緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

江雪

2007年06月27日 12時15分02秒 | 俳句和歌
山々や 鳥も影なく 雪寒し ひとりかも釣る 簑笠翁
やまやまや とりもかげなく ゆきさむし ひとりかもつる みのかさおとこ
    
              江雪

         千山鳥飛絶,萬徑人蹤滅。
         孤舟簑笠翁,獨釣寒江雪。

注:1、柳宗元:中唐の詩人。773年~819年。字は子厚。山西省の人。韓愈と並んで古文運動を提倡した。
  2、和歌の「掛詞」は一つある。「蓑笠」は「みのかさ」と読むが、「身の笠」でもいいと思う。特に本作の中では、山々の中で、笠の下に身を隠していた男の姿が連想できるかも。勿論、日本和歌の中にこの掛詞はあるかどうか分からないが、無ければ、中国式掛詞と考えればいいかも。
  3、本作のキーワードは「独釣」である。魚などがあるかどうかはまずほっといて、独りで釣る心境が最高だ。その男の目には魚なんてないかもしれぬ。ただその小船に腰をかけて、雪風景と釣りを楽しんでいるかも。



虞美人

2007年06月26日 13時06分35秒 | 俳句和歌
花知らん 名月知らん 吾が故国 亡き憂い知らん 春水ながし
はなしらん めいげつしらん わがここく なきういしらん はるみずながし

             虞美人
                ーー李

春花秋月何時了,往事知多少。小樓昨夜又東風,故國不堪回首 月明中。
雕欄玉砌應猶在,只是朱顏改,問君能有幾多愁。恰似一江春水 向東流。

 注:1、李(937年~978年)は南唐最後の国主である。それが故に、南唐後主と呼ばれる。初めの名は従嘉で、961年にと改める。字は重光で鐘隠と号する。
   2、本作は、亡国の名詩として世に知られた。特に「問君能有幾多愁。恰似一江春水 向東流。」は名句なので、高校入学試験の問題にすることもしばしばだ。
   3、歌末の「ながし」が「流し」、「長し」のどちらでもいい。

紅楼夢における短歌シリーズ「晴ぶんの歌」

2007年06月19日 01時00分40秒 | 俳句和歌
彩雲や 雨上がりける 月偲ぶ 多情な公子 散りたる君へ
さいうんや あめあがりける つきしのぶ たじょうなこうし ちりたるきみへ

             晴雯・判詞   
 霽月難逢,彩雲易散.心比天高,身爲下賤.風流靈巧招人怨.壽夭多因譭謗生,多情公子空牽念.

 注:1、晴雯は宝玉の侍女で向日葵(僕)の大好きな紅楼人物でもある。短気で何事に対してもはっきりと自分の意見や考えを主張するまっすぐな性格で、何だか僕はこの点が、一番好きなのだ。僕の恋人も晴雯のような女子ならば、うれしく存じる。
   2、以下は判詞を説明する。「霽月」は雨上がりの美しい月で、このような月景色はとても稀だそうだ。後の「彩雲散るは易し」の「彩雲」と共に、晴雯のたとえやイメージになる。
   3、歌末の表現「散りたる君へ」の「散る」とは、ただ冒頭の「彩雲が散った」を指すだけでないのだ。王善保の妻の悪口で王夫人の怒りをかい、邸を追い出されました。病気と失意で死亡した。宝玉がその死を悼んで芙蓉の花の前でお祈りをした。だから、芙蓉の花が晴雯の化身とされるのも疑いがないんだ。すなわち、歌末で「散りたる」を通して、「芙蓉の花が散った」という含みもあると、僕の愚見である。もとろん、紅学研究者らの分析の中で、この芙蓉の花が散るでなく、彼女の化身としてまた黄泉の世界で咲いていたという説もある。

紅楼夢における短歌シリーズ「紅豆の歌」

2007年06月18日 11時46分53秒 | 俳句和歌
網戸にて 相思の涙を 流したる 紅豆映した 菱花鏡
あみどにて そうしのるいを ながしたる あずきうつした ひしがたかがみ

