大阪東教会礼拝説教ブログ

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ルカによる福音書23章39~43節

2019-07-19 08:40:46 | ルカによる福音書

2019年3月17日 大阪東教会主日礼拝説教 あなたは今日楽園にいる~十字架の上の七つの言葉」吉浦玲子

 聖書を読みますと、人間が神を畏れる、というとき、恐ろしい神の姿を見たり、神の怒りにふれたから畏れるということではなく、むしろ、神の恵み、神の慈しみに触れたとき、人間は神を畏れる者とされることがわかります。ルカによる福音書5章には有名な大量の話が記されています。もともと漁師であったペトロは、あるとき、一晩中漁をしても魚がとれませんでした。夜通し頑張ったのに魚が取れなかったのです。ところが、イエス様の言葉に従って網を降ろしますと、おびただしい魚が網にかかって網が破れそうになったのです。もともと漁師でありますから、この大量がとんでもないことであることがペトロには良く良くわかりました。神の業以外の何物でもないことがわかりました。そのペトロは主イエスの前にひれ伏して言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」とんでもない大量、驚くべき神の恵みの前に、初めて人間は神への畏れを覚えるのです。そして自分の罪深い姿を知るのです。

<二人の犯罪人>

 今日の聖書箇所でもそのような一人の人間がでてきます。彼は主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪者でした。主イエスを真ん中にして、三本の十字架が立てられていました。主イエスの両脇の十字架にはそれぞれに犯罪者がいたのです。二人の犯罪者が主イエスと共に十字架にかけられたことは他の福音書にも記されていますが、ルカによる福音書は特徴的な書き方をしています。一人の犯罪者は、権力者や兵士や野次馬と同様に主イエスを罵るのですが、もう一人の犯罪者はそうではなかった、そう記されています。犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と主イエスを罵ります。しかしもう一人の犯罪者は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ともう一人をたしなめます。

 二人の犯罪人がどのような人間であったのか聖書は語りません。政治犯であったかもしれません。十字架刑になるのですから、ローマ帝国への抵抗運動をしていたのかもしれません。他の福音書には強盗と書いてあります。いまでいうところのテロリストのようなものであったかもしれません。ローマを倒すために殺したり、盗んだりしてきたのかもしれません。そしておそらくこの二人はこれまでの生き方において本質的な違いはなかったのではないかと考えられます。

 しかし主イエスへの態度において、きわめて鮮やかな対比を二人は見せます。共に、十字架の尋常ではない苦しみのなかにありました。自分の命が終わりに近づいているその中で、一人は、その苦痛の中で八つ当たりするように「我々を救ってみろ」と主イエスに叫びました。絶望の叫びでした。彼は自分のしてきたことはローマへの抵抗であってなんら悪いことだとは思っていなかったかもしれません。そしてまた主イエスが救い主であるなんてことはまったく思っていなかったでしょう。しかし苦しみとぜつぼうのゆえにこの犯罪人は主イエスを罵ったのです。

 しかしもう一人は「お前は神をも恐れないのか」という言葉でたしなめます。このもう一人の犯罪人は、主イエスがただならぬ存在であると感じていたようです。そして主イエスが何も悪いことをなさっていないことも感じていたこともわかります。この犯罪人がどうして主イエスに対してこのような思いを抱けたのか、その理由は聖書には記されていません。この犯罪人は、エルサレムからゴルゴダの丘までのビアドロローサをいっしょに十字架を担がされ歩きました。映画などで見ると、この場面は、ことに主イエスはいくたびもよろめき力なく歩まれています。それゆえに今日の聖書箇所の前の場面ではキレネ人のシモンが主イエスの十字架をになわされることになったのです。一方で主イエスと一緒に十字架にかけられた犯罪者は、それなりに腕っぷしも強かったかもしれません。体力もあったのではないでしょうか。実際、十字架において、他の二人の犯罪人より主イエスは早く絶命されたようです。共に十字架につけられた、普通に見たら、みじめな罪人の姿です。

主イエスのお姿はことに弱弱しくみじめに見えたかもしれません。しかも、野次馬たちは、ことにこのイエスという男を罵っている、その罵りの言葉からこのイエスという男は「自称メシア」、自分を神から来た救い主と言っていたらしいことが分かります。最初はなんて愚かな男だろうと感じたかもしれません。しかし、十字架に共にかかりながら、すぐ横で、主イエスの様子を見ながら、この犯罪人は分かったのです。自分と同じ苦しみ、みじめさの中にあって、死を目前にしてなお「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られる姿に、ああ、この方は罪のない方なのだと分かったのです。同じ苦しみ、同じみじめさの中にいるからこそ、その中で、自分を殺そうとしている者、侮辱する者たちのために祈られていることがただならむことであるのが分かったのです。

 それまでの生き方において、二人の犯罪人には大きな違いはありませんでした。しかし、死を直前にした十字架の上で決定的な違いが起こりました。同じように主イエスのそばにいて、そして同じように主イエスの言葉を聞きながら違いが出たのです。これは私たちにも起こることです。同じようにみ言葉を聞きながら、そしてまた聖書を読みながら、その御言葉の前で態度に違いが出るのです。主イエスはたとえ話をお語りになると木、「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃいました。これは耳があっても、つまり、言葉は聞こえ言語としては理解できても、それを神の言葉として受け取れない人々がいることを主イエスはご存じだったからおっしゃったのです。つまり、十字架の上の二人の犯罪人のうち、一人だけが耳があったということになります。

