緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

あの歌あの人

2007年10月30日 12時33分47秒 | 青色思出
 歌や曲などは決して単なるリズムまた詞の羅列ではなくて、人の心を鎮める一良薬でもある。誰でも自分の好きな歌や曲があるだろう。また人それぞれ自分の好きな「スター」やタイプもあると、中国迷爺爺さんの文章「子供の頃の歌」を拝読してから、私はそう思う。
 この数日、耳に親しんでいるのはその良薬のような歌である。とはいえ、決して心が病にかかるまでとはいえない。ただその美しさを極めるためだ。夜が静まると、耳にmp3のイヤホーンをつけて、ボタンを押すと、美しい歌や曲が流れてくれて、耳の穴から全身に、さらに心、神経まで広がるようだ。
 その「良薬のような歌」の中では、「月光セレナーデ(小夜曲)」というのがある。台湾出身の歌手・蔡琴の歌である。

         月亮在我窗前蕩漾   月よ、我が窓辺に揺らめく
         透進了愛的光芒    愛の明かりがさしこむや
         我低頭静静地想一想  静かに頭を下げて思うと
          猜不透你心腸    君の心を知らないことは
         好像今晩月亮一样   今宵の月のごとく、
          忽明忽暗又忽亮    明滅している
         阿......         あ......
         到底是愛還是心慌    それがいったい愛か心細いか
           阿....月光       あ....月の明かりや

 下手な翻訳なので、参考にしながら読んでくれれば良い。歌を聴きながら、あれこれ往来の歳月を思い出してみたが、やはりこの世には一期一会の人がいっぱいあるじゃないかと、私は思いに深く沈んでいた。
 あの歌を聴くと、あの人やあの頃が思い出される経験は誰にもあるであろう。
 今日、君はあの歌を聞いてみたか?

パパイア投げ

2007年10月23日 18時03分24秒 | 俳句和歌
名月に パパイア投げや 仲良きぞ




投我以木瓜,報之以琼琚。匪報也,永以為好也!

投我以木桃,報之以琼瑶。匪報也,永以為好也!

投我以木李,報之以琼玖。匪報也,永以為好也!

                 --「詩経・衛風」
 亜熱帯気候圏に属する広西には、パパイアという植物がある。英名:papaya、学名:Carica papaya)。パパイア科パパイア属の常緑小高木。あるいはその果実をも指す。チチウリノキ(乳瓜木)、モッカ(木瓜)の別名もあるらしい。(wikipediaより)
 近頃はパパイアをよく食べる。それに、食いながら頭には以上の詩歌が浮かんできた。恋の歌である。また、衛国の人々が斉桓公の救国之恩を返すため、この詩歌を歌ったという説もあるらしい。
 「我にパパイアを投げてくれて、嬉しいです。お礼として君に美しい玉を送りします。それが恩返しではなくて、これから永遠に仲良くしましょう。」という含みであるようだ。
 夜10時、図書館から帰り途中、パパイアを一個買って月の下を歩きながら食べるのもおもしろし。


 

「中国趣味」からの雑感

2007年10月11日 11時56分57秒 | 時事雑感
 「中国趣味」という言葉を耳にしたことがある?私にとってそれが初耳で、数日前に図書館の雑誌閲覧室で或る文学雑誌を読んだ時に分かってきた言葉。
 1922年。「中国趣味」についての文章が何篇か日本雑誌「中央公論」一月号に登載された。「大正時代に中国の生活様式や物事に対する好み、或いは趣味」を指す。特に異国的、情緒的な立場から生まれた美学的な「趣味」を言う。建築風格、器などの面において、かなり流行したという。
 随って、僕の頭には「日本趣味」という言葉が自然に湧き上がる。もちろん、この「日本趣味」は僕しか使わない自己流かも。人気をよぶ言葉でいえば、「哈日」、「哈韓」などがある。多分「哈韓」という言葉は意味上では日本の「韓流」に当たるかも。たとえば、「よんさま」なる中年婦人のアイドルなどがいるらしい。そのほか、「華流」という言葉は最近日本で大人気であるらしい。しかし、発音がちょっと可笑しくてパソコンに入力してみたら、最初に出てくるのは「下流」で、次には「花柳」まで出てくる。両方とも美しい言葉ではない。
 韓国の場合ではそのまま「韓流」って言うが、なぜ「中国」の場合は「中流」でなく「華流」になるのか。「華流」の代わりに「中流」でも使ったほうがいいではないか。もちろん、意味上では「中流」が生活レベルや収入水準などの高度を定義する言葉として多く知られ、「中国流行」まで思う人が少ないかもしれぬが、「下流」より美しいと思う。
 とにかく、「華流」のような言葉をやめてほしい。勿論、文字を読むと、ああ!「華流」と分かるが、この場合では「耳は反応がちょっと鈍いかも」。

無題の雨風景

2007年10月04日 21時58分38秒 | 風景開眼
午後四時。外国語学院の八階。窓を通して、雨の中を眺めていた。
青い池、緑の茂み、木々の緑。世界が雨の白い煙に濛濛としている。緑に囲まれていた外国風講堂。白い柱、赤煉瓦の屋根。詩的な一切。
雨の斜めな糸が風とともに力強く窓から吹き込んだ。裸の壁と接吻するようだった。
「早く早く」ある赤傘の下から、女子学生の甲高い声が聞こえるようだった。それに、移動する丸い赤傘。