              紅豆詞

 滴不尽相思血泪抛紅豆,開不完春柳春花満画楼。睡不穏紗窗風雨黄昏後,忘不了新愁与旧愁。咽不下玉粒金純噎満喉,照不尽菱花鏡里形容瘦。展不開的眉頭,捱不明的更漏。呀,恰便似遮不住的青山隠隠,流不断的緑水悠悠。

 注:1、中国古典文学の中、特に詩詞の中で「アズキ(紅豆)」が相思相愛の象徴として多く知られた。その別名は「相思子」で唐・王維の名詩「相思」がある。「紅豆 南国に生じ、春来 幾枝か発す。願わくは君 多く采り摘めよ、此の物 最も相思わしむ」(ひとよがりの「漢詩紀行」より)
   2、本作の「紅豆詞」は紅楼夢の主人公・賈宝玉が宴会で歌っていた「酒曲」のようなものであった。ヒロインである林黛玉への相思の思いをこの曲に託して表した。
   3、また、本作における「紅豆」は林黛玉の化身あるいはイメージとされると、私は思う。涙がちの彼女の神経過敏の姿や恋心を菱花鏡に映した。

紅楼夢における短歌シリーズ「迎春の歌」

2007年06月17日 20時01分38秒 | 俳句和歌
池一夜 秋風寒く 深窓女 碁盤汚した 燕泥かな
いけいちや あきかぜさむく しんそうじょ ごばんよごした つばめどろかな

         紫菱洲歌
   池塘一夜秋風冷,吹散芰荷紅玉影。
   蓼花菱叶不勝愁,重露繁霜圧繊梗。
   不聞永昼敲棋声,燕泥点点汚棋枰。
   古人惜別怜朋友,况我今当手足情!

 注:1、賈赦(父)が妾腹の迎春(娘)を孫紹祖に嫁がせましたため、大観園の紫菱洲(迎春の住所)が空き巣になりました。そこを賈宝玉(賈政の息子、迎春の従兄弟で作品の主人公でもあります)が毎日ぶらぶらして散歩に来ました。池の枯れ蓮を目にしながら、従姉妹である迎春のことを思い出しました。それに、春の燕泥で汚れた碁盤を見ると、更に迎春と碁をうつことまで思い出しました。
   2、以上の「紫菱洲歌」を基にして、その大文字の短歌を詠みました。ちょっと説明したいことがあります。中国語の原詩には霜に覆われた枯れ蓮などが描かれましたが、「池」から連想できると思われます。ですから、短歌に蓮や露などがありませんでした。それに、「深窓女」は勿論「迎春」のことを指します。
   3、「秋風」と「燕泥」は違う季節のもので、かの短歌で同時に出てくるのはなぜだろうという疑いを持つ方がいると思います。「燕」は渡り鳥なので秋の時南へ越冬に飛んで去りました。今目にするのは春の時残された燕泥です。つまり、迎春との離別は春の時でした。今は秋なのに、古い燕泥は見られます。ところが、従姉妹の迎春はもう身にいなくなりました。
   4、迎春と碁を打ったことがありますから、短歌の中の「碁盤」は彼女の化身あるいはイメージとされます。すなわち、「碁盤」を見て、迎春の姿が目の前に浮かび上がられます。しかし、実際に迎春はもう他人の花嫁になってこの大観園の紫菱洲を離れました。体がもう汚れた碁盤のようなものになりました。

九九消寒図

2007年06月15日 12時31分34秒 | 文学鑑賞
            「庭前垂柳珍重待春風 」

 古代では長い冬を過ごすのがたいへん退屈なことでした。それが故に、明朝の時、宮廷の中で最初の「九九消寒図」が生まれました。「図」と称されますが、実は以上の「九文字」でした。少しでも長い冬の退屈や厳しさを解消できたら、人々が楽しみます。

 冬至から九九の八十一日を経て、春が来るといわれますから、一文字が「九筆数」で総筆数で「九九の八十一筆」のある九文字「庭、前、垂、柳、珍、重、待、春、風」を選びました。春を迎える気持ちを表すための退屈しのぎになりました。宮廷に人気をよんだ冬の過ごし方で、特に宮廷婦人の間で大人気でした。