 「父よ、彼らをお赦しください。」その言葉の恵みを受け取ったのです。そこにイエス・キリストの愛を感じたのです。そのとき、彼は神への畏れを感じたのです。

<楽園にいる>

 彼は言います。「我々は、自分のやったことの報いを受けているから当然だ。」彼は自分の罪が分かったのです。ローマを倒すためにやってきたことをそれまで彼は悔いていなかったかもしれません。他の福音書で書いてるように強盗だったとしても、罪の意識はなかったかもしれません。捕まって運が悪かった、運と自分を殺そうとするローマを憎みながら死んでいたでしょう。しかし、彼は罪が分かったのです。イエス・キリストの愛の前で、自分は死に値する罪を犯したことが分かったのです。その時彼に言えたことは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉だけでした。「このような私を御国に入れていただけませんか」とか「救ってくださいませんか」という言葉は到底言えなかったのです。自分の罪の深さを知ったとき、ただ、「思い出してください」としか言えなかったのです。

 すると主イエスは「はっきり言っておくが、あなた今日わたしと一緒に楽園にいる」」とおっしゃいました。この楽園とはなんであるか?そもそもの言葉はエデンの園で言われるような「園」なのです。これは解釈がいろいろあります。この「楽園」という言葉は、コリントの信徒への手紙でパウロが1回使っているだけで、新約聖書には出てきません。ただ、この言葉は一般的にいう「天国」と解釈をすべきではないでしょう。「あなたが御国においでになるときには」という言葉と対比させて、御国も天国と解釈して、イエス様があなたも天国にいくよとおっしゃったと解釈するのは違うでしょう。

 ここで語られているのは、決定的な救いです。「あなたは今日わたしと一緒に」いる、そう主イエスはおっしゃいました。キリストと同じところにいる、つまりキリストの救いの中に入れられている、ということです。そもそも多くの人が天国とか神の国というのは何かエデンの園のようなきれいなところに幸せに暮らすということではなく、神と共に赦されて生きる、ということです。そしてまた「御国においでになるときには」という言葉は天国に行かれる時にはということではなく、むしろ、キリストの再臨のときのことをさしています。ふたたびキリストが権威を持って、この世界の支配者として来られるとき、ということです。罪人は、キリストが再臨され、ご支配を完成されたとき、私のことを思い出してほしいと願いました。それに対して、主イエスはあなたはすでに今日、私と一緒にいる、つまり、今日、あなたは赦され恵みのうちにいる、とおっしゃったのです。

 この犯罪者はその死を前にして、キリストの言葉を聞き、救いを宣言されました。主イエスとこの犯罪者を見物している人々の中には祭司やファリサイ派という当時の宗教指導者たちもいました。彼らは何十年も律法を守り、宗教祭儀をなしてきたのです。しかしそのような宗教的生活をしてきた人々ではなく、十字架につけられた犯罪人の上に、救いは与えられました。

<天国泥棒?>

 この主イエスがから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っていただいた犯罪者は「天国泥棒」とよく言われるようです。先ほども言いましたように、いわゆる「天国」というのは主イエスのおっしゃる楽園の解釈とはちがうのですが、多くの人が、死ぬ直前に改心して救われたこの犯罪者に強い印象を持ってこういうようです。

 こういうことは現代でも起こります。私が洗礼を授かった教会の当時の牧師のK牧師は今は東京の教会で牧会されていますが、数年前、その先生から突然電話がかかってきました。近藤芳美という歌人がK先生の教会の教会員で亡くなったので、その方の歌人としてのプロフィールを教えてほしいとの電話でした。私が短歌をやっていることをご存じだったので問い合わせてこられたのです。近藤芳美といえば、歌壇の大家であって、私は面識はなかったのですが、その関係の歌人は存じ上げていたので、その方に問い合わせてお答えしました。近藤芳美さんがクリスチャンとは知らなかったのですが、よくよく聞くと病床洗礼だったようです。近藤芳美さんのご親族がK先生の教会の方で、そのご親族の願いで、K先生が、近藤芳美さんのお宅を訪問され、話をされました。近藤芳美さんはすでに聖書のこと、キリストのことをよくご存じで、K先生の語る話もすぐに理解され受け入れられました。そしてその場で洗礼を受けられたのです。もうお体がだいぶ悪く、おそらく教会の礼拝に出席することはかなわないままに召されたようです。そのしばらくあと、大阪で近藤芳美さんの弟分にあたる岡井隆という歌人を囲む会がありました。岡井隆は近藤芳美の後輩で、戦後の歌壇を担ってきたやはり大家と言える歌人でしたが、その方は、クリスチャンでした。その岡井さんに私は近藤芳美さんが亡くなる直前に洗礼を受けられたことをご存知ですか?とお聞きしましたら、ご存知なく、たいへん驚いておられました。でもしばらくして、少しにんまりとされて、「なんだか近藤さん、ずるいね。僕はずっとクリスチャンだったんだよ、何十年も。なのに、彼は、ほんのちょっとの期間だけクリスチャンになって天国行きってこと?なーんかずるいよねー」とおっしゃっていました。まるで、キリストと共に十字架に上げられて、死ぬ直前に救いに入れられた罪人のように先輩の近藤さんのことを感じておられていたようです。

 十字架の上の犯罪人にしても、今日における、病床での緊急洗礼にしても、どのような時にも救いがおこるのだということを示しています。じゃあ、死ぬまでにキリストを信じれば救われるのであれば、長い期間クリスチャンとして生活をしているのは意味のないことでしょうか?もちろん、そうではありません。主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。「今日」私たちも信じて主イエスと共にいるのです。そこに恵みがあるのです。まさにそれは「楽園」といってもよい祝福があるのです。その祝福の日々は長ければ長いだけの喜びに満ちているのです。今日、私たちはイエスと共に生き、イエスと共に光の中を歩みます。

 



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