緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

長相思・自作詞(2)

2009年10月27日 20時08分22秒 | 詩論私論

長相思•斷橋

蘇堤頭,
白堤頭,
印象西湖何日休?
斷橋寂寞愁。

花含羞,
鳥含羞,
寂寞橋邊望月愁,
君愁我亦愁。


注:1 斷橋は西湖の六公園付近にある橋の名前。『白蛇傳』の名に乗って人気を呼ぶのである。漢方医の書生許仙がこの橋の上、白蛇妖精の白娘子とめぐり会ったのである。

  2 蘇堤と白堤。唐の白楽天と宋の蘇東坡が杭州に在任した時、築いた堤である。二人の市長を記念するため、その苗字で堤を命名した。

  3 印象西湖。これは中国で名の高き張芸謀監督が西湖風景区で音、光、電などの先端技術を使ってデザインした大型山水実景の出演である。広西チワン族自治区の桂林にも「印象劉三姉」という同じ形のものがある。

長相思・自作詞(1)

2009年10月26日 10時08分06秒 | 詩論私論


長相思•金陵

中山陵,
西山陵,
日暮台城古道情,
環湖漫步行。

雲輕輕,
草輕輕,
未到離時意已縈,
隔江別後晴。

注:1 長相思•金陵。長相思は詞牌名で、友人や恋人などを偲ぶ時良く使われる。金陵は南京の旧名であった。
  2 中山陵。中国民主革命の先駆なる孫文先生のお墓。
  3 西山陵。即ち、明孝陵のこと。上の中山陵の西側に位置するので、西山陵を使うのは、詞牌名のルールを守るためである。
  4 台城古道。台城は南京の明城壁遺跡のこと。古くから名句があって、「最是無情台城柳」(唐·韦庄『台城』)であった。
  5 環湖。即ち、南京の玄武湖のとこ。ちょうど台城のすぐ傍に位置するから、その城壁に上ると、山紫水明の湖景色が眺められる。いいところだ。
  6 写真は台城の上。

自然という師

2007年11月26日 18時35分15秒 | 詩論私論
  自然は最高の師なり。というためには、多少の例証が要るであろう。
  まずの一例は俳句の季語である。豊かな自然環境や四季の移ろいがなければ、何にもならない世界最小の詩歌には、「季語」が不可欠である。なんらかの意味で、「自然は日本人に俳句という物を贈った」。もしも俳句が家ならば、季語はその窓、「窓」を開いたら、四季の移りが見える。また俳句が舌ならば、季語はそのミライ(味蕾?辞書では味蕾という漢字はないが)、「ミライの上を味が笑ったり、踊ったりしているようである。」
  今通っている大学は総合大学なのでキャンパスを通り抜ける時、「青空授業」はよく目にする。というのは、農業学部や動物学部の学生らは先生を囲んで授業を受けていることからである。真ん中に囲まれた先生は高いビンロウジの木、あるいは私の知らない茂みを指しながら、葉っぱの形や樹木の成長過程などを説明しているらしい。捕虫網を肩にのせる男子学生を何人も見たことがある。昆虫学部の方であろう。この緑の多いキャンパスには、樹木のほかに蓮、木犀などさまざまな花が咲いている。それに、緑陰の中を、茂みの底には百十万の虫が飛んだり、鳴いたりしている。
  この生き物の王国は何より「最高の師」なり。
  
  

迷信とはいえ

2007年11月12日 11時20分12秒 | 詩論私論
  広辞苑によると 、迷信とは「道理にあわない言い伝えなどを頑固に信じること、現代人の理性的判断から見て不合理と考えられるもの」だそうである。が、時々心の温もりを感じさせる迷信もあるようだ。

