蟋蟀の宇宙は狭き甕にあり 原豊
蟋蟀の世ではなく、宇宙である。宇宙は無限かつ広大である。その宇宙はただ狭き甕にありとは、妙な組み合わせだと思う。無限広大な空間と狭き甕の空間は一体になる。この間、ニッチ論という理論を読んだ。まさに、その甕は蟋蟀の宇宙であり、ニッチでもあるのだろう。甕からみれば、人間の飼う、闘蟀であろう。昔、北京で闘蟀が盛んだったが、高価の飼い甕もあれば、普通の甕もあった。今も骨董屋などで昔の甕がよく見られ、珍しい蟋蟀が甕で宝のように飼われた。その狭き甕に生まれ、生きて、闘い合い、死ぬ。狭き甕は宇宙そのものとなる。下五を「瓦礫かな」に添削してみると、自然の中の蟋蟀が思われるのだろうか。蟋蟀も我々もニッチを探しながら、一生を送るのであろう。
蟋蟀の世ではなく、宇宙である。宇宙は無限かつ広大である。その宇宙はただ狭き甕にありとは、妙な組み合わせだと思う。無限広大な空間と狭き甕の空間は一体になる。この間、ニッチ論という理論を読んだ。まさに、その甕は蟋蟀の宇宙であり、ニッチでもあるのだろう。甕からみれば、人間の飼う、闘蟀であろう。昔、北京で闘蟀が盛んだったが、高価の飼い甕もあれば、普通の甕もあった。今も骨董屋などで昔の甕がよく見られ、珍しい蟋蟀が甕で宝のように飼われた。その狭き甕に生まれ、生きて、闘い合い、死ぬ。狭き甕は宇宙そのものとなる。下五を「瓦礫かな」に添削してみると、自然の中の蟋蟀が思われるのだろうか。蟋蟀も我々もニッチを探しながら、一生を送るのであろう。
山桜鐘つく尼の墨衣 枝松洋子
この句を読む一瞬、鈴木大掘先生の「禅と日本文化」に述べられた俳句と禅との関係が思い出されました。山桜と鐘つくこと、禅の雰囲気いっぱい作り出しました。墨衣の色と山桜の色と、一種の呼応となるでしょう。尼にとって、鐘つくことが日課だと思われ、毎日毎日繰り返してやることこそ、鐘つくその瞬間、山桜の状態と尼の心の有様を推測してみました。散るか満開するか、どっちにしても、禅の精神がいっぱい溢れる句だろうと思います。
この句を読む一瞬、鈴木大掘先生の「禅と日本文化」に述べられた俳句と禅との関係が思い出されました。山桜と鐘つくこと、禅の雰囲気いっぱい作り出しました。墨衣の色と山桜の色と、一種の呼応となるでしょう。尼にとって、鐘つくことが日課だと思われ、毎日毎日繰り返してやることこそ、鐘つくその瞬間、山桜の状態と尼の心の有様を推測してみました。散るか満開するか、どっちにしても、禅の精神がいっぱい溢れる句だろうと思います。
年が迫る年末、いろいろ仕事に追われて、久しぶりにブログを更新しようと。。。
さて、明日はマヤの予言の世界末日だと。。。明日試験あるのに。。。
どうなるのであろう。今日は初雪。
さて、明日はマヤの予言の世界末日だと。。。明日試験あるのに。。。
どうなるのであろう。今日は初雪。
真っ赤なる福の切絵や年の市
抽斗の底に閉めるや古日記
年の市臥龍の如く列並ぶ
龍舞の口中が吐く賀状かな
お飾りの十字刺繍の紅さかな
長龍の正月の凧高々と
拝賀式宿老どもの赤ら顔
春の朝五禽戯をやる翁達
霾風や魑魅魍魎の降る如し
春の土植木鉢にも添ひにけり
土の春タイムカプセル掘りに行く
おふくろの小包にあり春の服
春の日に古いアルバム捲りけり
西安外大の食堂名物をいうならば、一階の葱餅が有名であろう。遅刻しないように、あの葱餅を食べながら豆乳をすすって教室へ向かう光景が。。。超懐かしい。
さて、近頃、一階のあの葱餅小母ちゃんが姿消えてゆくというネタがネット上広く伝えていた。OBらも在学の後輩もあの小母ちゃんの行方に関心を抱く。詳細が分かるならばいいのに。
短歌四首を詠んだ。
秦嶺の麓の春や葱餅の小母ちゃんの声消えてゆくなり
葱の香の漂ふ窓の白衣小母小居安の春まだまだですね
葱の香に微笑溢れる白衣小母トントンといふ刀の音ぞ
外大の藤棚道の寒き中歩みて思ひ出す葱の香ぞ
葱の香の漂ふ窓の白衣小母小居安の春まだまだですね
葱の香に微笑溢れる白衣小母トントンといふ刀の音ぞ
外大の藤棚道の寒き中歩みて思ひ出す葱の香ぞ





