。

 つま先を上げると、スネの筋肉に緊張が加わり、足裏がそっくり返るような勢いで歩き出す。自分の足なのに不思議。すいすいと前へ進む。

 おおー、ジイチャン歩きから脱却か?

 つま先を上げていると、はみ出ていた軟骨も若干だけど引っ込むらしい。それほど痛みを感じない。いいね、コレ。

 しかし、つま先を上げ続けているのは疲れる。スネの筋肉もビンビンしびれてきた。
 昔の人はよくこれで過ごしていたな。感心するぜ。

 まあ、あとは椅子に座っちゃえば、つま先を休めることはできる。
 
 ちょっとミラクルな体験だったな・・・。
 昔の人はすごいな。現代人よりもはるかに自分の体のこと研究していたんだね。

 ヨタヨタ歩いている自分がいやだったので、スタスタ歩けたことは少なからず感動だった。つま先を上げるのも鍛錬かもね。こりゃしばらく革靴は履けないや。
 

 
 

怨恨と好き嫌い

2012年09月14日 11時27分25秒 | Weblog
 この辺はちゃんと区別しましょうよ、という話し。


 日本と韓国、中国、台湾、ロシアなどと領土問題が噴出し続けている。
 この問題は離島であるから発生したわけではない。
 資源などのオイシイ話しがあればどこの国も節操をなくすということが問題なのである。

 歴史的資料はいくらでも歪曲できる。
 いわずもがな、歴史的認識、歴史教育も。

 すなわち、「オキナワ」「ホッカイドウ」は日本に不法占拠されている、などという理論すら容易に筋立てができるのである。

 これは民族解放などというリクツを持ち出しても可能なことである。

 しかしその背景には漁場の奪い合い、アホウドリなどの乱獲、地下資源の独占などの目的があり、さらには国や軍の面子までもカブってくる。

 極東は、今も昔も火薬庫なのである。
 怨恨は怨恨を生み、それは誰かの血を求め、それがまた新しい怨恨を生む。

 このところの国内の報道は、(特に)中国、韓国に対し、よくない感情を抱かせるように出来ている。

 いつの間にか隣国を嫌悪し、恨みを感じてしまう。
 自身の中に生まれてきた「嫌い」の感情は、その90%以上がマスコミによって醸成されている。気をつけなければならない。特に、個人の財産、身体、生命が侵されていないうちから「恨み」を持つことだけは避けなければならない。

 人間は弱いから、弱いからこそ攻撃的になる。
 「好戦的」という言葉があるが、何の動機もなく他者を侵すことをためらわない人間はほとんどいないだろう。何らかの不安や、怖さが人に「攻撃」を思い立たせるのである。
 いま自分が心に飼ってしまった「嫌い」の感情は、容易に「攻撃」に孵化できるだろう。これは自分が弱いからである。不安や怖さに弱いからである。

 極東にすむ人々は、この弱さに押し流されない気持ちを作るところから国際感覚を磨かなくてはならないのではないか。
 個人的に、僕は隣国の人々を恨まないように心がけなければならない。
 経済的有利だとか、面子だとか、そういう価値観に自身が踊らされないように戦わなければならない。
 「好き嫌い」と「怨嗟」は別なのである。別にしておかないと、いつまでも仲良くなれない。

 ある反日活動家のコメントを新聞で(またマスコミかよ)読んだことがある。
 「自身は反日分子だが、個人たる日本の人を恨むことは、もう、しないだろう。」

 東日本大震災で被災者が取った人道的な行動、またはガマンする姿を評価しての発言だったようだ。


 
 



最高位の鎮魂者

2012年09月10日 12時24分41秒 | Weblog
 天皇陛下ご夫妻は「最高位の鎮魂者」であると思う。

 ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、神戸、新潟、それから3.11の被災地など、悲しい記憶が刻まれた地へ赴かれ、祈ってくれる。
 「天皇制」への賛否は国内外ともにいろいろあるだろうが、今の有りようはまさに「鎮魂者」である。誰にもマネのできない「鎮魂者」。
 首相が祈ったって、アイドルが泣いたって、それほどまでに人々の心を鎮め和らげるということができるだろうか。

 皮肉を言えば、政治家や自治体の一部の役職の態度にくらべ、おだやかで丁寧で、国民に寄り添う姿勢が圧倒的な好感を呼んでいるということだけであり、特に今の日本の状況を変えられる力があるわけではない。それでも、どんなエライ人の話よりも心のヒビに沁みこんでくる。この力はいったい何なのだろう。

 お隣の大韓民国では天皇に謝罪を要求する動きがある。
 従軍慰安婦問題、その他日本軍が大陸に渡り荒らしまわった事実について、認め、謝罪しろというのだ。それを日本政府ではなく、国民の象徴である天皇が自らの言葉で謝罪するように求めている。
 
