緑 島 小 夜 曲

春を愛する人は、心優しい人。

デビュー面接

2006年03月31日 22時11分48秒 | 若い詩歌
春の奏鳴曲に伴う
若葉が老樹の皴に
しん——と
舞踏する————清清しい朝

柳煙の路地を通じる
三輪車が靄の中で
りん——と
市場へ走った——元気な八百屋さん

今朝の321バス
スピードが速い
「あっ!」と
足が踏まれた——可哀相なミス(Miss)

自信を持っている私
スーツを着て
NECへ行く——デビュー面接

夏休み

2006年03月29日 00時23分49秒 | 心境写生
暖かい三月ですが、この頃、子供時代の夏の出来事ばかり、とりわけ夏休みのことを思い出しました。
夏休みを言えば、面白いことがたくさん浮かんできました。久しぶりのいい気持ち、昔の仲間、もちろんいろいろな光景があります。今日の夕方、321バスで市内から帰り中、夕日はずっと車窓の傍で、摩天楼の間に隠れたり、単純な丸顔で野原と空の地平線に私を眺めたりしました。野原に恋人姿の男女二人が凧揚げをしていました。男子はその女子を自分の懐中に囲んで、素敵な凧が空を飛んでいました。
私は梁祝の恋愛物語、幼い頃のある友達をも思い出しました。

意象について

2006年03月27日 16時13分17秒 | 詩論私論
  意象是现代文学批评中最常见、也最含糊的术语。它指的范围包括从读诗者所能经历的心象一直到构成这首诗的各种成分的总和。这种使用范围的一个例子是刘易期在他的《诗的意象》中阐述的意象:“就是一幅以词语表现的画;一首诗可能本身就是由多种意象组成的意象。”意象一词,就所有这些意义而言,使诗歌具体而不抽象,最常见的有三种用法:
  一、意象指诗歌或其它文学作品所涉及到的一切感觉物体和品质,不管这些物体和品质是通过描写、引喻,还是明喻和暗喻中的类比媒介所表达的。从这一广义的意象来说,英国诗人华滋华斯的《她住在人迹罕至的道路间》里的意象既包括该诗所涉及到的字面上的物体(“道路”、“少女”、“坟墓”),也包括第二节诗中的暗喻“紫罗兰”、“石头”和明喻“星星”、“天空”。“意象”这一术语不该被看作含有对所指物体的一种视觉的重视;一些读者体验到一些视觉意象,一些却没有。在那些体验到的人中,心像的清晰度和具体细节相差很大。意象还包括听觉、视觉、触觉、温觉(热和冷)、嗅觉、味觉、感觉等特征。
・ 二、从较小的范围来说,意象只明天对视觉物体和景象的描写,尤其当这描写比较生动和细致时,就更为明显。
・ 三、意象当今最常见的用法是指比喻语言,尤其是暗喻和明喻的媒介物。它强调意象是诗歌的主要组成部分,是理解诗意,诗的结构和效果的较重要线索。
——摘自《散文诗》2005年第4期
 最近、よくブログで他人と「意象」というものを解析しました。詩を書く時、詩的言葉をよく使うでしょう。中国語の「意象」は日本語でどう読みますか分かりませんが、すなわち詩の中に感情を表すために使う言葉や物事のことです。たとえば、夏について詩を書く時、西瓜、蚊帳、雨、蝉などの物がよく詩の中に出てきますね。これは所謂夏の詩の意象です。また、怖い感情を表したい時、しゃれこうべや闇の廊下などの物事をよく使うでしょう。リンクの中のある方が「俳句」や「短歌」などで用いられる、その季節の象徴となる言葉(すなわち季語のような感じ)だと解析しました。でんどう三輪車さんが「意象というのは比喩(ひゆ)と同じかもね。類似た事物にたとえて表現する(修辞法)事なの。」だと考えていました。
 このすごく抽象的な言葉はいったいどういう意味でしょうか。今日国内の詩刊雑誌『散文詩』で、「意象」についての解析を読みました。これも今の日本語レベルで説明できないものですから、どなたが分かるなら、ぜひ教えてください。

