1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

原発をハードボイルドに考える

2012-05-28 23:35:56 | 雑談の記録
この夏、原発の運転停止に伴う電力不足が懸念され、節電が奨励されている。いや義務づけられているのかな?。
原発の運転の可否についての言説、またはその不・必要論が多方面から聞こえてくるようになって久しい。そのような中、エライ人たちは、冷静に理性的かつ合理的に判断をしなければならない等とエラソーに言っている。また、思考停止に陥りやすい「推進」or「反対」のニ項対立型による考え方はアブナイまたは忌避すべきだとも言ってらっしゃる・・・ように聞こえる。


さてさて、しかししかし、「冷静に理性的かつ合理的に」とは一体ナンナンダ?マジで!

ということで、今回は、原発について感情的かつ不条理に熱く語ってみたい。

今から20年ほど前のうら若き学生時代に遡る。
実習の一環で原子力発電所を訪問したことがある。
作業着の技術系社員に引率されて、施設内の見学をしたように思うけど、当時はまだピヨピヨの学生なワケで、車と女にしか興味がないようなアホだったから、どこに行ってもソッチ方面のチェックが先になってしまうのである。であるからして、ゲンパツで働く「女」とは如何なる「イキモノ」なのかという発想で、発電所内を観察してしまうのである。だから、社員の話しなんてソッチノケなのである。読者諸兄の好きなアッチの毛ではない、そっちのけである。発電ではなく発情しているのである。発情こそが若者にとっての発電エネルギーの核燃料棒として重要なのである。
そしたら、異変に気が付いたのである。

「オンナガオラン!」

別にオンナなら誰だっていいワケじゃぁないけど、場違いでキレイな女性を期待していたワケでもないけど、ただナントナク「女子社員」という響きを持ったそういう女性を見たかった、あるいは機会があれば話してみたいという欲求があったのだ。しかして、その淡い期待は見事に裏切られ、汚れた欲求は満たされなかったのだった。それは怒りに似た感情を当時のボクに引き起こしたのかもしれない。発情しているオスは、なにかとケンカっぱやいのである。

会議室に戻り質疑応答の時間になった。
「あの~、施設内で女性の姿が全く見れなかったんですけど、ナンデですか?」
歯切れの悪い答えに、ついつい、キツイことを言った。
「女性にとっては都合の悪い施設ってコトなんですか?」


ナルホド、原発は「男の世界」なのであった。女人禁制なのである。
おそらく、その「世界」は今日もあまり変わりがないと推察される。

以下、男の世界について述べてみる。
私が「男の世界」などと発言すると、アッチの世界を想像する諸兄もいると思われるが、今回はハードボイルド的にコトを進めたいと思っている。しかし、「男の世界」により創出された原発問題を救うのは、ひょっとしたらオネェ系とか草食系とかの男気系族から見れば辺境の地に安穏と暮らしている人々かもしれないと思うのである。
しかして、私は14、5歳くらいまでは大藪春彦、落合宣彦、コリンズとかに傾注していて年間を通じて24時間の殆どを早熟男気系の一員として生きていたように思う。その頃までの経験をもとに「男の世界」に迫っていきたい。

