大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書13章31~38節

2019-07-18 08:31:03 | ヨハネによる福音書

2019年3月3日大阪東教会主日礼拝説教  「キリストのもとへ行く」吉浦玲子

<わたしがあなたがたを愛したように>

 「互いに愛し合いましょう」という言葉は心地の良い言葉です。美しく響きます。ところで、「イエス様は罪人を受け入れられた、徴税人や娼婦を受け入れられた、だから私たちもすべての人を受け入れましょう」という言い方があります。それは間違いではありません。たしかにそうなのです、私たちはすべての人を受け入れなくてはいけません。しかし、大事なことは受け入れるだけではなく愛することなのです。そこにいていいから好きにしといて、というのは本当の意味での愛ではありません。

 ビートルズの曲に、「ALL YOU NEED IS LOVE」という曲があります。君に必要なものは愛だ、という実にシンプルな曲です。

「わからないことは、誰にもわからない/見えないものは、誰にも見えない きみがいちゃいけない場所なんて、どこにもないんだ/簡単だよ 必要なものは愛だよ きみに必要なものは愛なんだ 愛こそがきみのすべてなんだ」

というような歌詞です。必要なものは愛であって、それがすべてだ、それは簡単なことだ、と歌うのです。私はこの曲は好きです。でも歌詞を読むと、やはり、少し違うなと思うのです。愛は簡単ではないのです。たしかに人間には愛されることが必要です。人間が人間として生きていくためには、ある意味、愛こそがすべてともいえるでしょう。現実には世界中に愛に飢えた人々がいます。愛の不全に苦しむ人がいます。<簡単なことだ、必要なことは愛だ>と、「簡単」にはいえないのです。

 そもそも愛とは何なのか?それはごくごく単純に言えば、イエス様が十字架にその身を捧げられたように相手のために自分を捧げることです。口で愛しています、あなたが大事です、そう伝えることも大切なことです。言葉で愛を示すことも必要です。しかしなにより愛というのは実践が伴うものです。肉体的に時間的に金銭的に精神的に自分を捧げるということです。肉体的に時間的に金銭的に精神的に負担を覚えながらどこまで自分を捧げることができるでしょうか?互いに愛し合うということは、互いに捧げあうということです。しかし、現実には捧げあうというより、自分だけが捧げていて割が合わない、そう感じてしまうこともあります。そしてまた腹が立つ相手、自分のことを良く思っていない相手に我慢をして、忍耐をして、相手のために自分を捧げる、それはとても難しいことです。

 そもそも今日の主イエスの34節の言葉、「互いに愛し合いなさい」という言葉は心地よいものでありますが、主イエスはこれを「新しい掟」として与えられています。しかしながら、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに「互いに愛し合いなさい」という言葉はぱっと聞いただけでは目新しい言葉のようには聞こえません。旧約聖書のレビ記第19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との教えが語られています。旧約聖書の時代から、つまりイエス様がお越しになるずっと前から、人を愛するということは聖書に語られていました。もちろん厳密に言いますとレビ記でいう隣人というのは、イスラエルの同胞のことを指していたと言われます。新約聖書で一般的に語られる隣人とは違います。しかし、「愛しなさい」ということにおいては同じなのです。ですから、ここで主イエスがイスラエルの歴史においてこれまでになく斬新なことをおっしゃったとは必ずしも言えないのです。

 しかしなお、主イエスは「新しい掟」とおっしゃっています。この「新しい」ということに関する鍵は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっている中の「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉であろうと思います。翻って考えます時、普通に考えて、私たちは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とは言えません。私たちは「わたしがあなたがたを愛したように」といえるほどに自分の愛に自信を持てません。自分の愛の不完全さを知っているからです。しかしまた一方で「わたしはあなたを愛したのだから、あなたも私を愛するべきだ」といいたくなることはあるのかもしれません。言葉には出さなくても、あるいは意識すらしていなくても、人間には「わたしはこれだけ愛したのだから相手も私を愛するべきだ」と感じていることはあるかもしれません。

 「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉は、イエス・キリストであるからこそ言える言葉です。ご自身を十字架に捧げてくださったイエス・キリストであるゆえおっしゃることのできる言葉です。自分を裏切る弟子たち一人一人の汚い足を奴隷のように洗ってくださったイエス・キリストだけが「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃることができるのです。

 今日お読みいただいたヨハネによる福音書13章31~35節は、イスカリオテのユダが主イエスを裏切り出て行く場面のあとにあります。主イエスが「愛し合いなさい」と語っておられるまさにそのとき、ユダは祭司長たちにイエスを売る相談をしていたのです。そしてまた今日の聖書箇所の後半には主イエスの一番弟子と言われるペトロの裏切りの予告がなされています。主イエスの新しい掟はまさにユダとペトロの二人の弟子の裏切りに関する記事にサンドイッチされる形で語られているのです。

 つまりここで、人間はそもそも愛し合うどころか、愛してもらった人を裏切ることすらできる、そのような存在なのだとヨハネによる福音書は語っています。そのどうしようもない人間に向かって主イエスは「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのです。ある意味、とうてい出来っこないことを主イエスはおっしゃっているとも言えます。できもしないことを主イエスは、弟子たちに、そして私たちに、「新しい掟」として与えようとされているのでしょうか?

