三 雪 橋
娘を病院に連れて行くとき、見かけた朱塗りの橋・・・
どことなく惹かれ、待ち時間にカメラを持って散策してみた。
昔は三日町橋とよばれていたようです。
この橋から鳥海山、月山、金峰山の3つの山が望まれその白雪を頂く姿が絶景であったことから「三 雪 橋」(みゆきばし)と呼ばれたようです。
明治9年、当時の県令(県知事)三島通庸が名づけたといわれています。
歴史的には、慶長13年(1608年)山形城主、最上義光が作ったものです。
この橋を渡って行くと鶴ヶ岡城に着きます。
橋の脇にこんなものが・・・
お城と外部との出入口に木戸がつけられていました。つまり木戸口ですね。
一般庶民のお城への立ち入りは当然制限されていますから、通行手形のようなものが必要だったはずです。 夜は挑灯札(ちょうちんふだ)といって手形の代わりをしたようです。
お城の周りは武家屋敷の名残が感じます。
暖かくなったら、散歩したいと思います。
余談ですが、このように三日町や六日町・七日町と言う「日にち」が地名になっているのは、この日に朝市の様な市場を開いていたのが、由来となっていることが多いですね。
鶴岡と言えば、藤沢周平・・・こんな看板が沢山目につきます。
土手を歩いていると・・・・誰?
なにやらこの女性は、田澤 稲舟(たざわ いなぶね)本名は田澤 錦(たざわ きん)
鶴岡出身の小説家だそうです。
1874年(明治7年)2月28日 - 1896年(明治29年)9月10日
作品は「峰の残月」・「医学修業」・「小町湯」・「片恋」・「忍び草」・「五大堂」・「しろばら」・「唯我独尊」ですが、私はよく存じません。
詐欺師!
あっ! いやサギです。
となりの橋ですが、洒落てましたね~
この街は歩けば歩くほど、色々な発見があるようです。
娘を病院に連れて行くとき、見かけた朱塗りの橋・・・
どことなく惹かれ、待ち時間にカメラを持って散策してみた。
昔は三日町橋とよばれていたようです。
この橋から鳥海山、月山、金峰山の3つの山が望まれその白雪を頂く姿が絶景であったことから「三 雪 橋」(みゆきばし)と呼ばれたようです。
明治9年、当時の県令(県知事)三島通庸が名づけたといわれています。
歴史的には、慶長13年(1608年)山形城主、最上義光が作ったものです。
この橋を渡って行くと鶴ヶ岡城に着きます。
橋の脇にこんなものが・・・
お城と外部との出入口に木戸がつけられていました。つまり木戸口ですね。
一般庶民のお城への立ち入りは当然制限されていますから、通行手形のようなものが必要だったはずです。 夜は挑灯札(ちょうちんふだ)といって手形の代わりをしたようです。
お城の周りは武家屋敷の名残が感じます。
暖かくなったら、散歩したいと思います。
余談ですが、このように三日町や六日町・七日町と言う「日にち」が地名になっているのは、この日に朝市の様な市場を開いていたのが、由来となっていることが多いですね。
鶴岡と言えば、藤沢周平・・・こんな看板が沢山目につきます。
土手を歩いていると・・・・誰?
なにやらこの女性は、田澤 稲舟(たざわ いなぶね)本名は田澤 錦(たざわ きん)
鶴岡出身の小説家だそうです。
1874年(明治7年)2月28日 - 1896年(明治29年)9月10日
作品は「峰の残月」・「医学修業」・「小町湯」・「片恋」・「忍び草」・「五大堂」・「しろばら」・「唯我独尊」ですが、私はよく存じません。
詐欺師!
あっ! いやサギです。
となりの橋ですが、洒落てましたね~
この街は歩けば歩くほど、色々な発見があるようです。
鶴岡までは遠いと思います。
ある事があって神奈川から鶴岡まで向かいました。夜中に三雪橋を渡ったのですが、明るくなってこの橋の言われに気づいたのでした。
私にとりましても思い出のある橋です。
ひー様のおっしゃる通り、ゆっくり歩いてみたい街ですよね。
この川って、蝉しぐれに出てきますね
雪の中の真っ赤な橋、目立ちますね
橋の名前を覚えていたとは…
確かにこの橋は目立ちますね。
どうも夏は舟下りもあるようで機会がありましたら。
魅力的な街ですよ。
この地に住む方の人柄も良い人ばかりですよ。
雪道に自信のない私は…
あったかくなったら 行ってみたいー♪ pt☆
雪に赤い橋~
いいですね (^_-)~☆
宮城もそうですが、ここには歴史が残っています。
仙台は空襲で焼け野原になってしまいましたからね。
お見舞いを。
三雪橋 なんとも粋な名称ですねぇ
三島 「橋づくし」思い出します♪
来週には、色々と手続きもあるので鶴岡に行ってきます。
後程お邪魔します。