三流読書人

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ドングリ小屋住人 

「癒しの音楽」

2007年03月16日 15時57分07秒 | 芸術
 「癒し」「癒される」という言葉を最近よく聞き、何とはなしに違和感を感じていた。
 音楽の持つ「癒し」ということについて渡辺裕氏(東大大学院教授・美学芸術学)が3月15日付『毎日新聞』に書いている。タイトルは「『癒しの音楽』は危険な罠」。少し長いのですが、ご一読を。

 世の中がひどくヒステリックになっている。論理的思考や冷静なバランス感覚が、没論理的な激情的うねりにあっという間に押し流されて無効化され、チェック機能も働かなくなるようなことが相次いでいる。「小泉劇場」などと呼ばれる状況に象徴されるように、多面的な視点と冷静な判断が一番求められるはずの政治家までがそういう動きに翻弄されている。
 テレビも新聞も論理や思考の影はうすく、「感動」や「怒り」の大安売りである。無知ゆえに一方的に流れがちな素人に対し、物事を裏から見たり斜めから見たり、想像力を働かせて敢えて逆の立場に身を置いたりして、多面的な視点を提示し、ヒステリックな暴走をとめるのがマスコミの役割だと思うのだが、今はマスコミ自体がそれを作り出し、あおっているようにみえる。危機的状況だ。
 世の中の落ち着きがなくなってくると、せめて一時でも現実逃避できる安らぎの場所を確保したいという欲求が生まれる。その切り札として登場するのが音楽だ。「癒し」などのタイトルがついたCDが次々と出てくるのはそういう状況の反映だろう。だがこの音楽、なかなか一筋縄でいかない曲者なのである。
 音楽は古来、感情をかきたてることによって人を動かす強い力を持つと考えられてきた。プラトンは政治家たる者は音楽を熟知すべきであると述べた。音楽を効果的に使う術を身につけることが、いわば理屈抜きに人間を動かす武器になると考えたからである。中国にも、同様な考え方にもとづき、音楽の秩序の支配こそ国の支配の源だとする思想があった。こういう考え方はその後もいろいろな形で残り続けた。日本が開国直後の明治十二年という早い段階
で、音楽教育普及のために音楽取調掛(後の東京音楽学校)を作ったのも、音楽が国家統治のための不可欠な手段だと考えた結果であり、日本を文化的な国にしたいなどと考えてのことではない。音楽は「癒し」どころではなく、人々を政治的に支配するための強力な武器だったのである。
 芸術の自律性が認識された近代には、音楽のそのような性格は背景に退いて行く。

(・・中略・・。しかし、音楽はいろいろな方向に人を引っ張り込む力を持つ危険な存在である。例として)

 以下要約
 そういう例で思い出されるのはベートーヴェンの《第九》である。フランスの革命シャンソンにルーツを持つとも言われるこの作品は、二〇世紀初頭のドイツで労働者運動を盛り上げる切り札として使われる一方、一九三六年のベルリン・オリンピックの開会式では、ナチが人々を引き込むための道具となった。日本でも戦時下の一九四四年出陣学徒壮行大音楽会、戦後のうたごえ、労働運動と全く逆とも言ってよい様々な動きの中で絶大な効果を発揮した。論理を抜きにし、感情レベルで人を動かし、引き込む絶好のメディアなのである。没論理的・感情的にものが動くようになっている昨今、音楽はその動きに拍車をかけるもっとも危険な存在ではないかという気がしてくる。

 本文
 必要なのは、音楽の持つ巨大な政治的力を認識し、そのあり方を見きわめた上で、それをプラスに転化して「平和利用」する術を考えることの出来る知性である。  (・・以下略)