大阪東教会礼拝説教ブログ

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ルカによる福音書23章26~38節

2019-07-18 08:41:03 | ルカによる福音書

2019年3月10日 大阪東教会主日礼拝説教 自分が何をしているか知らないのです~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

<十字架を取り巻く人々>

 今年の受難節は主イエスの十字架の上の7つの言葉に耳を傾け、み言葉に聞いていきたいと思っています。今日は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉に聞いていきたいと思います。

 罪のないイエス・キリストが十字架刑をお受けになることになりました。罪のないということは、もちろん、父なる神の前でまったく罪のないお方であるという意味です。そしてまた主イエスは当時の法律、律法と照らしても違法なことは何一つなさっておられないお方でありました。十字架刑は不当な裁判による不当な判決でした。本来、十字架刑はローマ帝国への反逆者に対して執行される刑です。しかし、ローマの提督であるポンテオ・ピラト自身は、主イエスがそのような反逆をもくろんだ人間ではないことをよくよくわかっていました。しかし、ユダヤの権力者の主イエスへの憎しみと、権力者に扇動された民衆の熱狂によって主イエスは十字架刑を下されてしまわれました。

 今日の聖書箇所は、主イエスがエルサレムの街の中から、街の外のされこうべと呼ばれる場所、他の福音書ではゴルゴダと記されているところへ十字架を背負って歩まされ、十字架につけられる場面が記されています。

 今日の聖書箇所にはいろいろな人間が出てきます。主イエスを殺したくてそれが実現して勝ち誇った態度を取る権力者たち、彼らは「他人は救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」そう十字架上に主イエスをあざけります。権力者に扇動されて「十字架につけろ」と叫んだ民衆はゴルゴダまでの道、一般にビアドロローサ、苦難の道、悲しみの道といわれるところを歩まれる主イエスに対して残酷な野次馬となって侮蔑しました。そして、嘆き悲しむ婦人たち、主イエスに代わって十字架を担がされる羽目になったキレネ人のシモン、ユダヤ人と同様に主イエスをあざける兵士、主イエスと一緒に十字架にかけられる犯罪者たちなどがいます。そして今日の場面には出てきませんが、恐れて逃げて隠れている男の弟子たちもいます。それぞれの人間がそれぞれの態度でビアドロローサからゴルゴダの丘で主イエスを見つめ、あるいは目を背けました。

 もし私たちが2000年前のビアドロローサにいたら、あるいはゴルゴダにいたら、どの立場だったでしょうか?嘆き悲しむ婦人たちだったでしょうか?私自身は、確信があるのですが、私は嘆き悲しむ婦人たちでは絶対になかったと思います。「自分を救ってみろ」と罵る権力者か、無責任で残酷な民衆であったと思います。

 しかしまたそれは単なる仮定の話ではありません。主イエスの十字架刑から2000年後を生きる私たちも、十字架を背負って歩まれる主イエスに対して、そしてまた十字架に上げられた主イエスに対して、たしかにいずれかの立場を取る者なのです。十字架のできごとは、遠い昔の遠い国の話で現在の自分と関係のない話ではないのです。私たちは、主イエスをあざける権力者であり、熱狂する民衆であり、嘆き悲しむ婦人たちであるのです。そしてまた怯えて隠れている弟子たちでもあります。そしてまた人間がどの立場をとろうとも、主イエスはすべての人間に向かっておっしゃるのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。

<私たちは知らなかった>

 ところで、愚かなことをしているとき、本人は自分の愚かさに気づかないということが往々にしてあります。他の人から見たら、あんなことをして、と心配されるようなことでも本人はそのときは気が付かない、そんなことがあります。自分が失敗をしたり、痛い目をしたあと、ようやくその愚かさに気づきます。しかし、だいたいのことはやり直しがききます。やり直して「あの頃はばかなことしていたなあ」とあとから思い出すことができます。かつての愚かさから人生の知恵を重ねていくことができます。

 しかしまた一方で取り返しのつかないことも人生にはあります。もっとも取り返しのつかないことは、「神を殺す」ということです。神の御子であるイエス・キリストを殺す、それはある意味取り返しのつかないことです。私たちは2000年前に生きていないので、醜い権力者でもなく、愚かな民衆でもない、イエス・キリストを十字架にかけたわけではない、2000年前のエルサレムにいた人々がイエス・キリストを殺したのだと考える人もいます。少し脇道に逸れますが、長年にわたって根強くあるユダヤ人差別の根底にはユダヤ人はキリストを殺した民族だというところもあります。しかし、たしかに歴史上、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけましたが、実際のところ、イエス・キリストを殺したのはすべての人間です。ほかの誰でもない私たちがキリストの手と足に釘を打ち込み、唾を吐きかけ、あざけったのです。しかし、私たちは知らなかったのです。自分が神を殺したことを。自分がイエス・キリストを十字架にかけたことを知りませんでした。そんなだいそれたことを自分がしたとは知らなかったのです。まさに私たちは自分が何をしているか知らなかったのです。

