猿田彦神社は伊勢125社には含まれていないようだ。
鎮座地:伊勢市宇治浦田2-1-10 ですが内宮からは徒歩12分ほどで是非行っていただきたい
主 神:猿田彦大神
神社に興味のある方は聞いたことがあるかと思います。
知らなくても見ている場合があります。
お祭の時などお御輿が回る時、先頭になって御神輿を誘導していますね。先になって歩く、この方が猿田彦大神です。
つまり「みちひらきのか神」「おみちびきの神」なのです。
上記の写真は鹽竈神社の御輿を先導する猿田彦神です。
由緒: 天孫降臨啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をご案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)とご一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴川の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられまし。
そして、神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公宮司家の祖先で猿田彦大神の裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴川の川上にある宇遅(宇治)の地をお薦めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。
そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。
当社は猿田彦大神の子孫である宇治土公家が代々宮司を務める神社です。
【皇大神宮儀式帳】訳
(倭姫命は)その時、宇治(玉串)大内人仕奉る、宇治土公等の遠つ祖、大田の命を、汝國の名はいかにと問い賜ひき。この河の名は佐古久志留(さこくしる→枕詞)五十鈴の河と申す。 この河上はよき太宮地在りと申す。 (中略)大御こころ鎮まります國と悦び給ひて、大宮地定め奉りき。
【倭姫命世紀】訳
そのとき、猿田彦神裔、宇治土公の祖、大田命参り(中略)答へて白さく、「さこくしろ宇治の五十鈴の河上は、是れ大日本國の中に殊に勝れて霊地に待ちるなり(中略)定めて主(ぬし)出で坐さむか。その時献るべしと念ひて彼の処にうやまひ祭り申せり」と。
チョット難しいですね。 猿田彦神の末裔、宇治土公(うじのつちぎみ、うじとこ)の祖の大田命(おおたのみこと、太田命とも)
垂仁天皇の御代、伊勢に到着した倭姫命に、五十鈴川上を天照大御神の鎮座の地であると教示し土地を献じ、 五十鈴川上の地主神であり、宇治土公の祖。 つまり、猿田彦神と同神異名ですかね?
がっちり型の狛犬ですね。オリジナルらしく堂々としています。巻き毛はそれほど強くありません。
佐瑠女神社
祭神 天宇受売命(あめのうずめのみこと)
天照大御神が天岩窟(あめのいわや)にこもられたときに神楽をされ、大御神が再び現れて平和な世を迎えられたと伝えられます。
天孫降臨の際は猿田彦大神と最初にご対面、 大神が御啓行(みちひらき)の後は詔により、ともに五十鈴の川上の地に来られ、功により"媛女君"の称号を受けられました。
俳優(わざおぎ)、神楽、技芸、鎮魂の祖神と仰がれます。
つまり、芸能上達、縁結びの神様
芸能上達や縁結び等の信仰があつい天宇受売命(あめのうずめのみこと)が御祭神。
お稽古事を上達させたい、芸能の仕事で成功したい、恋愛を成就させたい人はここでお守りをGETしてください!
ということで女性の参拝者ばかりです。
天宇受売命といえば、岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をして、そこでアメノウズメは踊るわけですね。その内容はあまりにハードなので文字にしにくいため古事記を勉強してください。
ここの御朱印は貰いそびれてしまいました。
鎮座地:伊勢市宇治浦田2-1-10 ですが内宮からは徒歩12分ほどで是非行っていただきたい
主 神:猿田彦大神
神社に興味のある方は聞いたことがあるかと思います。
知らなくても見ている場合があります。
お祭の時などお御輿が回る時、先頭になって御神輿を誘導していますね。先になって歩く、この方が猿田彦大神です。
つまり「みちひらきのか神」「おみちびきの神」なのです。
上記の写真は鹽竈神社の御輿を先導する猿田彦神です。
由緒: 天孫降臨啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をご案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)とご一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴川の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられまし。
そして、神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公宮司家の祖先で猿田彦大神の裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴川の川上にある宇遅(宇治)の地をお薦めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。
そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。
当社は猿田彦大神の子孫である宇治土公家が代々宮司を務める神社です。
【皇大神宮儀式帳】訳
(倭姫命は)その時、宇治(玉串)大内人仕奉る、宇治土公等の遠つ祖、大田の命を、汝國の名はいかにと問い賜ひき。この河の名は佐古久志留(さこくしる→枕詞)五十鈴の河と申す。 この河上はよき太宮地在りと申す。 (中略)大御こころ鎮まります國と悦び給ひて、大宮地定め奉りき。
【倭姫命世紀】訳
そのとき、猿田彦神裔、宇治土公の祖、大田命参り(中略)答へて白さく、「さこくしろ宇治の五十鈴の河上は、是れ大日本國の中に殊に勝れて霊地に待ちるなり(中略)定めて主(ぬし)出で坐さむか。その時献るべしと念ひて彼の処にうやまひ祭り申せり」と。
チョット難しいですね。 猿田彦神の末裔、宇治土公(うじのつちぎみ、うじとこ)の祖の大田命(おおたのみこと、太田命とも)
垂仁天皇の御代、伊勢に到着した倭姫命に、五十鈴川上を天照大御神の鎮座の地であると教示し土地を献じ、 五十鈴川上の地主神であり、宇治土公の祖。 つまり、猿田彦神と同神異名ですかね?