赤蜻蛉

2006年03月26日 13時22分54秒 | 若い詩歌
野原を飛んだ
赤蜻蛉よ
麦畑の中に
子供が夢を持つ

路地に入った
赤蜻蛉よ
屋根の下に
燕が少年の憂いを啼(よ)ぶ

指先に留った
赤蜻蛉よ
無邪気な眼が
生命の憂鬱を問う

日記に飛び込んだ
赤蜻蛉よ
幼い頃のその夏
雨が降ってきた


 今日はリンクの歌声喫茶で、また日本歌謡の<赤蜻蛉>を聞いた。自分の子供時代を思い出した。記念として以上の詩を書いた。

赤とんぼ
作詞:三木露風
作曲:山田耕筰
夕焼小焼の 赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか
十五でねえやは 嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の 赤とんぼ
  とまっているよ 竿の先
昔日本は秋津島(アキツシマ)と呼ばれていた。アキツとはトンボのことを意味していたんだ。トンボは日本にとってなじみ深いものだ。

不思議な農家の女

2006年03月26日 12時24分15秒 | 文学鑑賞
 神田川に掛かる面影橋を渡ると、山吹の里の碑があります。
 太田道灌の山吹の里というエピソードがあります。
 高田の馬場へ狩に出かけた道灌が雨に遭い、近くの農家へ雨具を借りに寄ったところ、応対に出た女は、黙って山吹の枝を盆に載せて差し出しました。
 道灌は、なんて不親切な女だろうと思って、城に帰って歌道に明るい家臣にその話をすると、家臣から、その女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき」という歌にかけて、蓑の一つもない貧しさを訴えたのだと教えられたのでした。
 道灌は古歌の一つも知らなかったために、彼女の悲しみを察してやれなかった己を恥じて、その後歌道に精進し、文武兼備の名将となったというお話です。
 しかし、蓑の一つもない貧しい農家の女が、そのような万葉集の古歌を歌っていたとは不思議なことではありませんか。

 注:今日、本で「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき」という歌を読んで、ネットで調べて見ると、「山吹の里」というエピソードがある。びっくりした。なぜかというと、貧しい農家の女が、こんな上品なことができるのは不思議ではないか。飢饉をも解決しなかったのに。僕の愚見である。

枯葉

2006年03月25日 14時47分18秒 | 若い詩歌
見るよ
木のそば
一枚の枯葉
生命の捨て子

静かに
寂しく
詩人が来た
一枚を拾って

撒き出した
大地は如何に煌煌…


でんどう三輪車さんのおかげで、素晴らしい詩となりました。

見えるよ
樹のそばに
一枚の枯葉
生命の捨て子

静かに
静かに
詩人が来て
一枚を拾って

地面に置いた
大地は
枯れ葉の命で
輝く

如何に煌煌…

蘭の花

2006年03月25日 13時42分53秒 | 若い詩歌
山の奥から
蘭の花を持ってきた
僕は
庭の中に
一株を植えておく

一日三回も見に行った
蕾が一つもない
僕は
その花期に
間に合わない


秋の来臨が
まもなく
部屋に移入した
僕の蘭の花よ
来年の春
また満開ぞ

 この<蘭(らん)の花>というのは中国の有名な学者胡適先生の詩で、同名の歌もある。胡適、1891~1962 中国の学者・思想家。「こてき」とも呼ぶ。安徽省績渓県の人。字は適之。(http://www.tabiken.com/history/doc/G/G257L100.HTM)から、今日ちょっと翻訳しようと思う。意訳のもの。


でんどう三輪車さんの指摘で、素敵な詩と成りました。 
山の奥から
蘭の花を持ってきた
僕は
庭の中に
一株を植えておく

一日三回も見に行った
蕾が一つもない
僕は
その開花に
間に合わない


秋の装いが
まもなく
部屋にも訪れて
ランの花は
沈黙

蘭の花よ!
僕は
来年の春を
待つ
その喜びを

満開ぞ!

家の匂い

2006年03月25日 11時58分33秒 | 家族同士
の匂い。今日はまたちょっと漢方医についてのことです。

 今住んでいる家は昔祖父の薬草の倉である。なんとなくいつも薬草の匂いがする。母は部屋の隅々まで掃除するが、消えない。

 祖父は七十歳で今も生きている。家の匂いについて聞くと、「いいじゃないか。薬草の匂いが体に良い」と笑った。私たちそれぞれの家にはきっと家そのものの匂いがある。私の家の匂いは一番良いと思う。ある友達の宅に行ったことがある。ご両親は中国の水墨絵を描くのが好きなので、いつも墨の匂い。その友達も絵が上手だそうである。それから考えれば家の匂いが重要であろう。いつも薬草の匂いに住んでいる祖父の長寿、墨の匂いに育っている友達の絵。匂いと関係が深かろう。

 匂いというものはただある種類の気体あるいはガスだけではなく、家の雰囲気の一部である。中国語では「書香門第」という言葉がある。違う家の違う匂いは違う人間を育てるであろう。

