緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

左の十年右の五年

2010年11月02日 14時11分18秒 | 心境写生
左の十年は、君の十年。右の五年は、我々の五年。
「人は世を去るその前、力を尽くしても一生の道を一筋一筋まで踏んでその足跡を拾う」と、ある物語が語る。今、西安に離れるとは、決して決別ではないが、せつなく思う。
葉っぱさんと『流行記念冊』を言うならば、思い出の洪水が勢いよく流れてくる。その声で我が身を温める女性を、筆致を尽くして賛美したことがある。二輪の花、奥山の渓谷に孤独で香る百合の花。戸に寄て青梅を臭く江南の女子。
気分というものは、ある形をしている物であり、適当な温度で孵化され、翼が伸びて空気を動かす。この間、「自分が三十歳になったばかり」と葉っぱさんが話したことがある。ほら、時は如何に怖いものか。どれだけじっくり過ごしても、行き来を隔て、ピカピカとした窓ガラスも黄色く色あせる。
省図書館の北のパラソルの下に、我々の大学時代、また葉っぱさんと『流行記念冊』を王楚さんと話し合うと、とても感慨無量であった。明るい秋の夕日がほどよくさして、宛ら夜中に名残を惜しむ葉っぱさんのようであった。一切好くていた。
 我が感傷がこの二〇〇五年の空間から飛び離れ、此の夜に、窓外の晩秋の空気に線引いて二〇〇〇年に戻った。今の此の夜、五年という時間が一つの手で軽く拭かれてしまった。
 二〇〇〇年の『流行記念冊』は、コマーシャル少なく、ファースト語り長くていたが、時はちょうどであった。その時、寮は学校の西外れにあり、食事にとても便利であった。そうしても、一人で静かにラジオを聴くために、僕は依然として、夕食を持ち帰って済ませたものである。毎晩の七時から始まった。それが終わって、一人で辺りの機械学院に自習をしに暴走したものである。夏の日入りはとても晩くていたか、機械学院へ進む道は通行人少なかった。日差しが僕の後ろで躍る様子が見えるようであった。その後、そこを通るたびに、当時の僕のような、無邪気、快楽且つ幸福な子供を見つけたい。鞄を背負い、幸福が顔にあふれ、秋の夕日に暴走していた。
 その秋は新しく光をしていた。周章狼狽、孤独、欲しくてたまらないその大きな感傷も五年が経つにつれて、なくなるようになった。しかし、その秋はより鮮明で、宛も歌の中の麗人のように、長く生きていたようである。
 大学卒業時、手紙を片づけていた。可なり厚かった。手にして捨てることは惜しく思った。葉っぱさんへの手紙を開けて見ると、原稿を訂正した時の気持ちなどを思い出した。どうしても悲しくしていた。葉っぱさんは知るわけはないが、僕だけでいいと思った。
 当年の十大優しい作と君を動かす一曲を選出するのは確か二〇〇一年のことであった。その年、本学の東南門の樹々は見事に茂った。繁茂するアオギリが裸にきり整えていた。フィ・王の新しい髪形もすっかりと、短髪であった。生き生きとして希望に満ちたものである。どのような気持ちで書かれたものか、不都合なことでも出るかに心配したり、細事を一つごとに大きくなったりするなど、夜中の偲びをうんだのであろうか。
 後に、聴衆が『星願』の出演を三名知るならば、歓廷の飲料が一箱貰えたっていうことがある。歓廷の飲料を言うならば、ホームワールドに買い物に行くたびに、本学の西門を通りかかる時、僕はその宣伝パラソルを目にすることがいやであった。飲んでみたら、いやに不味い。僕の望むように、歓廷がなくなった。ところが、『流行記念冊』がまだある。賞なんてのためではなかった。葉っぱさんがはっきり見えるように、その出演者の名前をサイズ大きくして、きちょうめんに原稿に書き込んでいたものである。
 縁というものは、熱い精霊のように、君のそばに透明な空気のように引きこもる。そのさだめで喜ばせてから、またふりかえてみたら、呼び出して堪らないであろう。縁ははっきりと、その清楚な姿をして浮かべてきた。それに、君はいつの間にか、その網に網羅されて、逃げるところはない、とある。
あっという間に、十年だ。皆愛されたその女子も三十歳になった。
左の十年、右の五年。人生も一瞬であろう。
どこかで出会っても、話すことがないかも。長い間、ありがとうって、遠くからお礼を言うだけであろう。