がっちり型の狛犬ですね。オリジナルらしく堂々としています。巻き毛はそれほど強くありません。
佐瑠女神社
祭神 天宇受売命(あめのうずめのみこと)
天照大御神が天岩窟(あめのいわや)にこもられたときに神楽をされ、大御神が再び現れて平和な世を迎えられたと伝えられます。
天孫降臨の際は猿田彦大神と最初にご対面、 大神が御啓行(みちひらき)の後は詔により、ともに五十鈴の川上の地に来られ、功により"媛女君"の称号を受けられました。
俳優(わざおぎ)、神楽、技芸、鎮魂の祖神と仰がれます。
つまり、芸能上達、縁結びの神様
芸能上達や縁結び等の信仰があつい天宇受売命(あめのうずめのみこと)が御祭神。
お稽古事を上達させたい、芸能の仕事で成功したい、恋愛を成就させたい人はここでお守りをGETしてください!
ということで女性の参拝者ばかりです。
天宇受売命といえば、岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をして、そこでアメノウズメは踊るわけですね。その内容はあまりにハードなので文字にしにくいため古事記を勉強してください。
ここの御朱印は貰いそびれてしまいました。
宇治土公さんについて調べましたけど一定量しかでないので本で調べてみます。宇治と言えば川の動きにある場所で治水の関係者も関わりそうで楽しみです。各地の県主に結構かぶり付くのですが宇治は交通の要所なので重要人物がいるはず、出たのが栗駒と。栗も駒も私の追ってる大の神っぽいキーワード。猿田彦さんより知的で且つ力も強い海神系とも、青です。以前石清水からの集落の変遷でもまず石清水系の集落でそのあと川沿い木津川のが多かったかな?どんどん集落が南に発達してきます。地形でも高い所から水がひいたとも思えます。近くに芝ケ原古墳があり、前方後方墳!後円墳でなく後方墳にこだわる専門家もいらっしゃいますので、きたきたと!木管直葬でおまけに3世紀。鉄の針が出土?工具が多いので職人も関わりますね。卑弥呼の時代にも宇治土公さんが関わっていると凄いですね。東北の神社の石の穴の件も金属の棒があったら摩擦で穴開け出来そうにも思います。金剛石が一番ですけど。石清水系なら石加工は得意そうなイメージはあります。葺石もあったかな芝ケ原古墳?この辺りの古墳かなり興味あるので調べておきますね。
アガタヌシという音は、アイヌ語からとの説もあるんですね!いい感じ。個人的に県主は、名古屋でもかなり気になってます。そこは泥と県が付くんです。なので土もいいですね。
宇治土公という文字でいくと治水が昔は一番大事、伊勢にもそうした需要あったら関わる一族だとは思います。神事的才能も間違いなくある猿田彦さんやうずめさんへのお役目も果たせる素質はあるはずですね。
伊勢と宇治の関わりで見えてくる何かありそうですね。縦糸が宇治から横糸が二見からだと布も出来そうですね。女神ばかりでなく男神も注目です。猿田彦が風神なら大田命さんは水神、水神の男神は消えてるけど江戸の千葉よりでも大事そうです。出てこないといけない神ですね。うずめさんのお兄さんとか?そう私三匹獅子舞とも縁があるんですけど雄二匹、雌一匹の昔のドリカムみたいな配置の神は各時代にいるので好きです。荒らそってないいい関係、役割分担。その関係を邪魔するのは噂好きな部外者の勝手な言動ではないかな?そこに翻弄されるのは心優しい方。
伊勢の猿田彦神社ではきっといい関係が継承されて今に至るんだと。素敵ですね。ウズメさんのお守り子供に買ったなあ。
伊勢神宮から猿田彦神社までバス停のあるカーブの道通ったなあ。あの辺り荒木田さんか渡会さんの関係の場所あった気もしますね。カーブだったので昔は川だった道かな?渡会さんはお水関係の巫覡気質あるはずなのでその間なら妥当かとも。
宇治姫神社から同じ道かなあ?
