古代出雲帝國の否定論があるらしい、その理由は出雲に古式古墳の出現が4世紀半ばで、それ以前には巨大な国家は存在しないと考えているからです。
しかし、富氏の話でそれが解決しました。
出雲神族の葬送制度を知らない為の誤解のようです。
出雲人は高貴な人が他界すると、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。
つまり風葬ですね。
三年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋める。
そしてその木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座(いわくら)となったのはこのような背景があったのです。
岩石信仰も山岳信仰、または門松もその起源はここにあるのかと・・・
また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を希(ねが)って宍道湖に沈めた。つまり「水蔡」ですね。
古代出雲帝国に古墳が存在しないのは、今までの歴史家が知らなかっただけのことで、当たり前のことなのです。
また、サンカ(山窩)は出雲神族の諜報機関だったそうで、三角寛著「サンカ社会」でも明治7年頃までサンカ族の最高葬は、風葬であったとしているそうです。
※サンカ(ウィキペディア)
出雲神族は、御魂祭を大切にするが、遺体は醜悪な肉体の殻として忌み嫌い息を引きとりそうになると、親子であっても相対したりはしない。
死体に触ろうものなら相続権すら失うのである。
こうした習俗は現代の富氏にも引き継がれ葬式には絶対出ないとといいます。
著者はいう、日本の学者は足をかけないで文献の検討だけで十分だとでも思っているのか?
神社を訪れ祭祀を調べれば古代史を解く何かが得られる。
例えば、出雲熊野神社の亀太夫の神事を見れば、出雲族はオオクニヌシの後裔の国造家のことだ。
などと馬鹿なことを言わないで済む。
これからの記事は、著者が富氏・天ノホヒノ命の後裔の北島氏、天ノヒコボの流れをくむという神床氏・物部氏の直系を名乗る神魂(かもす)神社、宮司の秋上(あきあげ)氏・テナヅチ、アシナヅチの末裔の須佐氏、などから足をかけて集めた伝承をもとに書かれたものです。
次回は、スサノオについて・・・4話はこちら
しかし、富氏の話でそれが解決しました。
出雲神族の葬送制度を知らない為の誤解のようです。
出雲人は高貴な人が他界すると、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。
つまり風葬ですね。
三年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋める。
そしてその木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座(いわくら)となったのはこのような背景があったのです。
岩石信仰も山岳信仰、または門松もその起源はここにあるのかと・・・
また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を希(ねが)って宍道湖に沈めた。つまり「水蔡」ですね。
古代出雲帝国に古墳が存在しないのは、今までの歴史家が知らなかっただけのことで、当たり前のことなのです。
また、サンカ(山窩)は出雲神族の諜報機関だったそうで、三角寛著「サンカ社会」でも明治7年頃までサンカ族の最高葬は、風葬であったとしているそうです。
※サンカ(ウィキペディア)
出雲神族は、御魂祭を大切にするが、遺体は醜悪な肉体の殻として忌み嫌い息を引きとりそうになると、親子であっても相対したりはしない。
死体に触ろうものなら相続権すら失うのである。
こうした習俗は現代の富氏にも引き継がれ葬式には絶対出ないとといいます。
著者はいう、日本の学者は足をかけないで文献の検討だけで十分だとでも思っているのか?
神社を訪れ祭祀を調べれば古代史を解く何かが得られる。
例えば、出雲熊野神社の亀太夫の神事を見れば、出雲族はオオクニヌシの後裔の国造家のことだ。
などと馬鹿なことを言わないで済む。
これからの記事は、著者が富氏・天ノホヒノ命の後裔の北島氏、天ノヒコボの流れをくむという神床氏・物部氏の直系を名乗る神魂(かもす)神社、宮司の秋上(あきあげ)氏・テナヅチ、アシナヅチの末裔の須佐氏、などから足をかけて集めた伝承をもとに書かれたものです。
次回は、スサノオについて・・・4話はこちら
荒神谷の銅剣以来
それは 覆ったと思います
事実には 勝てません (^_-)~☆
しかし、それは出雲族の埋葬のことを知らない学者が言ってることで、古代出雲は存在したのです。ということです。
後に古墳は作られます。作ったのは出雲族ではなく所謂天孫族です。他にも山代二子塚古墳や大庭鶏塚古墳がありますが、ある学者はオオクニヌシの後継の於宇宿禰であるとしてますが、間違いです。オオクニヌシとは逆に敵対関係であるといってます。
銅剣や銅鐸は朝鮮や中国から入ってきたもですかね。
又は技術を元に出雲で作られたものですね。
次は長くなるかも、さっぱり進みません。
今回の古墳の話は興味深いです。
出雲地方の古墳については、
大和朝廷の影響が及ぶようになった印と考えた方がよさそうです。
この時代は文献資料が乏しいですから、
考古学的発見が望まれます。
とはいえ葬送は宗教的な営みです。
しかも現在なお侵攻の対象になっているとしたら、
「研究」を大義名分にむやみやたらと掘り返していいというものでもありません。
むずかしいところです。
四隅突出型古墳より小さいわけです
二つの勢力が有り
2タイプの古墳が存在しています
そのあと
四隅突出型古墳が出現しています
もちろんのこと正しくは「信仰」です。
お恥しや・・・
大きな樽に入れられ畑に続く小高くなった墓地に埋められました。
周辺の畑で採れるスイカは井戸で冷やして毎日毎日食べさせられました。
やっぱり農民は土葬が一番なのでしょうかね。
魂が生き続けているのならば風葬された者は何を想うのでしょうか?
古墳自体が、天孫族に支配された証しだと思います。
富氏の伝承が100%ではありませんが、風葬が古代の人の自然な形なのではと思います。
古墳時代になると地方の豪族達が権威の象徴のようにあちこちで作られますが、最大の大きさはやはり天皇なのでしょう。
宮内庁が管理する古墳を発掘すればあらたな事実が発見するのかも知れませんが、それが正しいのかは、丹治さんの言う通りですね。
知りたいのは勿論ですが、隠したいと思うのも宮内庁にあるのかも知れませんね。
本当は発掘済みで公開できない理由があったりして??
きっと古墳が出来たということは、大和族に侵略されたという証拠になると思います。
天皇の支配体制が根付いてきた証しなのでしょう。
この本を読んでいると、出雲族が辛い思いをして密かにその伝承を伝えてきたことがわかります。
歴史学者の知らないことがこの後もでてきます。
富氏が話せない理由はやはり、今の学者も出雲に住んでいる人も天孫族つまり天皇支配下に生きている人々だからなのですね。
古墳の小さいものは地方の豪族ですが、大きなものは権威の象徴であり、天皇の墓ですからね。
お袋の実家が仙台新港の開発で移転になりました。
その時墓地も移すのでしたが、やはり土葬で骨がボロボロでてきたようです。
天皇の墓ではありません~よ "^_^"