 とんでもない、と思うむきもあるのだが、冷静に考えると、一考の価値はあるのかもしれない。

 太平洋戦争当時、日本は昭和天皇の命で大陸に渡り、昭和天皇の命で戦火を広げ、昭和天皇の命で民の財産や身体、命までも侵した。だから敗戦直後には、アジアでは日本の謝罪と天皇の断罪を求める声が少なくなかった。
 日本がこれまでアジアの謝罪要求に対して態度を明確にしてこなかったのはなぜか。
 一口に言ってしまえば、おびえていたのだろう。
 日本は敗戦し、街は荒廃しており、他国に謝罪すれば、賠償としてこの国の一切合財はすべて持ち出されてしまうのではないか、という恐怖があったのだろう。食料も財産も文化も、そして王族である天皇の身柄でさえ、差し出さなければならなくなったかもしれない。
 日本が隣国の自権をさんざん踏みにじっておきながら、一方で自国の自権を護りつつ、潔く詫びるというのは、並大抵の難しさではない。時代的にも、周囲が日本の自権を容認してくれるほど国際法が機能してもいなかったのだから。
 
 さて、現在はどうだろう?

 国際法は完全とは言い難いが、機能している。たとえ制裁中であっても、自国の最低限の権利は主張してよい時代となった。
 日本は積極的に過去の歴史を清算する方法を模索したほうがよいのではないか。
 では、だれが隣国との関係改善の大使たる人と言えるのか。

 コロコロ代わる無責任は政権では、残念ながらだれも耳を貸さないだろう。
 事務的な手続きは進められても、全権を代表する人は、残念ながらいつ消えるか判らない首相(候補を含む)ではない。
 そこまで考えると、やっぱりあのご夫妻のことが頭に浮かんでくる。日本人の自分でさえ、やっぱりそうかな、と思ってしまう。
 ご夫妻がご高齢であり、当時の日本を昭和天皇とともに見ていたということもその理由になる。鎮魂者のお言葉であれば、大陸で死んでいった人たちも、恨みを鎮めてくれるのではないか・・・。

 では、誰に向かってお話をすればよいのだろう?

 これが難しい。

 隣国の政権に対してなのか、当時の悲惨な体験をした人に対してなのか、それとも反日教育を受けてきた現代の若者に対してなのか。

 僕は、実際に日本軍の横暴にあって財産、身体、生命を侵された人に対してお話ができたらいいな、と思う。
 いわゆる「当事者同士で」という話しだ。

 僕は戦後に生まれた。だから当事者ではない。ぼくらは所詮、整理のつかなかった案件を、どんどん歪曲させながら語り継いでいるだけの存在なのだ。
 暴走もするし、政局的に利用もされる。
 または目をふさがれ耳をふさがれ、加害者意識から遠いところに置いてかれる。そこは国際的な認識から隔絶された、発展性の無い世界なのだ。だから日本と中国、韓国、北朝鮮などは、年代を重ねれば重ねるほどに戦時中のことについて話が合わなくなってくるだろう。

 もしかしたら、今が過去を清算する最後の機会なのかもしれない。平成天皇がご存命のうちに、当時の被害者が一人でもご存命のうちに・・。


 なにをどうすればよいのかわからないが、相手が不愉快だからといってそっぽを向いていても火種は消えない。その火種は、当初のことを知らない人々にどんどん受け継がれて、謂れのわからない暗黒の火種になってゆく。東アジアがパレスチナのようになってしまうのではないかと危惧している。
 
 

ケサランパサラン

2012年08月21日 12時02分48秒 | Weblog
 知ってます? ケサランパサラン。

 一説には妖精・妖怪の一種とも、または神様とも言われているけど。

 そのケサランパサランの目撃情報です。

 
 日時は平成24年8月15日(水)16:00頃
 場所は山形県上山市 リナワールドから第三駐車場(遠かったー)に向かう路上にて。
 天候は晴れ、気温35度超。


 殺人的な日光の下を次男坊(9歳)とともに歩いていたところ、足元に何かが転がってきた。
 白い綿毛の様な、それでいてやたらと毛足の長いもの。タンポポの綿毛を分解して、それをさらに10倍くらいに大きくした感じ。