「男の世界」は、いたって簡単な世界から成り立っている。
説明は二つのキーワードで十分かもしれない。
パワーとコントロール、力と支配だ。
この「力と支配」というテーマは時に一大ムーブメントとなり、我々を面白くない感動の世界へ放り込んでくれたりる。フィクションとしては「白い巨塔」がその代表で、ノンフィクションとしては「争うは本意ならねど(木村元彦著)」に出てくるJリーグドーピングコントロール委員会がその好例である。
そして、この「力と支配」はスケールに違いがあるものの馴染み深いものであることを我々はよ~く知っている。男が数人集まればその中に必ず序列が生まれ己の立ち位置を意識し始める。小学生であろうが介護施設の老人だろうがコトは同じである。その中では必ず「力」を誇示しようとする力が働く。小学生の場合、その力とは腕力でありゲームカードの種類や枚数であり学業であったりする。老人の場合はさらにわかりやすい。ある一定の年齢を過ぎると長生きという事実こそが力の誇示になっていたりするのだ。40代の我々などは自分の年齢をついつい忘れがちだが、年を重ねた人物ほど己の年齢をよく把握しており、しかもそのことを会う度にイチイチ話題にするのだが、そのような行為がナニヨリの証拠と言える。つまり男というものは、時、場所を選ばず力の誇示を一義的に考えながら生活をしているイキモノなのである。また、その力を誇示しつつ磨きを掛けながら上位進出を目論んでいるのである。場合によっては上位者を一撃で葬り去るための画策について妄想し、一部の忍耐強い者はその計画について時間をかけながら人知れず実行し「力と支配」という甘い果実を手に入れているのである。ただ、その場合の多くは失敗に帰し、冷水を浴びせられ、「不当つまはじき!」、「不当村八分!」、「不当処分!」、「不当給料カット!」、「不当解雇!」などと叫びながら死の淵へ後ずさり、結局はその奈落へ決死のダイブということになるのである。バンジージャンプなどの女、子供のための生優しい遊技ではない。非常用のパラシュートなんて持ち合わせていない。あったとしても、間違いなく追い剥ぎされているワケだから丸腰状態なのである。重力は一方通行しか許さないのである。ダイブしたが最後、自身の醜い体重が凶器となって奈落の底が迫ってくるのである。
グシャッ!。
力の無い男あるいは力を失った男は哀れな末路を辿るのである。男共はそのことをよ~く知っている。だから老害と言われようが破廉恥と言われようが男は自分の呼吸が止まるその日まで、その力にしがみつこうともがくのである。全くみっともない話しなのだが・・・・。
ドコかの大統領のようであり、ドコからの政治家のようであり、ドコかの親戚のようであり、ドコかの会社の上司のようである。
かように男とは「力」に寄り添うことでしか生きていけない悲しき軟弱なイキモノなのである。であるからして、彼らは「力」にこだわるのである。一方でそのことは、男の身体に深く埋め込まれている男気系装置が寸分違わず完璧に、そして確実に作動していることを意味している。(くどいようだが電気系装置ではない男気系装置だ!)しかし、各種装置には型式型番があるように、男気系維持装置にもそれぞれの個性があり出力のベクトルと強度が異なっている。また、その装置の肥大化が身を滅ぼす一因になりかねないと考えるムキもあるのだが、そうした好例の研究対象として「小沢一郎」が存在しているように思えるのである。かくして男気系装置の恒常的作動が「力」へ走らせる原動力となっているのである。
しかし、「力」とは一体なんなのであろうか。
ぶっちゃけ言ってみる。人格を否定されようが構わない。死に損ないのデキソコナイにそんなものは怖くないのである。だからぶっちゃけ言ってみる。ハードボイルド的に。
愛と平和の対極に位置するソレである。
「暴力」である。
暴力に繋がる力、暴力を助長する力、暴力を鼓舞する力、暴力そのものである。暴力性でもいいかもしれない。

「今から始めたい趣味はナニ?」
と問われたら、「居合い」と答えることにしている。
昔から刀に強く惹かれている。日本刀図鑑みたいな本も持っている。
しかし、ボクは護身用などと言ってアーミーナイフをカバンに忍ばせている32歳アルバイトのようなバカたれではない。このようなバカたれは、ナイフを忍ばせて歩くことで己が力を持ったと勘違い、あるいは、錯覚しているのである。その気持ち、判らないではないが使い方を誤ってはならない。いや誤ってなどいない、そのバカたれはアーミーナイフの意味を十分理解した上で、その性能を遺憾なく発揮させるべく使用したに過ぎない。使用する場所を間違ったのだ。東京メトロ副都心線渋谷駅構内での使用は誰がなんと言おうとNGである。
しかし、アーミーナイフなどの殺傷能力の高い武器であればあるほど、それを使いたくなるものである。その正当な使用こそがその武器に対する礼儀ではなかろうかといった錯覚さえ生み出すのである。昔の三流マンガにはよくあった「血に飢えたナイフ」等々。我々はそういうことを十分認識している。であるから銃砲刀剣類所持等取締法があるのである。

いよいよここで原子力の出番である。
原子力。
コイツが作り出すパワーはスゴイ。
原子力の出自は確かに「正当な科学」ではあるが、その最初の使用は「暴力」であった。敢えて言わせてもらうならば、その後の「平和利用」などというテイのいい文言は、暴力装置としての原子力のカムフラージュのためにあったと思うのである。また、日本ならではのことだと思うのだが、平和利用については「原子力」、暴力(武力)利用については「核」などと使い分けている点は非常に興味深い。しかし、ここ最近に至っては、原子力発電所が軍事における安全保障上の抑止力となっているなどと一般人や新聞社主筆もカンタンに口にできる風潮を鑑みると、今後は「原子力」と「核」の使い分けにそれほどの意味はないのかもしれない。

