「吉兆」さんよ
「 わが一生の大切な一食
何度も申しあげていることですが、日本料理と限らず、世界中どこの料理でも、人の食べるものというのは、作ってから食べるまでの距離が近いほど、値打ちがあるのです。
うちでも、時々急いで出かけるとき、たとえばあなごがあったら、五つ六つ、にぎってもらうことがあります。
それがふしぎなことに、そのにぎったのをお皿へ盛って、番茶をそえて持ってきてくれるのと、こちらから板場へ出ていって、目の前でにぎってくれるのとでは、どういうわけか味がちがう、にぎり立てのほうが気分もいいし、おいしいのです。
時間でいったら二、三分も違いません、距離でいえば二間ほど、三メートルか四メートルでしょうか、それだけのことですが、食べてみるとあざやかに違うのです。そのへんが微妙で、鮮度のちがいといったって、それだけでは説明がつきません。これはやはり食べる人の神経でしょうね。
天ぷら屋さんも、揚げたのをすぐ食べてもらうようにしています。うなぎ屋さんも、忙しい店は〈しらいれ〉といってさきに焼いておいて、お客さんが来られたら、むして、焼き色をつけて出しますが、これとお客さんの顔を見てからさいて、焼いて、むして、焼き色を付けて出すのとでは、かなりちがいますね。
うなぎなんか、時間がたつほど厚みがちがってきます。
朝、吸い物のだしを百人前つくって、ちゃんと味の加減をしておく、お客さまが見えたとき、それを人数分だけぬくめて出せるといいのに、あんたのようにいちいちそのたびにかつおぶしを削って、なんてことをしていたら、いまどきあわないね、とあきれたようにいわれたお客さまがありましたが、そんなことしたらお客さまが来てくださらなくなります。
私のほうでは、三人前なら三人前、お客さまの顔がそろってから昆布だしをとって、かつをぶしを入れて三人分のだしを作っています。これでないとどうしてもお椀の味がちがうんです。」
これは、「吉兆」創業者にして日本で第一級といわれた料理人湯木貞一氏の『吉兆味ばなし』(暮らしの手帖社刊、 昭和五十七年発行、花森安治氏が湯木氏の話を聞き書き、編集・企画したもの)のなかの一節。
湯木貞一さん、亡くなられてからもう何年になるかな。お気の毒と言うほかない。
「吉兆」などという料理屋さん、私には一生縁はないが。
ところで花森安治さんって知らない人多いんだろうけど面倒なので説明はしません。検索して下さい。