 僕の干支(中国語で属相という)はいのししで、ちょうど今年は二度目になる。中国では「本命年」とも言う。

 「本命年」には「赤い下着を着たり、赤い靴下を履いたりする」という習慣ともいえる遣り方がある。「そうすれば、きっと一年中無事かつラッキでなんでもうまく行く」らしい。赤も熱情に満ち、中国人の大好きな色であろう。が、実は迷信気味だ。それでも、本命年に母親や親友から赤い靴下を貰えることはなんとなく「温もり」を感じさせることではないか。迷信とはいえ、「その心の温もり」が好きだ。赤い靴下を履いたら、足だけではなく、心までその温もりが感じられる。
 
 また、電信柱や橋の欄干にてよく見られる貼り紙のことを紹介させて頂く。

 「天皇皇,地皇皇!我家有个夜啼郎。来回君子読一遍,我儿睡到天亮亮!」
(神さまよ。神様よ。我が家に夜泣き子ありて、往来する君子らよ、読まなむや、我が泣き子、夜明けまですやすやと!)

 内容からすれば、母親やお婆さんによるもので、心の温もりを感じさせる。我が子を可愛がることである。

 これらは迷信とはいえ、人間愛が溢れている。私はこのような迷信がすきである。

寝言

2007年08月01日 19時05分40秒 | 詩論私論
緑豆茶がこぼれてしまった。
こぼれてしまった。
テーブルクロスにこぼれてしまった!
真っ白なテーブルクロス
ざあざあと
さながら滝の如し。

高貴なワルツ
ざあざあと
礼服の渦をまく。

夜空の何処か
オぎゃーと
産声は
地平線に落雷した。

心の羽や
タッチはしっぽ
竹筆や
すんなり体

嗚呼、よし!
僕の寝言を聞くな。







女よ!もっと優しく

2007年06月06日 11時45分50秒 | 詩論私論
 監察医を専攻している親友が一人いる。彼はよく恐ろしい殺害事件について話してくれる。「バラバラ殺人」とか「毒殺事件」とか。その中によく話してくれるのは女性の毒殺心理だ。性的背景があるので、「毒殺」の犯人は大体女性であるという。最も悪辣な一手段として、相手方が体力的にまさっていて、体力の弱いものが相手を殺すことは、難しいと思われるような時に、よく使われる。
 「女はトラ」という中国語の替え歌がある。もともと師父の和尚さんが弟子を戒める言葉。もちろん、仏教の「色戒観」とも関係があるが、一端として「女の毒殺心理」を生き生き表した。でも、「トラはいくら残酷でも自分の子は食わない」という話もある。だから、「トラになりたくない女性、早く結婚して子供を生んでください」、子供がいたら、母性愛が自然に出てくる。
 女は優しさの代名詞である。だから、女よ!もっと優しく。
 

正義の「月光」

2007年06月02日 17時25分43秒 | 詩論私論
 美しい月については、月下美人や玉兎の話だけでなく、正義の話もある。日本ならば月光仮面。中国ならば包青天。二人とも正義の味方で額に月をあらわすものがある。月光仮面のそれはどういうものかが詳しく分からないが、中国の「包青天」なら、生まれつきの月形痣だという説が多い。一説では、京劇の影響もあるらしい。
 「月光仮面」は日本最初の連続テレビ映画だと言われる。その人物の発想は薬師如来の脇に侍する月光菩薩から得られたというから、仏教の説教的意味が強いと感じられるのだ。そして、「月光仮面」というヒーローが実際にいない。仮想する人物で最終回までも劇中で正体が明言されなかったという。だから、みんなが「月光仮面」はいったい誰であろうか、分からない。
 それと違い、中国の「包青天」は、北宋の政治家で、字は希仁、安徽省の出身で、本当の名前が包拯(ほうじょう)で、中国史上最も有名な清廉潔白な官吏の代表として知られた。「包青天」とは、百姓が彼に差し上げた名前だった。旧時代に官吏らに普通「青天大老爺」だと呼ばれたから、「包青天」という名ができたのだ。もちろん、最も重要な原因は「彼の清廉さと潔白さ」と罪に対して王権や皇帝にも屈することなく正義を貫くことだ。
 「月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす。」というが、もし月光イコール正義だったら、「正義は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす。」になるだろう。
 しかし、日本の「月光仮面」は「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」という理念を持ち、懲らしめるだけで過剰に傷つけることはしない。それは中国「包青天」の「死罪まで正義を貫くこと」と随分ちがうから、どっちかが最もいいか判断できないが、法的社会に立っている我々は罪や正義についてもっと反省する必要があると思う。どのように度を把握するのは一番難しい。
 「月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす。」これだけを心に覚えてほしい。
 

会議いろいろ!