 つやつやとした、しろがね色の毛足で、まるで転がるというか、泳いでいるように移動する。
 とにかくふわふわころころしている。

 それが僕らの前にきて、一旦止まり、僕らに関心あるのかどうだか、その場でしばらく風に吹かれていた。

 次男はそれがなんだかわからずに、しばらく目をウロウロさせていた。ゴミだと思ったみたい。

 しばらく見ていて、それから僕らは立ち去った。アスファルト灼けてて暑いし。

 以上、さっくりと目撃情報でした。


 
 ケサランパサランは妖怪だとか妖精だとかよく言われているけれど、あれはちゃんと染色体を持った生物なんじゃないかな。
 植物なのか動物なのか、イマイチ区物がつかなかったけれど、なんだか意思を持って動いていたようにも見えるし。どうもわからん。

 実はケサランパサランの目撃はこれで二度目。
 最初は33年前。
 場所は東京都杉並区の小学校にて。
 たしか運動会の閉会式だったかなー。
 空中を泳ぐようにすいー、と通り過ぎていった。
 子供たちの肩の高さぐらいだった。

 あの時も、今回も、一瞬アタマをよぎったのは「ウチにオシロイなんてないもんなぁ」ということ。

 

オリンピック閉幕

2012年08月14日 02時17分02秒 | Weblog
 ロンドンオリンピックが閉幕した。
 (みんなが注目するなか、永田町はこっそり重要法案を横流し式に議決していたようだが。こういう姑息さが世界から嫌われているってことに何で気がつかないのかなぁ。)

 今回のオリンピックでもそうだが、いつも世界タイトルがかかる対戦で気になることがある。

 それは韓国、中国、北朝鮮と対戦することになったときに必ず訪れる。
 それはそれは暗い憂鬱に襲われるのだ。
 
 韓国も中国も北朝鮮も、日本との対戦となると、憎悪の念を全面に押し出してくる。
 全てがそうではないのかもしれないが、やはりそういうものを感じてしまう。
 
 今回のロンドン大会で言えば、
 男子サッカー3位決定戦しかり、女子バレー3位決定戦しかり、
 女子卓球団体の決勝戦しかり、柔道、レスリング、etc

 対戦する競技では、日本を睨んでいる選手が必ずいて、それは韓国、中国、北朝鮮であると思われる。
 みんな試合で勝ちたいという感情のほかに、「日本をたたきのめしたい」という感情が強力に出ている。

 そんなに憎いですか。
 そんなに目障りですか、日本は。

 僕は歴史というものを、公平な視点で教わってきていないのだろう。たぶん。
 特に東アジアの近代史において、当事国の間で見方が分かれているのだから、「公平な視点」なんて生まれていない。だから、僕の教わってきた「歴史」というものに自信を持っていない。世界で通用する史観だとは思っていない。
 これは大変に不幸なことだ。
 なぜなら、そのために自国の言い分を正しく述べることが出来ないでいるし、東アジアの憎悪について、正しく理解できずに居ることにもなるからである。正しく理解して、謝罪して、和解したいとは思うけど、東アジアって最初からいがみ合ってばかりいる地域なのかも。

 いっそのこと、三国で強力な核兵器でも開発して、憎い日本の全ての都市に同時に打ち込んできたらいいんじゃないの。
 国連が制止する間もなく素早く打ち込んでくれたら、東アジアの諍いも消えてゆくかもしれない。そのぐらい徹底すれば、アメリカさんだって、妥協するだろうし。(意外と簡単にね。)

 スポーツの競技にちまちまと反日感情を小出しにしているくらいなら、ミサイルを日本列島に向ければいい。
 3.11大震災のことを、韓国では一時「天罰」と報道したそうだが、それならミサイル降らすのも天罰ってことでいいんじゃない?

 

 

 

壺井榮「大根の葉」を読んで4

2012年07月21日 11時38分13秒 | Weblog
 いわゆる「モリヌークス問題」は、デュドロ「盲人書簡」のなかで取り上げられている。

 ― あるところに開眼手術に成功した人(成人)がいた。彼(彼女)は生まれつきの全盲であり、生まれてからこれまでに一切の視覚経験をしてこなかった。開眼手術の成功は、つまり視界を妨げるものの除去に成功したといってよい。さて、この人は、球体(ボール?)と三角錐とを見せられて、それに触ることなく、どちらが球体で、どちらが三角錐であるかを正しく言えるだろうか。その時、この人の物の見え方は、視覚経験を積んできた同年齢の人と同じものなのだろうか。
 これが「モリヌークスの問題(又は質問)」と呼ばれるものである。

 「盲人書簡」は僕も苦労して読んだが、やっぱり難解すぎた。哲学書なんかまともに読んだことないもん。
 いわゆる「認識に関する哲学」なのだが、おもしろいのは、「自分とは条件の違うひとと、はたして同じ認識を共有できるのか?」という問いかけがあったこと。

 生まれつき全く目の見えない人が、ある日手術に成功して視界をさえぎるものが取り除けたとして、その時、球体と三角錐とを、触ることなく区別することができるのか?
 そのときの認識は健眼者と同じなのか?