<新しくされる>

 そもそも掟というと守らなければいけない律法のような印象を与えます。口語訳聖書では「新しい戒め」と訳されていました。また昨年末出ました教会共同訳でも「新しい戒め」となっていました。しかし、戒めにせよ、掟にせよ、私たちは勘違いをしてはいけないのです。私たちは戒めや掟を守ることができるから救われるのではないのです。戒めや掟と言われると、ついつい、守らなければばちが当たるような、戒めを破れば救いにあずかることができないような気がします。そうではないのです。

 旧約聖書の中に出てくる有名な十戒、まさに10の戒めですが、この十戒も守ったら神があなたを救いますというものではありませんでした。エジプトで奴隷であった民を救い出された神が、救われた人間にふさわしい生き方の指針として戒めを与えられたのです。

 主イエスがおっしゃる「新しい掟」も、私がすべてを変える、十字架にかかって、あなたがたの罪をすべて拭い去り、あなた方をあたらしい人間にする、私の十字架によって、あなたたちは変えられるのだ、変えられたあなたががたは、互いに愛し合うことができるのだ、そんな新しい時代が来るのだ、と主イエスは語っておられるのです。「愛し合いなさい」という言葉の新しさは、まさに主イエス自身が、世界を人間を新しくすることを前提にした言葉ゆえの新しさなのです。愛し合うことができないあなたがたが愛し合うことができる新しい時代を私が開く、だからあなたがたは愛し合うことができるのだ、とおっしゃっているのです。

<今ついてくることができない>

 さて、主イエスは33節で「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」、そうおっしゃっています。そしてまたペトロにも36節で「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが」とおっしゃっています。いままさに新しい時代を開こうとなさっている主イエスがこれから行こうとしておられるところに誰もついていくことはできないとおっしゃっています。主イエスがこれから行かれる所はどこか?それは十字架です。そこにはただ、主イエスお一人しかいけないとおっしゃっているのです。主イエスがご自身を捧げられて、新しい時代を開かれる、人間が愛し合うことができる世界を作られる、その業は、徹頭徹尾、主イエスお一人の業なのだということです。弟子たちが手伝うことはできない。弟子だけでなく人間は誰一人行くことはできないところに主イエスは向かわれるのです。十字架という刑罰はそのものは主イエスお一人が受けられたわけではありません。ローマ帝国への反逆者とみなされた多くの人間が十字架刑を受けました。主イエスと同時に十字架にかかった罪人たちもいました。しかし罪のなき主イエスが神の業として、新しい時代を開くために十字架に向かうということは神である主イエスお一人のなさることでした。主イエスお一人が成し遂げられることなのです。人間の罪からの救いというのは徹頭徹尾、神の業であり、人間には指一本関与できないことなのです。

 わたしたちは十戒にしても、今日の聖書にある「互いに愛し合いなさい」も人間の努力項目のように安易に考えてしまいます。ことにクリスチャンには人を愛さねばいけないという、ある意味真面目な思いがあります。しかし繰り返しますが、人間にはもともとは愛はないのです。キリストが、神の御子が、新しい時代を開いてくださった、そのとき、わたしたちに愛し合うことができる世界が訪れたのです。それは恵みなのです。人間の側の努力ではないのです。キリストが十字架において新しい時代を開いてくださった、それは父なる神の愛のゆえでした。また十字架においてキリストの愛が示されました。そして私たちが、本当に、神に愛されている、キリストに愛されている、その愛を知るとき、おのずと隣人を愛せるようになるのです。愛さねばいけないと努力をするのではなく、キリストに出会い、キリストの愛が注がれていることを知ったとき、キリストを通して神の愛を知ったとき、私たちは神を、キリストを、そして隣人を愛さずにはいられなくなるのです。

 そして私たちがキリストの愛を知るのは、端的な言い方をすれば、私たちが神の愛を裏切るときなのです。ペトロが鶏が鳴くまでに三度主イエスを知らないという、その苦い苦い裏切りを体験するまで、ペトロは本当の意味で主イエスの愛を知らなかったのです。「あなたのためなら命を捨てます」そう言ったペトロの心に、このとき嘘偽りはなかったでしょう。精いっぱいの思いでペトロは言ったのです。人間は裏切るものだと申し上げましたが、多くの場合、平然と裏切ることはできません。自分の情けなさ、相手へのうしろめたさを若干なりとも感じるものです。さまざまな事情でどうしようもなかった、そんな苦しい思いの中で多く場合、人間は裏切ります。

 しかしペトロはその裏切りの苦しみを体験しなければなりませんでした。主イエスは「わたしの行くところへ、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とおっしゃいました。つまり、後でペトロはついていくことができるのです。裏切りの苦しみを経験した後についていくことができるのです。人間の傲慢を砕かれたゆえにペトロはついていくことができる者とされたのです。ペトロは誠実に善意で主イエスに「あなたのためなら命を捨てます」と言いました。ペトロは主イエスしか成し遂げられないことをこの時点で知りませんでした。ですから「あなたのためなら」という言葉を発しました。しかし神のために何かをするから神のところへ行けるということはありません。そもそも、神の前にあって自分の行為をもって認められれようとするのは厳しい言い方ですが、傲慢なのです。神にしかできないことを自分ができると考えること、それが罪の根源であり、人間の愛の不毛の姿です。

 神は神しかできないことをなさいます。ペトロの助けはいりません。私たちの助けもいりません。ただ神だけがおひとりで私たちのために十字架にかかってくださり命を捨ててくださいました。そして私たちがそのあとから神のおられるところに行くことができるようになりました。

私たちも、ひとりひとり、出会うのです。主イエスと出会うのです。自分の裏切りの心が明るみ出される所でキリストと出会い、赦しを得て、そのとき、本当にキリストの愛を知ります。裏切者の自分に、すでにキリストの愛が注がれていたことを知ります。そのとき私たちは新しく生き始めます。そして互いに愛し合うことができます。互いに愛し合うことは新しい掟です。この掟こそ恵みなのです。愛さずにはいられない者と私たちをイエス・キリストが十字架において変えてくださるので、守ることのできる恵みの掟です。



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