奇怪な夫婦ーー「雨蛙」についての感想

2007年10月02日 16時00分13秒 | 文学鑑賞
 カテゴリーは「文学鑑賞」であるが、私のレベルとしては、まだ「鑑賞」に遠い。ただの感想である。

 「雨蛙」は志賀直哉氏の短編で先週に何回も読んだ。最初に「あれ?この世にはこんな夫婦もいるの?」と奇妙に考えたが、謎らしいものがどこかの隅っこでいくつか隠れているらしい。そして、小説を最後まで読まないと、なぜ「雨蛙」という名前を付けたのかもさっぱりわからない。作品を読んで、なんとか「賛次郎夫婦」は「雨蛙」のような奇怪な生き物ではないかなぁと、私は大胆に推測した。もちろん、これは作者の本意であるかどうかは分からないんだ。なんとなくどこかで本作は推理小説らしく思わせる。なぜかというと、「せき」の不倫事件の経緯はすべて良人・賛次郎の友である竹野という奴から話し出したからである。即ち、これは、アニメ・「名探偵コナン」のように、竹野という奴はここで探偵の役割を果たした。

 それに、冒頭の地方の小さな町の描写も一つの謎。なんとか作品と全然無関係ではないかと、私は何回も読んでからそう考える。しいていえば、「然し、こういう町からも或時、町だけの生活に満足できない者が出る」という三段目の始まりが何かヒントや手がかりを与えてくれるかも。「せき」という妻の浮気行為の伏線にもなれるだろう。

 次は、あの「せき」という女主人公についての謎。彼女はいったいどれだけ妻という役割を認識して果たしたのか。小説からみれば、その程度は不明瞭である。そして、妻の浮気に対して、夫の賛次郎はいったいどういう態度であるのか。これ二つの謎について考えなければならないんだ。
 
 まず、個人的には、竹野という奴がいい印象を与えてくれなかった。登場からみたら、かなり文学的な青年だけど、「投書仲間の女と最初は文通に始まり、間もなく話は結婚まで進んだ」ということはまず気ままにふるまって礼儀作法にこだわらないという感覚だ。結婚ということに対する態度があんまり真面目ではない。志賀直哉は「間もなく」という言葉を用いた。私はこの「間もなく」が好きである。なんとなくこの「間もなく」こそ、浮気者のような感覚をみごとに描き上げている。もちろん竹野は浮気かどうかは知らないが、とにかく私的には、彼は良人ではないという印象だ。甘い臆断かも?しかし、彼の口から事件の経緯を言い出すのはさらに風刺効果があろう。
 
 それに、芳江という女は言うまでもなく、男との関係ではよくうわさに上り、評判のいい奴ではない。このような方と一緒ならば、「朱に近づく者は赤くなり,墨に近づく者は黒くなる」になるであろう。しかし、いくら「芳香と竹野」が浮気者でも、もしも「せき」がその場できっぱり拒否したら?しかし、残念なことには、そのsの「もしよろしければ、おとまりになりませんか」に対して、せきという女は「へい」と微笑しながら、かすかにうなずいた。さすが無口な女で、「へい」しか答えなかった。まさか「せき」が自分の婚姻生活に倦怠を覚え始めるまいか。そういう可能性もある。中国では「七年の痒」という言い方がある。すなわち、結婚してから七年が経つと、浮気がちで婚姻不倫事件のおそれもあるという。もっと専門的にいえば、「婚姻倦怠期」が始まる。

 しかし、妻のやったことに対して、夫である良人・賛次郎はかえって「せきをいとおしむ心でいっぱいだった」。帰りにふと電信柱にいる「雨蛙」に気付いた。それは「きっと夫婦者だろう」と賛次郎がそう考えたが、妻のせきはそれに「なんの興味も持たなかった」。まさか「夫婦間では同じ興味がない」ということを示すまいか。

 
 さてと、もしも賛次郎が竹野と知り合わなかったら?もしも彼が文学に対する興味を持たなかったら?もしもその日祖母が病気で倒れなかったら?もしもせきがその場できっぱり拒否したら?もしも芳江さんが?しかし、男女間の感情、あるいは夫婦間では「もしも」という言葉がないであろう。
 
 いかにも雨蛙より奇怪な夫婦者である。

日本語中毒

2007年10月01日 17時33分46秒 | 心境写生
 どうやら夢中になりすぎて、日本語の美しさと新奇な言語表現に陥っているような気がする。たぶん所謂「日本語中毒」になるかもしれぬ。
 
 前回の文章を見たら、もう一週間前のものだった。ごめんなさいね。
 南寧はまだ暑い。ちょっと歩くと、汗っかきでべたべたになる。「西安はもう秋めく感覚だ」と、友がメールを送ってくれた。

 
 近頃、志賀直哉氏の小説を耽読している。「雨蛙」とか、「焚火」とか。今度は「感想文」などでも書いてみよう。
 それに、中秋の日に、指導先生(所謂導師)が決まった。僕の董と同じ発音で、先生のは唐という苗字である。「唐代」の「唐」でもある。初対面だったけど、日本近代文学を研究する唐先生はとても親切だという感覚を与えてくれた。先生、これから、よろしくお願いしますね。
 
 ともあれ、私はここで元気だ。この緑の世界にいて、私は黄金虫や飛ぶ虫などになりたい。一枚の葉っぱになりたい。
 今胸いっぱいに味わっている甘美な日本語になりたい。