2007年06月01日 13時04分29秒 | 詩論私論
 会議って、いろいろな形がある。電話会議、テレビ会議、円卓会議などなど。
 勿論、あまり正式でなくて面白い会議もある。例えば、「お手洗い会議」、「家族会議」、「井戸端会議」、「寝台会議」とか。
 こういういろいろな会議の中では、女子だけがその参加者になる会議もある。「お手洗い会議」と「井戸端会議」がその代表的な会議。
 まずは「お手洗い会議」。日本では学生などが仲間で集まって会費制で飲食する親睦会がある。これは普通にコンパという。対象は大体大学生。私からみれば集団デートのような感覚。男子三人対女子三人のような人数同じ形が一般的であろう。上で書いた「お手洗い会議」とは、コンパの時「お手洗い」で行われた女子会議である。
 「そのやつ、格好いい」
 「私はその痩せたやつがいい」というような男子評価会だといっても過言でない。女子らは自分の気にはいる男子について意見などを出す面白い「会議」である。

 次には「井戸端会議」がある。井戸端で婦人らが世間話をすることを指す。もちろん、これは「お手洗い会議」と違い、田舎に多いのだろう。名通りに「井戸」がなければ「井戸端会議」とはいえない。一般的に、この「井戸端会議」は噂などの「源」でもあると考えられる。その中には性的背景と農業社会の影も見られる。女性は、生まれつきの噂好きであろうと思われる。この考えは女性らの不満や愚痴を招くかもしれないが、私的な考えである。

 最後には、「寝台会議」について一言。
 日本には学生寮がないから、この会議を行うのは無理かもしれぬ。中国の大学なら、みんな学生寮に住んでいるから、停電後、その「寝台会議」が始まる。一室に四人あるいは六人のが一般的であるが、八、十人までのルームもある。上の「お手洗い会議」によく似てる所があるが、やや違う所もある。それは会議の討論範囲だ。というのは、「寝台会議」では男女の相互評価だけでなく、時事、理想、学問、生活、進路など各方面について自分の意見が発表できるのだ。学生生活の一端として、記憶に美しい印象が残された。もちろん、うるさい時もあった。が、それより楽しかった記憶は多い。清華大学の学生たちは「寝台会議」の経過をビデオカメラで撮影したことまでやったのだ。この「清華大学寝室夜談」という映像は全国の大学間とても人気をよんだらしい。僕も西安の大学映画祭りで一度この「清華大学寝室夜談」を露天に見たことがある。とても面白かった。

 いろいろな会議から、若者の共通点が見られるが、その違うところも見られる。
 共通点をいうならば、異性間の交際を好むこと。違うところならば、やはり私的物事に対するその考えと発想だろう。

「楓橋夜泊」

2007年05月27日 12時30分14秒 | 詩論私論
月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁眠。
姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船。
                         