 冬至から、赤い輪郭で九文字が印刷された手本一枚に、毎日「一筆」をなぞって、九文字が全部なぞられますと、春が来ますというやり方です。

 これがありますからこそ、人々が楽しく越冬できます。が、最近この風俗が段々消えてゆくという現状です。できるならば、学校の習字授業でこの「九九消寒図」を手本の教材にしてほしいです。

案山子

2007年06月14日 08時52分42秒 | 風景開眼
 今日は「案山子」という児童的短編を書きました。案山子は僕の好きな田舎のものです。それを主人公にするのも面白かったです。
             
 
                案山子

 案山子が寂しく向日葵畑に立っている。身元の向日葵らより背が高いが、彼はとても己の醜い格好にコンプレックスを感じていた。それが原因で毎日ため息ばかりをついた。
 ある初夏の朝である。太陽に向かってにこにこと笑っている向日葵らの顔を見ながら、案山子はおずおずと傍の向日葵に話をしてみた。
 「お、お、おはよう御座います。」
 「ああ、君ですか。おはよう御座います。君はどうして毎日ため息ばかりをつきますのか。何か悲しいことや不幸な遭遇があるのでしょうか。」と向日葵は問いました。
 「い、いや、別にありませんが、」
 「なければ、なぜ悲しそうな顔をしていますのか。」と向日葵はまた聞きました。
 「それは、それは、僕の格好のせいです。」
 「格好!どうして、君は立派ではありませんか。我々向日葵はみんな君の格好に羨ましいですよ。」
 「本当ですか。」
 「ええ、本当ですよ。毎日立派な格好で畑に立ってて、それで威風堂々ではありませんか。雀らが凄いでしょう。あれで君の事を恐れますよ。」
 「本当ですか。全然知りませんでした。良いことを言ってくれて、ありがとう御座いました。」と案山子は今楽しそうに向日葵にお礼をした。
 「僕って、そんなに格好いいのでしょうか。この前全然知りませんでした。良かったです。良かったです。」と夜になると、案山子はひとりで呟いていた。

 秋は実りの多い季節である。毎日沢山の雀らが向日葵畑の上を飛びまわっていた。ある日のことである。
 「この前、向日葵さんは僕の格好、とても良いって言いましたが、今日それを雀らに確かめてみよう。」と案山子は一人で呟いた。
 「雀さん!雀さん!ちょっと僕の肩に留まってくださいませんか。恐れるな、恐れるな。僕です。案山子です」と案山子は大声で空中を飛んでいた雀の群に叫んだ。
 雀らは案山子の叫び声を聞くと、ジージーと一斉に彼の肩に留まった。
 「こんにちは。誰かと思ったら、何だ君でしたのか。何かご用がございませんか。」
 「ちょっと君らに確かめたいことがありますが、僕が案山子って知る前に、恐れたことがありますか。」
 案山子の質問を耳にすると、雀らはみんな笑いながら、
 「恐れるわ!とても恐れるわ!案山子様は立派で、凄いですわ。」とおばさんらしい雀が狡猾そうに案山子に言いかけた。
 「本当ですか。どうもありがとうございます。いいこと言ってくれてうれしいです。」
 「では、またね。食事をしに行きますから!」と雀らは、にたりと笑いながら向日葵畑へ飛びに行った。
 「ちょっと!君たち!嘘! やめてください。やめてください。やめてください。」と案山子はいくら叫んでも、雀らは今度やめていなかった。

 翌日。向日葵畑がメチャメチャになってしまった。それに、主人が怒って案山子を取り去った。


空歓喜

2007年06月13日 13時02分56秒 | 若い詩歌
庭外燕子巣中空歓喜、人間同窓網上憶別離。                遥想去年平湖小風景、又有多少依稀変夢里。

注:1、「人間」とは、「世の中」という意味です。
  2、「網上」とは、「ネットのこと、またオンライン」という含みもあります。
  3、「依稀」とは、「おぼろに」という意味です。
  4、「喜、離、里」は、中国語のピンインで「xi,li,li」と読みますから、韻を踏むことになります。