 

不思議な漢方薬

2006年03月24日 22時43分16秒 | 詩論私論
 祖父はかつて漢方医であった。時に僕は薬草の倉に行ったことがある。その匂いが好きである。沢山の木製箱にさまざまな薬草が静かに置いてあった。僕には不思議な発見があった。

 たくさんの薬草が日常生活でよく見えるものなんである。蜜柑の皮、柳の若葉、菜の花。祖父がよく僕に漢方医や薬草について教えてくれた。漢方医によれば、日常生活の中にある沢山のものが薬として使える。露をも使える。リサイクルという言葉はなんとなく西洋のものや仕方なので、中国の漢方医によって、たぶんこの地球に存在するものは全部薬として使えるであろう。

 だからこそ、菜の花や柳の若葉などのどこでも見えるものをよく利用して、人を救うだけではなく、地球をも救うかもしれない。不思議な薬草で、不思議な奇跡ができるかもしれない。露も薬であるからだ。


2006年03月24日 13時21分58秒 | 青色思出
 三年生の時の出来事であった。その日、図書館で資料を調べてから帰宅しようとした時、雨が降ってきた。一階のホールの前で雨が止むのを待っていた間、一人の女子学生が日本語で「先輩、友達が傘を持っていますから。私の傘を使ってください」と言った。知り合いではなかったが、とても親切に言ってくれた。僕はその素敵な婦人用傘を差して寮に帰った。

 その後、僕は色々考えた。それ以前、自分が傘を持っていても、雨が止むのを待つ他の人に傘を貸したことはない。男女二人で一本の傘を差したことはなおさら。なぜかというと、相合傘というのは恋のシンボルであるからだ。しかし今、その女子学生の「私の傘を使ってください」という声が頭に浮かんで、すごく恥ずかしいと思う。

これから、僕も雨の日に傘を忘れた人に自分の傘を差してあげたい。相合傘の意味を気にしないほうが良かろう。 そうすれば、僕が人生の風雨に足止めをくらった時、誰かがきっと傘をさしかけてくれるだろう。

 川端康成の作品<傘>を一度読んだことがある。恋物語のような感じで抽象かつ難しい。分からなかった。今日僕も<傘>について文章を書き、簡単にする。
 作文の先生がメールでいろいろ教えてくれた。とても嬉しいです。

私のデビュー詩

2006年03月24日 13時13分37秒 | 詩論私論
アパートの下に
青いゴミ箱が立ってる
大きな口を開けて
静かに立ってる

汚いもの
だめなもの
なんでも食べる
青い体が太くなってる

青いゴミ箱は
黙々と
なんでも食べる
大きな顔に
いつも大きな口

でんどう三輪車さんからのコメント:何と言っても着眼点が素晴らしいね。普通は花とか月とか美しいものに囚われるものですが、ゴミ箱に思いをかけたところが素晴らしいね、中学の時に学校の図書室でアポリネールの詩を読んで感動したことがあります。それは小便をしている詩でした。驚きましたね。詩は何処にでも感動があれば生まれるのですね。頑張ってね。

南方少年

2006年03月24日 13時05分55秒 | 若い詩歌
午後の長い路地

日差しが見えない一瞬



南方は依然──菊の秋

無邪気な少年が

黒い髪を結び 

後姿が消えた遠方

──濃霧のない所



君の微笑

夕焼けのごとし

木戸のそば──

一人の南方少年



果樹園にも

川浜にも

君の笑い声が

枝に掛けた秋と

一緒に実った



今の君

変わりがあろうか



たくさんの思い出が

──流れ雲の隙に

隠見した┄


神様の耳

2006年03月24日 12時57分03秒 | 詩論私論
食堂で昼ごはんを食べている。向こうの席に座っている二人の女子学生が食べながら話し合っている。中の一人は日本語で、「ね、あの男、阿呆みたい」と小さな声で言った。隣に座っている仲間はご飯を口から出すほど笑い出した。僕は後ろを見ると、その言われる阿呆さんは美味しそうに食べている。

僕は黙って何も話さなかった。たぶんその女子学生は自分が日本語で言ったから、他人は分からないだろうと思うが、不幸なことには、向こうのこの耳が分かる。僕も陰で他人の悪口を言ったことがあるから、今考えればとても悪い。きっとこの世のどこかで神様が耳を立てて、人間の声を聞いているだろう。

神様はすごい。小さい声でも外国語でも分かる。気をつけて、君のそばに座っている方は神様かもしれない