                            唐·張継


 静寂な心境を追求する唐詩の風格を完璧に表す名詩である。
 月が落ちた宵の空を背景にして、烏の鳴き声を耳に入った。静かな水面にぽつぽつと漁火を目にしながら、わしは全然眠られない。そのとき、遠い寒山寺から耳に優しい悠々たる鐘の音が夜半の客船まで伝えてきた…
 唐代詩人·張継の名作「楓橋夜泊」で、日本でもかなり名高いという。今寒山寺にあるお鐘は日本から造って頂いたものだといわれる。
さて、日本人がこの詩を好むのはなぜであろうか。
 一、カラスという鳥は日本に沢山生きている。
 二、日本の古典文化の中にも、静寂な心境や幽玄の雰囲気を重んじる。
 三、中日両国は同じ文化圏(アジア文化圏と儒家文化圏)に属する。
 四、ぽつぽつと漁火のイメージから、日本人の「細かいものや微小な形に対する親密感」を表した。微小な形とは、漁火だけでなく花弁、料理、建築などの各方面から感じられる。
 五、「愁」というものは日本文学或いは日本文化の中にかなりの地位を占めるとされる。
 六、水の豊かな江南地方は日本の気候や風土に近いから、日本人に親しむと感じられる。
 以上で、私の分析である。

説文解字之「僕の小さき詩論」

2006年11月02日 10時48分27秒 | 詩論私論
詩を言えば、皆さんの頭に浮かんでくるものは何でしょうか。
「浪漫的、神秘的、憂鬱的、感動的」等の言葉が一般的でしょう。

僕にとって、詩は静寂かつ上品な言葉の芸術です。
なぜ?
漢字の構造から説明しましょう。
漢字の中で、「诗」という文字は「言葉」の「言」と「お寺」の「寺」で組合わせています。すなわち、言葉とお寺の「逢引」です。
ご存知のように、お寺という所は伝統的かつ静寂な心の浄化場所で、仏教の存在空間の一つでもあります。境内を巡ったり、仏前で合掌して何か願望を祈ったりするのは一般的であります。だからこそ、お寺で出てくる心のものはこの世にもっとも原始的で純粋な善き感情であります。その善き感情を言葉で表すと、詩というものが生まれてしまいました。

もちろん、詩の形式が様様で内容も色々あります。そして、情欲や愛などがよく詩の謳歌する対象となります。が、それらの物は仏教の禁物なので、以上の理論が誤論になるまいか、という疑問を持つ方がいると思います。

が、ここで一番言いたいのは詩の生まれる条件の一つだけです。すなわち、詩とは静かな心で外部世界の如何なる物を感じて自分の言葉で表した純粋な物です。

                 盆景

             春夏すぎて手は琥珀、
             瞳めは水盤にぬれ、
             石はらんすゐ、
             いちいちに愁ひをくんず、
             みよ山水のふかまに、
             ほそき滝ながれ、
             滝ながれ、
             ひややかに魚介はしづむ。
                          
                         萩原朔太郎「月に吠える」





意象について

2006年03月27日 16時13分17秒 | 詩論私論
  意象是现代文学批评中最常见、也最含糊的术语。它指的范围包括从读诗者所能经历的心象一直到构成这首诗的各种成分的总和。这种使用范围的一个例子是刘易期在他的《诗的意象》中阐述的意象:“就是一幅以词语表现的画;一首诗可能本身就是由多种意象组成的意象。”意象一词,就所有这些意义而言,使诗歌具体而不抽象,最常见的有三种用法:
  一、意象指诗歌或其它文学作品所涉及到的一切感觉物体和品质,不管这些物体和品质是通过描写、引喻,还是明喻和暗喻中的类比媒介所表达的。从这一广义的意象来说,英国诗人华滋华斯的《她住在人迹罕至的道路间》里的意象既包括该诗所涉及到的字面上的物体(“道路”、“少女”、“坟墓”),也包括第二节诗中的暗喻“紫罗兰”、“石头”和明喻“星星”、“天空”。“意象”这一术语不该被看作含有对所指物体的一种视觉的重视;一些读者体验到一些视觉意象,一些却没有。在那些体验到的人中,心像的清晰度和具体细节相差很大。意象还包括听觉、视觉、触觉、温觉(热和冷)、嗅觉、味觉、感觉等特征。
・ 二、从较小的范围来说,意象只明天对视觉物体和景象的描写,尤其当这描写比较生动和细致时,就更为明显。
・ 三、意象当今最常见的用法是指比喻语言,尤其是暗喻和明喻的媒介物。它强调意象是诗歌的主要组成部分,是理解诗意,诗的结构和效果的较重要线索。
——摘自《散文诗》2005年第4期
 最近、よくブログで他人と「意象」というものを解析しました。詩を書く時、詩的言葉をよく使うでしょう。中国語の「意象」は日本語でどう読みますか分かりませんが、すなわち詩の中に感情を表すために使う言葉や物事のことです。たとえば、夏について詩を書く時、西瓜、蚊帳、雨、蝉などの物がよく詩の中に出てきますね。これは所謂夏の詩の意象です。また、怖い感情を表したい時、しゃれこうべや闇の廊下などの物事をよく使うでしょう。リンクの中のある方が「俳句」や「短歌」などで用いられる、その季節の象徴となる言葉(すなわち季語のような感じ)だと解析しました。でんどう三輪車さんが「意象というのは比喩(ひゆ)と同じかもね。類似た事物にたとえて表現する(修辞法)事なの。」だと考えていました。
 このすごく抽象的な言葉はいったいどういう意味でしょうか。今日国内の詩刊雑誌『散文詩』で、「意象」についての解析を読みました。これも今の日本語レベルで説明できないものですから、どなたが分かるなら、ぜひ教えてください。