 哲学書はここで質問そのものが成立するか否かで終始するのだが、僕らの疑問はそこではない。

 「モリヌークス問題」は発育の重要性を訴えているように思えてならない。
 つまりは、生まれてからの発育に、障碍があると重大な結果が残るというものだ。
 肢体不自由、内臓疾患、セロトニン受容器障害、そして眼疾患も。
 
 壺井榮「大根の葉」は、単に「そこひ」を題材とするだけではなく、健康な発達を願う人の情を織り交ぜることでリアリズムを持たせている。
 健康な発達を願う母の気持ちを子が察するところからお話は始まり、孫の健康な発達を願う祖父母の気遣い。さらに健康な発達を願う地域の人々。
 家族の気遣い合う暖かさを瑞々しく描きつつも、それを取り巻く祖父母との考え方のズレも多次元的に取り入れている。そしてそれが、本当にリアルに読む人の心を締めつける。

 いろいろなことを思い出して、思い出して、思い出して・・・。
 そして、最後に大事なことも思い出した。僕らもまだ道半ばなのだ。せめて子どもたちが運転免許を取れるくらいまで、がんばらなきゃ。
 健ちゃんとお母さんがみた観音山も、僕が仙台の病棟でみたクリスマスツリーも同じ。
 次の季節がきっといい季節であるように、願う、子と親のいる風景なのだ。
 

壺井栄「大根の葉」を読んで3

2012年07月19日 13時14分35秒 | Weblog
 やがて手術の経過を報告するためにお母さんは祖母の家へ帰ってくる。
 そこで話される経過は、なんとも割り切れない。

 片目の手術は上手くいったが、もう一方はダメだったというのだ。

 先天性白内障の場合、生後早ければ早いほど水晶体は軟らかく、生後1~2ヶ月ではまるで液体のようだと言う。
 それを丁寧に除去し、合わせて毛様体という、水晶体を支える筋肉組織なども除去する。このとき、少しでも筋組織を残してしまうと、それが無制御に増殖し、再び視界をさえぎることになる。

 克子の手術が失敗したのは、きっとこういうことだろう。

 僕の場合、次男坊は術後1ヶ月の健診で発覚した。
 執刀したDrは、特に左目の毛様体がやや固着していて、除去しづらかったと言っていた。
 それが悪さし始めたらしい。
 散瞳薬で瞳孔を開いて観察すると、確かに瞳のフチに白いギザギザとしたものが顔を出していた。
 
 まるでクローン培養したナントカ細胞みたい。

 そうして、手術は二度も行われることになったのだ。保険がなければかなりの料金だった。上等な車が買えちゃうくらい・・・。
 長男も、実は瞳孔が開いたときに瞳を見ると、フチに白いギザギザがある。
 これがもう少しでしゃばって来ていたら、きっと彼も二度目の手術をしなければならなかっただろう。

 再び壺井栄「大根の葉」へ。
 手術が失敗したことを実家に伝えたお母さんは、再手術を受けたいと、泣きながら懇願する。
 しかし実家での反応は、厳しかった。

 高額な手術であると言うこと。
 開眼手術そのものが胡散臭く見られていること。
 幼子の体にメスが入ることへの抵抗。
 信心こそが一番子供のためではないかという考え。
 
 古い田舎の考えらしい、といえばそれまでだが、孫の体にメスが入ることへの抵抗は、現代でもあるだろう。

 現に、長男も次男も、なるべく早く手術させたいと言う話をしたときには、やはりBELAちゃんの実家では厳しい顔をした。
 次男の時には「お正月前に手術なんて何考えてんだ」といわれた。
 そのため、次男は手術の日程を一ヶ月繰り延べた。
 それでも入院させる直前には義母から「ホントにこんな小さい子の目を切らなきゃならないのか」と滲み出るような繰言を言われた。
 出来ることなら、三歳か、五歳くらいになるまで待てないのか、と。

 もちろん目の発達を考えるなら、一刻の猶予も出来ない状況だった。一般にデッドラインは生後3ヶ月と言われている。
 けれども孫の体を切られる祖父母の気持ちも痛いほどよくわかる。
 僕らだって子の体を切られる父母なのだから。
 だから、病院へ無理を言って一ヶ月繰り延べたのだ。
 
 「大根の葉」も、このあたりの心情は生々しく描かれる。
 お母さんの頭の中には、神戸のお医者さんの言った言葉がのしかかっていた。
 「いま手術をすれば一生懸命見ようとするが、遅くなると、もう目は物を見ようと努力しなくなる」
 
 壺井栄はよく調べてから執筆している。おそらくどこかで「モリヌークスの疑問」のことを知っていたのではないか。