この石碑の前を子供の頃よく通りました。 小学生から中学の頃でしょう。
もちろん大人になっても車で通過していましたが、昔からあった石碑なので気にも留めませんでした。
近頃は、新道ができこの道を通ることも無くなりました。
多賀城の事をもう少し知りたいと思っている今日この頃・・・よく見ると文字が刻まれていることを発見しました。
昭和に出来たものですが、この石碑について、今日は記録しておきます。
所謂、馬頭観音は本来仏教上の特に密教系の菩薩であり、その性格を表徴(象徴)する優れた動物である馬を頭に頂いている観音であるので、馬頭観音とも呼ばれている。
民間では単に馬頭という呼称より馬の守護神とされ、この地方に広く信仰されている。
往時の農耕には馬はかかす事のできない家畜であった。
したがって飼馬を斃すと、馬捨場に葬り、馬頭観音の碑を建てて供養もしていた。
馬頭観音碑は昭和後期にまで及んでいる。
多くは道の辻や村境に建てられ、社寺の境内にも見られます。
明治後期以降になると「馬櫪神」と称される馬の守護神の碑も併せて建てられるようになった。
多賀城には念仏碑についで多くその数は40基を超える。
馬は路上に斃れることが多く、通行とか街道と密接にかかわるため、碑に道程を併せ刻み道標を兼ねる例もある。
高崎表の辻に昭和四年にやはり個人によって造立された馬櫪神碑には、このように刻まれていた。
東 多賀城駅ニ至ル 一粁百○四米 大字大代ヲ経テ七ヶ浜ニ至ル
南 大字高崎ヲ経テ高砂村ニ至ル
北 多賀神社・多賀城廃寺址ニ至ル 八百七十米 野田の玉川ヲ経テ塩釜町ニ至ル
西 本村役場ヲ経テ多賀城址ニ至ル 一粁八百四十米 大字川ヲ経テ岩切駅に至ル
昭和四年十一月村道改修成りし日源氏号盛岡の産性温良主家に奉仕して労役に服すること十有一年昭和三年一月十九日我に斃る誠に憐憫に堪へす茲に其霊を祀る。
造立者の心情が伝わってきますね。
もちろん大人になっても車で通過していましたが、昔からあった石碑なので気にも留めませんでした。
近頃は、新道ができこの道を通ることも無くなりました。
多賀城の事をもう少し知りたいと思っている今日この頃・・・よく見ると文字が刻まれていることを発見しました。
昭和に出来たものですが、この石碑について、今日は記録しておきます。
所謂、馬頭観音は本来仏教上の特に密教系の菩薩であり、その性格を表徴(象徴)する優れた動物である馬を頭に頂いている観音であるので、馬頭観音とも呼ばれている。
民間では単に馬頭という呼称より馬の守護神とされ、この地方に広く信仰されている。
往時の農耕には馬はかかす事のできない家畜であった。
したがって飼馬を斃すと、馬捨場に葬り、馬頭観音の碑を建てて供養もしていた。
馬頭観音碑は昭和後期にまで及んでいる。
多くは道の辻や村境に建てられ、社寺の境内にも見られます。
明治後期以降になると「馬櫪神」と称される馬の守護神の碑も併せて建てられるようになった。
多賀城には念仏碑についで多くその数は40基を超える。
馬は路上に斃れることが多く、通行とか街道と密接にかかわるため、碑に道程を併せ刻み道標を兼ねる例もある。
高崎表の辻に昭和四年にやはり個人によって造立された馬櫪神碑には、このように刻まれていた。
東 多賀城駅ニ至ル 一粁百○四米 大字大代ヲ経テ七ヶ浜ニ至ル
南 大字高崎ヲ経テ高砂村ニ至ル
北 多賀神社・多賀城廃寺址ニ至ル 八百七十米 野田の玉川ヲ経テ塩釜町ニ至ル
西 本村役場ヲ経テ多賀城址ニ至ル 一粁八百四十米 大字川ヲ経テ岩切駅に至ル
昭和四年十一月村道改修成りし日源氏号盛岡の産性温良主家に奉仕して労役に服すること十有一年昭和三年一月十九日我に斃る誠に憐憫に堪へす茲に其霊を祀る。
造立者の心情が伝わってきますね。
以前は探すのに手間かかりました。
多賀城は奥が深いですね。
多くの意見がありましたが「アテルイ」が知られるようになったのは良かったのかと。自分ではそう思っております。
多賀城に国府が置かれ、多賀城が知られるのは嬉しいのですが、最近は蝦夷を滅ぼした朝廷の者達が憎くなってきました。 源義家親子を始め多賀城に赴任してきた諸々に人々・・・
武力で蝦夷を征伐したことに腹立たしく思うこの頃です。