緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

環境保護

2007年06月05日 12時35分46秒 | 時事雑感
今日は国際環境保護日。ちょっと環境保護について一言。
「環境問題」が深刻化しつつある今の中国では、国民の「環保意識」はまだまだだ。どのようにそれを向上させるのは、今考えなければならないことだ。環境問題に対して、人ごとで済ませることはならないんだと思う。
来年の2008年08月に北京で五輪大会が開かれるので、まず北京の環境を整理整頓しなければならない。昨夜見た「新聞調査」というテレビ番組は、北京の環境保護について紹介した。大気環境、水環境、交通環境、ゴミ処理、都市緑化などの各方面から展開した。
ゴミ処理の紹介で日本の経験と技術に言及した。インタビューを受けた一人の環保幹部が「上世紀50、60年代の日本のゴミ置き場」の写真を見せてくれた。生活廃物で満載されたゴミ処理車に山のように様々なものが無造作に置かれた様子。
「ご覧ください。環保意識は生まれつきのものではありません。日々とともに養成できるものです。日本人も昔私たちと同じでした。ですから、やればなんとかなりますでしょ」と述べていた。
実に微妙な引用だと思う。他国の長所でなく短所と比べるのは最低であろう。そして、その言葉からなんだか自分を慰める一種類の妙な感じがした。
「環境保護」は「将来性のある工程」である。しかし、保護しながら破壊するとしたら、無意味になるだろう。まず破壊を止めるのもいいではないだろうか。

有名人自殺から

2007年06月04日 14時19分39秒 | 時事雑感
 有名人の自殺は古来珍しくない。最近大騒ぎになったのは、松岡農相の自殺だ。
 「政治とカネをめぐり追及の渦中にあった農相の自殺で安倍政権は大きな打撃を受けた。」と05月28日のニュース特集に共同通信がそうコメントした。
 中央テレビ局(cctv)の報道によれば、日本のある精神科医者が「訴える相手がいないので、孤独の中に自殺を遂げてしまったのではないだろうか。」と推測したとのことだ。その「有名なアナウンサ」が、「さてと、高層リーダーらの政治的成果や失敗だけでなく、心理的健康にも注目すべきである」とコメントを加えた。
 恐ろしい名詞の一つとして、「自殺」が古くから垢脱ぎの一手段として使われた。が、その効果はよくない。「黄河に飛び込んでも垢が脱げない」と、中国の古い言い方がある。そして、「自殺」の字面からみれば、「自分で自分を殺す」という意味だが、本当に殺したか。僕は疑いを持つ。殺されたのはただその命だろう。自殺そのもののさざ波が広がった。
 だから、不正や間違いに臨んで、逃げることはないんだ。適切な態度は、それに直面して認めて反省することだ。多分この経過の中には非難や皮肉が黄河の洪水のように押し寄せてくるんだろうが、この頃の「黄河」に飛び込んだら、垢が脱げるんだ。
 政治、カネ、性など欲望のウイルスによってかかった病や自殺に対して、予防注射する必要があると思う。だが、注射用薬剤は特別だ。それは「常の反省と清聴」だ。

養蜂夫婦の希望

2007年06月03日 14時12分56秒 | 心境写生
 先日のことであった。
 薫風に命の躍る五月は、花の季節であり、養蜂の季節でもある。バスで祖母の家へゆく途中、窓を通して満開の花群にずらりと並んでいる養蜂家の巣箱が目に入った。帰る時、わざっと歩きながら、その養蜂家の仮テントに足を休めた。
 「こんばんは。」
 「こんばんは。近所の人ですか。」と中年の男性がまず聞いた。
 「いいえ、町中に住んでいます。祖母の所に行きました。」
 「そうか。それなら、蜂蜜を買ったほうが良いと思う。栄養価値が高いから、とても孝行に向いてるものだ。」と彼は自分の蜂蜜産品を薦めた。
 「ええ、今度に、今日はもう帰るから。」
 「子供さんがいないか」ときいてみると、
 「いる、いる。長男はもう高校一年だ、末っ子の次男もそろそろ小学校に入学。でも、花咲きに間に合うため、テント持ちで各地をめぐるのはたいへんだから、二人は実家の祖父母と一緒に過ごしてる。」
 「子供のためだわ」と奥さんの中年女性は続いて話してくれた。
 「養蜂って、すごく苦労な仕事だろう。」
 「そうなんだ。小さい命だけど、あれですごく天気や温度に敏感に反応するんだよ。」
 「でも、楽しいこともあるわ。蜂蜜を売ってお金を儲けて、息子を大学に送られるのを思うと、いくら苦労しても楽しいわ。」と奥さんの中年女性は傍で食器を洗いながら、そう言った。彼女のその語末の「わ」に印象深かった。
 「じゃ、体にも気をつけてね。だんだん暑くなるから。失礼」と夫婦に僕はそう言いかけると
 「これ、買わないの?多分明後日もうここにいないだろう。**には山タンタン花が満開だそうだ。そっちにいくから。今日は最後のチャンスだよ」と中年の男性は自分の蜂蜜を指しながら、予定を教えてくれた。
 「じゃ、その小さい瓶でいいから。」と五元を中年の男性に渡して蜂蜜を持って帰った。