漁童

2007年06月12日 15時30分05秒 | 露天映画
上海美術映画制作所 1959年完成
監督:万古ぜん
造型兼動作設計:胡進慶 銭家駿 沈祖慰
作曲:王易 段時俊
脚本:張士傑
撮影・トッリク:ゆう勇

 本作「漁童」が切り紙風格である。
 
 阿片戦争直後、帝国主義者が中国の港を封鎖し、埠頭を占有した上に、漁民の出漁までが禁じられた。しょうがなしに、ある漁翁が怒濤を顧みないで、暗いうちに出漁封鎖線を越え、こっそりと出漁した。

 たいへん危ない波風と闘ったが、魚は獲らなかった。そのかわりに、「漁童蓮間戯水図」が描かれた漢白玉(一種類の白い岩石、よく彫刻など工芸品の材料として用いられる)のお漁盆を手にいれた。

 帰宅後、漁翁はお漁盆を机上において、翌日に市場へ売りにいくつもりだった。

 静かな夜半。おぼろに漁盆の底から、親指ぐらいの可愛い魚童が身を現して、漁歌を歌い始めた。それを聞きながら、盆底から伸び出た蓮の葉の下を金魚二尾が泳いだり、跳ね上がったりしてた。水面に落ちると、水粒が盆の外に跳ね、机上に落ちた途端、きらきら輝く美しい真珠になった。夢のようかと思っていた魚翁は目が覚めた。あっという間に、漁童と金魚の姿が目の前に消えた。が、真珠は残された。

 翌朝。魚翁はお漁盆と真珠を市場へ持っていって、昨夜の出来事をみんなに話した。ちょうどその時、外国人の牧師が市場を通していた。その不思議なことを耳にすると、お漁盆を奪う悪心を起こした。

 牧師は役所に行って官吏の県知事にそれを頼んだ。すると、知事の捕手が理非曲直を問わずに、魚翁を縛って役所に護送した。

 役所の法廷で外国人の牧師は「そのお漁盆が我が国のもので、うっかりして海に落ちてしまった」と詭弁を弄した。が、「お前の国のものだとしたら、どうして漁童が我々中国人の顔立ちなのか。」と、結局に魚翁は官吏の強権や外国人の無理にも屈することなく、お漁盆を打ち砕いてしまった。

 すると、漁童はまた生きていて、釣り針で県知事と牧師を海に投げてしまった。


ろう山道士

2007年06月11日 00時41分48秒 | 時事雑感
監督:虞哲光
脚本:虞哲光 凌しょう
背景:銭祖春 
撮影:黄俏
人物設計:翁保強
芸術指導:程之 劉異龍
動作設計:呂衡 尚寧華 李国芳
トリック:張新民 
作曲:丘悦
指揮:宋光海
楽団:上海映画楽団
上映時間:1381

 中国·清『聊斎志異』の中の物語から改作された「でく式(木造人形のこと)」美術映画である。

 不思議かつ神妙な仙術に夢中する王七という書生が、「ろう山」という海辺の仙山を訪ね、神通力のある「ろう山道士」に師事し、仙術を学ぶつもりだった。が、神妙な「通塀術」を学んだ途端に、窃盗を働いてみよう…… しかし、その「通塀術」は正義の術であるから、一旦悪事に使用したら、役に立たなくなる。それのせいで頭がぶつけられ、コブだらけになったという。以上で粗筋を紹介する。

 さて、芸術指導者の劉異龍先生は「昆曲」の大家なので、本作にも「昆曲」の調子やメロディを十分に活かした。
 多くの民間芸能と同じように、「昆曲」は伝承の絶えるおそれがあり、守らないと伝わらなくなる。だからこそ、昨年に中国の非物質文化遺産に選ばれた。