<自分で自分を救え>

 今日の聖書箇所34節に「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。これは詩編22編に語られていることが実現したことを示しています。詩編22編の18節19節には「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とあります。これは人間の尊厳を徹底的に奪い取る侮辱の行為です。主イエスに対する侮辱はそれだけではありません。「ユダヤ人の王」と書かれた札が主イエスの頭の上に掲げられました。王でもない人間が自分を王として民衆をたぶらかした、それを揶揄した札です。そして両脇に別の犯罪者が並べられました。まさに王として真ん中で十字架にかけられ、家来が両脇にいるという構図です。犯罪者を家来に従えた犯罪者の王として主イエスを侮辱しているのです。

 そしてその主イエスに「自分を救え」と議員も、そしてまた兵士も侮辱をしているのです。本当にメシアなら神が救ってくださるだろう、それがどうだ救われていないではないか、やはりお前は自称メシアであったに過ぎない、王であるなら力があるはずだが無力に十字架にかけられている、お前はただの愚かな無力な男なのだと罵っているのです。メシアでも王様でもない馬鹿な人間なのだと侮辱しているのです。

 しかし、「自分で自分を救え」という言葉は、神と人間の関係において深い意味を持つ言葉です。私たちも神なら自分を、そして私たちを救うことができるだろうと考えます。自分たちを救ってくれるかもしれないという期待が裏切られた人々は主イエスを憎みました。その憎しみゆえに侮辱をしたのです。そしてまた私たちも神の救いに絶望することがあるのです。なぜ今このとき神は救ってくださらないのかという時があります。神は無力ではないのか?神は本当に救ってくださるのかと疑いを持ってしまう時があります。三年前、当時21歳の娘さんをガンでなくされた方がいます。娘さんは若かったのでがんの進行も早かったのです。娘さん自身つらい治療に耐えて回復を願っておられましたが、その願いはかないませんでした。そこの家庭はその娘さんを含め家族皆がクリスチャンでした。特にお母様は英語の信仰書を日本語に翻訳する仕事をされている方でした。娘さんの発病から、家族皆がどれほど切実に祈られたかと思います。親であれば、なぜ娘が生きることはできないのか、その思いは筆舌に尽くしがたいものであったと思います。熱心なクリスチャンの家庭の若い命を奪われる神は本当に救い主なのか?メシアなのか?私たちも試練の時、そのような問いと向き合います。そしてその問いには多くの場合、答えはないのです。私たちは神に神らしくあってほしい、王には王らしくあってほしい、神にはいつも私たちを救ってほしいし、王には私たちを幸せにする力を持ってほしい、そう願います。しかし十字架上のイエス・キリストは両手両足を十字架につけられ服もはぎ取られたみじめな姿をさらしておられます。実際、人生において神がまったく非力に思えることがあります。

<しかし惠みはある>

 ところで、娘さんを失われたお母さまは、娘さんが亡くなった一年後、不思議な手紙を受け取りました。なんと娘さん自身が娘さん自身に宛てた手紙が郵送されてきたのです。娘さんが15歳と17歳の時、19歳の自分に向けて手紙を書くという授業の課題で書いた手紙でした。その2通の手紙は本来は、その授業を担当していた先生が、その生徒が19歳になったとき投函することになっていたそうです。しかし、その先生も亡くなってしまい、娘さんが19歳になったとき投函されなかったのです。しかし、のちにその手紙に気づいた方から、娘さんが亡くなったあと、送られてきたのです。手紙を送った人は娘さんが亡くなっていることは知らなかったのです。娘さんの代わりに手紙を受け取った親御さんはそのような課題の手紙を娘さんが書いていたことは知りませんでしたので大変驚かれたそうです。一年前に亡くなった娘さんの直筆で書かれた手紙には15歳と17歳の時の娘さんの夢や希望が記されていました。もちろん娘さんはその夢や希望を叶えることはできなかったのですが、夢や希望を持って生きていた娘さんの元気な、そしてまた若い人らしい悩みも感じられる文面を見て、とても慰められたそうです。手紙が届いたと言っても娘さんが帰ってきたわけではありません。ある意味、いっそう悲しみが深まるようなところもあったでしょう。しかし、お母さまはこれは神様からのプレゼントだと語っておられました。娘さんは帰って来ないけれど娘さんを確かに生かされた神の恵みを感じられたのです。

 神が非力に思え、救い主に思えなくなるような試練が与えられる個々の理由は分かりません。しかし、またそのことを通り抜けたとき、やはりそのことの内にも神の恵みが働いていたことを私たちはしります。私たちは知らなかったことを、やがて知ることができるようになるのです。

 私たちは神を殺すという取り返しのつかないことをしたにも関わらず恵みのうちにいかされているのです。主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉のゆえに恵みのうちに生かされています。本来取り返しのつかないことが、取り返せるように、主イエスはおっしゃいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。神を殺した私たちが主イエスの父なる神へのとりなしの祈りのゆえに、そして主イエスが十字架で神の怒りを受けてくださったゆえに赦されました。そして恵みを受ける者とされました。

<主イエスのとりなしのうちに生きる>

 私たちは今もイエス・キリストのとりなしの祈りのゆえに生かされています。私たちが罪と知って犯す罪も、知らずに犯す罪も、主イエスはとりなしてくださっています。主イエスのとりなしのゆえに、取り返しのつかないことはなくなったのです。私たちはいつでもやり直すことができます。繰り返し失敗しても、繰り返し信仰が揺らいでも、私たちは立ち上がってやり直すことができます。神の恵みを知らなかった私たちは絶えることのない神の恵みを知ることができるようにされるのです。



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