正義の「月光」

2007年06月02日 17時25分43秒 | 詩論私論
 美しい月については、月下美人や玉兎の話だけでなく、正義の話もある。日本ならば月光仮面。中国ならば包青天。二人とも正義の味方で額に月をあらわすものがある。月光仮面のそれはどういうものかが詳しく分からないが、中国の「包青天」なら、生まれつきの月形痣だという説が多い。一説では、京劇の影響もあるらしい。
 「月光仮面」は日本最初の連続テレビ映画だと言われる。その人物の発想は薬師如来の脇に侍する月光菩薩から得られたというから、仏教の説教的意味が強いと感じられるのだ。そして、「月光仮面」というヒーローが実際にいない。仮想する人物で最終回までも劇中で正体が明言されなかったという。だから、みんなが「月光仮面」はいったい誰であろうか、分からない。
 それと違い、中国の「包青天」は、北宋の政治家で、字は希仁、安徽省の出身で、本当の名前が包拯(ほうじょう)で、中国史上最も有名な清廉潔白な官吏の代表として知られた。「包青天」とは、百姓が彼に差し上げた名前だった。旧時代に官吏らに普通「青天大老爺」だと呼ばれたから、「包青天」という名ができたのだ。もちろん、最も重要な原因は「彼の清廉さと潔白さ」と罪に対して王権や皇帝にも屈することなく正義を貫くことだ。
 「月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす。」というが、もし月光イコール正義だったら、「正義は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす。」になるだろう。
 しかし、日本の「月光仮面」は「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」という理念を持ち、懲らしめるだけで過剰に傷つけることはしない。それは中国「包青天」の「死罪まで正義を貫くこと」と随分ちがうから、どっちかが最もいいか判断できないが、法的社会に立っている我々は罪や正義についてもっと反省する必要があると思う。どのように度を把握するのは一番難しい。
 「月光は善人のみでなく、悪人をも遍く照らす。」これだけを心に覚えてほしい。
 

会議いろいろ!

2007年06月01日 13時04分29秒 | 詩論私論
 会議って、いろいろな形がある。電話会議、テレビ会議、円卓会議などなど。
 勿論、あまり正式でなくて面白い会議もある。例えば、「お手洗い会議」、「家族会議」、「井戸端会議」、「寝台会議」とか。
 こういういろいろな会議の中では、女子だけがその参加者になる会議もある。「お手洗い会議」と「井戸端会議」がその代表的な会議。
 まずは「お手洗い会議」。日本では学生などが仲間で集まって会費制で飲食する親睦会がある。これは普通にコンパという。対象は大体大学生。私からみれば集団デートのような感覚。男子三人対女子三人のような人数同じ形が一般的であろう。上で書いた「お手洗い会議」とは、コンパの時「お手洗い」で行われた女子会議である。
 「そのやつ、格好いい」
 「私はその痩せたやつがいい」というような男子評価会だといっても過言でない。女子らは自分の気にはいる男子について意見などを出す面白い「会議」である。

 次には「井戸端会議」がある。井戸端で婦人らが世間話をすることを指す。もちろん、これは「お手洗い会議」と違い、田舎に多いのだろう。名通りに「井戸」がなければ「井戸端会議」とはいえない。一般的に、この「井戸端会議」は噂などの「源」でもあると考えられる。その中には性的背景と農業社会の影も見られる。女性は、生まれつきの噂好きであろうと思われる。この考えは女性らの不満や愚痴を招くかもしれないが、私的な考えである。

 最後には、「寝台会議」について一言。
 日本には学生寮がないから、この会議を行うのは無理かもしれぬ。中国の大学なら、みんな学生寮に住んでいるから、停電後、その「寝台会議」が始まる。一室に四人あるいは六人のが一般的であるが、八、十人までのルームもある。上の「お手洗い会議」によく似てる所があるが、やや違う所もある。それは会議の討論範囲だ。というのは、「寝台会議」では男女の相互評価だけでなく、時事、理想、学問、生活、進路など各方面について自分の意見が発表できるのだ。学生生活の一端として、記憶に美しい印象が残された。もちろん、うるさい時もあった。が、それより楽しかった記憶は多い。清華大学の学生たちは「寝台会議」の経過をビデオカメラで撮影したことまでやったのだ。この「清華大学寝室夜談」という映像は全国の大学間とても人気をよんだらしい。僕も西安の大学映画祭りで一度この「清華大学寝室夜談」を露天に見たことがある。とても面白かった。

 いろいろな会議から、若者の共通点が見られるが、その違うところも見られる。
 共通点をいうならば、異性間の交際を好むこと。違うところならば、やはり私的物事に対するその考えと発想だろう。

六一児童節

2007年06月01日 00時57分02秒 | 青色思出
 明日は中国の子供の日である六一児童節。私は児童節が嫌である。

 今朝九時くらい、近所の幼稚園から子供たちの歌声と親たちの歓声が聞こえた。台所の窓から園内を眺めたが、人しかいなかった。色とりどりの三角旗が五月の爽やかな風にそよいだりしていた。やり出した音楽からみれば、とても賑やかそうなお祝いパーティーだそうだ。

 幼稚園の頃でも小学校時代でも、こういうようなパーティーで僕にはきっと出し物があったものだ。別に好きだったとはいえないが、殆ど出演に選ばれた。土、日だけでなく、普通の放課後でも夜七、八時まで教室に練習させてしまった。それが原因で、よく「ドラえもん」に間に合わなかった。次の朝、出し物のないクラスメートから、「ね、その道具、すごいね!」と聞いたものだけだ。それに、女装で出演された経験もある。それは一番嫌なことだった。

 そういうワケで、美しい記憶はあまりなかった。

 児童節は子供そのものの日である。あまりにも出し物やお祝い活動が多すぎると、その意味を失くすだろう。子供のために、よく反省してほしい!教育者の方々。「子供の日」は「子供」の日だ。