自分が俳句を趣味としたのは何時頃のことであったろうかはもう忘れてしまった。しかしながら、当初俳句を知るのは松尾芭蕉の名高い「古池や蛙飛び込む水の音」の句ではなく、確かに千代の「朝顔に釣瓶取られてもらひ水」であった。
女性っぽい句。朝顔と釣瓶が作り出す清清しい雰囲気が好きである。しかし、当時が一つの疑問を持った。朝顔を可愛がるから隣さんに水を借りると、隣さんに迷惑をかける。これが西欧人から見れば、市民教養の無きことだと、教科書にもちゃんと書かれてある。
しかし、私の疑問がそれではなかった。私のそれが、「日常生活でよく使われる釣瓶の近くになぜ朝顔」であった。朝顔が蔓の持つ植物として、釣瓶の近くにあるのは不思議なことではないかと思われる。だからこそ、千代のこの句が架空の句ではないかと僕は当時疑った。
以上のような疑問が俳句の風雅を失くすのであろう。欧米人のみならず、他人に迷惑をかけることが嫌な日本人がこんなこともするのと。。きっと疑いを持つ人がいるのであろう。
これは俳句の面白さである。
俳句は「場」の文芸である。
その「場」では、俳人の千代の心に俳句の風雅を産んだのであろう。その「場」でないと、詠めない句である。
千代、秀逸!
女性っぽい句。朝顔と釣瓶が作り出す清清しい雰囲気が好きである。しかし、当時が一つの疑問を持った。朝顔を可愛がるから隣さんに水を借りると、隣さんに迷惑をかける。これが西欧人から見れば、市民教養の無きことだと、教科書にもちゃんと書かれてある。
しかし、私の疑問がそれではなかった。私のそれが、「日常生活でよく使われる釣瓶の近くになぜ朝顔」であった。朝顔が蔓の持つ植物として、釣瓶の近くにあるのは不思議なことではないかと思われる。だからこそ、千代のこの句が架空の句ではないかと僕は当時疑った。
以上のような疑問が俳句の風雅を失くすのであろう。欧米人のみならず、他人に迷惑をかけることが嫌な日本人がこんなこともするのと。。きっと疑いを持つ人がいるのであろう。
これは俳句の面白さである。
俳句は「場」の文芸である。
その「場」では、俳人の千代の心に俳句の風雅を産んだのであろう。その「場」でないと、詠めない句である。
千代、秀逸!
日本人でも俳句は難しいものです・・良く深く勉強されている事に感心します。
芭蕉の句は・・『・・水の音』の余韻が心に浮かぶか・・が大切でしょう・・西洋の人には理解しかねるかも・・千代の朝顔の句は一夜にして朝顔の蔓がのびてそれを取り除くのは可哀想だと作者の優しい心が窺われ・・新鮮な朝の空気と隣近所との仲の良いお付き合いが僕には感じられます・・これからも頑張ってくださいね。
大学の先生になられた事・・おめでとう!。