当時地形には全く興味なかったので改めて今たどってみますね。3889、8672
クリクマって変換したら栗隈王って出ましたけど?まさかその系統?個人的にはかなりこだわった方ですね、色々当てはめたりしました。
熊野にも繋がりそうな予感。やっぱり東北と近畿は大昔から節点ありそうよね。
うちの関係者では喘息もあるんで太田姫さまに助けられてます。この前また神木の咳止めのお守り頂いてきちゃってます。あと昔この神社に霊感ある方と一緒に行こうとした日のニュースは牽牛子塚古墳の物で太田皇女の名前も出たんでいい感じと。で牛の字も付くんできたきたと。この時代にもヒントありそうですね。斉明天皇辺りの周りにもいそうです。人間ウォッチでも八幡と仲良い感じです。参考になる所だけ利用してくださいね。
牛とか河童も関わりそうに思いますよ。8163
自分の知識ではついていけませんよ。
東北と近畿はつながりありますね。
奈良時代は、わかっているので飛鳥時代や古墳時代ですね。古墳が全国に展開したということは交流や支配が広がっていたことになります。
それ以前になるとなかなか証明が難しくなりますね。
北から南へ、南から北はいずれも人の移動はあったはずだと思います。
本家応援したいですけど、色々ありますよ。ゆっくりゆっくりと。
江戸では太田道灌ばっかり行く所に目につきます。エリアごとの専門家がいますのであとは繋げるのみ。自分の分野をコツコツとですね。
伊勢はとても参考になります、人それぞれ気になる所が違うのも面白いです。4700
次は伊雑宮ですがその周辺の遺跡というかいろいろ跡地があって説明書見てもよくわかりませんでした。
もう少しわかりやすい説明を探してみます。
お伊勢さんに お詣りされたんですね♪
スゴイ 狛さまがぁ ♪
どちらも近代に今見るような神社に整備、造営された為です。
内宮前の猿田彦神社は元来、宇治土公家の邸宅でその邸内社に私的にお祀りされてきた神様を、
まあ、、、アレですわ、江戸時代以降の異常な伊勢詣り人気に肖って色気(商売気)を出して神社に衣替えしたもの。
同じく、二見浦興玉神社の場合もあそこには夫婦岩(幸の神//クナト大神(イザナギに改変)と幸媛命(イザナミや天照大神に改変))や興玉神岩、龍神社等はありましたが、
今見るような神社となったのは明治政府の施策(国家神道/神仏判然令)によって新たに整備、造営された為。
興玉神はいなかったかというと少し事情は複雑で行基上人が(聖武天皇の勅を奉じて)藤原宮の真東に当たる当地に二見浦 大江寺を建立しますが興玉神はその境内の鎮守としてひっそりと有ったところ、
明治政府が鎮守社の興玉社を無理やり分離させて現在地に遷して立派な神社としたのが二見浦興玉神社。
しかし、友人の神社には猿田彦尊は祀られていない。伊勢神宮では天皇家に配慮しているのか、猿田彦尊への信仰は不味いと考えているのかも知れませんね。
もしかしたら友人の神社では、サルと呼ばれた柿本人麻呂の名で猿田彦尊を誤魔化しているのかも。
猿蟹合戦も猿田彦尊を貶めている物語なのかも。
猿田彦神社と二見の辺りは、見逃してきたところもあり、いずれ再度行きたいのですが、最初は行っていないところが優先ですかね。
情報ありがとうございました。
確かに色々周りましたが、建築物は基本同じですからね。そこについてはチョット寂しいですかね。
でもあれだけの神社はすべて遷宮するのはすごいエネルギーですね。
最近神社を回って遷宮の大事さもわかってきました。
古いだけがいいわけじゃないですね。
朽ち果ててしまうと人が寄り付かず。神社は大事にされなくなります。由緒ある延喜式の神社でも、かなしくなるほどです。 邪気が増えてますよ。