ちょっとまたミチクサになるが、「暴力」について考えてみたい。微妙な話しなのでここでは予防線を張る。私は「暴力」の専門家ではないため正しいことを言っているとは限らないことに留意願いたい。ド素人のドアホ考察である。
暴力はダメである。特に個人の暴力はダメである。何人も暴力により人を傷つけてならないのである。
ある一面において暴力からの逃避は可能である。しかし、暴力に抗うための最終手段はどうしても暴力に頼らざるを得ないと思うのである。「正当防衛」という言葉があるが、「防衛」は「正当」な行為のはずだから、暴力に抗うための暴力行為について「正当防衛」などと、イチイチ「正当化」する必要は無いと思うのである。防衛しているだけなのだから・・・。
ところで、最近、めっきり見ることが少なくなった殴り合い。しかし、これを例にみると、すでに始まっちゃっている場合、どちらが攻撃でどちらが防衛なのか判らないではないか!。
要するに、暴力は、応酬し合う暴力に発展し、両者あるいは多くの者を致命的な状況に追い込んでしまう。また、力量に絶対的な差がある場合は、「正当防衛」は極めて困難である。
このような暴力が社会に良くないことは明らかである。コミュニティ全体の不利益に繋がるからである。子供だって知っている。家庭内暴力はダメである。校内暴力もダメである。飲酒による市職員の暴力もダメである。市長が禁酒令を出すほどである。
ところがである。
コミュニュティの最高位に鎮座する国家にはそれが許されている。
「暴力」と「武力」をごっちゃにするなと指摘されるかもしれないが、これはごっっちゃにできる事象に思えるので、話しを進めることにする。
暴力団が容易に暴力を奮う、あるいは暴力をタテに威力的に振る舞えるのは、彼らのコミュニティの最高位が「組」にあると肌で感じているからではないだろうか。クミニュティだったりして・・・。冗談はさておき、彼らは「組員」として暴力を働いており、それを威力にシノいでいる存在なのである。
歴史においても、そのようなことが言えると思う。昔は、小国家や小民族、宗教派閥や部族などがコミュニュティの最高位にあって、これらのコミュニュティ間の争いが絶えなかった。そして暴力の権利は、勝利し肥大化した新しいコミュニティに委譲され、相対的に小コミュニティとなった組織からはコミュニティの安定化を図るため剥奪されるのである。このような経過を経て暴力は強化・肥大化し、やがて国家が所有する軍事力へと発展したと思うのである。
だから、暴力や武力、武装化を欲するのであれば、自分が所属する最高位のコミュニティを脱出するか、あるいは都合の良い最高位のコミュニティを創出すればいいのである。そうすれば、暴力は本人の中で簡単に正当化でき他のコミュニティを攻撃できるのである。
オーム真理教のテロは正にそれに当たるだろうし、優秀な暗殺者が国籍不詳というシチュエーションがマンガや小説に多いのは偶然ではないのだ。
だから、暴力的な人物にはコミュニティの最小単位となる「愛」という名の絆が必要なのである。なんかグダグダになってきた。

話しを核に戻す。
つまり何が言いたかったかっていうと、「原子力」は暴力の最右翼にある魅力的な「力」であるということである。どんなに「平和的利用」と12歳の乙女顔で言おうが、「原子力」には暗い影がつきものなのだ。まるで20代後半から現れるてくるシミのように拭おうとしても拭えないものなのだ。それを消そうと厚塗りすればするほど、その存在が疑われるようなものなのだ。そうやって騙してまでも「核」は魅力的なものなのである。
「原子力」を扱っている人間は、心中「核」を扱っている暗い喜びを感じているはずであり、そのコミュニティに属する我々でさえ「脱原発」と言いながら心のどこかで原子力技術を保有している優位性を感じているはずである。
しかし、その一方で、ということになる。
我々はFUKUSHIMAを経験してしまったのである。
FUJUSHIMAは、その魅力に取り憑かれたムラ人によって引き起こされた事故ではあるが、原発を容認してきた我々にも責任があるように思う。ムラ人たちには原発管理能力は無かったのにである。安全神話など本当のところは信じていなかったのにである。
以前、記録したことだが、あの地震が起こったとき関東地方の原発所在地を調べなければならないという衝動にかられ、同僚の山ちゃんと調べて「福島、ヤバシ、日本、ヤバシ」と思ったのだった。つまり、日本はアミーナイフを所有する技能も技術も持ち合わせていなかったのを我々は知っていたのだ。日本は護身用に持っていたナイフで、転んで自らの腹を刺してしまったバカたれなのである。32歳のアルバイトより馬鹿だったのである。我々は逮捕されるべきなのである。

しかし、我々が逮捕されようとも刃渡り30cmのアミーナイフは存在する。
懲役刑期終了後、我々はナイフをまた手にするのか、手放すのか。
ナイフを手にしたいのであれば、そのナイフに見合った相応の技術と体力を身につけなければならない。相当の覚悟の上に、そして、それを奪われて喉元に突きつけられる前に。
一方、ナイフを手放すのであれば、身の保障と引き換えに安全保障の経費を支払って高次のコミュニティに属さなければならないのである。

感情的に不条理にハードボイルド的に考えてきたら、原子力はエネルギー論という化粧姿で議論できるものではないというところに行き着いてしまった。
ウ~ン。
「脱原発依存」かぁ~。
2030年の依存度は15%くらいがいいかもね。
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