 注:「ろう山」の「ろう」は「山」と「労」で組み合わせる。

オタマジャクシよ、お母さんは誰

2007年06月09日 14時34分42秒 | 露天映画
上海美術映画制作所1960年製作
監督:唐澄等
芸術指導: 特偉
美術設計:唐澄,邬強,戴鉄郎,阿達,呂晋,厳定憲,嬌野松等
技術指導:銭家駿
撮影:段孝萱,ゆう勇,王世栄
脚本:方恵珍 盛ろ徳
完成時間:1961年7月

中国最初の水墨風美術映画。

本作における魚や蝦など動物らのオリジナルは画伯斉白石の真筆によって得られたものだと言われる。

映画の冒頭部はとても美しい。

中国水墨画集が一冊机上に置かれ、その表紙を開いたら、静寂な小さい蓮池の墨絵である。抑揚のある琴と琵琶の合奏曲に随って、シーンがしだいに墨絵の画面に近づき、観衆を叙情的で美しい墨絵の世界に引きつける。すると、生まれたばかりの小さなオタマジャクシらが水中を泳ぎ始める。池の辺で雌鳥と餌を探しているひよこらを見ると、始めて母親のことを覚える……生まれてから母親の顔つきを見たことのないオタマジャクシらは、金魚、蟹、亀、鯰の魚などを自分の母親だと思い込んでいたが、みんなの拒否を受けた。母を捜すと同時に、オタマジャクシらも成長した。后肢、前肢の発育につれて、尾は消えて、体には奇妙な変化が現れる。最終に、自分の格好を参考しながら、「蛙」という「実母」を見つけることに成功するというあらすじである。物語を通して「志さえあれば必ず成功する」という悟りを教えてくれる。

上世紀五、六十年代に製作された美術映画は中国の芸術珍宝である。画伯斉白石が描かれた魚や蝦などのイメージは、本作の芸術基準を向上させる。一方、墨絵のアニメ設計と古風の琴曲が密接に結び付けられ、作品に強い中国特色を与えていた。そして、毛筆と画仙紙の性格が特別なので、けじめ(輪郭線のような意味)がはっきりしないのは墨絵の一特徴。
  
かすんでいた画面の中に、「蛙なるお母さんがオタマジャクシらをこよなく愛する。祖国なるお母さんが子供らをこよなく愛する」と優しいナレーションを聞きながら、おぼろに子供時代に戻るようかと思っていた……可愛いオタマジャクシらは無邪気な子供のようである。

千年の書斎(散文詩)

2007年06月08日 18時42分25秒 | 若い詩歌
  千年の書斎、詩文の避難。

  千年の書斎、聖賢の隠居。

  千年の書斎、唐宋元明清。

  千年の書斎、灯窓弦眠心。

  千年の書斎、永遠の所載。

 注:今日は「千年書斎」という散文を読みました。それを要約して音読を生かしながら、以上の「千年の書斎」を書きました。中国の書斎文化をどれぐらい伝えているかが分かりませんが、ごゆっくり楽しんでください。「灯窓弦眠心」は書斎文化の核心だと、私は思っております。
 「唐」対「灯」ー古代の中国では電気などがまだありませんでしたから、灯火を用いて読書するのは一般的でありました。
 「宋」対「窓」ー「寒窓苦読」という言葉があります。「窓」が書斎文化の一つとして、中では伝統的な透かし彫りが多くあり、中国特有の趣が現われます。それに「深窓」などの言葉からもその趣が感じられると思っております。
 「元」対「弦」-古代で楽器を「糸竹」だと呼びました。ですから、「糸竹」を「管楽と弦楽、楽器の総称また音楽」などと考えたらば、間違いないです。
 「明」対「眠」-「春眠曉を覺えず,處處啼鳥を聞く。夜來風雨の聲,花落つること知りぬ多少ぞ。」という詩を知る日本の方が少なくないと思います。ですから「眠」は理解できると思っております。そして、ここの「眠」はただ「寝る」あるいは「眠る」の意味だけでなくて、のびのびして読書を楽しむ人々の心のありようをも表します。
 「清」対「心」-ここで「心」を「心境」に理解したら、問題ないと思います。それに、「清朝」の「清」は「清い」の「清」でもありますから、書斎文化における清くて静かな心を追求する目当も分かってくれるでしょうか。
 以上で一言説明いたします。