県元宵花火大会の歴史をさかのぼると、十二年前の辰の年、つまり二十一世紀が始まるその年から開始された。
今年は十二年目で、例年よりはれだと思う。県民を楽しませる政府の決心が強かろう。
日本では、花火大会は夏の風物詩であろう。涼みながら、川原や空地などで盆踊りをしながら、花火を見るのは日本人にとって、夏最高のイベントであろうか。しかし、中国の花火大会は一般的に、新年や春節などの祝日に開催される。夕べ、我が実家の県上元花火大会が開催された。
延河沿いの大通りは一時交通制限。一昨日は立春だったが、まだ夜は寒かった。県民は家族揃って花火を楽しんだのであろう。

龍の柱は初春の寒き夜空の下に聳える。県民は花火の打ち上げを待つ。

秋の空長谷大仏の胸広し
日本の大仏をいわば、奈良東大寺のと鎌倉高徳院のが有名であろう。東大寺の大仏はその手が印象深い。鎌倉長谷大仏はその胸である。
僕の行った日本寺院の中では、高徳院は比較的に大きいものだと思う。その近くには大仏形のお菓子も売られて、人気を呼んでいた。
青空を背景に、日本国宝だと指定された阿弥陀如来銅像が露天に鎮座する。その下には、観光客の連中が記念写真を撮ったり、合掌したりした。ガイドをしている友達がいて、その話によると、仏様の写真を撮ることや仏像を背景にして撮影することは避けたほうがよかろうとある。理屈を聞いてみたら、別に理由なし。悪いことが起るおそれがあると、神秘に教えてくれた。
言わなくても、なんとなくその理由が分かる。宗教的な存在として、仏様を写真に写すことは失礼であろう。フレッシュも仏像にある程度の損害があるのであろう。
撮ろうか撮らないかとまよったところに、もう同行の先生に誘われ、記念写真を撮ろうと。
まあ、いいや。「失礼いたします」と心に繰り返しながら、「茄子」と飛び出してしまった。
長谷大仏は胸が広いから、ゆるしてくれるのであろう。
合掌!

秋の暮凶の絵御籤引きにけり
秋の暮は季語の一つである。この季語を入れて作った俳句の中では、松尾芭蕉の「この道を行く人なしに秋の暮」が有名であろう。秋の暮の寂しさを極める句だと思う。「この道」はどのような道であろうか。細かろう。それとも大通りであろう。季語の「秋の暮」からみれば、人気なき細道であろう。
浅草寺で100円の御神籤を引いた。第六十四凶で漢詩調の四句であった。知合いに冗談半分言うと、浅草は凶が多いという。秋の暮の句の中では、大好きな三句がある。
硬球を打つ青年の秋の暮 鈴木六林男
秋の暮皆長靴の出稼人 大野林火
秋の暮業火となりて秬は燃ゆ 石田波郷
秋の暮皆長靴の出稼人 大野林火
秋の暮業火となりて秬は燃ゆ 石田波郷

初登り高尾の峰の晴るる秋
拓大は高尾山の麓に位置する。高尾駅からあと一駅で、高尾山口駅に到着する。
東京滞在中、一度高尾山を登ったことがある。以上の句はその時作ったものであった。
青垣のような高尾山脈は目の前に広がって、気持ちも晴れになった。遠山はもやもやした中にはっきり見えなかったが、青き屏風のように聳える。

高尾山で八王子の初秋を眺めるのもよかろう。都市の建物が公園緑地や街路樹などの緑に浮くように、『古事記』を思わせる風景であった。

やや寒し男坂まで登りけり
男坂は上がり道、女坂は下り道。

中華文化圏では、龍は吉祥のイメージで、古代中国では、皇帝の象徴であった。「真龍天子」のような言葉があり、すなわち、皇帝は龍から化して、天の子だと美化された。皇帝に関する言葉もよく「龍」を使う。たとえば、「龍顔、龍体、龍椅、龍座」などがある。それぞれ皇帝の顔、身体、椅子、座席をいう。
しかしながら、欧米諸国では、古来龍は邪悪の動物だと思われ、イメージも悪かった。「Dragon」という動物である。中華文化圏の龍と違って、青や黒、毒付牙のイメージが多いと思われる。その原型は蛇だと考えられ、ノルウェーの神話では、その龍が実は大蛇である。雷の神と戦う中、その毒液で相手を殺したという話がある。

ギリシャ神話では、龍は鎮守の物でもある。英雄のヘラクレスはゼウスの子である。父親のゼウスの願望は子の永生きである。しかし、奥さんのヘラはヘラクレスのことがあんまり好きではない。それが故、永生きの条件はまず十二の挑戦である。その挑戦の中では、金林檎を盗むというのがある。だが、金林檎を見守る巨大な龍がある。いろいろな案を考えて、最後に催眠術を使って、その龍を殺して、林檎を手にした。
今年は「龍鳳成祥」の年でありますように。おめでとうございます。

