
大代横穴墓群

この横穴は、古墳時代に造営された豪族のお墓です。
現在、27基の横穴墓が露出していますが丘陵がかなり削られている為殆ど原型をとどめていません。
横穴墓は玄室と呼ばれる死者を葬る四角い部屋と、その入り口に設けられる玄門、さらに外部との通路である羨道(せんどう)によってで構成されています。
横穴墓郡は昭和59年に発掘調査が行われ、あらたに八基の横穴墓が発見されました。
調査の結果、玄室などから、副葬された金銅装頭稚大刀(こんどうそうかぶつちのたち)や直刀などの武器類、首飾りや耳飾りに用いられた勾玉、切子玉、金環などの装身具類、土師器や須恵器などの土器類が出土しました。
特に注目!
一番大きな横穴から発見された、金銅装頭稚大刀(こんどうそうかぶつちのたち)、ここに葬られた人物は中央政権と関係をもっていたとものと思われます。
また、この大刀は出土分布の北限となっています。
これらのことから大代横穴墓郡は7世紀から8世紀にかけて造られた、この地方に勢力をもっていた豪族の墓であると考えられています。
【多賀城市教育委員会:案内板より】
横穴墓は、以前は「蝦夷穴」と呼ばれ、古代の東北に住んでいた人々の住居跡だと思われていたが後の発掘調査で豪族の墓であることがわかってきた。
昭和54年4月1日に、この地名字蝦夷穴は、仙台港多賀城地区緩衝緑地となったようだ。
ネットで「蝦夷穴」を検索すると各地にあり、須賀川の蝦夷穴からは、同じ出土品が出ている。
または、石川県の須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)は、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている特長がある。
これは、私が韓国・慶州で見た天馬塚に近い・・・。


中を覗こうとしたら・・・

スズメ蜂

下の写真は横穴の断面図・・・・人が横になっているのがわかりますか?

中学の時は、縄文人でも住んでいたのかと、気になってはいましたが、特に調べることも無く・・・今になって興味を持っている次第です。
ホームページ「多賀城」


この横穴は、古墳時代に造営された豪族のお墓です。
現在、27基の横穴墓が露出していますが丘陵がかなり削られている為殆ど原型をとどめていません。
横穴墓は玄室と呼ばれる死者を葬る四角い部屋と、その入り口に設けられる玄門、さらに外部との通路である羨道(せんどう)によってで構成されています。
横穴墓郡は昭和59年に発掘調査が行われ、あらたに八基の横穴墓が発見されました。
調査の結果、玄室などから、副葬された金銅装頭稚大刀(こんどうそうかぶつちのたち)や直刀などの武器類、首飾りや耳飾りに用いられた勾玉、切子玉、金環などの装身具類、土師器や須恵器などの土器類が出土しました。
特に注目!
一番大きな横穴から発見された、金銅装頭稚大刀(こんどうそうかぶつちのたち)、ここに葬られた人物は中央政権と関係をもっていたとものと思われます。
また、この大刀は出土分布の北限となっています。
これらのことから大代横穴墓郡は7世紀から8世紀にかけて造られた、この地方に勢力をもっていた豪族の墓であると考えられています。
【多賀城市教育委員会:案内板より】
横穴墓は、以前は「蝦夷穴」と呼ばれ、古代の東北に住んでいた人々の住居跡だと思われていたが後の発掘調査で豪族の墓であることがわかってきた。
昭和54年4月1日に、この地名字蝦夷穴は、仙台港多賀城地区緩衝緑地となったようだ。
ネットで「蝦夷穴」を検索すると各地にあり、須賀川の蝦夷穴からは、同じ出土品が出ている。
または、石川県の須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)は、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている特長がある。
これは、私が韓国・慶州で見た天馬塚に近い・・・。


中を覗こうとしたら・・・







中学の時は、縄文人でも住んでいたのかと、気になってはいましたが、特に調べることも無く・・・今になって興味を持っている次第です。
ホームページ「多賀城」
桜木あたりで砂押川と合流した河口がこのあたりまで湾入していたので、横穴古墳の前は波打ちぎわだったはずです。
海岸の崖や海食洞に墓地を造る習慣は、
他にもたくさんありますね。
ここのちょっと東の砂山のバス停辺りが、多賀城から、伝上山、下馬、笠神、遠山
とくだってきた国府の役人が船出する港だったので、地名が湊浜・・・
深川沼がその名残ですね。
なるほど、国府からのそのルートは今でも自然なルートですね。
やはり都にには、海上ルートだったんですか?
でも、1200年以上も前の話だっちゃね?
仙北地区には古墳が多いそうですね
青葉古墳、色麻古墳、山畑横穴古墳などが載っています ♪
色麻もですか~あそこは「かっぱの里」なのでいつか取材に行こうかと!
市内で大きいのは遠見塚古墳ですかね~?
山形にも無数にあるようです。
タイムマシンが欲しいですね。
亘理郡とか相馬のあたりまでじゃないか・・・
ちなみに、桃生郡や牡鹿郡方面へは、塩竈の赤坂下へ抜けた、西町あたりが国府津で、その名前の名残が香津町ですね
山川出版社・刊
宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会
です♪
太刀とか~金環でたんですか~
そうすると~
こちらでは~
四隅突出型墳丘墓の時代なのかな (^_-)-☆
ビジュアル的におもしろくて好きな場所です。
間近でじっくり見たいけれど「危険」の立て札がありますもんね~
しかも「スズメバチ」の貼り紙も増えてるし…
なるほど、これは塩釜も勉強しねどだめだな・・・
窯神さまの記事で使ったような。
あれは勉強になりますね。
納得!