大学入学試験

2007年06月07日 16時04分06秒 | 青色思出
全国統一大学入学試験が今日から始まる。受験申込者は約1010万人という。

五年前の2002年真夏、僕も受験した。今からみれば、日本語と縁結ぶ試験だといってよかろう。その年の受験日はまだ七月の七日と八日だった。ところが、七月がちょうど洪水、台風などの自然災害の多発期であり、猛暑が続く真夏時期でもあるから、2004年から受験日がやや涼しい六月の七日と八日に変わった。

高校時代、学校が延安の町中にあるから、僕は寮生活だった。

六日の黄昏。学校の正門で父の来るのを待っていた。電話で私は「来なくてもいいから」と言ったが、「行く行く!」と父は承諾した。別に期待していなかったが、本当にいなければ困っていただろうかと思った。その時、母はまだ餃子店を経営していたから、来なかった。そのかわりに、美味しい餃子を作ってくれた。学校の食堂で父と一緒に食べた。臍の緒切ってから食べた一番美味しかった餃子。

受験教室は延安市第四高校にあるから、第四高校あたりのホテルや旅館はその両日に受験生と家族のため全部満員だった。もちろん、僕と父もその中にいた。六日の夜は長かったか。あるいは緊張したか。朝五時、目が覚めた。

試験は九時から正式に始まった。科目順によって国語、文科総合(政治、地理、歴史)、数学、英語の四つに分けられた。750点満点。七日午前は国語で午後は文科総合だった。八日午前は数学で午後は英語だった。

八日午後五時のその試験終了ベルは忘れられないんだ。受験教室に離れて、校外でほかの受験生の親らと待っていた父の顔が目に入った時、僕はやっとほっとした。十二年の寒窓苦学がやっと試験終了ベルの音で終焉を迎えたと、リラックスしながら僕らは飛び上がった。人生において、十二年は実に短いが、受験生のわれわれにとってそれはとても長かった。

翌日。学校に戻り、先生らと大学選択と専攻志向について相談し始めた。九日から十五日までの一週間内みんなで話し合った一番の話題が以上のことだった。そして、自分の予想点数、選択された大学名と専攻と共に学校に提出しなければならなかった。十六日、校庭が静かになった。

僕は日本語などの外国語が専攻なので、また25日に延安大学で行われた英語口頭試験を受けた。その点数を参考にして総点数に加えた。

今でもたまたま「寒窓苦読」などの言葉を目や耳にすると、大学前の学生生活が頭に映画のようにまざまざと浮かび上がる。

大学入試は丸木橋、受験生は千軍万馬、という喩えがある。丸木橋から沢山の学生が落ちてしまうだろう。が、大丈夫。落ちても家族全員が橋の下で受け取るからだ。中国の父母はみんな千軍万馬の下敷で、どれぐらい可哀そうだか、以上の喩えで分かってくれると思う。だから、父と母の応援あっての今の私だといってもよかろう。受験生のみなさん、家族や恩師などの応援と汗馬の労を忘れないように頑張ってください。。

女よ!もっと優しく

2007年06月06日 11時45分50秒 | 詩論私論
 監察医を専攻している親友が一人いる。彼はよく恐ろしい殺害事件について話してくれる。「バラバラ殺人」とか「毒殺事件」とか。その中によく話してくれるのは女性の毒殺心理だ。性的背景があるので、「毒殺」の犯人は大体女性であるという。最も悪辣な一手段として、相手方が体力的にまさっていて、体力の弱いものが相手を殺すことは、難しいと思われるような時に、よく使われる。
 「女はトラ」という中国語の替え歌がある。もともと師父の和尚さんが弟子を戒める言葉。もちろん、仏教の「色戒観」とも関係があるが、一端として「女の毒殺心理」を生き生き表した。でも、「トラはいくら残酷でも自分の子は食わない」という話もある。だから、「トラになりたくない女性、早く結婚して子供を生んでください」、子供がいたら、母性愛が自然に出てくる。
 女は優しさの代名詞である。だから、女よ!もっと優しく。