続く
あと2日、辰の新春がやってくる。
まず旧年中、お世話になった方々に感謝の意を表したいと思う。去る一年は僕にとって、登龍門のような年だった。今年もどうぞよろしくお願いします。さて、これから、この猫の額のようなブログを借りて、辰の年龍を語るというシリーズを書き込みたいと思っている。

龍は我が国中国の神話伝説上の動物である。長い歴史の中で、龍のイメージも変わりつつあり、さまざまな形が生まれたのである。神話上の動物なので、現実の世界では生きていないというのはまず事実である。古生物考古学上では、恐竜の化石が発見されたが、龍の原型になるのであろう。
まず龍の構造を見よう。南宋時代の博物誌『爾雅翼』では竜の姿を「三停九似」と書いてある。「九似」とは、その角は鹿、頭は駱駝、眼はは兎、身体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似るという。この構造からみれば、龍のさまざまな動物より成り、各動物の習性が一体化されるのであろう。ご存知のように、鹿の角は貴重な漢方薬、駱駝は飢えに強く、兎の目が赤宝石の如し。蛇や蜃の長き体、鯉が水中に生きること、鷹と虎の勇猛さ、牛の穏やかさなどが想像される。
龍は水中か地中かに棲む。井戸に棲む龍もいるという。その鳴声が雷、息が風、くしゃみが雨と化する。降水を司る動物だと思われる。その動きを「騰」という動詞が使われる。「龍騰虎躍」は成語で、「龍騰がる虎躍ぶ」の意味である。水中か地中より、龍が天上に上がる有様をいきいき現す。
今年は「龍騰虎躍」の年でありますように。おめでとうございます。

(続く)

空海の行脚の像や蓮は実に
高尾駅から高尾線に沿って歩いてみたら、大光寺という小さいな寺がある。JR中央線と京王線が乗り入れ、多摩御陵と高尾山と霊園の昇降駅として有名な高尾駅の南に位置し、駅に一番近い寺院として有名で、弘法大師霊場「多摩四国八十八ケ所霊場第七十番札所」が、正名山地蔵院大光寺であるという。
京王線高尾駅のホームにのぼり、その境内が眺められる。ぎっしりと何百基のお墓が特に目立つ。高尾にいた時、休日のお出かけの時、よくそのホームで向こうの境内を眺めながら、電車を待った。
自分で行ったこともあれば、隣室の呉さんと劉さんと一緒に行ったこともある。
蛙の像が六つあり、「迎える」にかけられることが面白かった。興味津津に散策した。
山門に蟷螂死すや大光寺
大光寺の山門の隅っこで蟷螂の死体を発見したことがある。しめやかに動かない。
花落春愁吉野山
はなおつしゅんしゅうよしのやま
一
八幡宮(はちまんぐう)の花落ちて
春雪白し吉野山。
初音の鼓鳴り響き、
狐の姿消ゑて行く。
本や同じ根生ぜしに、
相煎ることぞ急なりし。
入りにし人の後追はむ!
二
源軍の旗輝きて、
白拍子こそ最中なれ。
酒の盃交わし合ひ、
舞の直垂美しき。
本や同じ根生ぜしに、
相煎ることぞ急なりし。
入りにし人の後追はむ!
三
悲しむ風に雨泣きて
叫ぶ非情の怒涛(なみ)の声。
同舟の光陰(とき)矢の如く、
烏帽子の下の別れ泪(なだ)。
本や同じ根生ぜしに、
相煎ることぞ急なりし。
入りにし人の後追はむ!
はなおつしゅんしゅうよしのやま
一
八幡宮(はちまんぐう)の花落ちて
春雪白し吉野山。
初音の鼓鳴り響き、
狐の姿消ゑて行く。
本や同じ根生ぜしに、
相煎ることぞ急なりし。
入りにし人の後追はむ!
二
源軍の旗輝きて、
白拍子こそ最中なれ。
酒の盃交わし合ひ、
舞の直垂美しき。
本や同じ根生ぜしに、
相煎ることぞ急なりし。
入りにし人の後追はむ!
三
悲しむ風に雨泣きて
叫ぶ非情の怒涛(なみ)の声。
同舟の光陰(とき)矢の如く、
烏帽子の下の別れ泪(なだ)。
本や同じ根生ぜしに、
相煎ることぞ急なりし。
入りにし人の後追はむ!

秋の蝉鳴いてやまざる高楽寺
高尾駅南口より仮住まいの留学生寮までには、この高楽寺の山門前を通らなければならぬ。
9月末の東京はまだすこし暑かった。ある午後、一人で高楽寺を散策した。境内には、樹齢二百年以上の枝垂桜が生きている。
どんよりした空の下に、一人で寺院散策するのは何よりいいことである。
極楽の世はいったいどんな様子であろうかはまず別にして、この高楽寺だけが名の通り、最高の楽を感じさせるのであった。
境内は広いとは言えぬ。地元の祭りの時、このしだれ桜もライトアップされるという。想像してみると、あの幻のようなライトアップがきっと最高であろう。
しだれ桜の木の下に立って、暫く秋の蝉を聞きながら、のんびりした午後だった。