不思議な漢方薬

2006年03月24日 22時43分16秒 | 詩論私論
 祖父はかつて漢方医であった。時に僕は薬草の倉に行ったことがある。その匂いが好きである。沢山の木製箱にさまざまな薬草が静かに置いてあった。僕には不思議な発見があった。

 たくさんの薬草が日常生活でよく見えるものなんである。蜜柑の皮、柳の若葉、菜の花。祖父がよく僕に漢方医や薬草について教えてくれた。漢方医によれば、日常生活の中にある沢山のものが薬として使える。露をも使える。リサイクルという言葉はなんとなく西洋のものや仕方なので、中国の漢方医によって、たぶんこの地球に存在するものは全部薬として使えるであろう。

 だからこそ、菜の花や柳の若葉などのどこでも見えるものをよく利用して、人を救うだけではなく、地球をも救うかもしれない。不思議な薬草で、不思議な奇跡ができるかもしれない。露も薬であるからだ。


私のデビュー詩

2006年03月24日 13時13分37秒 | 詩論私論
アパートの下に
青いゴミ箱が立ってる
大きな口を開けて
静かに立ってる

汚いもの
だめなもの
なんでも食べる
青い体が太くなってる

青いゴミ箱は
黙々と
なんでも食べる
大きな顔に
いつも大きな口

でんどう三輪車さんからのコメント:何と言っても着眼点が素晴らしいね。普通は花とか月とか美しいものに囚われるものですが、ゴミ箱に思いをかけたところが素晴らしいね、中学の時に学校の図書室でアポリネールの詩を読んで感動したことがあります。それは小便をしている詩でした。驚きましたね。詩は何処にでも感動があれば生まれるのですね。頑張ってね。

神様の耳

2006年03月24日 12時57分03秒 | 詩論私論
食堂で昼ごはんを食べている。向こうの席に座っている二人の女子学生が食べながら話し合っている。中の一人は日本語で、「ね、あの男、阿呆みたい」と小さな声で言った。隣に座っている仲間はご飯を口から出すほど笑い出した。僕は後ろを見ると、その言われる阿呆さんは美味しそうに食べている。

僕は黙って何も話さなかった。たぶんその女子学生は自分が日本語で言ったから、他人は分からないだろうと思うが、不幸なことには、向こうのこの耳が分かる。僕も陰で他人の悪口を言ったことがあるから、今考えればとても悪い。きっとこの世のどこかで神様が耳を立てて、人間の声を聞いているだろう。

神様はすごい。小さい声でも外国語でも分かる。気をつけて、君のそばに座っている方は神様かもしれない